「158」 三井、住友、その他財閥の創業者たちの歴史 ② 三菱 住友 安田

副島隆彦です。今日は2025年11月11日です。

今回は、三井財閥と競争対立している三菱財閥、それと住友財閥の話をします。

 

■三菱
三菱はもう明治になってからの話です。東京駅の前から大手町の方にかけて、あの辺が三菱財閥の本拠ですね。三菱財閥は土佐(今の高知県)から出てきた岩崎 弥太郎(いわさき やたろう 1835-1885 50歳で病死)という男がはじめた。

東京駅から大手町

1877(明治10)年の西南の役(せいなんのえき)で、西郷 隆盛(さいごう たかもり 1828-1877 49歳で死)が追い詰められて殺された。当時の九十九商会【つくもしょうかい 土佐藩が明治2(1869)年に設立した私商社。後に岩崎弥太郎が中心となり、海運業を中心に発展した。九十九とは土佐湾の別名】が、日本の巨額の資金(国家予算の3分の1)を使ってアメリカから武器を買って(買わされて)、それが三菱財閥のもとになった。

創業者の三菱・岩崎 弥太郎(34歳)【大阪市西区の土佐稲荷神社付近で現在の三菱財閥の源流企業である日本郵船を創設した。弟の弥之助とともに岩崎家の中心的人物】が、日本国の大きなお金をもらったんですね。

1861年から65年まであったアメリカの南北戦争が終わって、いらなくなった中古で旧式の大砲や鉄砲と、それからアメリカ政府御用達だった船舶船が200隻ぐらい、三菱弥太郎に買われて日本に来ている。その裏側にロックフェラーがいたというのはよく知られている話です。

岩崎弥太郎

 

■住友
それから住友。住友財閥がどう始まったのか。住友の創業者は、住友 政友【すみとも まさとも 1585-1652 住友関係者は「家租」と称する】です。この人は母親に連れられて京都に移住して、京都のお寺に預けられて仏門に入った。でも45歳の時に還俗(げんぞく)というんですけど、つまり僧侶を辞めて一般人になったんです。

それで京都で薬屋を始めるんですね。薬舗(やくほ)って言うんだけど。薬だけでなく書物、たとえば「往生要集」【おうじょうようしゅう 比叡山中、横川(よかは)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。wikiから】とかですね。弘法大師空海の「即身成仏義」というような漢文で書かれた文章を本にして売った。

住友政友は、もとはお坊さんですから。そしてそれが商売になったんですね。それらを漢文で読む人たちが出現していたんです。

この、住友の創業者の政友も出身は近江なんです。1582年に織田 信長(1534-1582)が爆殺されて【信長爆殺については、副島隆彦の信長・家康の本に詳しくあります。読んでね】、その年から秀吉(1537-1598)が権力を握った。秀吉と、織田信長の他の有力な家臣や大名だった者たちとの間で戦いが起きるんですね。柴田 勝家(しばた かついえ 1533-1583)は、北近江から金沢の方をもらって大 大名(だい だいみょう)でいたんだけど負けるんですね。負けた後、生き残った武士たちの中に商人になっていった人が多いんです。それが近江商人です。住友政友もそのうちの一人ですね。
住友政友


アマゾン『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』

政友の姉の夫の蘇我 理右衛門【そが りうえもん 1572-1636 住友関係者は「業租」と呼ぶ】という人がいて、この人が非常に重要です。理右衛門が19歳の時に大阪から京都に出て、銅吹屋(どうふきや)というのを始めた。要するに銅を生産して銅の塊を売るんです。当時、日本はまだ鎖国してなくて、ポルトガル人やスペイン人がたくさん銅を買いに来ていた。鎖国する前の1580年から1610年ぐらいまでは、貿易ができましたから。大量の銅が日本から東南アジア諸国に売られていったんです。

