「163」幕末に攘夷決行を決めた天皇と将軍が殺された ④ 全体解説
副島隆彦です。こうやってイギリスの手先となった日本人が、日本の体制を変えていった。
■なぜイギリスの手先に?出世欲みたいなものですか?
副島 それはね、言うべきだな。「現実政治家だから」っていう言い方をするんです。リアリズムって。トランプ大統領がよく言いますけど、「俺たちは子供じゃねえんだ。大人なんだ」と。現実を引き受けていくと、どうしてもこうせざるを得ないんだ、と。それ以上はわからない。そこも言わなきゃいけないね。
現実政治家と夢想家・理想家との戦いなんです。もともとは攘夷派だった伊藤博文が、コロッと態度を変えたでしょ。あれが大事なんです。長州ファイブの一人である伊藤博文が、オールコックの屋敷を焼き討ちに行った。これは完全に攘夷派の動きそのものです。ところが、その半年後にはもうイギリスに行っちゃったからね。ここで何か、大きなことが起きたんだ。
5人分で5万両の資金は、前にも書いたけど、長州藩の家老のすぐれた人物だった周布 正之助(すふ まさのすけ)が、藩の財政資金から出した。ものすごい資金、もう国家政策と言っていい。そしてジャーディン・マセソン商会に、イギリスへの留学の手配を頼んだ。それをイギリスが受け入れたということで、もうこの時にはすでに、長州藩とイギリスの間での大きな取引が成立していて、大きな仕組みがそこにある。全部、イギリスが一番上から大きく仕組んだ。イギリスが悪(ワル)なんです。ここのところの研究は今もなされていない。この1862(文久2)年にいったい何が起きていたのか。いつ、伊藤博文たちは尊王攘夷から開国へと急激に思考変更をしたのか。
その前に、高杉晋作が上海に幕府の使節の一員として出かけていること。それから★1863年5月10日「攘夷決行日」の3か月後に、1863年「8月18日の政変」で攘夷派を京都から排除したとしながら、その攘夷派がイギリスと繋がっていた。これらも不思議な動きなんです。
■ロシアも同じ
ちょっと話が変わるけど、ロシア革命の時、ボリシェビキ革命の前ですね、1917年の2月革命、ケレンスキー政権の時、ケレンスキーはこう言った。「ロマヌフ王朝の皇帝を殺すな。貴族たちも殺さないで残せ。ロシア民族が、国民が団結して国力を高める」と、そう言ったケレンスキーまでが正しいんです。
ケレンスキー

社会革命党(しゃかいかくめいとう 略称:SL エス・エル)というのがあったんですけど、これをボリシェビキたちが叩き壊したのね。ボリシェビキは、ロシア帝国の王政(ロマノフ朝)の打倒を目指した革命政党です。そして10月革命で臨時政府を倒して、ボリシェビキが政権を奪取した。
ロマノフ朝

■中国も同じ
中国も一緒なんですよ。「清朝の満州民族の皇帝を残せ。貴族制度は廃止しても、皇帝を形だけでも残しながら国力を作れ」と主張した中国の人たちが、1898年に日本に亡命してきた。康有為(こうゆうい)と、それとその弟子の梁啓超(りょうけいちょう)という人です。この人たちは「清朝を倒せ」と言わない。保皇会(ほうこうかい)と言って、皇帝制度を残せと主張したんです。
康有為【1858-1927 清末の政治学者】

梁啓超【1873-1929 清末民初のジャーナリスト、政治家、思想家、歴史学者】

最初の頃の孫文たちもそうだった。孫文が、はじめは日本の力に頼って中国革命会とかをつくって独立運動をやろうとするんだけど、その時はまだ、「清朝打倒」を言わないんですよ。やがてアメリカが裏から手を回してね、孫文たちに資金を出すことで、「満州族の清朝を倒せ」になった。この時に中国が動乱状況になった。
孫文

■日本も同じ
日本もこれと同じことでね。日本で言えば、公武合体。この公武合体という言葉は、今、評判が悪いんですよ。これを最初に言っていたのが、井伊直弼(1815-1860)たちです。天皇の言うことも聞きながら、直接の政治は徳川幕府であるの自分たちがやると。ところが井伊直弼が殺されちゃって。井伊直弼の子分の長野主膳(ながのしゅぜん)も、2年後には京都の四条河原に晒された。それが1862年の頃の激しい戦いで、これがいわゆる“幕末の花”というか、殺し合いなんですよ。京都でね。
長野主膳【1815-1862 彦根藩の国学者 井伊直弼の家臣】

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■番外編 副島隆彦の幕末維新人物評(ひとことコメント)
【西郷隆盛、坂本龍馬、武市半平太(瑞山)、清川八郎、勝海舟、川上元帥、伊藤博文】
□西郷隆盛(1828-1877)

