ボヘミアン・ラプソディー
相田英男です。
映画を見たので、書きたくなったのですが、以下の堀井氏の感想と殆ど同じなので、引用させて頂きます。
私は堀井氏よりやや年下ですが、ほぼ同じ洋楽体験をしています。歳の離れた姉が、家の中で映画タイトル曲や、「キラー・クイーン」とか、「マイ・ベストフレンド」とかを、毎日カセットテープで流すので、変わった曲だけどカッコいいなあ、と何気に感じていました。
でも、クイーンはアイドルぽかったのと、姉がいつも聞いていたので、反発心から、ハードロックとプログレッシブロックに、私は興味が向かったのです。ただ、レコードはほとんど買えなくて、人からLPを借りて、カセットテープにダビングさせてもらうか、FMラジオを録音するか、でしたけど。当時は、深夜のNHKのFMで、レッド・ツェッぺリンやイエスのアルバムの、全曲を流したりする太っ腹の番組があり、重宝させてもらいました。
今回の映画は賛否両論あるみたいですが、日本でも30億円以上売り上げたようで、大ヒットになりました。50代後半から60代の女性、70年代にティーンエイジだった方が、繰り返し観られているそうです。ミュージック・ライフを片手に、羽田空港に集まって「キャー、フレディー!!」と絶叫していた、かつての女の子達ですね。今回の映画は、彼女達のものですから。日本の場合は。
私はクイーンのアルバムは、「オペラ座の夜」しか、自分で買ってません。が、クイーンは見かけ倒しではなく、本物のロックバンドだと、今更ですが、私は思うようになりました。演奏も上手いのですが、何といっても、フレディー・マーキュリーの「やり過ぎ感」が素晴らしい。普通にピアノを弾いて歌うだけでも十分に上手いのに、あの怪しさ満点の衣装とアクションで、ブチかます。
今でこそLGBTやマイノリティーとか、気を遣って大事にされていますが、当時は単なる「変態」でした。その「変態感」をフレディーは敢えて逆手に取り、過剰にステージで打ち出しています。フレディーの「やり過ぎ感」は、キング・クリムゾンのロバート・フリップのギターの「やり過ぎ感」に、相通じるものがあります。片や極めてわかりやすく、片や難解と、音楽のタイプは全く違いますが、どちらも本物のロック・アーティストです。
私がクイーンを避けていたのは、フレディーの醸し出すあまりの怪しい雰囲気に、ついていけなかったような気がしています。でも、70年代のティーンの女性ファン達は、そんな「怪しさ」を含むクイーンを全て受け止めて、一生懸命に応援していたんですよね。
フレディーが死んだ時には、彼女達は全員が涙したと思います。あれから二十数年が経って、年齢を重ねた彼女達が再びフレディーと出会えた。そして、彼からエネルギーをもう一度もらうことが出来た。それだけで、もう十分なのではないでしょうか、今回の映画は。
(引用始め)
男子高校生にとって、Queenは「憧れのロックスター」だったか
堀井 憲一郎
12/5(水) 11:00配信、現代ビジネス
クイーンのフレディ・マーキュリーを描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』が人気である。
クイーンのレコードデビューは1973年、日本で売られたのは1974年だった。その年から翌年にかけて、ヒット曲を出し始める。
私は高校生だった。ヒット曲はだいたい聞いていたことになる。でもあまり関心を抱いていなかった。当時の“洋楽”は好きだったのだが、クイーンはあまり積極的に聞かなかった。
これは私個人だけではなく、当時のロック好き十代「男子」のふつうの動向だったようにおもう。理由のひとつは「先に女子が熱狂したから」ということにある。
クイーンに飛びついたのは、まず日本の十代の女性だった。世界的にもかなり先駆けだったらしいのだが、その現象を受けてぼくたちは「クイーンは女子のもの」と強くおもいこんでしまったのだ。
高校の同級生女子が騒ぎ、その前後世代の女性が熱狂していた。なんだかおもしろくない。とてもつまらない感情だけれど、高校生だからしかたない。先に見つけたなら、それは任せた、というような気分である。
また、女子が熱狂したから、アイドルなんだろうとおもってしまった。
ちょうど同じ時期、ベイ・シティ・ローラーズというアイドル的なポップグループが人気で、そちらにも女子は熱狂していたから(たぶん棲み分けていたんだろうけれど細かくは知らない)、それと同じタイプのミュージシャンだとおもってしまった。アイドルだとするとそれは歌謡曲に近く、いっときの徒花のような人気しかないはずで、豊川誕、伊丹幸雄、城みちるらと似たようなグループだと考えればいいのだな、と判断したのだ。
そのころ小遣いを何とかやりくりして買っていたレコードは、たとえば、ローリングストーンズ、ボブ・ディランやビートルズ、サイモン&ガーファンクル、レッド・ツェッペリン、シカゴ、アリス・クーパー、あたりである(アリス・クーパーにやたら固執していた記憶がある)。
ディープ・パープルやピンクフロイド、イエスも買いたかったが買えず、友だちのを借りて、録音していた。レコードプレイヤーのスピーカーの前にテープレコーダーを置いて直接録音していた。ときどき弟や母の声が入ってしまった。レッド・ツェッペリンも、4枚目のアルバムを買ったけれど、その前3作がなかなか買えずにもどかしかった。
