「161」幕末に攘夷決行を決めた天皇と将軍が殺された ② 1863年~攘夷派の壊滅から、1866年の第二次長州征伐まで

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■1863~65年 攘夷派がほぼ壊滅させられた(1864年7月禁門の変)

攘夷派たちは京都で暴れて、要するに新選組との殺し合いをやるわけですね1863、64年です。「攘夷を決行するんだ」と言った人たちが、一番真面目で優秀で頭もいい。けど実際は勝てないですね。大事なことは、本気で外国を打ち払えといった真面目な攘夷派の連中が、どんどんこの時期に死んでいます。1864年は6月に池田屋事件、7月には禁門の変(蛤御門の変)があった。

京都の三条にあった旅館池田屋に、長州や土佐の攘夷派が潜んでいいた。そこへ京都守護職の指揮下にあった近藤 勇【こんどう いさみ 1834-1868武蔵国の百姓の生まれ。1863年当時、家茂の上洛警護「浪士組」への応募に参加した。これが後の新選組になる】たち新選組が池田屋を襲撃した。これが池田屋事件。この時にも、優秀だった長州の攘夷派が殺されているんです。
池田屋

近藤勇

それで、ここが大事なのよ。池田屋事件に怒り狂った長州の本物の攘夷派の人たちが、京都に向かって走り出してね。それが2000人ぐらいになったんです。京都御所の西側に今もある蛤御門で幕府側とぶつかった。これが禁門の変(蛤御門の変)です。幕府側にはなんと薩摩藩もいて、久光の命令で朝廷を守っていた。けど翌日の7月19日、たった1日で長州が負けたんですよ。長州の攘夷派の親分が 久坂 玄瑞【くさか げんずい 1840-1864 禁門の変で負傷したのち自死】という人でね。この時24歳で死んでいます。これが一番真面目だ。真面目で立派な長州の攘夷派は、これで全滅です。
久坂玄端

『禁門の変』【1863年の8月18日の政変により京都から排除されていた長州が、池田屋事件を契機に京都に攻めのぼった。大砲も投入された激しい市街戦を京都市じゅうで繰り広げ、戦火により約4万戸を焼失する大事件となる。長州藩勢力は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失った】

 

その後ですね。家茂将軍が「長州を攻める」と言って【1864年7月23日に長州追討の朝命、翌日幕府が出兵を命じた】。けれども、長州側が幕府に譲歩(恭順)して3人の家老の首を切って差し出す(11月)ことで、一旦収めたんです。「日本と貿易をするのに、攘夷派の長州がじゃまだから四国(英米仏蘭)連合艦隊が下関を報復攻撃した」と言いながら、木戸孝允や伊藤博文たちが、もうイギリスと裏で繋がっていますからね。【1863年にイギリスに渡っていた伊藤博文と井上薫が、四国連合艦隊長州砲撃(★の報復として)の計画を知って、長州に帰っていた(1864年6月)。長州征伐の調停(1864年7~12月)をしたが、四国連合艦隊による下関砲撃(8月)は阻止できなかった】

第一次長州征伐

 

■1863、64年 攘夷派の一部が、イギリスの手先「裏開国派」になる

そして、形だけ「攘夷」を言いながら裏切っている人たち。これを何と名付けるか私も困っていて。私は「裏開国派」という言葉を使おうと思うけど。

それは、伊藤博文、高杉晋作や木戸 孝允【1833-1877 長州藩医和田家の生まれ、桂家の養子となる】たちです。彼らの態度が、どんどんおかしくなっていくんです。彼らは表面だけ「攘夷」を言いながら、実際は裏でイギリスに操られていった。それに協力する御用商人もいた。白石 正一郎(しらいししょういちろう 1812-1880)という御用商人がいて、この男の下関の港のそばのお屋敷を使って奇兵隊が作られたんです。

伊藤博文【1841-1909 周防国の百姓の子 吉田松陰の松下村塾に学ぶ】

高杉晋作【1839-1867長州藩の武士 奇兵隊を創設し長州藩を倒幕運動に方向づけた】

商人・白石正一郎

高杉はすでに3年前に上海に渡っていますから。幕府の使節の中に潜り込んだ形で上海に行ったことになっているけど、交渉して洋船を一隻買ってきていますからね。船の代金を長州藩が払う払わないで、藩の中で問題になるんだけど、それぐらい力を持っていたんですよ。彼らは裏でイギリスに操られていましたからね。操ったのはオールコックです。

長州藩には、周布 正之助(すふ まさのすけ 1823-1864)という優秀な家老がいて、この男は開国派なんですよ。彼が、下級藩士だった木戸や高杉、伊藤たちを抜擢したり、ひとり千両ずつ出して5人(長州ファイブ)をイギリスに、送ったわけですね(1863年5月12日)。長州藩の裏でも開国勢力の力が強くなっていた。
周布正之助

 