島津斉彬の急死(1858)で失脚して奄美大島に流された(1859-1862)。そのあと藩主(島津久光)の怒りにふれて、南の沖永良部島(おきのえらぶじま)に流されていた(1862-1864)んだけど、帰ってきて。大久保利通と一緒に動いていたんだけど、やっぱり明治政府ができてから「こんなはずじゃなかった」と言ってですね。「自分はイギリス(外国)の手先ではないんだ」という気持ちを込めて、10年後に西南の役(1877年)を起こした。というか嵌められて起こすように仕向けられて、結局殺されました。それで実際に、西郷が死ぬように仕向けに行ったのは悪(ワル)の山縣有朋(1838-1922)ですね。
□坂本龍馬(1836-1867)

坂本龍馬は、最後はね、「300諸藩を国会議員にして、その上に将軍だった慶喜を置いて、その上に天皇を置くという体制にしたい」という考えでね。それを藩主の山内容堂(やまのうちようどう 1827-1872)に伝えた。山内容堂は「いや、幕府を倒すのはやめてくれ」と、京都御所での小御所会議(こごしょかいぎ)で言い続けたんです。それでも岩倉たちが王政復古の大号令を決行した(1867年12月9日)。坂本龍馬は、その翌日に殺されてます。やっぱり殺したのはね、本にも書いているけど、私はイギリスだと思う。坂本ももういらない、と。実際に殺したのは、幕府側の腕の立つ戦闘隊長の佐々木只三郎(ささきたださぶろう 1833-1862 京都見回り組隊士)、これが殺したんでしょう。海援隊の中岡慎太郎も殺された。「もうこいつはいらない」ということになると、殺されるんですね
□武市瑞山(たけちずいさん 1829-1865 土佐の剣術家)

私はね、京都で暴れていた本物攘夷派だった武市瑞山は正しいと思う。しかし、もうどうしていいか分からなくなっていた彼らは捕まりましてね。結局1865年に土佐に連れ戻されて、残首刑です。岡田以蔵(おかだいぞう 1838-1865 幕末の四大人斬りの一人)とかね。
ああいう人たちと一緒にね、攘夷派の連中で考えを変えなかった人たちは1865年にはどんどん殺されているということです。だから何が正しいか問題で言うと、攘夷派の連中は純粋な精神で生きてはいたんだけど、現実には「世界に向かって国を開かざるを得ないんだ」と言った連中が勝ったんですね。
京都で攘夷派の脱藩浪人の侍たちが暴れるもんだから、京都守護職をやっていた会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり 1836-1893)が「あいつらを取り締まれ」と言って。「攘夷派の浪士たちとの斬り殺し合いが、実際にできる人間でないといかん」と言って、江戸で人を集めて京都に送り込むんですね。
集まったのが、浪士組【ろうしぐみ 1963年の家茂上洛に合わせて将軍援護のために作られた組織。実は… 壬生浪士、新選組、新徴組の前身】と言うんだけど、これを率いたのが清河八郎【きよかわはちろう 1830-1863 庄内藩出身の志士】なんです。1862年、清河200人ぐらいの浪士を、江戸から京都に、攘夷派の浪士を取り締まるために連れて行ったんですね。しかし清河はなんと…(つづく)
□清河八郎(きよかわはちろう 1830-1863 庄内藩出身の志士)

この清川八郎も立派な男でね。「回天一番」という言葉をね、彼が使ったんですね。天をひっくり返す、これは中国語なんですが、大事な言葉なんです。今でも中国の知識人が使う言葉です。体制をひっくり返す、すなわち革命を中国語で回天と言ったんですね。江戸幕僚から資金をもらって、過激な尊王攘夷派の志士たちを取り締まるために、清河八郎は浪士組を率いて京都に向かった。
そしたら、京都に着いたとたんに清河は、「自分は尊王である」と言い出した。倒幕とは言っていませんよ。尊王だと言ってですね。それで京都守護職の会津藩主も幕府もびっくりして、浪士組を解散させた。残ったのが12人で、近藤勇(1834-1868 武蔵野国の百姓の生まれ)たちです。もう一度選びなおしだから、「新選組」です。
清河八郎は、本当は、ここも大事なんだけど、孝明天皇から直接攘夷決行の勅許をもらっていた。この真実も誰も言いませんがね。それで清河は京都から江戸に帰って、500人ぐらいの攘夷派の同志の署名血判をもらって、外国人居留地の焼き討ちを計画していたんだけど、殺されました(34歳)。1863年の4月13日、清河八郎を殺したのも、幕府見見廻(みまわり)組の佐々木只三郎です。命じたのは幕府の老中の板倉勝静(いたくらかつきよ 1823-1889)でしょう。★攘夷決行が5月10日ですから、その一か月前ですね。それで清川は、殺されたときに山岡鉄舟の家にいたと。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう 1836-1888)は勝海舟の子分だから、怪しいやつなんです。というか山岡は裏開国派なんですね。勝海舟が実は、悪い男で…(つづく)
□勝海舟(1823-1889)晩年

