「159」 三井、住友、その他財閥の創業者たちの歴史 ③ 阪急 高島屋 大丸 伊藤忠 

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■阪急
大阪には阪神というのと阪急という電車があって、それぞれの線路沿いに、阪神デパートと阪急デパートがあります。大阪と神戸を結ぶ「阪神」電気鉄道のほうが古くて1905年、阪神急行電鉄(現在の「阪急」)が1920年に開業している。ずっとライバルだったんだけど、2006(平成18)年に経営統合して阪神は阪急の子会社になった。

阪神電鉄と阪急電鉄

阪急は、小林一三【こばやしいちぞう 1873-1957 84歳で死 阪急東宝グループ以外にも東急、東京電燈、日本軽金属の経営に参画して全国の財界でも重鎮となり、後に政界に進出する処となった】という人が作った。小林一三は、鉄道をずっと全国に引いた人です。東宝(とうほう)と宝塚(たからづか)も小林一三が作った。もう明治になってからの話ですね。

小林一三は、本当は 渋沢 栄一【しぶさわ えいいち 1840-1931 91歳で死 日本の近代経済はの発展に尽力した人物で、「日本の資本主義の父」と呼ばれる。500社以上の企業設立・運営に関わり「第一国立銀行」の設立を主導するなど、金融システムの近代化に貢献した】 と同格の人なんです。渋沢栄一の方が圧倒的に有名ですけど。

鉄道を引くという思想を本格的に実践したのが、小林一三です。例えば東京の田園都市線という鉄道は、小林一三が敷いたんですね。ですから田園都市線は、今は東急線ということになってます。
小林一三

それから阪急東宝グループ以外にも、東京電灯の経営とかにも参画した。東京電力は、昔は「東京電灯」と言ったんです。資本家たちが始めた電灯会社がやがて、今の大阪や東京電力や関西電力になっていく、そこの大きな流れもそのうちに話さなきゃいけないな。

 

■高島屋
次は高島屋。高島というのは地名で、高島屋の創業者も近江商人だという話を、①でしました。高島屋の初代は、飯田 新七【いいだ しんしち 1803-1874 江戸後期の商人。近江商人 飯田家の婿養子となり、高島屋・高島飯田の礎を築いた】という人です。新七は敦賀(今の福井県)の人で、京都の呉服屋に丁稚奉公(でっちぼうこう)していた。反物を背負って、毎日、大津まで三里(12km)の距離を行商をしていたと。
飯田新七

しかし奉公先の店が潰れてね、路頭に迷いそうになった時、真面目に働く新七を救い出して娘婿にしたのが、米屋「高島屋」を営む 飯田 儀兵衛(いいだ ぎへい 生年不詳-1849)です。儀兵衛の出身が高島だった。隣の店が開いたので新七が念願の小さな古着の木綿商を開店したと。それが1831年ですね。新七は、お世話になった儀兵衛への恩から、自分の店に「たかしまや」という名前を付けたんです。
リンク 高島屋資料館

高島屋創業地の碑
所在 京都市下京区烏丸通松原上ル薬師前町

1946年に現在の場所に移転した

1831(天保2)年は、もう江戸末期です。開国というか明治新政府ができるのはさらに34年後の1868年ですけど。老中松平定信の寛政の改革(1787-1793)の質素倹約が終わって商人や地主が力をつけた時期だった。新七は古着の取り扱いをやめて、絹物織物を中心にした呉服商に衣替えすることに決めたと。これが今の「高島屋」の始まりです。

そのあとの二代目(婿 新七を襲名)も初代 新七に劣らずよく働いた。30年後、幕末の1864年に蛤御門(はまぐりごもん)の変がおきた時に京都中に火が回って焼けたんです。新七(二代目)は、呉服などをすべてお寺の土蔵(どぞう)に運び込んで、水を入れた樽も入れて目張りをして、それで商品は無事だったと言われている。それが高島屋の信用を作ったんですね。
土蔵(例)

ところで、私が東京に出てきたときに東京の人が言っていた。格から言うと高島屋の方が、三越よりもずっと上だって。なぜか、私は今もわからない。しかし歴史の長さから言ったら、①②で話したように、三越は江戸時代の初めからありますからね。高島屋はずっとその後の江戸末期からです。けど三越は嫌われていたんだよ。なんでだろう。

 

■大丸
じゃあ大丸の話をします。大丸の創業者は下村 彦右衛門(しもむら ひこえもん)という人です。泉秀樹の本から引用します。
下村彦右衛門

(『商売繁盛 老舗のしきたり』p154から 転載貼りつけ始め)
京都の古着商の家に生まれた彦右衛門は、行商の苦労を重ねた末に、伏見に店を構えた。彦右衛門が18歳の享保2年(1717)のことである。三越の創始者・三井高利が越後屋を開いたのが延宝元年(1673)で、すでに確固とした地位を築いていたから、半世紀近くの遅れをとっての船出だった。

彦右衛門はその店を「大文字屋」と称し、商標として〇に大の字が入った○大マークを用いた。〇は天下を意味し、大は「人」と「一」を組み合わせた文字で、天下一の商人という意味がこめられているというが、こんなところにも新興勢力としての心意気が感じられる。また、日本では江戸時代の識字率は高かったとはいえ、せいぜい7割くらいのものだから、庶民にまで店の評判を「神道させるには簡単な文字のほうが効果的だと考えたのかもしれない。事実、この商標が大文字屋の発展に大きく貢献していた。
(転載貼りつけ終わり)