まだ当時はロックミュージックの歴史が浅く、ここは男の世界だ、という意識が強かった。よくわからないけれど、でもそうだったとしか説明のしようがない。だから女性が先に熱狂してしまったクイーンを、男の世界で認めるわけにはいかなかった。つまらないところでつまずいていたのだとおもうが、でも十代の当時、この事態に巻き込まれるのは避けられなかった。
(中略)
なぜ、ここまできれいにクイーンを避けていたのかは、よくわからない。そもそも「曲はほとんど知っているのに、クイーンについては何も知らなかった」という事実も、今年、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見てやっと気がついたくらいである。
やはり1970年代当時から、少し特異なグループだったということだろう。
フレディ・マーキュリーが、何だかずっと不思議であった。特に髪を短くしてゲイぽいキャラになってからは、よくわからなかった。少なくとも若い男子が、ああいうふうになりたいとおもう「憧れのロックミュージシャン」ではなかった。
いまあらためて見ると、まだ長髪だったころ、1970年代のロックミュージシャンらしいフレディには、えもいわれぬ色気がある。女性の感覚でいえば「かわいい」と言うしかない魅力だ。
彼の歌唱を見ていると、発声しようとするときのタメというかごくわずかな間合いがあって、そこに「がんばる」という意気込みが少しあり、ためらいと自負が垣間見えて、いまの私は、その若さに惹かれてしまう。若いころだと絶対に気がつかないポイントだ。そういう魅力をわかれって言われても、男子高校生には無理である。
そして彼らの楽曲はやはり美しい。耳に残る。あまり真剣に聞かなかったくせに、だいたいのヒット曲は覚えている、やはり彼らの楽曲が強く刺さってくるものだからだろう。
中学・高校の友人で、音楽をよく聞いていて、いつもギターばっかり弾いていた友人に、あらためてクイーンのことを聞くと、やはり高校時代はきれいに無視していたと答えてくれた。
彼は少しあと、おそらく1980年代だとおもわれるが、クイーンのベストアルバムを買い、それをクルマの中で流していたところ、同乗していた彼の母に「あなたのいつも聞いている音楽はよくわからないけど、この音楽は素敵ね」と言われたそうである(いつも聞く音楽はおそらくローリングストーンズやフランク・ザッパだったのではないかとおもう)。
おそらくこれがクイーンに対する正しい評価なのだ。
ただうるさく叫び続ける音楽ではなく、大人の耳にもきちんと届く音を彼らは作っていた。だから、これほど無視しているぼくたちにもその音楽はきちんと刻まれている。
そのことに、2018年になるまで気づいてなかった。映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見るまで、きちんと正面から向き合ってクイーンを聞いたことがなかったからだ。
自分でレコードを買ったことも友人から借りたこともなく、レンタルレコード店でレンタルしたこともなく、カセットに落としたこともなければ、CDもMDも持っておらず、DVDを借りたこともなかった。自分から初めてクイーンの音楽を探して聞いたのは、先だって映画を見たあと、ユーチューブでだった(ユーチューブは偉大である)。
1970年代から1980年代にかけて、ぼくも何とか生きていたころ、彼らも彼らなりに懸命に音楽を作り、提供していた。そしてそれはいつもどこかでクロスしていたのだ。それに気づいた。クイーンとぼくらは、一緒に生きていたのだ。
映画を見たあとには、クイーンの曲がすべて胸に迫ってくる。そこには懸命に生きていた若者の声がある。いまここに、彼らの存在とあの時代が強くよみがえってくる。
あまりに単純な反応で申し訳ないが、しかたがない。映画が素晴らしいということであり、クイーンの楽曲の力があまりにも突き抜けているということなのだろう。
映画のクライマックスは1985年のライブエイドで、これも当時の空気をおもいだした。日本での中継は、とにかくコマーシャルが多かったことばかり覚えている。ボブ・ディランを見たくて録画していたのだが、全体の印象としては(中途半端な中継だったこともあって)かなり散漫なものだった。もう一度見返したいとはおもわなかった。映画を見て、33年前のビデオテープを探している。どっかにあるとおもう。
2018年に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たとたんに、かつての音楽的な記憶が一挙につながって、よみがえってきた。クイーンだけに限らず、あのころ聞いていた音楽とそれにまつわる風景がリアルにおもいだされたのだ。不思議な映画体験である。
映画に触発され、自分のなかにあったクイーン音楽の欠片がすべて掻き集められ、ばらばらだった1970年代の記憶がまとまっていく体験だ。自分の内側で、勝手に物語の生成されていくようであった。異様に興奮した。
二度目に『ボヘミアン・ラプソディ』を見に行ったときには、クイーンをまったく知らない21歳の男子学生と行ったのだけれど、彼も深く感銘を受けていた。それぞれの音楽記憶とは関係なく、強く訴えてくる映画のようだ。フレディと家族の姿を見ているだけで、胸に迫ってくる。ママーという叫びがずっと頭の中で鳴り続けている。
(引用終わり)
結局、映画とあまり関係ない話ですみません。
相田英男 拝