勝海宗【かつかいしゅう 咸臨丸の艦長として渡米。帰国後は坂本龍馬らを門下に迎え、神戸海軍操練所の建設を進めた。戊辰戦争では薩摩藩との厳しい交渉を切り抜け、江戸城の無血開城を実現した】
勝海舟も悪い奴だ。幕府の立場にいながらずっと裏切っていた。だから明治になっても出世してのうのうと長く生きた。女癖も悪くて、奥さんに「一緒の墓に入りたくない」と言われたのは有名な話です。彼はね、これも言われてないけど、本当は幕府の隠密なんです。隠密の親分が大久保一蔵(おおくぼいちぞう)というんだけど。これは大久保利通(おおくぼとしみち 1830-1878 旧薩摩藩士)の青年時代の名前です。だから国家情報部員として認められたのが、勝海舟です。勝の出身は、旗元ですらなくて格が低いんだけど、頭が良かったから。オランダ語を学ぶのに、蘭日辞書を2冊写して、1冊は自分で使って、もう1冊を売ってとお金稼いだと。そういう人間でね。コピーを取るという思想をすでに持っていた。勝海舟は書類でも手紙でも、必ず同じものを2枚作ったそうです。こういう男なんです。勝の子分の、山岡鉄舟も怪しい奴なんだ。
□河上彦斎(1834-1872)

河上彦斎【かわかみげんざい 幕末の4大斬りとされる 38歳で死】いう男がいてね、これは熊本藩士です。川上玄斎もかわいそうな人でね。最後まで攘夷を捨てなかった。誠実で優秀な男で、学問もできて、かつ刀も抜けた。この男は知性もあって教養もあったのに、なんとまあ。あの佐久間象山【さくましょうざん 1811-1864 江戸後期の儒学者 慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。54歳で死】を、1864年7月に京都で殺しちゃったんですね。
それを理由にして捕まった。明治政府ができたあとの1871年でも攘夷の考えをずっと変えないでいきているから、岩倉と木戸が困ったんです。自分たちはさっさと最初に外国と繋がって、いっぱいお金をもらっていますから。河上は、最後は岩倉具視と木戸孝允に殺された。こいつを放っておいたらまた反乱を起こされるから、と言って。1871年12月に、東京の小伝馬町の牢獄で斬首された。うーん。考えを変えなかったら、殺されるしかしょうがないですかね。うーん、もうね、これぐらいにします。
□伊藤博文(1841-1909)若いころ

イギリスと繋がった裏開国派の伊藤博文(いとうひろぶみ)が、初代内閣総理大臣になった。けど最後のほう、1903(明治36)年に総裁をやめて、日露戦争の後には、「ロシア帝国やドイツ帝国とも日本は仲良くする」と言っちゃったもんだから。イギリスとしては、「もう伊藤博文を殺せ」となって。1909(明治42)年に、日露交渉のために訪れた中国のハルビンの駅舎のところで、ロシアのココシェフ財務大臣と握手した直後に殺されたんですね。安重根(アン・ジュングン)という韓国の独立運動家が殺したんじゃなくて、イギリスの命令で山縣有朋が殺したんだ。
だから、大きな流れの中でね、伊藤博文はまだ歴史を見る目は持ってたんですけどね。今話したような秘密がそこに隠されてて、これが表に出るのがいけないということで。それで、伊藤博文を中心にしたNHKの大河ドラマは描けない、できないんですよ。
■総まとめ
明治維新をもすべてイギリス(極悪人の首相パーマストンとその子分、オールコック)が仕組んだ。そのあと、日清戦争の八百長を日本に仕掛けさせて、清朝を弱体化させて、そのくせ明治政府と清朝の両方を操った。日清戦争の賠償金二万両=テールの銀は、イギリスから日本に八幡製鉄所を持ってくる代金として、すべてイギリスに渡った。日本を「富国強兵」という名のもとに繁栄させて、そして、その後の中国侵略をさせると。もっと大きく言うと、対ロシア政策のコマとして日本を使って、ロシア帝国が極東や太平洋に出てくることを阻止すると。これを長期の戦略で、1840年からずっと、100年かけてやったのだ。こういうことが、いよいよ私、副島隆彦の頭の中ではっきりしてきました。
そして日露講和のあとは、アメリカがイギリスから奪い取る形で日本の支配権を継承して、日本に中国侵略をさせる戦略とアジアへの膨張、そしてそれを計画的に叩き潰した。この「繁栄づくりと戦争による破壊、そしてまた繁栄」という循環の構造を作って来たんだ。今も大きくは、この「繁栄と戦争の大きな循環構造」で、世界は動かされているのだ、と私はよくよく分かった。
ウクライナ戦争も、この対ロシアでの循環構造です。アラブ人イスラム教徒に対するイスラエル国家の行動も、この循環構造なんですね。
(おわり)
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