副島隆彦です。それで彦右衛門は、鮮やな萌黄色に○大マークを白く大きく染め抜いた風呂敷を取引先に配ったと。これを取引先の使用人が重宝して、この風呂敷に荷を包んで背中に背負って江戸じゅうを走り回った。江戸の進出計画の5年前にね。あとは、貸傘(かしがさ)ですね。雨が降った時に、店の前に置いてある傘(これにも○大マークが入っている)を無料(ただ)で貸し出す。これもみんなに重宝されて、人の役に立つと同時に大きな宣伝になった。それで38歳の時に京都から大阪に進出して、それから江戸にまで進出したわけです。
リンク 大丸の歴史
https://www.daimaru-matsuzakaya.com/company/history-daimaru.html
萌黄色の風呂敷(イメージ)

 

■伊藤忠商事と丸紅
大手総合商社「伊藤忠商事」と「丸紅」が、伊藤 忠兵衛(いとう ちゅうべえ1842-1903)です。忠兵衛は近江に生まれて、実家が「紅長(べにちょう)」という繊維小売業だったんです。
伊藤忠兵衛

彼は次男だったから1858年(忠兵衛16歳)の時に家から独立して麻布の行商をやって、忠兵衛が30歳のときに(1782年)、大阪で「紅中(べんちゅう)」という呉服屋を始めた。これが戦後の財閥解体で伊藤忠商事と丸紅に分割されたんです。本から引用します。

(『商売繁盛 老舗のしきたり』p76から 転載貼りつけ始め)
兄・万次郎について15キロも離れた村まで、肩に食い込むような重い天秤棒を担いて行商に行ったというのである。こうして商売を自分の体で覚えた忠兵衛は次男だったため、家から独立して麻布の行商を始めた。安政5年(1858)のことである。この年を「伊藤忠商事」「丸紅」ともに創業年と定めている。

時あたかも諸外国との修好通商条約締結や安政の大獄で、日本国じゅうが大騒ぎになっていたころのことである。それにもかかわらず、忠兵衛は和泉(大阪府)や紀州(和歌山)、さらに長州(山口県)や筑前・豊前(ぶぜん 福岡県)や長崎にまで足を延ばして販路を広げていった。こうして、長崎での外国貿易の活況を目にしたことが、のちに貿易商に進出するきっかけとなったのである。・・・(中略)下関戦争など、政情はきわめて不安定な状態にあった。そんなところにまで、忠兵衛は生命の危険を冒して麻布を持ち込んだのである。
それは「商売」というより「冒険」と呼ぶにふさわしかった。
(転載貼りつけ終わり)

 

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副島隆彦です。最初の白木屋に戻って、①で触れた、白木屋乗っ取り事件のことを話しておきます。

■1954(昭和29)年 白木屋乗っ取り事件
これも有名な事件です。当時経営が不安定だった白木屋を乗っ取ろうと(経営権を獲得しようと)してね、横井英樹(よこいひでき 1913-1998)という博打(ばくち)うちが、1950(昭和25)年から白木屋の買い占めを始めた。横井は買い占め屋として有名な人。私は箱根でこの人を見たことがあります。若い、いかにもホステス上がりのお姉さんとその娘、5歳ぐらいの女の子を連れていた。

しかし名門百貨店である白木屋の経営陣や財界人が反発して、横井と全面対決になった。阪急の小林一三(全国財界の重鎮)も反対した。それで結局、東急の親分の五島慶太【ごとうけいた 旧姓は小林 1882-1959 実業家・政治家・官僚。東急グループの事実上の創業者。長野県出身】が横井に手を貸して、東急グループが白木屋を吸収したんです。

その横井英樹が1979(昭和54)年に買収した、東京永田町の「ホテルニュージャパン」が、3年後の1982年に火災で全焼した。客の寝たばこからの失火なんだけど、スプリンクラーや火災警報器などの整備もされてなくてね。33名も死者を出した。連日、新聞テレビで大ニュースだった。1993年に、横井英樹に禁錮3年の実刑判決が確定して、経営破綻していった。
当時のニューズ記事

 

■東急の「強盗」慶太
この横井が師と仰いだ、東急の五島(ごとう)慶太は「強盗(ごうとう)」慶太とも呼ばれる。強引な手法で次々と企業買収をやって、猛烈な勢いで事業を拡大していったから。
五島慶太

有名なのが「箱根山の戦い」ですね。箱根の開発で、強盗慶太が 堤康次郎【つつみやすじろう 1889-1964 西部財閥の初代 実業家・財界人・政治家。西武グループ(旧コクドおよびセゾングループ)の創始者 滋賀県出身 「ピストル堤」の異名を持つ】と戦った。堤康次郎は、戦後すぐの衆議院議長までした。
堤康二郎

それで実際は、東急が勝ったんです。箱根の芦ノ湖にパイレーツ号という観光船が今も営業しているけど、あれは東急です。小田急(小田急電鉄)、京王線(京王電鉄)、東急線(東急電鉄)。元は小林一三なんですよ。
パイレーツ号

 

■まとめ
だから、これらの財閥になっていく途中で政治家たちとくっついて。お金の貸し方で相当悪いことをたくさんしたんです。まあそれが当たり前ですけどね。ということで、もう終わり。

(終わり)

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