「鈴木宗男氏上告棄却背後にある日本の前近代性」
「飄(つむじ風)」から貼り付けます。
(転載貼り付け開始)
2010-09-10
「鈴木宗男氏上告棄却背後にある日本の前近代性」
真理の下に無実であるならば、無実である!
世の中には不条理が多い
罪人が蔓延り、善人が裁かれる
残念ながら、良くあることだ。
その体現者が語る、これほど感動的な激文はない!
不条理は糾されなくてはならない。勿論だ! しかし、今般の情況を変えるには、無理だ。
ならば、敢えてそれを踏み越えていく覚悟も必要だ。
<人質だった常岡さんと鈴木宗男氏:アフガニスタンにて>
無実の人に、犯罪者呼ばわりをする者は残念ながら、世の中には多い。その人は真実を知っているのか? 知ってはいまい。只、受け売りをしているに過ぎない。要するに付和雷同だ。
その前に、自分自身に問うてみる必要がある。『君は、果たして無実か?』
勿論、真理の下に無実であるかと言うことである。法律は、様々な社会情勢の下で便宜上定められる。その運用は厳密であることは当然であるが、残念ながら、運用するのは人間である。恣意も誤用もあるだろう。企図がある場合も考えられる。これを皆無にすることは何時の時代にも難しい。
ならば、最終的に戦い破れて、粛然として、堂々とそれに服することも運命と言うべきだろう。しかし、無実の人は犯罪者ではない。イエスがそうであったように犯罪者ではないのである。
それを石持て打つ者がいたとしても、気にする必要はない。
そして、その者には、こう云えば良い。『罪なき者は、その石を持って打て!』
不条理に対する問題は、長く続く人類の戦いなのだ。最終的になくすことが出来るであろう。しかし、今年、あるいは10年で達成出来る話ではない。ひとつひとつ、丹念に取り組まなければならない。それが人間の使命であり、目的なのだ。
【転載開始】2010年9月 9日 (木)
鈴木宗男氏上告棄却背後にある日本の前近代性
民主党代表選は日本の進路を定める重要性を持つ選挙である。
小沢一郎氏と菅直人氏の示す政策基本路線を比較すると以下のように理解することができる。
小沢一郎氏の政策基本路線が
①対等の日米同盟
②国民主権
③大企業と政治権力の癒着排除
④共生重視主義
⑤国民生活第一主義
であると考えられるのに対して、
菅直人氏の政策基本路線は
①対米隷属
②官僚主権
③大企業と政治権力の癒着
④市場原理主義
⑤財政再建原理主義
であると考えられる。
この五つの軸と別に、見落とせない最重要の課題が存在する。日本の警察、検察、裁判所制度の前近代性である。日本の前近代性は、この部分に濃厚に残っている。日本の秘密警察体質、特高警察体質の排除こそ、日本の構造改革の最重要課題のひとつである。
特高警察の組織そのものは大正デモクラシーの民主化運動のなかで創設されたものである。しかし、その淵源は明治の大久保利通-川路利良によって形成された秘密警察体質にある。この大久保-川路の秘密警察体質こそ、内務省独裁に端を発する霞が関主権構造、官僚主権構造の淵源である。
この特高警察体質のDNAは、そのまま現代まで引き継がれている。戦後の民主化で秘密警察組織は解体されかけたが、いわゆる占領政策の「逆コース」により秘密警察組織が再生され、レッドパージなどの推進部隊とされた。
鈴木宗男氏の上告が棄却され、鈴木宗男氏が収監されることになる。
鈴木氏は記者会見で、「犯罪者とされることが忍びない」との趣旨の発言を示されたが、鈴木氏が無実である限り、鈴木氏は犯罪者ではない。
有罪、無罪は人為の世界の区分である。これに対し、無実か有実かは、真実の世界、真理の世界の区分である。世の中には、無実であっても有罪とされる人がおり、有実であっても無罪とされる人がいる。
無実の人間を有罪とすることは許されないことであるが、現在の日本の諸制度のもとでは、こうした冤罪がいくらでも生みだされている。とりわけ、政治的な目的に基づく警察、検察、裁判所制度の悪用は後を絶たない。
この秘密警察的体質=警察、検察、裁判所制度の前近代性を除去しない限り、日本は前近代から抜け出すことができないのである。
