遅れて来たニュータイプの左翼論客、ブレイディみかことは何者か?(その1)

相田英男 投稿日:2020/08/10 15:36

1. ああ、この人には、私は勝てない・・・

相田です。

私にしては、気付くのが遅すぎたと思う。

この方の名前だけは、以前から知っていた。が、単なる雑多のライターの一人に過ぎないと、全く関心を持たなかった。しかし、今の私の心中は、正直に言って、かなりの敗北感で打ちのめされている。

ブレイディみかこさん、という、英国在住の女性ライターがいる。数年前からエッセイを出版されて、ベストセラーにもなっている。ネットで検索すると、20年前頃から既に、数多くのエッセイを、御自身のブログや雑誌で書かれている。著作本も10冊くらいあるようだ。今になって知った私は、自分の不明を恥じている。

彼女の経歴を見ると、福岡の生まれで、修猷館高校(しゅうゆうかんこうこう)の卒業だという。関東以北の方はピンと来ないだろうが、修猷館高校とは、福岡県で最も偏差値の高い、秀才が集まった県立高校である。私は実家が近いので、事情がよくわかる。

関東と違って九州には、私立の頭の良い名門校の数は少ない。福岡の久留米大学附設高校(孫正義、ホリエモンなどの濃いキャラの卒業生がいる)と、後はあのラ・サール高校(こちらは全国的に有名)くらいだろうか、私立の進学校は。なので、九州の頭の良い高校生のほとんどは、県立の進学校に通うことになる。副島先生が、教員の一人を殴って退学したという、鹿児島の鶴丸高校(つるまるこうこう)も、名高い公立の進学校だ。そして、修猷館高校とは、人口100万人を超える大都市福岡の中でも、頂点の進学校なのである。地元の旧帝大の九州大学に、毎年100人以上を合格させる、恐るべき高校だ。ブレイディみかこさんは、その卒業生である。

ちなみに、熊本県には県立熊本高校という、普通に授業についてゆけて学年の平均レベルの成績であれば、軽く九州大学に合格するという、修猷館と同等レベルの、旧帝国大学への附属高校ともいえる、凄い学校がある。その熊本高校よりも偏差値が2、3点だけ低い、済済黌高校(せいせいこうこうこう、本当にこういう名前である)という、県立の名門進学高校が、熊本にはある。テレビによく登場する、コメディアンのクリームシチューの2人は、この済済黌高校の卒業生である。上田晋也が司会で見せる、軽やかな会話の切り返しや、「全力脱力タイムズ」での、有田哲平の皮肉の効いた、タイムリーな時事コントのネタも、彼らの基礎学力の高さが理由だと私は思う。そんなことを彼らは、絶対に、ひけらかしたりはしないのだが。

私がブレイディさんに敗北感を抱くのは、私の卒業した高校の偏差値レベルが、修猷館に遥かに及ばないから、では、全く無い。本当に。

さて、その彼女は、修猷館に合格するために、別に頑張って勉強した訳では無いらしい。彼女の通った中学校は、余り品の良く無い、不良がたむろするような学校だった。それで、家から近い別の高校に通うつもりだった。が、中学の担任の先生が自宅に何度も通って、修猷館を受験するように、父親を熱心に説得したという。それで受けたら、あっさりと合格してしまった、と、いうのだ。

ここから先が、だんだん信じ難い話になるのだが、合格したその名門校に通うのに、家からかなり離れていたので、通学の定期代が彼女の家庭では出せなかった。しかたがないので、彼女は交通費を稼ぐのに、放課後に学校で禁止されていたアルバイトを、自宅の近所のスーパーでやっていた。その時に時間が無くて、制服の上にエプロンを着て店に出ていたのを、客に見られて学校に通報された。当然、彼女は先生にこっぴどく怒られた。

彼女は「家にお金がないので、定期が買えません」と訴えたが、先生は「こんな高校に通う生徒の家庭が、交通費を出せない筈が、ある訳ないだろう。遊ぶ金が欲しかったんだろう、嘘を言うな!!」と、全く信じなかったという。それ以来、学校に幻滅した彼女は、真面目に勉強する気が失せたのだった。

