遅れて来たニュータイプの左翼論客、ブレイディみかことは何者か?(その2)

相田英男 投稿日:2020/08/12 07:59

2. 私のパンクロック雑感(と、思って書いたら、全くそうでは無かった・・・)

もしかしたら、ブレイディさんの本に触れたのがきっかけで、洋楽ロックを全く知らない方が、パンクの曲を聴いてみたい、などと、思うのかもしれない。それならば、やはり、セックス・ピストルズのアルバム “Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols”(邦題:勝手にしやがれ、1977年)を聴くのが良い。これだけで、まずは十分だ。後はお好みで、少しずつ探せばいいだろう。

しかし、単にこのアルバムを聴くだけでは、アルバム発表当時の、1970年代後半の雰囲気を味わうには、少し足りないかもしれない。そのためには、ピストルズの前に、次の2枚のアルバムをじっくり聴くのを薦める。

・キング・クリムゾンのファーストアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」(1969年)
・レッド・ツェッペリンの「レッド・ツェッペリンⅣ」(1971年)

「何を馬鹿な事を言うのか、お前は?」と、言われるだろうが、私は大マジだ。ニューウェーブを理解するには、オールドウェーブを知らなければならない。オールドウェーブとは言うものの、上の二つのバンドは、活動の全盛期の時期には、彼らの事を「アート・ロック」と呼んだのだ。「芸術の域まで高められたロック」である。

楽器の演奏技術と音楽の深みを、極限まで高めて作られたロックのアルバムが、この2枚である。後者に入っている「天国への階段」は、当時のベルリンフィルの指揮者だった、あのカラヤンが聴いた際に、「完璧な音楽だ」とまで言わしめた(本当かどうかは定かで無い)、超名曲である。

この2枚を先に聴き込んでから、「勝手にしやがれ」を聴いてみれば良い。余りの内容の、レベルの違いに、誰もが衝撃を受けるだろう。「何でこんな事になったんだ!?」と、頭を抱える事は、必定だ。ピストルズがデビューした時には、みんなそう思ったのだ。それ以降、「アート・ロック」は完全に死に絶えた。アホらしくなって、若者は見向きもしなくなった。

何で大衆音楽であるはずのロックンロールが、ごく短い時期ではあったが(1967〜1975年位)、英国で「アート」にまで格上げされ、そして、消えたのか?その理由は、おそらくは英国の「格差問題」にある、と私は思っている。

「教養としてのビートルズ」という、どなたかが書いた新書本が、最近出た。そこに書かれていたのだが、ビートルズの功績の一つは、音楽を通じて英国の階級社会の切り崩しをやった、という事だ。私は英国に行った事がないので、実情はわからないが、英国の社会では歴然たる格差と階級が存在しており、人々はそれを意識しながら、自分がどの階級に属しているのかを自覚しながら生活している、という。文化にも「格差」があり、ロックンロールなどは、下層の労働者階級が聴く音楽だ、と1950年代の英国ではみなされていた、という。

しかし、ビートルズがデビューした後で、その見方が大きく変化する。最初は、若者に受けるだけの単純なポップスに過ぎないと、大人達は思っていた。が、ジョン・レノンと切磋琢磨しながら、ポール・マッカートニーが作り出した「イエスタディ」、「エリナー・リグビー」、「ヘイ・ジュード」等の曲の美しさには、クラッシックの音楽家達も一目置かざるを得なかった。ジョンもバンドの後半期には、両親に見捨てられた自身の幼少時代の辛い思いを、曲に込めるようになった。激しくも内省的なジョンの歌は、それまでのポップス曲に無い深い感動を、聞き手に与えるようになった。

1960年代後半には、ビートルズの活躍を間近で見ていた英国の少年達の中で、楽器の腕に自信がある者達が集まり、ビートルズを超える高い演奏能力を持つバンドが、現れ始めた。クリームやムーディ・ブルース等がそうだ。更に、米国からロンドンにやって来た、ジミ・ヘンドリックスという無名の黒人青年は、それまで誰も聴いた事がない、激しく、華やかなギターを弾き鳴らして、英国の若者に衝撃を与えた。

ジミ自身は数年後の1970年に夭折するが、ジミのギター・スタイルを消化し、基本フォーマットとして身につけた英国のバンドから、レッド・ツェッペリンやディープ・パープル等の、正統ハード・ロックバンドや、クリムゾン、ELP等の、捻りを加えたプログレッシブ・ロックバンドが出現し、ロックの黄金期を迎えることになる。彼らの別名を「アート・ロック」と呼ぶのだ。

何で当時の若者達は、ロックを「アート」まで高めようとしたのか?音楽好きの楽器オタクが、単に集まっただけだから、とは多分違う。それは「俺たちを、もっと、人間らしく扱え!」という叫びだと、私は思う。

下層階級に暮らす人間でも、美しい物に感動したり、何かをきっかけで深い思索に捉われたりする事はある。「安っぽい、軽い文化の中だけに、俺たちを閉じ決めておくのは、もうやめろ」という、上流階級への反発が、貧しい彼らにはあったのだ。イアン・ギランが、ライブの「チャイルド・イン・タイム」の演奏で、鬼のようなハイトーン・ボイスで叫び、キース・エマーソンがオルガンを日本刀で斬りつけたりするのは、「象牙の塔に篭った連中が聴いてる上品な音楽よりも、俺達の方がレベルが高いぜ」、と見せつけているように、私は感じる。