重要なのは真理であり真実である。真理の世界、真実の世界で無実潔白であるなら、恥じるところは皆無である。真実と真理を洞察することなく人為の決定を絶対視する者は愚かである。そのような愚かな者を相手にする必要はない。
人の価値は人為によって定められるのではなく、真理の秤(はかり)によって定められるのである。この世に理不尽と不条理が絶えることはない。大切なことは人為に目を曇らされている人々に、真理を見つめる目を開かせることである。
しかし、だからといって、日本の警察、検察、裁判所制度の前近代性を放置して良いわけがない。日本の警察、検察、裁判所制度の近代化は日本構造改革の最重要課題のひとつである。
鈴木宗男氏の例のように、政治献金=資金管理団体への寄付を賄賂として摘発すると言うなら、その前に摘発しなければならない国会議員が自民党に無数に存在しているのではないか。これらの議員はまったくお咎めなしで放置されている。このような無法がまかり通っているのが、残念ながら日本の現状なのである。
五つの課題がある。
第一は、適法手続き=Due Process of Lawの厳格な適用である。日本では適法手続きが完全に無視されている。法律に基づかない不当な逮捕・身柄拘束、警察や検察での調書ねつ造などが野放しにされている。ときには、犯罪そのものがねつ造されることすら行われている。この問題を解消するには、最低限、取り調べ過程の全面可視化が不可欠であるが、菅直人氏は全面可視化に背を向けている。
第二は、法の下の平等が無視されていることだ。同じ行為に対し、摘発するもの、しないもの、立件するものしないもの、これらが警察、検察の裁量に委ねられている。この裁量と政治判断が結びついて、制度が悪用されている。
第三は、罪刑法定主義が適用されていないことである。犯罪の構成要件が不明確で、警察、検察の裁量に委ねられている。政治資金規正法の運用基準を所管官庁の総務省に問い合わせて、総務省が明確な基準を示せないなかで、法律を遵守せよというのは無理な話である。法の運用に恣意が介在することが、秘密警察的体質を如実に物語る。
第四は、裁判官の独立性が確保されていないことである。この点を鮮やかに明示されたのが新藤宗幸氏の著書『司法官僚』である。
詳細は本ブログ2009年11月11日付記事「新藤氏『司法官僚』が示す司法制度改革の原点」をご高覧賜りたいが、日本国憲法第76条が定める裁判官の独立性が日本では完全に否定されている。最高裁事務総局が裁判のすべてを支配してしまっているのである。
また、裁判官人事はその根幹の部分を内閣が握っている。そのため、日本における三権文立(ぶんりゅう)は机上の空論になっている。
裁判所を政治権力が支配するからこそ、昨年の総選挙に際して私の上告が棄却され、本年の民主党代表選のさなかに鈴木宗男氏の上告が棄却されたのだ。
鈴木宗男氏の上告棄却は民主党代表選の北海道での街頭演説会の日程に合わせたものである。小沢一郎政権樹立を死に物狂いで阻止しようとしている、官僚機構、米国を軸とする悪徳ペンタゴンの断末魔の叫びが鈴木宗男氏の上告棄却に表れている。
また、三審制度と言いながら、政治権力に支配された第一審が偏向裁判を実施すると、高裁、最高裁の上級審はほんとど何も仕事をしない。上級裁判所に行けば行くほど、政治権力からの締め付けが強まるからだ。副島隆彦氏が言うところの国家ヤクザである。
第五は、国家公務員の守秘義務違反という犯罪が野放しになっていることだ。犯罪を摘発する立場にある検察庁職員がこの犯罪に手を染めているが、まったく摘発されない。検察庁職員による秘密漏えいという犯罪をほう助しているのがマスゴミである。
「無罪推定の原則」を完全に無視したマスゴミの情報洪水により、無罪が推定されるべき市民が犯罪人に仕立てられてゆく。何度も重大な人権侵害問題を生みながら、検察庁職員の犯罪が摘発されないために、同じ過ちが繰り返されている。
日本が前近代を抜け出すには、警察、検察、裁判所の前近代性を除去することが不可欠である。菅直人氏はこれら前近代勢力に取り込まれるどころか、これらの前近代性を政治的に利用し始めている。
民主党代表選で小沢一郎氏を新代表、新内閣総理大臣に選出し、日本の近代化を実現しなければならない。【転載終了】
(転載貼り付け終了)