前掲の泉秀樹の本から引用します。

(『商売繁盛 老舗のしきたり』p106から 転載貼りつけ始め)
銅は、当時、日本のおもな輸出品だった。銅銭や銅製品として大量に海外に売られていたのだが、その銅には銀が含まれたままだった。それは日本に銅から銀を抜く技術がなかったからで、ポルトガル人たちは日本から輸入した銅から抜いた銀を売りさばいても受けていた。

そこで、研究熱心な理右衛門は、堺でハックスレーという南蛮商人から銀を抜く技術のヒントを聞き出し、苦心の末に、独自の「南蛮絞り」の技法を考案した。こうして新技術を開発した理右衛門は銀を抜いた銅の輸出を始めたのである。

理右衛門は恩人のハックスレー(白水)の名を取り、店の名を「白」と「水」をくっつけて「泉屋」としたのである。
(転載貼りつけ終わり)

理右衛門と南蛮絞り

副島隆彦です。それで、ここからがビックリ物語なんだけど。上に引用したように、この蘇我理右衛門が、堺でハクスレーという南蛮商人から銅の中に含まれている銀を引き出す技術を学んで、独自に「南蛮絞り」という技法を考案した。このハクスレーからハクスイ(白水)という言葉が生まれたと。ハクスレーというのはイギリス人の名前だと思います。

銀の値段は、銅より50倍100倍ぐらい高いですから。理右衛門は、銅から銀を取り出す技術を自分で編み出して、銀の塊として売るということを始めたんですね。そして理右衛門の長男坊の友以(とももち 1607-1662)が後に住友家に養子で入って、住友の2代目になるんです。

それでなんと、理右衛門はこの南蛮絞りという最新技術を同業者たちに公開したんです。そうしないと、国内の銀を含んだ銅が海外にどんどん流出し続けて国益に反するからと。それで同業者からも敬われた。白金(はっきん)といったら今はプラチナのことですけど、本当は銅のことでしてね。銅も白金と言われているんです。

東京の港区に白金(しろかね)というところがあるんです。六本木よりもちょっと南側で、もう20年ぐらい前から「シロガネーゼ」とかいうお金持ちの奥様たちが着飾ってブランド品を身につけて歩いてます、という文化として有名になったところです。その白金一帯は高級住宅街で、そこに住友財閥の今の当主も住んでます。都ホテルとか明治学院大学や聖心女子校とかがあるところで、慶応大学も近いです。この白金というのは住友財閥の別名だと覚えてください。

シロガネーゼ

現在の白金

蘇我理右衛門は、泉屋っていう名前のお店を開いて、自分は京都の本店を経営して、大阪店は二代目の 友以(とももち)に任せていた。友以の時代には、銅貿易だけじゃなくて糸や反物や砂糖なども扱う貿易商になる。長崎には中国船も入りましたからね。1610年くらいには、分家が両替商もやって繁栄していった。

この両替商というのが金融業の始まりです。マネー・エクスチェンジャーといって、これはヨーロッパでもそうなんです。両替商が銀行業になっていく。日本もそう。幕末に大きな両替商がたくさんあった。それが近代銀行業になっていったんです。

だから江戸時代の初めには、住友一族の両替商ができていたんですね。それで、住友友以(とももち)の5男 友信(とものぶ 1647-1706)が三代目。友信は苦労した人です。この人がね、1690年に愛媛県の新居浜から南の山の中20キロぐらい行ったところの銅山(別子銅山 べっしどうざん 現在の住友金属鉱山)を発見したんです。

愛媛県新居浜市

別子銅山

この別紙銅山が、住友財閥の大きな土台になるわけです。それ以外にもね。岡山県の佐野道山とか足尾銅山も、もうすでに見つかってたんですね。

栃木県の足尾銅山というのは、皆さんほとんど行ったことないでしょうけど、渡瀬川という川のずっと上流のところです。渡瀬川はずっと下流になると栃木県ですけど、上流は群馬県なんですね。明治時代に足尾鉱毒事件を起こして、何十年も大騒ぎになりました。足尾銅山を経営した古河財閥がドイツのシーメンスと資本提携して富士電機【古河とシーメンスの頭文字をとって、フジ→富士】になった。富士電機から1930(昭和10)年に独立したのが今の富士通です。今日はそのことは話しません。
足尾銅山

