「160」幕末に攘夷決行を決めた天皇と将軍が殺された ① 1862年までは公武合体派が勝利

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副島隆彦です。今日は12月20日(土)です。

今回からは、幕末の日本の歴史の大きな真実をえぐり出すことをします。

私、副島隆彦は、1997年に『属国 日本論』出して「帝国-属国論」を大きく提起した。この本の第4章に日本の歴史、明治維新の真実を書いた。しかしこの本を書いた28年前の私は、当時の世界の動きについて今ほどはっきりと自覚していなかった。幕末から明治初期の歴史にはいろんな事件が次々出てきて、みんなも大混乱を起こしている。私が、ここで、はっきりと書いて、これらの、これまで曖昧(あいまい)にしてきた歴史上で重要な事項を明確にする。
『属国 日本論』

アマゾン『決定版 属国 日本論』2019年の改訂版

最大級に重要なことは、★1866年 に、日本の天皇と将軍がイギリスの命令で殺されている事実だ。この大きな真実を言わないまま、150年が経過した。私、副島隆彦は今も怒り狂っている。幕末維新で一番大事な日本史の大きな真実を語れ、と。副島隆彦が一本、大きく筋を通して見せるということで今、話しています。

日本のこの時代に、一番悪い、最悪の人間は、イギリスの全権公使だったラザフォード・オールコック( Rutherford Alcock, 1809~1897) だ。彼は、「大君(タイクーン)の都(キャビタル)」(The Capital of the Tycoon 1862年刊行)という本を書いてる。このオールコックが、当時の日本を操(あやつ)ったのだ。伊藤博文を自分の忠実な子分にした。

『大君の都』

そして京都の公家の中では、孝明(こうめい)天皇を暗殺した、岩倉具視(いわくらともみ 1825-1883)が、最高級のワルだ。

オールコックがまだ20代の外交官だった時から、ずっと、親分として、オールコックに命令して動かしたのは、イギリス首相のパーマストン卿(本名 ジョン・テンプル 1784-1865)である。パーマストンが、このあと首相になるラッセルやピールたちの親分であって、最悪の政治家だ。
パーマストン

オールコック

パーマストンは、高齢で現役の首相のまま死んだ。大英帝国が世界を支配する上で、多くの強硬な政策を世界各地で実行した。今でも、世界史としてのイギリスを知っている人たちは、ウォルポールに次いで悪賢いのは、このパーマストンだと分かっている。

アメリカは、この時期に、イギリスにいいように使われていたのだ。日本では幕末史として、一番目に来航したペリーや、タウンゼント・ハリスの話ばっかりすることになっている。だが、本当に悪いのはイギリスなのだ。パーマストンが、日本から、小判(金貨)を流出させた。日本人の両替商(のちの銀行家)たちを使って、金銀比率の差を利用して。そして、オールコックが首相のパーマストンに、日本から奪い取った金貨を分け前として渡したはずなのだ。
マシュー・ペリー

タウンゼント・ハリス

ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子(場所不明)

こういう大きな真実を、あの幕末の時代から150年たった今、私、副島隆彦が、こうやって解明する。この大きな真実に到達したとき、私も、もう70歳を超えていた。この真実を、日本国民に何としても伝えて、教えないといけない。

そして幕末1886年に、将軍と天皇という、日本の最高権力者の二人が、殺されているという大きな真実について、私がこのあと、ずっと書いてゆく。オ-ルコックが、パーマストン首相の許可と命令を受けながら、日本の将軍と天皇を殺した(日本人の部下たちに殺させた)、という真実を、以下に書いてゆく。

 

1863年5月10日「攘夷決行の日」

1863年(安政5)年5月10日。この日が非常に重要です。「攘夷決行の日」と言います。徳川家茂 (いえもち)第14代将軍と孝明(こうめい)天皇が団結して、この日にすると決めたんです。「外国勢力を一旦外側に追い出せ。打ち払え」と。ふたりで京都の南の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に祈願して決定した、日本国の体制にとって、非常に重要な日です。

長州の下関を馬関(ばかん)と言うのだが、関門(かんもん)海峡に面して砲台がずっと海に向けて並べてあった。
馬関の大砲(イメージ)