■極悪人のイギリス首相パーマストンと、その忠実な子分オールコック

ラザフォード・オールコック全権公使【1809-1897 イギリスの医師、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使】。この悪(ワル)が、アヘン戦争でも広州や上海で暗躍している。1859年、ジャーディン・マセソンが横浜に一段番乗りしたその時に、オールコックはすでに日本に来ているんですよ。江戸の老中と会って、江戸城まで行って天皇に面会している。

オールコックはで、当時の金と銀の交換比率の隙間をついて、日本から膨大な量の小判(金貨)を持ち出した。金が流出したせいで日本は激しいインフレになって経済に深刻な悪影響を受けた。それで民衆は「ええじゃないか」と踊り狂った。世直しを求めて、それが倒幕に繋がったんですね(1867年)。

当時オールコックが住んでいたのは、高輪(品川)の東禅寺(とうぜんじ)です。1861年に水戸藩の脱藩浪士に襲撃されて(第一次東禅寺事件)。それで、さっそくに建物(イギリス公使館兼オールコック居住用)を作れと言ったのが東禅寺の近くの御殿山(ごてんやま)です。今は三菱の迎賓館になって大きく囲まれていますけども。御殿山(ごてんやま)は品川駅の南の方で、当時は海に近かった。

『御殿山での花観覧』(広重・画)

東禅寺と御殿山

なんとここに、伊藤博文たちが焼き打ちをかけたんですよ。彼らがイギリスに操られる前の、1862年12月12日です。高杉晋作、井上薫、品川弥次郎、それから久坂玄瑞もいた。彼ら長州藩の尊攘派が、イギリス公使館に、船で海から押し入った。オールコックは寝室に隠れて無事だった。

品川弥次郎【しながわ やじろう1843-1900 長州藩の足軽の長男、松下村塾に学ぶ】

ところがところが、この半年後の1863年5月12日(★の2日後)に、伊藤博文と井上薫ら5人(長州ファイブ)が、イギリスに向かうんです。莫大な費用はグラバー(イギリスのジャーディン・マセソン商会の長崎代理店)が立て替えた。

こうやって「裏開国派」がイギリスの手先になっていった。こういうことを、私、副島隆彦が『属国日本論』に書いた。もうおかしいんだ、と。「攘夷を決行する」と言っていた若者たちが、半年後にイギリスに向かって出発している。この異様さをみんなが分かっていないのね。つまり態度が変わったんですよ。「攘夷」と言いながら、実際はもう、イギリスの言うことを聞いて手先になって動くと決めたんですね。ここがものすごく重要なのに、幕末の歴史の大事なところを今でもみんな見ようとしない。

その一方で前述した公武合体の動き(公武主導で一旦国を閉じて、国力をつけてから外国と貿易をする)もあって、それが★1863年5月10日「攘夷決行の日」なんです。「やっぱり、もう一回、外国欧米白人を外に追い出せ」と天皇と将軍が決めた。これははすごいことなんです。そして、公武合体派が一旦は勝利していた。けれども、今の歴史学者も(教科書も)これを無視するんですね。

 

■1864年3月 天狗党(水戸の攘夷派)が水戸で負けて京都に向かう

長州の攘夷派が壊滅した禁門の変(7月)の少し前。同じ1864年に、水戸でも攘夷派の動きがあった。天狗党の乱です。幕府の中でも真面目な連中がね、水戸(今の茨城県)に天狗党(てんぐとう) を結成した。
天狗党【1864年3月27日に筑波山で決起した水戸藩内外の尊王攘夷派。徳川斉昭(慶喜の父)を支持した一派】

天狗党の彼らは、倒幕とは絶対に言わないですよ。自分たちは幕府の侍ですからね。でも「攘夷を決行する」と。天狗党と、それに反対する諸生党(しょせいとう 幕府の言うことを聞くという保守派)との間で、水戸藩内で激しい殺し合いになった。幕府の鎮圧部隊も来ていて、お互いに敵の家族まで皆殺しにして6000人くらい死んだと言われます。この事件で、水戸藩が落ちぶれた。御三家だったのに。
吉村昭・著『天狗争乱』から

ここで非常に大事なことは、御三家(尾張家、紀伊家、水戸家)という徳川体制の内部から「尊王攘夷」思想がでたということです。これが重要です。当時、平田 篤胤(ひらた あつたね 1776-184 江戸後期の国学者)の本がものすごい人気で、皆、本気で読んでいた。これを読める層ができていたんですね。彼ら民衆の上層部(全国の豪農・豪商、名主・名主・庄屋)の中に愛国心が芽生て、それが高揚していたんです。この民衆の上層部が「草莽(そうもう)」です。上層部だけど、武士じゃないから草(くさ)扱いなんです。

惣村(そうそん)共同体、この惣(そう)という言葉が大事です。これが今の農村共同体です。惣村という言葉、ここから惣士(愛国心から政治運動を始めた人)という言葉が生まれたんです。惣士が、壮士、に置き換わっていった。彼らが撃剣(げきけん 本気で殺し合いをやる剣道)をやった。それが、新選組の近藤勇たちです