 

住友三代目の友信に戻ります。友信が別子銅山を開鉱した。鉱道を開いて生産を始めた。それが元禄時代ですから1690年。産出した銅は瀬戸内海を伝って大阪に運ばれて、それで大変な財産を作って住友の財閥が完成していくんです。でも明治時代の1700年代になるとだんだん銅が取れなくなりましてね。1698年には年間1500トンが取れていたと。ところが20年くらい経つと年間600トンしか取れない。それが幕末の1800年代まで。

別子銅山には当時すでに5000人の鉱夫がいて、彼らのために毎年幕府から米を借りて翌年に銅を納入して精算していたんだけど、その米(買請米 かいうけまい)を打ち切りにするぞと幕府に言われたりした。それを 広瀬 宰平(ひろせ さいへい 1828-1914)という別子銅山の総支配人が老中に陳情に行って乗り切った。5000人の鉱夫とその家族が飢えないようにしたんです。

広瀬宰平

広瀬宰平は滋賀県出身の医者の息子なんだけど、別子銅山の支配人をしていた叔父のところに、6歳の時に養子として迎えられた。そして38歳の若さで別紙銅山の支配人になって(1865年)まもなくのころです。

幕末に、「幕領(幕府直轄領)である別子銅山は新政府(明治政府)が接収して、直接国営企業にする」という命令が出た。土佐藩の川田小一郎という、まだ軍人だと思うけど、銅山に乗り込んできた。大阪の銅吹所(銅の製錬所)や銅倉(どうくら 銅を貯蔵するところ)も、薩摩藩に封鎖されるという事態が起きて、住友の存亡の危機になったんですね。住友最大の危機と言われています。

これも広瀬宰平が一生懸命、談判交渉して乗り切ったんです。「政府が銅山の経営やってもうまくいかない。私たちにやらせた方がいい。銅は住友にお任せください。必ずや国の利益に奉仕します」とね。それで別子銅山の経営権は、従来通り住友が持つことになった。

さらには、大阪本店の重役たちが苦しさのあまり「住友を10万両でもう売り払え。別子銅山を売り払え」と言い出した。身売りしようとしたんですね。広瀬はそれを阻止して、フランス人のラロックという技師を月収600円で雇った(広瀬自身の月給は100円)というから。

そうして最新式の採鉱法(鉱物を採取する方法)で、ダイナマイトや蒸気機関、最新式のポンプとかを導入して、鉱脈をさらに掘り進んだんですね。そうしたら新しい鉱脈が見つかって、600トンまで減ってた年間産出量を1万トンまで増やしたようです。明治10年ぐらいには年間1万5000トン取れるようになってたと。大増産に成功したんです。

だから、この広瀬宰平が偉いんですね。そしてそれが住友工業という形で戦後も生き延びた。そういえば30年前の株式市場では、住友工業のことを「別子」と呼んでいましたね。この別子銅山が住友財閥の本当の基本なわけです。

それでも、ずっと掘っていても、戦後になるともう銅の値段も安いし、もっと他の産業がいっぱい発達しましたから。1973(昭和48)年、私が大学に入った年だから、52年前ですね。別子銅山は閉山になりました。今は観光客用にいろんな採掘場をトロッコ鉄道みたいなので通してあって、それらを見学するコースになっているはずです。

 

■悪(ワル)のオルコック
江戸時代の後期である天保年間(1830-1844)に、初代駐日総領事(大使)としてイギリスから来たのがラザフォード・オルコックです。これが悪い男でね。こいつと両替商●●とがグルになって、日本の小判を全部持ち出したんです。天保小判の交換レートの差を利用して。
天保小判