この1863年5月10日に、この砲台から、上海の方から関門海峡を通る英米仏オランダの商船に向けて、長州藩が大砲を撃った。これが本当の「譲位決行」なんです。この事実までは日本史の学者たちは必ず書くのだが、その理由を書かないのだ。知ってはいるんだろうけど。

日本の最高権力者の2人である家茂将軍と孝明天皇による攘夷の命令をそのまま、本気で実行に移したのが、長州藩の久坂 玄瑞(くさか げんずい 1840-1864、1864年7月の禁門の変で負傷したのち自死)と真木 保臣(まき やすおみ 1813-1864 禁門の変で死)たちだ。

久坂玄瑞

真木保臣

今回は、★1863年5月10日「攘夷決行の日」、これを中心に話します。

 

 

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■ペリーが来る前年にジョン・万次郎が土佐でネットワーク

1853年にペリーたちが黒船で来て、翌年1月に再度来た。その直前の1852年に、ジョン・万次郎が土佐藩に帰っていた。そしてネットワークをつくった。

そこには岩崎(三菱)弥太郎(やたろう)や坂本龍馬(本当は才谷梅太郎、さいたにうめたろう)たちが入っていた。この時アメリカは、ペリーを派遣する前からすでに、計画的に動いていたのだ。 こういうことを本に書いて、私、副島隆彦は幕末維新の裏側を大きくえぐり出しました。

ジョン万次郎【1841年に炊事係として乗っていた漁船が足摺岬沖で難波。伊豆諸島の無人島に漂着しているところをアメリカの捕鯨船に救助されてアメリカで教育を受けた。1851年に帰国。琉球(沖縄)→薩摩(島津斉彬)→長崎に送られ、奉行所で長期間尋問を受けた】

大事な言葉は「尊王攘夷(そんのうじょうい)」だ。この言葉は誰でも知っているんだけど、そこで重要なのは「討幕(とうばく)」という江戸幕府体制(徳川氏の体制)を壊せ、という概念との関係だ。このことを皆、歴史で習ったんだけど、流れが理解できないんですよ。 攘夷を討幕と大きく取り替えた。ここに秘密がある。

日本の幕末維新については、日本史の学者や小説家たちによるあれこれの話がいっぱいあって、おそらく200人ぐらいの幕末維新の有名な人物が出てくる。彼らが、その時その時の英雄物語になって、一体、何が一番大事なことかが分からない。順番に全部の人物が偉い、みたいな話になっている。このことが問題なんです。

私、副島隆彦は、この30年も40年も日本の歴史を調べてきたからね。やっぱり、そろそろ、一本大きな筋を通してやると。そのためには、やっぱり皆さん、読書人階級を驚かさなきゃいけないからね。読者を最初から惹(ひ)き付けなければいけない。文字通り、ひきつけを起こさせないといけない。

 

■1858年 5カ国と通商条約を結ぶ

それで幕末というのはいつからだよと言ったらね、これは誰も決められないんだけど、ペリーが江戸湾に来航した1953年からだろう。この頃は、まだ太平の世だった。日本国内に混乱は無かった。5年後の、1858(安政5)年4月、江戸幕府の老中の中からさらに大老(たいろう)に井伊直弼(44)(1815-1860、彦根藩主)がなった。
井伊直弼

そして6月になったらすぐに、家来の優秀な奉行たち、岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直(いのうえきよなお)に、下田にいたアメリカの全権公使(スペシャル・エンボイ)であるタウンゼント・ハリスと通商条約を結ばせた。井伊直弼は、ハリスから「中国が大変なことになっているぞ」と脅されて、押し切られて、通商条約を締結した。これがトレード・トリーティ trade treaty ですからね。「通商条約(自由貿易をする)を結んだ」、ということがまさしく「開国」なんです。このことを日本人は、おそらく誰も知らない。専門家たちでさえ。

ハリスと岩瀬

そしてこの年1858年8月に、島津 斉彬(しまづ なりあきら)1809-1858 44歳で死)という優秀な薩摩藩主が死んでいる。おそらく毒殺だ。この島津斉彬が、西郷 隆盛(1828-1877 49歳で死)を育てた。西郷は古いコトバで言えば「御庭番」【おにわばん 8代将軍吉宗の時代に創設した江戸幕府の職名。諸大名の動静を探る役目の密偵。通常は江戸城奥庭の番人を務めた】だった。分かりやすく言えば国家情報部員、スパイです。西郷隆盛は、薩摩藩が育てたスパイなんです。坂本龍馬も同じで土佐藩のスパイ。長州なら木戸孝允(きどこういん。桂小五郎)です。脱藩浪人とか言うのは嘘なんですよ。

