あそこで「実朝」が出てくるとは・・・

相田英男 投稿日:2020/04/23 22:45

太宰治は、「人間失格」と「斜陽」であまりにも有名であるが、基本的には短編の作家である。他の中長編の作品では、「津軽」、「正義と微笑(びしょう)」、「新ハムレット」、「右大臣実朝」、「惜別」、「パンドラの箱」、くらいだろうか。長めの作品は、それほど多くない。

私は高校生の時に、新潮文庫の太宰の文庫本を全て買って読んだ。その中で、最もインパクトを受けた作品が「右大臣実朝」だった。「実朝」は太宰の書いた唯一の時代劇でもある。これを読んでしまうと、山岡荘八やら、その他の、NHK大河ドラマの一連の原作本などの、時代劇本はアホらしくて読めなくなる。

「実朝」を読了した高校時代の私は、幾人かの友人に「この太宰の小説は凄いから、ぜひ読め」と本を貸してみた。が、誰もが「ふ〜ん、別に」というかいう対応で、私のように感動した様子は全くなかった。何だか熱が冷めた私は、それ以上「実朝」について、他人に語るのをやめた。それでも、「実朝」と「正義と微笑」だけは、社会人になってからも、時々は読み返していた。残りの太宰の文庫本は、田舎の実家に置いたままだった。

「実朝」と「正義と微笑」が、太宰の作品で私は最も好きだ。でもこの2作は、太宰のランキングをざっと見渡すと、全く取り上げられていない。太宰ではマイナーな作品らしい。おかしい。やはり私のセンスは変わっているのか?

その太宰の「実朝」に書かれている、あまりにも有名な一節が、先日、副島先生の「重たい掲示板」での投稿で引用されていた。私が長年ネットを見続けて、「実朝」に触れた論考を見たのは、これが初めてだ。嗚呼、副島先生も、太宰の数多い名作の中から、「実朝」を出してくるのか。流石は、私が師と仰ぐ方だよな、と唸った。やっぱりな、という縁を感じずにはいられない。

今の私には、太宰の本来のスタイルと一般に見なされている、デカダン系の作品は、正直かなりきつい。「トカトントン」とかは、読みながらかなり恐怖を覚える。中学生の国語の題材に「トカトントン」が出ていたのを以前に見た。ちょっと教育上ヤバイのではないか、と、本気で心配になった。それでも、現実から逃避したい気分の時に「フォスフォレッスセンス」を読み返すと、多少、私は癒される。あの大きな鳥が静かに飛んで来て、主人公に語りかける場面が、大変良い。

太宰の魅力の一つが、あまりにも斬新すぎる小説技巧にあるのは、誰もが認めるだろう。女性の語り言葉を使った本格小説は、「女生徒」や「斜陽」に遡るのではないか?女流小説の開祖は、実は太宰だろう(私が言うまでもないだろうが)。「実朝」は、その小説の名手たる太宰が、持てる技巧の全てを、惜しみなく投入した作品だ。事実として、どう考えても有り得ない「実朝」の人物像を、リアルに読者に伝えるために、あらゆる技巧を太宰は凝らしている。その太宰の創意工夫を眺めるだけでも、「実朝」は楽しい。

太宰が描き出す、鴨長明、北条政子、義時(相州)、大江広元、和田義盛、そして公暁、といった、歴史上の人物達と、実朝の間で交わされるやり取りの様子は、極彩色の風景で私の脳内に浮かび上がって来る。本来の小説の持つ、文字の持つパワーに、私は今でも圧倒される。

私が「物語」という概念を認識したのは、子供の頃に源義経の本を、小学校の図書室で借りて読んでからだった。不遇な身の上でありながらも、天才的な戦術で平家をやっつけた義経が、子供時代の私のヒーローだった。その義経が犠牲となって成立した源氏の政権が、三代目の実朝であっけなく消えた(正確には北条氏に乗っ取られた)。その事が私にはずっと不可解だった。和歌森太郎(東京教育大の有名な歴史学者で、朝永振一郎の愛弟子で統一教会に帰依した、物理学者の福田信之の一派に、大学から追放された人物)が監修した、児童向けの歴史解説本をずっと眺めても、納得いかないままだった。

しかし、私の疑問に答えるべく(という訳では全く無いが)、太宰は「実朝」を残していたのだった。太宰の「実朝」を読んで、高校生だった私は「もうこれでいい」と、初めて、納得した。多分小説に描かれた内容は事実ではないだろう。が、これで良いのだ。これ以上の解答は、存在しないだろうから。

