或る音楽評論家との別れ

相田英男 投稿日:2022/04/22 21:52

松村雄策さんが亡くなったニュースが、しばらく前に流れた。数日であっという間に、ネットから消え去ったのが、少し悲しかった。

松村さんは、作家(評論家)といえばそうなのだが、洋楽のファン、特にビートルズの大ファンで、そのまま生涯を終えた人、というのが正解だろう。渋谷陽一の友人で、雑誌「ロッキングオン」の創刊メンバーの一人だった。

その雑誌の中で、松村さんと渋谷の二人が、長年途切れることなく、延々と対談をやっていたのは有名だ。私が時々ここで書く対談文は、二人の対談のもろのパクリである。ぼやきの広報ページに東芝の原発の話を書いてくれ、とSNSIから頼まれた時に、私は、普通の論説文だと、いつまで経っても書き終わりそうにない、と感じた。それで苦肉の策で、松村さんと渋谷の対談を思い出して、あんな感じでやってみようと思った。そうしたら、あっさり書けたのだ。それ以来、私は渋谷と松村さんには恩義がある、と、勝手に思っている。

松村さんのエッセイはほとんどが、ビートルズの関係である。それでも、似たような内容であっても、毎回きちんと読ませる文章であって、40年もの間彼は書き続けた。それだけでも価値がある、と私は思う。

今でこそビートルズの曲は、日本でも聴くのが常識のレベルに広まっている。しかし、ビートルズが解散する前の60年代は、日本では一般に全く認知されていなかった。いい大人は全て、ビートルズのアンチだったのだ。俳優の高島忠夫が、夫婦で来日コンサートを観た感想で、「あんな失礼な態度の連中は見た事がない」と、言っていたそうだ。その記事を読んだ子供の頃の私は、「貴重なコンサートを見た後で、その言い草は何だ?おまえのコメントの方がよっぽど失礼だろう?」と怒りを感じた。

今では彼の息子(長男)の方が、キング・クリムゾンの大ファンであると公言し、音楽雑誌で時々語っていたりする。それを見ると、何ともいえない理不尽さが、今でも私の心中に込み上げてくる。「あんたは高級オーディオセットに囲まれて、ゆっくりソファーに座って、クリムゾンを聴いてるんだろうな。俺は自分の、なけなしの小遣いで買ったLPレコードを、知り合いの家に持って行って、46分のカセットテープにダビングしてもらって、実家にあったモノラルの、ボロいラジカセで、畳に寝っ転がって曲を聴いてたよ。カセットテープがノーマルタイプじゃなく、クロムテープだったのが、唯一の俺のこだわりだったよ」という風に。単なるひがみなのだが。

音楽を聴くことは(人によるのだが)単なる楽しみではなく、「どうしようもないと日々感じる、重たい現実を、綱渡りでもいいから、ぎりぎりになんとか、乗り越えてゆくための力を与えてくれる」ものである。この事実を、子供の頃の私に、最初に、言葉で教えてくれたのが、松村さんのエッセイでは、なかっただろうか?

昔の洋楽の評論文も、変な知ったかぶりをかますか、適当なウソを並べるのが大半だった。まともな内容は少なかったように思う。前にも書いたのだが、クリムゾンのアルバムタイトル自体が「ポセイドンのめざめ」「太陽と戦慄」「暗黒の世界」である。「クリムゾン・キングの宮殿」も、よく考えたらおかしい気がする。courtとは「宮殿」ではなくて、「法廷」などの裁判に関する用語ではないのか?歌詞の内容から推測すると。結局、まともなアルバムタイトルは「リザード」「アイランズ」「レッド」だけだという。全てカタカナ単語の一言である。日本語の直訳ですらない。レベルがわかるよ、全く。

これは断言できるのだが、現在の日本で、きちんとした洋楽の評論が書けるのは、ブレイディみかこさんただ1人である。特に、70年代後半からのパンク以降、ニューウェーブから現在までの評論文が、きちんと書けるのは、彼女だけだ。

60から70年代のオールドウェーブロックについては、他の評論家でも何とか書ける。理由は簡単で、この時代のロックバンドは、他のバンドがやっていないことばかりやっていたからだ(日本語がおかしい)。それまで、未だかつて誰も聞いたことがない音楽を(ついでにLPアルバムのジャケットデザインを)、工夫して編み出して、演奏する(表現する)。他人のサル真似など絶対に、絶対に、しない。それこそが昔のロックの、オールドウェーブの真骨頂である。

