「162」幕末に攘夷決行を決めた天皇と将軍が殺された ③ 1866年に天皇と将軍の死。2年後に明治政府ができて攘夷思想が消滅 

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■1866年 天皇と将軍が殺された

1866年7月、第二次長州征伐の最中です。江戸から大阪城に来ていた家茂(21)が殺された。病死ということになっているけど、明らかに毒殺。そしてその4か月後の12月に孝明天皇(35)も殺された。二人を殺せと命令したのはイギリスなんですよ。将軍家茂と孝明天皇が開国しようとしないでイギリスの邪魔ばかりするから。
徳川家茂

孝明天皇(32)と家茂将軍(18)が二人で「攘夷」を決めて実行した★1863年の5月10日「攘夷決行の日」から3年後のことです。イギリスの命令で天皇と将軍を殺しているんですよ。この大きな真実を言わないまま150年が経過しました。私、副島隆彦は怒り狂っていましてね。大きな日本史の真実を語れと。副島隆彦が一本、大きく筋を通してやるということで今話しています。
孝明天皇

孝明天皇が殺されたら、ほぼ同時にその息子(16)も殺されています。そしてこれは元気な体格のいいのにすり替えられました。長州でずっとかくまわれていた大室 寅之助(おおむろ とらのすけ)という少年に取り替えたんですね。孝明天皇の実際の息子、祐宮(さちのみや 孝明天皇の息子の幼少時の名、本名は睦仁)は、大砲の音が聞こえるだけで震え上がるような、ちょっと知恵遅れに近い少年だったから。「それではいかん」ということですり替えた。この話は知っている人は知っています。この祐宮(さちのみや)は即位する前は睦仁(むつひと)親王となるけど16歳で殺された。そのあとすり替わった少年(大室)が明治天皇(1852-1912)になります。
睦仁親王(孝明天皇の息子)

大室寅之助(殺された孝明天皇の息子に摩り替る。これが明治天皇になった)

 

一番悪いのは岩倉 具視(いわくら ともみ)という公家です。一番悪い。孝明天皇を殺したんだから。この岩倉が強烈な男でね、孝明天皇(1831-1867)は、岩倉をものすごく憎んでいた。岩倉は、土佐の大久保利通や長州の伊藤博文とも仲良くしている開国派で、こいつにもイギリスが裏から手を回してる。岩倉がイギリスと付き合ったという記録はどこにも出てこないんだけどね。岩倉と大久保は、大政奉還(1867年10月)のあとすぐに「王政復古の大号令」(1867年12月 新政府の組織についての草案)をして、新政府ができたらヨーロッパに行っている(1871年から岩倉使節団)。

岩倉具視【下級公家 和宮下向の支度の手配をして江戸へも随行した。1825-1883 57歳で死】断髪前と後

岩倉具視が、最大実力者なんです。だから、家茂将軍と孝明天皇を殺したのは実は、こいつですね。岩倉の命を受けた伊藤博文が、トイレの下から孝明天皇を殺したという説があって、それも本当だと思います。

公家で有名なのは、岩倉より12歳年下の三条 実美(さんじょう さねとみ)がいるけど、三条実美は岩倉の子分になった。それから中山 忠能(なかやま ただやす 1809-1888)というのがいて、これの娘の中山 慶子(な攘夷派公家の中心かやま よしこ1836-1907 孝明天皇の典侍)が祐宮(即位前は睦仁)の母親です。だから中山慶子が自分の生んだ子供を殺してるんですよ。孝明天皇は全身から血を噴いて死んだといわれていますが、その時中山家にいたんです。孝明天皇の息子も殺して、それで、代わりに連れて来た大室寅之助を、孝明天皇の息子として明治天皇にします。だから、明治天皇になった人物は他人とすり替わっているから自分の孫じゃないんだけど、中山忠能は明治天皇(即位前は睦仁)の祖父ということになっている。中山忠能も、大久保利通に説得されてね、岩倉具視の子分になった。

三条実美【1837-1891 攘夷派公家の中心人物。8月17日の政変で長州に下る】維新前後

中山忠能

有名な公家といったら、あとはもう西園寺公望(さいおんじきんもち 1849-1940)ですからね。

 

■1867年大政奉還(というのをやったことになっている)

家茂が1866年の7月に殺されて、その翌年の、1867年10月に、第15代将軍 徳川慶喜が大政奉還(たいせいほうかん、幕府が保持していた統治権を変換する)というのを、二条城でやったことになっている。二条城というのは、最初は、織田信長たちが足利義昭のために1569年に作ったのね。それを家康が立派に作り直した今の場所の二条城で、各藩の代表が集まって大政奉還をやりました、っていう絵がある。これが日本の教科書に載っているから、みんな知ってるんだけど。嘘なんですよ。
大政奉還(教科書に載っている絵)