島津斉彬

坂本龍馬

なぜなら、坂本 龍馬(1836-1867 31歳で死)は土佐の藩主 山内 容堂(やまうち ようどう 1827-1872。豊茂 とよしげ)に手紙を出しているのね。20歳ぐらいで優秀な人間だった龍馬は、藩主の命令で江戸の千葉周作(しゅうさく)の弟の道場に通いながら江戸を偵察していたんです。

山内容堂

竜馬は、直接、藩主に向けて当時の速達便で手紙をたくさん出した。ものすごく早い飛脚ですからね。だからものすごく高いお金が要ったに決まってるんです。その手紙に、自分のお姉さんに宛てた手紙をペタッとくっつけて配達してもらった。それが現存している。藩主宛ての方の手紙は秘密にされて今も隠されている。

だから、藩のお金で手紙を出していて、その手紙の束が公開されて残っているんです。龍馬のお姉さん(坂本 乙女 さかもと おとめ 本名は留)は身長が175センチぐらいあった大女で鉄砲を打ったりしてた気丈な人だそうで有名な話です。

坂本乙女

龍馬が土佐藩主に書いた手紙は、「江戸は今どうなっていて何が起きています」という報告書です。だから、こうやって各藩の一番頑強で優秀な若者たちがスパイとして江戸に送り込まれていたんですよ。長州なら木戸 孝允ですね。木戸は、長州で格が高い家の出身なんだけど、そういう若くて優秀な、20歳ぐらいのスパイたちがたくさん江戸に来ていたわけですね。彼らがのちの政治指導者になった。

木戸孝允【きど たかよし(こういん) 1833-1877 幕末期には桂小五郎で活動 43歳で死】

 

■1859年 港を開いた=開国。欧米白人商人がどんどん来る

通商条約の翌年の1859年の6月2日には、横浜、それから函館と長崎を開港して貿易が始まった。神戸はその前の1857年にすでに無理やり開港されていた。というか、勝手にイギリスとフランスの戦艦とかが入って来ていた。水深が浅かった新潟は1869年。下田が廃止されて、全部で五港開市開港(ごこうかいしかいこう)された。もうあっという間に、一気にね。この6月2日には、ジャーディン・マセソン商会の建物が、今の横浜の海岸に、ほとんど建っていたようだ。マセソンの建物は、一番館、二番館と呼ばれて、これらは今も有名な観光地だ。

ジャーディン・マセソン商会【イギリスの貿易会社。長崎代理店として、武器商人のグラバー商会を置く】

上海から来た、日本語ができる中国人たちが通訳をやっていて、この通訳(通弁)たちを引き連れて(だから神戸と横浜に中華街があるんですよ)、イギリス人の商人たちがなだれ込んで来た。彼らは世界中に出て行った、ガラの悪いおカネ儲けのことしか考えない人たちで、ユダヤ人がたくさんいただろう。この横浜の開港地(かいこうち、居留地、租界、そかい。conssetion  コンセッション)の、その外側を2~3千人の幕府の兵隊たちが囲んでいた。だが出入りは自由だった。それを、例えば、福沢諭吉が見物に行った。そこで、もうオランダ語ではなくて英語が話されていることを知って、福沢は急いで英語の勉強を始めた。
福沢諭吉

これが開国だ。一気に、開国したんです。いや無理やり開国させられた。

一旦開国してしまうと、ものすごい勢いで欧米白人の商人たちが入り込んでくるわけです。このことに対して、日本国内に一気に激しい怒りと憎しみと、恐怖感が生まれたのだ。まさしくこの時、本気で「欧米白人たちを打ち払え」という攘夷の思想が、火のように 日本全国に湧き起こったんです。そして、「毛唐(けとう。毛の生えた中国人=外国人という意味)どもを許さない」という怒りが。この歴史事実を誰もはっきりと書かないから、日本人は幕末維新を正確に理解できないのね。その当時、人々はどのように感じていたか、を中心に置いて、歴史の知識を作って行かなければいけない。