しかし、いくらギターの速弾きが上手くなろうが、アルバムの曲の深みが増そうが、そのリスナーである貧乏な少年少女達の、現実の、惨めな生活が変わる訳では、全く無かった。バンドのプレイヤー達や、レコード会社等の取り巻き連中は、アルバムのヒットや満員のコンサートやらで、大層な金を儲けただろう。が、彼らのファンであるべき若者達は、相変わらず下層階級のままだった。真似してバンドをやろうにも、ギターは高くて買えないし、速弾きソロの技巧も、聞き真似で、たやすくコピーできるような代物では、最早無くなっていた。

「何で今のレコード屋で売ってるのは、あんなプログレの、変ちくりんな曲ばっかりなんだ?楽器だって、あそこまで上手く弾けるならないと、レコードとか作れないのか?これが、俺達の聴く音楽なんて、どう考えてもおかしいぜ?!」と、若者達が怒っても仕方がない状況だった。かくして登場した、パンク・ロックによって、「アート・ロック」は絶滅するに至った。あまりにあっけない終わりだった。

そのパンク・ロックが興ったのは、英国より先に米国だった。60年代後半に流行ったサイケデリック・ロックの流れを受け継ぐバンドが、ニューヨーク・パンクとして1970年代前半に活動していた。当時のロンドンに、洋服店を経営していたマルコム・マクラーレンという青年がいた。彼はニューヨークを訪れた際に、ニューヨーク・ドールズというバンドを見かけて、気に入り、バンドのマネージャーとして関係を持った。そのバンドは直ぐに解散してしまうが、ロンドンに戻ったマルコムは、自分の店にたむろしていた少年達を集めて、よく似たスタイルのバンドに仕立てて、1975年にデビューさせる。これこそが、セックス・ピストルズだった。

何というか、あまりにも、テキトー過ぎる経緯であったのだが、英国ロックシーンに突如出現したピストルズは、当時のオールドウェーブのバンド関係者や、上流階級の連中達を、戦慄の渦に叩き込む一方で、貧乏な若者達からは熱狂的な支持を集めた。しかしその活動の絶頂期だった1978年に、カリスマ・ボーカリストのジョニー・ロットンが、米国ツアー中に脱退を表明し、バンドは早々と分解してしまう。その少し後に、ベースのシド・ビシャス(ロットンの幼なじみだった)が、恋人のナンシー・スパンゲンと一緒に、ホテルで変死するという、スキャンダラスな事件が起きて、騒ぎにもなった。

これ以降のパンク・ロックの動向と、音楽シーンに与えた破壊的な影響については、私には詳しく書く自信がない、というか、書く資格が無い。ブレイディさんのブログや著作を読まれた方が、はるかにわかりやすく、役に立つと思う。

ただ、SNSIのメンバーとして、副島先生が以前に出版されたある本の中から、一文を引用して、私のパンクについての説明を終えたい。短い文章だが、パンクロックに関する真実が、あからさまに描かれている。

(引用始め)

わたし(ヴィクター・ソーン)はこれまであらゆる種類の麻薬を試してきたので、それらがいかに人体に悪影響を及ぼすものか知っている。わたしと同じ経験を持つ人なら、きっと同意してくれるだろう。麻薬がもし、潜在的に“問題児”となる人々の更生の努力を蝕む道具として使われるとしたら、どうだろうか?

つまり、こういうことだ。一九六〇年代末期、大衆の抗議運動が支配者達の計画を崩壊させないほどの脅威となったとき、彼らはどうしたか。一九六〇年代、マリファナの使用が広く流行したことは誰もが知っている。だが一九七〇年代初頭にかけて、より強く危険な麻薬が登場し始めた。

数年の間に、愛すべきフラワーチルドレン(反戦平和運動家たち)は、覚醒剤常用者や、麻薬密売人や、ペテン師に変わり果て、誰もが惰性に流され、楽な金儲けを追いかけるようになってしまった。

(中略)

さらなる例は、一九七〇年代中頃から末期にかけて起こった。イギリスのパンクロック・ムーブメントである。当時、イギリス経済は最悪の状況にあり、多くの怒れるティーンエイジャー達がパンクロックという新しい音楽に熱狂的に触発され、政治批判を行った。セックス・ピストルズ、クラッシュ、ジェネレーションX、スージー・シオ&バンシーズといったグループを通じて、このムーブメントはイギリス社会のエリート達の脅威となった。

これを阻止するために、元ニューヨーク・ドールズのギタリストで、おそらくロック史上最も悪名高い麻薬常用者ジョニー・サンダース(彼はペラペラと真相を喋った)と、ナンシー・スパンゲンがイギリスに送り込まれた。ナンシー・スパンゲンはセックス・ピストルズのメンバー、シド・ビシャスの恋人だったが、後に謎の刺殺体となって発見された。サンダースは、セックス・ピストルズを「死のドラッグ・ツアー」へと誘い、一方ナンシーは哀れなシドに目をつけ、ものにした。ジョニー・サンダースが鼻にかけ嘯いていたとおり、わずか数ヶ月のうちにイギリスのパンクロッカーは、一人残らず麻薬中毒になった。

ジョニーとナンシーはいずれも文無しだったが、ヘロインだけはいくらでも手に入れることが出来、会う人間全てに渡していた。二年もしないうちに、セックス・ピストルズは解散し、ナンシーとシドは死んだ。パンクロックは、より安全で、清潔で、革命よりも金儲けを目指すニューウェーブ・ミュージックへと姿を変えていった。

ここにも、まさにヘーゲル弁証法が作用している。
テーゼ(正)=危険で、政治的なパンクロック、アンチテーゼ(反)=破壊的で、容易に手に入るヘロイン、ジンテーゼ(合)=清潔で、安全なニューウェーブである。

(引用終わり)

“ザ・ニュー・ワールド・オーダー・エクスポーズド・バイ・ヴィクター・ソーン”(邦題:次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた:副島隆彦 翻訳、責任編集、2006年 徳間書店)より引用

(続く)