大学時代に、キング・クリムゾンが、誰も客がいない福岡の会場で熱演した話を、私に教えて頂いた女性の方が、しみじみ語っていた。「昔のロックは、誰もそれまでやっていない音楽をやるものだったのよね。それが今では、誰かがやっているのと似たような、同じ音楽をやるのがロックになっちゃった。時代が変わったのよね」と。

なので、昔のロックについては、自分が感じた印象を単に綴るだけで、割と簡単に文章が書けるのだ。手間ミソであるが、私がジャックスとクリムゾンで書いたように。だって、早川義夫のように歌う人など、他には誰もいないではないか。(あれを歌だといえるかどうかは、意見が分かれる処だろうが)私は今まで、ジャックスの音楽がクリムゾンと同じ方向性で作られている、と書かれた評論を、不勉強かもしれないが、読んだ事がない。ジャンルが違うのでリスナーが被らかったのだろうが。「なるほど」と気付いた私は、あの文章がすらすらと書けた。

一方で、ニューウェーブロックの評論は難しい。どれも、どっかで聞いたような曲ばかりなので、すぐに内容が尽きて、文章に詰まってしまうのだ。例に出すにはどうかと思うが、レニー・クラビッツなどは、見た目も含めて、ジミヘンとストーンズとツェッペリンを足して、三で割っただけだ、と書いてしまえば、それで終わってしまうのではないのか?(聴かないで書いている・・・・)それ以上は、何とも書きようがない。あえて文章を続けるならば、音楽の内容とは無関係の自分の個人的な話を、無理矢理にこじつけて、延々と書くしかなくなる。

私がロッキングオンを自分で買って読み始めたのは、80年代に入ってからだった。そこで書かれている英国の新人バンドの評論を読んでも、私の頭に全く入って来なかった。バンドの情報よりも、筆者が自分の身近な出来事をひたすら語るだけ。そんな文章ばかりが、ニューウェーブの曲の評論だった。なので、松村さんが毎月載せていたビートルズのエッセイと、後は、まだ若かった市川哲史(いちかわてつし)が、時々書いていたプログレ漫談文くらいが、当時のロッキングオンで、私の読める箇所だった気がする。

ニューウェーブが似たような曲ばかりとはいえ、当時の(英国の)若者達の支持を受けてはおり、流れた時代の世相を映してはいる。音楽の内容の差が小さい分、社会情勢の影響はむしろ強いだろう。しかし、それゆえに、日本人が、ニューウェーブロックと英国の社会情勢を正しく分析して、文章にするのは、相当に難しい。単に音楽が好きで、英語も読めて、文章もそれなりに書ける、では、ニューウェーブ評論にはならない。その曲が流行る彼の地の状況、政治や経済状況がきちんと理解できて、わかりやすい文章にして伝えなければならない。

一方で、日本人の音楽評論家のほとんどは、単なる音楽ファンの延長でしかない。英語が出来たとしても、英国の政治経済状況を調べて理解し、語れる音楽評論家など、誰もいない。そりゃそうだろう。

仕事の都合でロンドンに在住し、現地の生の情報が送れる、だけでも、多分ダメだ。大手企業の駐在員(又は大学教員)、並びにその奥様や家族の方々では、無理である。ロンドンの街中での、狭いコミュニティの生活では、低所得者層の生活が肌感覚でわかる、までにはおそらくは行かない。

ニューウェーブロックを語るには、リスナー達が生活する、現地の下層レベルの環境で、長年生活した経験が必要だと思う。でも、外国の下層階級に溶け込んだ日本人で、きちんとした日本語の評論文が書ける方は、まずいないのではないのか。

そのように考えたら、ブレイディみかこさんだけが、正しくニューウェーブロックの評論ができる理由がわかるだろう。

彼女は音楽ファンであり文章が上手いだけではない。彼女は(おそらくは何処かの大学の夜学などで)大学院レベルの経済学を学んでいる(公言はしないが)。政治についても、恐らくは独学で、本に書ける程度まで勉強している(実際に本を出版している)。なので、ブレイディさんには、政治、経済について正しく語る実力がある。さらに彼女は、言わずもがな、貧乏な(私と同じ)家の出であり、ブライトンという郊外の街で、下層階級層として今でも生活している。ニューウェーブを語るのに文句無し、である。

私は、ブレイディさんの書いた音楽エッセイを読みながら、「ああ、モリシーとはこんな人だったのか」と、しみじみ感じた。それまで、ロッキングオンに書かれたスミスの記事を、何度読んでも全くピンと来なかったのが、初めて腑に落ちた。ブレイディさんと他の論者では、文章の説得力がまるで違うのだ。

パンクやニューウェーブロックは、実は、尖ったセンスの、浮世離れした人間だけが聴くような、取っ付きにくい、偏った音楽ではない。普通の人でもわかるように、平易な文章で、正確に内容を語る事が出来る。そんなことが出来るのを、ブレイディさんの文章から私は初めて知った。