当時、神州(しんしゅう)すなわち神の国である日本国を毛唐どもに踏ませるな、日本国を守れ、という追い詰められた、切迫した感情が、この1858(安政5)年の通商条約締結の時から生まれたのだ。この時から全国の300藩の武士階級の中に沸き起こった激しい感情が、勤王同盟(きんのうどうめい)という集団となって、各藩に作られた。これは、その前から徐々に生まれていた、「天皇の方を大事にして、徳川幕府を嫌う」思想と重なっていった。それで、「とにかく外国勢力を打ち払え」で、激高(げっこう)した攘夷の志士たちが各藩に出現して、激しいショービニズム、敗外主義と言うんだけど、白人を見たらその場で切り殺せと。これは思想だけじゃなくて、実際行動に走ったんです。止めようがないぐらいに激しいんですね。

 

■1860年1月に咸臨丸が出港、3月に井伊直弼が殺される

この雰囲気の中で1859年の、6月2日からの(実際の)開国があった。そうするとその次の年、1860年3月3日に桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)があって、井伊直弼が殺された。

江戸城の桜田門外、今の警視庁のある建物(現在の東京都千代田区霞が関)の前で。水戸の脱藩浪人と薩摩藩士たち がやった。彼らが決死の覚悟で井伊を殺しに行って、自分たちも血だらけになって。周りの大名屋敷があるあたりには、刀を抜いた自分たちの指も落ちているような感じで。井伊直弼を襲撃した藩士らは、その後捕まったり出頭したりするんだけど、全員死刑です。
桜田門

桜田門外の変

これより前の安政の大獄で、吉田松陰たちが殺されていますからね、井伊直弼に。だから井伊に対する憎しみが、全国の攘夷派の優秀な藩士たち、彼らは知識人です。その中でも激高した過激派、本物の過激派たちに反乱を起こさせたんです。これはみんな知っている。

今でも、「横浜を開港した井伊直弼が偉かった」と言う人たちがいる。井伊家は掃部頭(かもんのかみ)【掃部の本来の意味は、宮中行事に際して設営や、殿中の清掃を行う役職。井伊家は当主となると「掃部頭」という通称を用いた】という役職だった。横浜の北側(横浜駅の裏のほう)の、一番のお金持ちたちが住んでいる地区に掃部山(かもんやま)という公園があって、そこに井伊直弼の大きな、高さ15メートルぐらいの銅像が建っています。でもそこにはあまり人は行かないんですけどね。観光地としてはあまり人気がないようです。

掃部山(かもんやま)公園の銅像

横浜のこの場所、港から、1860(万延元)年1月13日に咸臨丸(かんりんまる)がサンフランシスコに向けて出港してるのね。日米修好通商条約の批准書の交換のために。その船に、福沢諭吉とジョン万次郎が乗っていた。この1860年、万延元年(まんえんがんねん)は覚えてください。この年の2か月後の3月3日が桜田門外の変です。

この時、勝 海舟(かつ かいしゅう 1823-1899)は軍艦操練所教授として咸臨丸に乗っていた。一応、艦長扱いです。船酔いで使い物にならなかったそうだけど。咸臨丸は正式の遣米使節(けんべいしせつ)のその随行船です。正式の幕府代表の大名たちはポーハタン号という、別のアメリカの船に乗っていた。その護衛艦というか、戦艦のポーハタン号の事故など万が一に備えて、正式の幕府の使節(遣米使節団)を守るための船という形で、咸臨丸はアメリカに行ったんですよ。正式の使節団はこのあと、開通したばかりの大陸横断鉄道で、首都ワシントンまで行ってブキャナン大統領に接見している。咸臨丸はサンフランシスコまでです。そのあと日本に帰ってきている。

ポータハン号

万延元年遣米使節

咸臨丸

勝海舟【江戸幕府最後の陸軍総裁、明治政府の初代海軍卿を務めた】

 