はっきり言って、彼女の家庭は裕福ではなかった。父親は建設業の現場労働者で、母親は専業主婦だったらしい(昔はそれが普通だった)。当然だが、親の稼ぎは余り無い。なので、通った中学校も、不良が集まる柄の悪い学校だったのだ。その中学の先生が彼女を、修猷館を受験するように強く説得した、というのは、彼女の地頭(じあたま)が相当に良かったという事だ。柄の悪い生徒の中でも、彼女は光っていたのだろう。

彼女は幼少の頃から、自分の家庭が普通よりも(とても)貧乏だという現実に、直面していた。さらに彼女は、人並み以上に多感で、(不幸にも)考える能力がとても高かったのだ。余り物事を深く考えない子供ならば、辛い状況でも、妥協して周りに流されて、それで済んでしまうだろう。しかし、彼女はそれが出来なかった。「何で世の中には、金持ちの家と、(私のような)貧乏人の家があるのだ?」と、真剣に考え続けた。そんな中で、彼女の唯一の救いの道になったのが、中学時代に出会った、英国パンク・ロックの、セックス・ピストルズだったのだ。

偶然にも私は、彼女とほぼ同じ世代である。姉の影響であるが、私も彼女と同じ時期に、英国ロックを聴き始めた。自慢では無いが、私の実家も同じくらい貧乏だった、と、思う。大学時代に奨学金を借りる手続きで、私が地元の税務署に行き書類を貰うと、そこに書かれていた父親の収入を見て、愕然とした記憶がある。よくこんな収入で、息子を大学に出せたな、と、素直に感動した。昔は国立大学の学費が安かったから、辛うじて出来たのだと思う。私の実家が田舎だった事も幸いした。近所には、他に目立ったお金持ちの家庭は無かったから。福岡市内などに住んでいたら、周りにどうしても目が行き、劣等感に苛まれていたかもしれない。

しかし、私はパンクを全く聴かなかった。パンクが始まった以降の1980年代からのロックをニューウェーブと呼ぶが、今でも私が聴くロックは、1975年より前のオールドウェーブだけである。ピストルズはおろか、クラッシュ、オアシス、ニルバーナ、スミス、などの、80年代以降のバンドは、全く聴かなかった。今もそうなのだが。

自分では単に、「あんなの興味が無い」と馬鹿にしていたが、本心はそうではない。聴く事で、自分の中にある、偏ったこだわりが崩れてしまうのが、恐ろしかったのだ。今ではそう思う。

パンクロックとは、単に汚い格好の不良が集まって、怒鳴り散らす音楽だ、と、ロックに興味が無い人は思うだろう。実はそうではない。パンク・ロックは、音楽ですら無い。音楽の体裁をまとった、社会体勢への破壊運動である。しかし、ピストルズが活動した当時は、日本の評論家連中で、パンクの本当の恐ろしさを理解し、語れる者は、誰もいなかった。渋谷陽一を含めても。単に、流行り物の、ちょっとイケてる音楽ジャンルの一つだぜ、という認識にしか過ぎなかったろう、日本では。

断言するが、1975〜80年頃の時期に、私の周りで、パンクロックに真剣にはまっていた連中は、真正の不良か、心が病んでいるか、家庭環境に大きな問題があるか、の、どれかだった。私の中学時代の知り合いで、ピストルズを聴いていた一人は、大学時代の私が、実家に帰省した際に会うと、「借金の取り立てでくさ、毎日、大分(おおいた)まで、車で高速ば往復せんといけんとやけん。えらいきつかとばい」とか、愚痴をこぼしていた。そんな奴ばかりが、当時はパンクを聴いていたのだ。

子供の私には、パンクロックは余りにも、汚すぎ、恐ろし過ぎる物だった。しかし、ブレイディさんは、全盛期のピストルズが発するメッセージをそのまま理解し、受け入れて、少女時代の心の拠り所としたのだった。そうせざるを得ない環境に、彼女はあった。大人になっても、彼女はその信念から離れる事なく、日々研鑽を積みながら、めげずに歳を重ねて、遅咲きのライターとして表舞台に立つようになった。

こんな人が、自分の同世代から現れた事に、私は素直に感動する。白旗を上げざるを得ない。

(続く)

相田英男 拝