ただし、そんな文章を書くのには、相当な知性の持ち主ではないと無理である。アホではパンクを語れないのだ。残念な事に。単に文章の中でツッパるだけが関の山である。「俺はこんなにイケてる曲をいつも聴いてるんだぜー、イエイ」てな感じで。(こんな奴は流石にいないかもしれんが)

まあ、とにかく、だ。音楽評論家の中で、やたらとツッパる文章を書くのは、全てアホだとみなしてよい。相手にする必要などない。

ぶっちゃけ言えば、洋楽の評論については、ブレイディさんが一人で書くだけで十分なのだ。彼女とその他大勢では、内容のレベルが違いすぎる。他の十ぱ一絡げ(からげ)の評論家などは、全てAIに替えてしまえ。それで全く問題ないではないか。

私は真剣にそう思う。

でも、そうなったらなったで、日本の洋楽評論家の全員が失業してしまう。それはそれで問題か・・・・・・・。なので、武士の情けかどうかは知らんが、ブレイディさんもあまり、音楽の文章を積極的に書こうとしないようだ。誰よりも上手く書けるのに、だ。

「まあ、あの人達にも、生活があるやろうけんねえ」という事なのだろう。

松村さんのエッセイはどれも、気負いやツッパりが全く無い、優しい平易な文体である。彼の訃報のニュースのコメントで、誰もが「ロッキングオンの文章で一番理解しやすいのが松村さんだった」と記していた。洋楽の入門者への優れた手引きとして、松村さんの一連の文章の価値は、薄れずに残り続けると思う。

松村さんの推しは、バッドフィンガー、ニック・ロウなどの優しい、軽いポップスが殆んどだ。バッドフィンガーは、ビートルズが作ったレコード会社のアップルで活動していたのだが、リーダーのピート・ハムが首を吊って自殺してしまうという、悲劇で終わったバンドだ。きれいな曲を作りながらも、心に深い深い闇を抱えていたのか、というやるせなさを、誰もが感じた出来事だった。

ハリー・ニルソンという歌手が昔いて、「ウィズアウト・ユー」というヒット曲を持っている。実家で姉がしょっちゅう聴いていたので、私もカラオケで歌えるレベルまで、曲を覚えてしまった。この曲は、元はバッドフィンガーの曲だった。私は一度だけ、ラジオで、バッドフィンガーのオリジナルが掛かるのを聴いたことがある。

ニルソンの、「さあこれでヒットを飛ばしちゃるぜ」といった、ウケ狙いのあざとい熱唱とは全く違い、ピート・ハムの歌う「ウィズアウト・ユー」は、恋人と別れた悲しみを抑えようとして、それでもダメだ、という辛さが淡々としみる曲だった。切ない気持ちになるのは、ピート・ハムの方だと思う。

松村さんのエッセイで、まとわりつくヤブ蚊を手で払いながら、「人の生き血を吸って太るニルソンのようなやつだ」と毒づく箇所があり、笑った記憶がある。あと、ロンドンまでポールのインタビューに行って、会って自己紹介する際に「ヤー、クリティック、オーケー」とだけ言われて終わってしまい、後で一人でホテル泣いた、とかの、悲しいエピソードも思い出される。ジャックスを私に教えてくれたのも松村さんだった。

ありがとう、松村さん。これからも、ビートルズを聴くようになる日本の若者達の全員が、あなたの文章に触れると思うよ。

相田英男 拝

追伸

松村さん唯一の小説「苺畑の午前五時」は、青春小説の名作である。ビートルズを聴かなくとも一読の価値がある。主人公が高校を退学になる過程も、ほぼ実話だと思う。60年代後半の世相を丁寧に描かれている。少なくとも村上春樹の「ノルウェイの森」よりは、ずっと良い。

村上のあの本は、やたら売れたみたいだが、やっぱりいかん。喫茶店で友人と語っている最中に、クリームの「ホワイト・ルーム」が掛かっていた、と書かれていた。そうすると私の頭の中には、イントロでジンジャー・ベイカーが叩く5/4拍子のティンパニの音と、クラプトンのワウワウを掛けたギターの名演が流れていっぱいになり、文章が全く入って行かなくなった。

あんた事を平気でする村上春樹は、洋楽を舐めている。もしくは、洋楽を真面目に聴いておらず、単に小説のテクニックとして、曲名を使っているか、の、どちらかだと思う。松村さんと喧嘩した小林信彦のように。

あれ以来私は、村上春樹の本に全く触れていない。苗字が悪いのかもしれんとも思える。