ラザフォード・オルコック

金と銀の交換比率が、世界基準では1対15になっていた。ここまで銀が落ちてたのに。日本は1対5でやってたんですね。この交換比率の隙間をついてオルコックが1ドル銀貨を日本の金貨と交換してたくさん持ち出して。

金貨を溶かせば、いや小判を溶かせば金が取れますからね。それで悪いことをしたんですよ。三井の両替店がそれに加担したとまでは、私は言わないけど。この天保小判の交換レートが3倍になるという話を、前回①でも話をした 三井の 三野村 利左衛門が聞いて、素早く天保小判を買い集めた。そして3倍になってから売ったんですね。こういうことをやって三井財閥ができて上がっていった。だから三野村利左衛門はね、立派な男だったと思うけども(-“-)。
三野村利左衛門(再掲)

利左衛門は、幕府からお金を千両箱で何箱も要求された時に、要求通りに幕府にお金を渡して。 幕府の、オランダとかイギリスからの戦艦の購入費用とか、小判(金貨)が流出したことなどの穴埋めとかのために、御用金として豪商に献金させたわけです。強制的に。

利左衛門が偉かったのは、薩長側にもお金を見せつけたんです。幕府側と薩長側の両方に、お金を5万両10万両ぐらいずつ貢いだ。やがて権力を握った薩長側が三井に恩義を感じているうちに、御用商人として素早く入り込んでいくわけですね。そして財閥になっていった。

この時に幕府側にだけ御用金を献上していた両替商は、幕府や幕府側の大名たちが負けちゃったから貸したお金も全て焦げ付いた。それで消えていなくなった両替商もたくさんいるんです。三井の利左衛門が、明治政府に上手に取り入ったということですね。

 

■安田財閥
明治新政府が財政を賄うために、明治初(1868)年に日本で初めての全国適用の政府紙幣である「太政官札(だじょうかんさつ)」というお札を300万両発行した。でもまだ新政府に信用がないから、その紙幣は3分の1の額でしか取引されなくなっちゃって。

太政官札

それで明治3(1869)年に明治政府が怒って、「額面通り通用せよ」という命令を出したんですね。命令を布告する前日に、その情報を知って太政官札を安く買い漁ったのが、安田 善次郎(やすだ ぜんじろう 説明は下↓】なんです。そうやって太政官札の買い占めで儲かった。一晩で3倍になったんだから。それで急成長していった。東京大学に安田行動を寄付したことで有名です。

だから安田財閥をつくったのは、安田 善次郎【やすだ ぜんじろう 1938-1921 太政官札・公債などの取引、官公預金などで蓄財し、東京屈指の金融業者となる。明治9年第三国立銀行の創立に参加、明治13年に安田銀行を開業。生命保険・損害保険業にも進出した】です。

安田善次郎も一番最初はね。今の日銀の前に看板を出してですね。板を出して板の上で両替をやっていたんです。古いお金と新しいお金を替えるとか、本当に両替をしてたらしいしてたんですよ。板のことをバンコというんです。

ベルギーのアントウェルペン(アントワープ)やブルッヘ(ブルージュ)で始まった。ユダヤ商人たちが、板の上で両替をしてたんですね。お金、コインをずっと並べて売り買いしていたんです。そこから両替商というのが始まってるわけで。それがバンク(銀行)になっていく。
ベルギー

安田善次郎に戻るけど、この人も右翼に刺し殺されてますね 。1921年にね。

安田銀行は、昭和23(1948)年に富士銀行になって、平成12(2000)年には富士銀行と第一勧業銀行と日本興業銀行が合併して、みずほ銀行になっちゃった。

【安田善次郎が明治26(1893)年につくった帝国海上保険(株)➡安田火災海上保険(株 昭和19年)➡損保ジャパン(株 平成14年)。

明治27年につくった共済生命保険合資会社➡安田生命保険相互会社(昭和22)➡明治安田生命保険相互会社(平成16年)になった】

 

三井、住友、その他財閥の創業者たちの歴史 ②おわり ③につづく

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