将軍になって一年ちょっとの慶喜が、「私は征夷大将軍という位(くらい)をやめる。将軍に戻す」と言った。しかし実際に政治力があるのはやっぱり幕府(将軍)であって、三百諸侯はやっぱり皆、将軍の言うことを聞くんですよ。天皇自身は何の軍隊も持っていないし防衛隊もいない。ただ、京都守護職になった会津藩主に朝廷を守らせていたというだけでね。だから慶喜はただ、「大将軍を辞めます」という手紙を朝廷に書いて、「でも実際の政治は自分がやります」というつもりだったんです。

幕末維新の歴史はね、この視点を持たないと説明がつかないんだ。

それに対して12月9日、明治天皇が(薩長同盟と、それと組んだ岩倉具視ら討幕派公家らの謀略で)、王政復古の宣言を出して、「朝廷は江戸徳川側とは、もう話し合いをしない。徳川慶喜からは将軍職を取り上げる。領地も没収(返納)する」と言った。薩長を中心にした新政府が誕生して、それで慶喜がオロオロするんだけど。この後はもう、翌月からの鳥羽。伏見の戦い(1868年1月3日-1月6日)なんですね。京都に向かう旧幕府軍と薩長ら新政府軍が鳥羽でぶつかった。ここでも新政府軍(特に薩摩藩)はイギリスからの最新式の武器を使いますからね。
王政復古の宣言

 

■1868年 明治政府ができたとたんに、攘夷思想が消滅

1月3日から6日の、この鳥羽・伏見の戦いの真実も、まだ明らかにされていません。どうも神戸にいたイギリスとフランスの戦艦が薩長の兵隊2000人ぐらいを乗せて淀川を遡って、今は●●という市があるところまで来た。そこから最新鋭の大砲を打って旧幕府軍を打ち倒したみたいですね。これも、今でも秘密になっています。

それが1868年1月3、4、5日(旧暦)の3日間なんですよ。1月6日、旧幕府軍が劣勢で新政府軍が大阪城に向かっていることを知ると、大阪城にいた将軍慶喜は戦わないでさっさと江戸に逃げちゃったんです。開陽丸という幕府の軍艦でね。7、8万人いた幕府側の各藩の兵隊たちは怒り狂った。それで結局幕府軍が負けちゃうんですよ。
鳥羽・伏見の戦い

この3か月後の4月11日には、江戸の無血開城(戦闘を行わずに城を相手に明け渡すこと)です。今の田町(東京都港区芝)で、西郷隆盛と勝海舟が無血開城についての会談をやったという有名な話になって伝っているけどね。本当はイギリスが、イギリス公使が「江戸を燃やすな」と言ったんですよ。それで薩長ら新政府軍も最後には、「わかった。燃やさない」となった。旧幕府軍(徳川家)は、新政府軍に抵抗しないで江戸城を明け渡した。その前の3月には、五箇条の御誓文(明治政府の基本方針)を発表している。こうして明治政府ができたとたんに、攘夷思想が消滅した。ここが重要です。
五箇条の御誓文

江戸城の無血開城

 

一方で、こういう徳川家に対する処分に不満を持つ武士たちがたくさんいたんです。徳川800万石の扶持米(ふちまい)で生活していた武士たちも無職になりますからね。無血開城から1か月後の5月15日、旧幕府軍の彰義隊【しょうぎたい 慶喜(上野の寛永寺にいた)の警護のために結成された部隊】のところに、まだ気合が入っている旗本や脱走兵が集まって来た。1万人ぐらいだと思いますが、官軍になった薩長軍(新政府軍)と戦うぞと。

そこ(上野)に、新政府の軍務官判事になった大村 益次郎(おおむら ますじろう)が、大砲(アームストロング砲)を次々に撃ち込んだ。今の東大の赤門(加賀藩の敷地)があるところから撃って、彰義隊らを皆殺しです。旧幕府勢力は北の方にワーッと逃げていくんですね。新政府軍に捕まったものは全員、斬首された。ひどい殺戮だった。
『彰義隊奮戦の図』

大村益次郎【1824-1869 長州の村医の長男として生まれる。維新の十傑の一人。44歳で死】と靖国神社の銅像

旧幕府軍は、奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟をつくっている東北の藩まで逃げて行った。やがて旧幕府の榎本武明(えのもとたけあき 1836-1908)たちが船を持ち出してね。この榎本武明も怪しい男で、裏側でフランスの手先をずっとやっているんです。
奥羽越列藩

榎本武明

やがて、旧幕府軍と新政府(東征軍)との間で会津戦争が起きてね。8月23日(1868年)には、会津で2000人ぐらいが死んだ(会津城内で230人が集団自決)。会津藩の白虎隊が飯野山で自決したのも同じ8月23日ですかね。
会津戦争

そして翌年1869年の5月までに、函館の五稜郭(旧幕軍の最後の本拠地)も落ちたということです。もうこの時は、明治政府ができて一周年ですからね。攘夷といいながらイギリスの手先になっていた者たちが、勝利したんです。
函館の五稜郭

 

④につづく

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