「軍隊なき占領は続いていた・・・CIA文書が明かすアメリカの対日政治戦の深層」
2010-07-10
「軍隊なき占領は続いていた・・・CIA文書が明かすアメリカの対日政治戦の深層」
一昨日、新宿の「ネイキッド・ロフト」というところで、「統一義勇軍議長」の針谷君の主催で行われた「米国従属下にある日本の政治」というテーマの政治討論会で、僕も話をさせてもらったが、実はそこでも話したのだが、『日本テレビとCIA』等の著書で、アメリカ公文書館で公開されたCIA文書を元に、米国の対日政策にからむ「武力なき占領政策」の暗部を明らかにし、さらに昨今、「小沢事件」や「普天間米具基地移設問題」などをめぐって次第に暴露されつつある日本政界・マスコミ・官僚における「米国の影」の問題などと関連して、一躍、「時の人」として注目されている有馬哲夫早大教授が、新著『CIAと戦後日本』が刊行し、さらに驚くべき米国の「武力なき対日占領政策」の実態を暴露しているので、ここでも、簡単に紹介しておきたい。有馬は、今回もまた、「CIA文書」を元に日本の戦後政治史を分析・解明し、言い換えれば日本の戦後史を書き換えようとしているわけだが、中でも、重光葵、野村吉三郎、緒方竹虎という人物をめぐる分析と歴史の書き換えが面白い。重光葵といえば、僕などは、ミズリー号上での「終戦協定書」署名という場面での重光葵しか知らないし、それ以外の重要な重光葵情報があるとは予想もしていなかったと言っていいが、有馬によると、戦後史において吉田茂に対抗する政治的重要人物として活動し、政治家としても「改進党総裁」になり、CIA文書にまで「吉田の次は重光だろう」とまで書き残されているような人物であり、とりわけ「日ソ国交回復交渉」で重要な役割を演じ、そしてそれ故に「日ソ国交回復交渉」の妨害を画策するCIAにマークされ、密かにCIAによる「対日工作」のターゲットにされてしまった人物だということがわかる。そもそも重光は、戦前は、吉田等と同様に外交官であり、東條内閣では外務大臣まで勤めている。その後、1945年9月2日のミズリー号の甲板での終戦協定書署名となるわけだが、しかし重光は、東條内閣では外務大臣だったという経歴もあり、極東国際軍事裁判で禁固七年の刑を受けることになるのだが、こ判決が、逆に幸いして、重光を「悲劇のヒーロー」にしていくことになり、1952年3月24日に追放解除と同時に、今度は政治家として歩き始めることになる。(続く)
(転載貼り付け終了)