■1861年 「開国やむなし」という人たちを、攘夷派が殺した

1861年には、「もう開国した方がいい(もうしてしまったし)」という思想を持った人間たちがどんどん出てきた。でもこの頃はまだ、「開国止む無し」という言葉を使っただけで攘夷派に殺された。尊王攘夷の過激な志士たちが、この開国止む無しの立場の人たちを「天誅(てんちゅう)」として殺した。各藩の中でもこの対立が起きて、例えば、土佐の吉田東洋(よしだとうよう 1816-1862)という家老職の人が殺された。
吉田東洋

この開国容認派の大物を殺したのが武市瑞山(たけちずいさん 1829-1865)で、通称は武市半平太(たけちはんぺいた)です。この人が「尊王攘夷」をかかげて1861年8月につくったのが土佐勤王党(とさきんのうとう)です。結成した翌年に、家老の吉田東洋を殺した。土佐勤王党には、最初は坂本龍馬も入っているんです。そして長州の伊藤博文たちも、最初はこの攘夷派だったんですよ。

武市瑞山【土佐の剣術家】

 

■1862年 まだ攘夷派が強いが、イギリスがそれを利用して幕府に圧力

薩摩の島津斉彬らが死んで(1858年8月に殺されて)、その異母弟の久光(ひさみつ)というのが藩主になった。この久光がバカでね。1862年の4月(その頃は久光の子が次の藩主になっていた)、参勤交代の一種なんですが、久光が、将軍と天皇の意思に従って「攘夷を決行すべきだ」と言って江戸に向かった。千人も連れて、完全武装で、大砲も牽いて江戸に向かった。

攘夷派のなかでも一番、過激な各藩の者たちが、京都集まっていて、「勤王【きんのう。 王=天皇のために力を尽くす。当時は京都朝廷のために動いた一派】の志士」いう言葉に今はなっているけど。薩摩(久光)が当然、決起して江戸で攘夷を決行すると思い込んだ攘夷派の人たちが、久光の周りにたくさんいた。

島津久光

ところがなんと、久光は、本気で「攘夷を決行する」予定で動いていた最も優秀で過激な連中を、久光は、自分の部下たちに命令して京都の伏見にあった寺田屋で殺したんです。薩摩藩の藩士どうしで殺し合いになった。久光にしてみたら、一部の者たちが、自分のいうことを聞かない、統制に従わないからと。激しい内ゲバをやったわけですよ。京都の人たちに噂が広がって、「薩摩のやることは恐ろしい」とこの殺し合い.に震え上がったと言います。 この久光は周りに期待だけさせて、自分の権力を誇示したかっただけだったとしか言いようがない。

そのあと久光は武装したまま上京した。井伊直弼が死んだ後の老中たちに一応談判をしたんだけど、幕府(老中たち)の態度は、公武合体(こうぶがったい)で、国力をつけてから外国と貿易をすると、変えなかった。

1862年8月、江戸から薩摩への帰り道で久光は生麦(なまむぎ)事件を起こた。自分たちの大名行列の前方にパカパカと馬に乗リ入れたイギリス人四人のうちの一人を斬り殺しちゃった。
事件当時の生麦の様子

このあと、「その賠償金を江戸幕府が払え」という理屈にイギリスがすり替えて外交交渉に持ち込んだ。 私は自分の本「属国日本論」(1997年刊)にも書きましたが、その翌年7月、イギリスが仕返しに攻めて来た薩英戦争(さつえいせんそう)の時に、五代 友厚(ごだい ともあつ 1836-1885 薩摩藩士の次男)や新路 刑部(にいろ ぎょうぶ)たちは、捕獲された薩摩藩の船と共に、さっとイギリスの船に乗り移った。五代は、もうその時すでにイギリスと繋がっていたんですよ。一番最初に繋がった者たちの一人で、すでにヨーロッパに行っていますからね。

五代友厚は、明治政府の高官をやめて実業家になった。五代が明治期に大阪の商工会議所を作った(1878年)。日本全国の鉱山を山主たちを纏(まと)めて、おそらく当時、日本一の金持ちだった。彼はのちに、イギリスとフランスのフリーメイソンの内部対立に巻き込まれて、今の築地にあった大隈重信邸で、殺された。
五代友厚

