「民主党代表選は関が原合戦に似て、東軍・小沢一郎、西軍・菅直人が激突する戦国絵図を繰り広げるのか?」

投稿日:2010/08/19 06:41

「板垣英憲『マスコミに出ない政治経済の裏話』」から貼り付けます。

(転載貼り付け開始)

2010年08月18日 14時31分08秒
「民主党代表選は関が原合戦に似て、東軍・小沢一郎、西軍・菅直人が激突する戦国絵図を繰り広げるのか?」

◆顰蹙を買うのを承知で、「戦争ゲーム」を楽しんでみよう。今回の民主党代表選は、どことなく関が原合戦を彷彿とさせている。関が原合戦は、1600年9月15日、民主党代表選は、2010年9月14日で、1日違いにすぎない。
 〔東軍〕総大将・徳川家康=小沢一郎前幹事長(軍師・山岡賢次副代表・前衆院国対委員長)
 〔西軍〕総大将・毛利輝元、事実上の総大将・石田三成(軍師・大谷吉継)=菅直人首相(軍師・仙谷由人官房長官)、内通者・小早川秀秋、吉川広家=前原誠司国土交通相。
◆徳川家康の会津征伐は、石田三成の蜂起を誘い出すのが目的=徳川家康7月21日には江戸城を立ち会津征伐に向かい、7月24日に下野小山に到着、ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを知らされた。翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」である。

 小沢前代表の地下潜伏(菅首相からの面会申し込み無視)は、菅首相の「小沢切り・脱小沢路線宣言」(幹事長に起用せぬ方針=朝日新聞8月17日付け朝刊1面、2面記事)を引き出すのが目的=山岡副代表ら世話人44人が17日、「09政権マニフェストの原点に返り『国民の生活を守る』集い」を開催。背後で小沢前幹事長が「出馬は環境次第だ」と指示。

◆三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は26日以降続々と陣を払い、福島正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣。家康は徳川秀忠に榊原康政や大久保忠隣、本多正信ら約3万8,000の軍勢を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、秀忠軍は8月24日には出陣した。
 家康は小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後、家康は8月5日、江戸城に帰り、背後(上杉景勝・佐竹義宣)の危険に備える。8月末まで江戸に留まり、諸大名の動向を探るとともに、万全の工作を行った。とくに藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図る。家康が書状作戦を展開している頃、福島正則ら東軍先鋒は清洲城に集結した。だが、その後一向に家康からの音沙汰がなく、正則は、自分たちを捨石にするのかと激怒。しかし、家康の使者・村越直吉が来着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられるや、正則ら東軍諸大名は、勇躍して美濃へとなだれ込んだ。8月22日に竹ヶ鼻城を陥落させ、その後河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突、米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信が城主の岐阜城を落とした。

 小沢前幹事長は、東京都内のホテルを転々としながら、時々世田谷区内の私邸に帰り、自民党の古賀誠元幹事長を招き、「大連立」について密談。(8月6日には、都内で行われた「囲碁・将棋チャンネル」のパーティに出席、海江田万里衆院議員、福田康夫元首相=3年前の党首会談で大連立を協議した相手=与謝野馨元財務相らと同席。14日夜、京都・鴨川沿いの料亭で高嶋良充前参院幹事長の引退慰労会に出席、民主党財務担当者が同席) 

◆岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと西上した。一方、秀忠隊3万8000は中山道を進んだ。だが、途中で真田昌幸2000が籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らった。
 三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村忠一・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれを散々に打ち破った。
 しかし、家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、なかなか到着しないため、9月14日、大垣西北方の赤坂の岡山に設営した本陣に入る。そしてその夜に赤坂高地を出て中山道を西へ向かう構えを見せ、部下や忍者たちに次のように触れ回らせた。
「大垣なんかに構わず、直路、佐和山城(大垣西方35キロ、石田三成の居城)を突き、長駆して大坂城を攻めるぞ!」
 これは巧妙に計算された家康一流の脅しである。虚を疲れて、三成は動揺する。知将である三成は人望が薄く、部下を信じて、部下の総力を挙げて決戦場に集中指向する統率力に自信がなかったのである。ここで東軍を迎え撃っていれば、勝機を得たかも知れなかったにもかかわらず、妻子、家来を残した佐和山城が攻撃されるのを恐れて、その夜のちに、三成は関が原(大垣西方15キロ)に大軍を後退させてしまう。両軍が中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結し、決戦の火蓋が切られようとする。

 小沢前幹事長は、100人程度の同志を引き連れて民主党分裂、離党、自民党との大連立を表明する。菅首相が衆院で過半数を割れば、その瞬間に民主党は政権から転落する。状況によっては、9月末に召集される臨時国会の冒頭、野党提出の菅内閣不信任案に小沢前幹事長一派が賛成に回れば、総辞職か総選挙に追い込まれる。
                       (関ヶ原合戦模様は、以後につづく)

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