太宰作品で最も商業的に成功した「斜陽」は、「右大臣実朝」の単なるリメイクである。「実朝」で描いた人間関係を、太宰の得意な女性言葉で、そのまま再構成しただけの小説だ。太田静子の日記がタネ本らしいが、太田静子の実母が、小説の主人公の母親(実朝に相当する立場)のような、浮世離れした人物であるはずかない。私は「斜陽」よりも、そのオリジナルの「実朝」のほうに、作者のより強い意気込みを感じる。

私はまだ見ていないが、太宰の絶筆となった「グッドバイ」が、映画化された。私は「グッドバイ」も、大変好きだ。小説というよりも、あれは、ナンセンスギャグ漫画のノリが強い。吾妻ひでおのマンガに近い雰囲気を、読みながら私は感じた。相当以前のことだが、「重たい掲示板」で、どなたかが、マンガについて詳しい論考を書かれていた。その論考で「日本のマンガ史に最も大きな影響を与えたのが、吾妻ひでおだ」と、断言されており、私は「ああそうか」と納得した記憶がある。

吾妻ひでおは、少し前にガンで死んでしまった。志村けんよりも、吾妻ひでおの死の方が、私は悲しかった。あまり長生きはできない人だろうと、内心感じてはいたが。日本の現代マンガ、アニメの基本フォーマットである、ロリコン美少女にSFを組み合わせるという形は、吾妻ひでおが「発明」したのだ。吾妻ひでお以前には、あの形は存在しなかった。寺沢武一の「コブラ」みたいな雰囲気が、それまでのSFマンガだったのだ(松本零士の「キャプテンハーロック」もそう)。少し遅れて登場した高橋留美子が、吾妻によく似たスタイルだった。だが、彼女の「うる星やつら」は、SFではなく妖怪の世界であって、あれは水木しげるの路線に繋がるものだ。なので、SFを打ち出した吾妻の方が、やはり偉大だ、と、私は強く言いたい。

実は吾妻ひでおも、太宰の大ファンの人だった。何かの雑誌で、吾妻はマンガ形式で太宰について語っていた。その中で吾妻は、

「太宰の代表作は「人間失格」だが、あれは読み返すとあまりに暗く、自己中心的な描写ばかりで、読むに耐えない。しかし、それ以外の全ての作品 ー「晩年」に始まり「ヴィヨンの妻」あたりに至るまでの、「人間失格」を除く全て ー は、傑作ばかりだ。なので、太宰を「人間失格」のバイアスを通して見るのは、大きな間違いだ」

と、書いていた。正確には、マンガのキャラクターとして吾妻自身が登場して、そのように語っていた。その雑誌を立ち読みしながら、私は「ああ、この人は、私以上のコアな太宰のファンなんだ」と、理解した。だからあんなマンガが描けるのか、と、しみじみ思った。

何年も読んでいないが、私の部屋の本棚の奥には、ジャストコミックの「ななこSOS」全5巻が、今でも置いてある。掲載本は手元に無いのだが、「死んだ馬が死んでいる」という、タイトルも中身も、あまりに不条理すぎる短編ギャグマンガの傑作が、吾妻にはある。今でも頭の中で思い返すと、私は一人で笑う。

「グッドバイ」には、主人公の相方として、ダミ声で怪力で大食漢である一方で、黙って座ると気品のある物凄い美人という、あまりに破天荒な女性が登場する。まるで、吾妻マンガのヒロインそのままのような人物で、私は彼女が大好きだ。映画では彼女の役を、小池栄子が演じている。小池栄子も美人であるが、どちらかというと世間的な佇まいであって、私としては微妙な配役だ。吾妻ひでお的な世界を想像する私は、吾妻がファンだった小倉優子が演じるのを、アバンギャルドで期待していたが、流石にそれはなかった。演技力とか私生活の理由から、小倉優子が無理なのはわかっているが。

以上の話は、副島先生の「実朝」の引用を読んでから、どうしても書きたくなった。太宰の作品の多くは、青空文庫から只で読める。コロナ篭りの空いた時間に如何だろうか?読んでいて陰鬱になる話ばかりでは、決してない。私が言うまでもないことであるが。

(本当は、他に書くべき大事な論考があるのだが、難儀している。なんとか早く書き上げたい・・・・、副島先生、すみません)

相田英男 拝