この生麦事件も大きくはイギリスが仕組んだんだ。自国民(イギリス人)を利用して、外交交渉の素を作った。 通訳外交官のアーネスト・サトウは自国の被害者のことを「上海から横浜に流れて来た不良商人たち」、と蔑んで自分の本に書いている。イギリス国民が日本政府に殺傷されたことを外交問題として大げさに扱って、賠償金を払えと言う形で、占領した相手側である幕府に要求するやり方で。一年後の1863年7月が、薩英戦争です。薩英戦争は★1863年5月10日の「(将軍と天皇が決めた)攘夷決行の日」からわずか、2か月後ですよ。

 

■1862年 公武合体派が一旦勝った

公武合体の公(こう)は朝廷、武(ぶ)は幕府。「朝廷と幕府が一致団結して、一旦、外国勢力を外に出せ。そのうえで、国力をつけてから外国と対等の取引を始める」、というものです。副島隆彦の結論で言うと、この考えが正しいんですよ。

この公武合体の最大の見せ場がね、皇女 和宮(かずのみや)の降嫁【こうか 皇女や王女が皇族・王族以外の男性に嫁ぐこと】です。孝明(こうめい)天皇の妹の和宮(16)と14代将軍 家茂(いえもち、20)とを結婚させた。和宮は、1862年10月20日に京都を出発して、2か月かけて江戸に行った。それで翌1863年2月に江戸城で結婚式をやりました。この時は1万5千人の家来がついて、とにかく盛大にやったんですよ。30もの藩が東海道でお見送りをした。家茂はこの結婚を受け入れて、側室も持たずに2人は仲が良かったみたい。
和宮

和宮降嫁

将軍家茂(紀州藩主ののち)は、「自分は孝明天皇と団結して、外国勢力を一旦外に追い出す。打ち払う」と、本気だったんです。天皇と将軍が二人で、そう決めた。そして、★1863年5月10日の、2人で決めた攘夷決行の日を迎えた。それに忠実に従ったのは、長州藩の久坂玄瑞たちだった。

そして3か月後に、1863年「8月18日の政変」というのが朝廷内であった。公武合体派の会津藩・薩摩藩が中心となって、孝明天皇の意向を受けて、三条 実美(さんじょう さねとみ 1837-1891)ら急進的な攘夷派公家とそれらと結んでいた長州藩を京都(朝廷)から排除した。
七卿落ち

この時、三条実美たち7人の攘夷派の公家が、自分の足で歩いて逃げて長州に行ったんです(七卿落ち)。この「8月18日の政変」は有名な事件です。これで国政の方向が変わった。公武合体派が勝った。天皇と将軍の言う通りにした。しかし、京都から逃げたこの攘夷派の公家たちの裏に、イギリスがもういたのだ。だから、この公家たちは、ただの攘夷派ではない。ここが、日本史で、皆が理解できていない重要な点だ。

公武合体(公武主導で一旦、外国勢力を打ち払う。通商条約を破棄する )派が勝利していたんです。それなのに、いつの間にか攘夷派の者たちが、攘夷ではなくて、討幕(倒幕)一本鎗に変わっちゃった。どうも、この時、日本国内の雰囲気と思想が、別物にすり替わった。ここが幕末明治を考えるうえで、一番大事なところでね。この「俺たちは、攘夷では無くて、本心は倒幕だ」と、言い出したの、が高杉晋作です。高杉の背後にイギリスが、彼の裏側にいたんだ。

日本国内が、通商条約を結んだ1858年から、動乱状況に入っている。だから、表面では「攘夷、攘夷」と叫びながら、裏ではイギリスの子分になって開国派だった者たちが。それが長州ファイブだ。彼ら伊藤博文たち5人は、★1863年5月10日「攘夷決行の日」の2日後に、上海を経由してイギリスに向けて出発している。神戸にいたイギリスの軍艦に、下関で乗ったのだろう。そして彼らがイギリスの手先代表になっていく。こうやって、まさしくオールコック全権公使の家来、子分をやるようになるわけです。伊藤と井上だけ、翌年に日本に帰ってきて。
長州ファイブ

長州ファイブの一人、井上 聞太【1836-1915 いのうえ ぶんた 下級武士出身。明治維新後は、井上馨 いのうえかおる】は内務大臣までやった。「もんた」ではなくて「ぶんた」が正しいんです。なぜならアーネスト・サトウの日記の中にね、英文で「ぶんた」と書いてある。
井上聞太

 

②につづく

 

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