天狗党の話に戻ります。彼らは水戸で負けて、生き残った1000人くらいが追い詰められて、京都を目指した。自分たちが支持した藩主 徳川斉昭(これはすごく優秀だった)の7番目の息子である徳川 慶喜【よしのぶ 1837-1913 第15代将軍 在位1867-1868】を頼ってですね。

慶喜がずっと京都にいた。京都の公家たちがね、古臭い公家たちが「西洋白人というのは長い爪が生えている恐ろしい獣(けだもの)なんだ。こっちに来させるな。神戸から打ち払ってしまえ」みたいなことをと慶喜に言って。言うだけでね。だから慶喜が、神戸に来ていたイギリスやフランスの戦艦隊との交渉係をしていた。
徳川慶喜

けれども慶喜は天狗党たちを嫌がって、助けなかった。見捨てた。慶喜が根性なしだということもみんなよく知っているんですよ。慶喜はこのあとの1867年から、いわゆる最後の将軍になるんですけどね。家茂が21歳で死んで(1867年に大阪城で殺されて)、その後を継いだのが慶喜。それで慶喜はたった1年で将軍職を放り投げているんです。たった将軍 慶喜はたった1年間だってことも、みんなあまり知らないんだ。

まとめると1864年は、7月の禁門の変で長州の攘夷派が壊滅。第一次長州征伐とその調停(7~12月)、四国(イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊による下関砲撃(8月)。だからこの時はもう、イギリスの暗躍があってね。

 

◆1866年

1866年の1月21日に薩長同盟ができた。秘密でね。それで、坂本龍馬はそこにいなかったというのが最近はっきりしたんです。薩摩の小松 帯刀(こまつ たてわき)という家老と、西郷隆盛と、長州の木戸孝允ですね。彼らが秘密で同盟した。だからその時にもう、倒幕をやると決めたんですね。
小松帯刀【1835-1870 維新の十傑の一人。明治に入ってすぐに36歳で病死】

だから薩長同盟で、攘夷ではなくて倒幕になっちゃった。これを分からないといけない。そして薩長同盟ってなんだって言ったら、開国なんですよ。いつの間にか態度が開国に変わっちゃった。 攘夷派の素朴な真面目な、あまり頭の良くない過激派の浪人たちはそれ(態度の変化)を理解できなくて、「欧米白人を打ち払えと言っていたのに、いつから開国に変わったんだ?」と薩摩藩邸とか長州藩邸に聞きに行ったというんですから。つまり脳が、考えが切り替わらなかった人たちがたくさんいたということです。

薩長同盟の4か月後から、第二次長州征伐【5月に将軍家茂出陣、7月家茂が死去、1867年1月23日解兵令】があった。けど江戸城から大阪城に移った家茂はすぐ殺されて。私は自分の本『属国日本論』にすでに書いたんですが、長州征伐の時に「伊藤博文たちが、薩摩からの船で…」って嘘なんですよ。
第二次長州征伐

高杉晋作(1839-1867)が組織した騎兵隊なんて、1000人もいないんですよ。それなのに「奇兵隊が、長州の藩論を攘夷から開国にひっくり返しました」なんて、おかしいよね。ということは下関の港にイギリスの戦艦がいて、高杉晋作を応援していたということです。高杉晋作は九州の小倉城を攻めるところまで行ったんだけど、この後結核で死んじゃった。グラバーがお金を出して、長州はいろんな船をもらって、6000丁のゲーベル銃やミニエー銃を長州に持ち込んだ。幕府が各藩に命令した幕府軍(15万人。薩摩は出兵拒否)が長州に攻めてくるんだけどね。長州軍はたった4500人ですが、銃の性能が全然違う。超高性能の武器を持っているから負けるわけがない。それで第二次長州征伐では、長州が幕府軍に勝つんですね。
奇兵隊

 

■長州征伐の真実、小判流出

「長州が言うことを聞かなかったから、幕府は討伐を決めた」というけど。真実はね、下関から小判(金貨)がどんどん流れ出していた。御用商人たちもグルになって。日本国内からの金貨流出の半分くらいが長州からだろう。やったのは、前にも話したけど、イギリス全権公使のオールコックです。本当に悪いやつだった。

その時の長州藩主 毛利 敬親(もうり たかちか 1819-1871)は今の山口市にいたんだけど、手も足もでなくてどっちつかずの態度を取って、ほったらかしたみたい。イギリスが背後にいる開国派に、下関を取られてしまった。
毛利敬親

だから長州征伐というのは、長州藩からの小判(金貨)流出が誘因なんですよ。悪(わる)のオールコックが上手に日本の小判(金貨)を持ち出して、自分の懐にいれた。当時は金本位制だから、金が流出すると激しいインフレになる。だから幕末には物価が高騰して民衆は生活苦におちいって、前にも言ったけど、大規模な打ちこわしのような暴動や民衆の「ええじゃないか」、世直し運動が頻発した。それが幕府の崩壊にも繋がった。

長州から小判(金)が流出しているから、幕府は、「長州を征伐する」となったんだよ。これもちゃんと説明されていない。

 

③につづく

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