「管首相が消費税問題を口にした背景」他
「植田信」のホームページの「掲示板」から貼り付けます。
(転載貼り付け開始)
2010年 7月 3日(土)09時25分34秒
「管首相が消費税問題を口にした背景」 投稿者:ウエダ
おはようございます、皆さん、植田です。
佐藤氏は昨年の夏、律令権力構造の社会から正式に追放されたわけですが、興味深いことに、その律令権力構造のほうがコペルニクスの転回と表現してもいいほどの激震に見舞われました。民主党による政権交代です。
選挙のスローガンは、「脱官僚」です。
それから10か月が経過した2010年7月3日の今の時点から振り返れば、官僚勢力は、当然のごとく、反撃に転じたなあ、とわかります。
昨日紹介したように、石川・小沢会計事件であり、羽毛田事件です。
政権交代後一気に進んだ外務省の機密文書の発掘もそうです。これはまたあらためて話題にしてみます。
そして、気がついてみれば、鳩山政権として出航した民主党革命政権ですが、6月に管政権に交代しました。
だから、7月11日の参院選は、民主党が内輪で行った首相交代の承認選挙です。
民主党が前回の議席数を確保すれば、有権者は承認したとみていいでしょう。54議席でしたか。
さて、鳩山氏であれ、管氏であれ、ともかく民主党による政権交代が起こり、今も革命政権は健在です。革命政権と言っても、暴力によって起こった権力交代劇ではなく、選挙による合法的革命政権です。
合法的でないのは、官僚主導という従来の日本国の権力構造でした。
それはおくとして、目下の焦点は、管首相が選挙になって声をからしても絶叫している消費税です。
これは、誰の主導か、です。
管氏が財務大臣としてG20財相会議に出席したときに、誰かに入知恵されたのか。
それとも、ギリシア、スペイン、イギリスなどの国家財政の借金に、世界が悪意の視線を浴びせていることを身近に感じて、日本も危ない、と感じたのか。つまり、誰かの入知恵ではなく、自分で日本国の借金財政の問題の大きさを痛感したせいで、帰国後、いきなり消費税問題を口にしたのか。
そして、ここに、待ってましたとばかりに、財務省が管首相をけしかけた、と。
消費税を上げないことには、この国の財政はもう、もたない、と。
私は、多分、そんな流れではないか、と思います。
政権交代によって民主党の2009年選挙パワーの70%が消費されたあと、民主党革命政権は何に政策の焦点を持っていくか。30%の余力を何に使うか。
鳩山首相は普天間基地移設問題に使って、墓穴を掘りました。
管首相は、どうやら、消費税問題に見つけました。
さて、海外で誰かに入れ知恵されたという可能性もありますが、私は、国際会議での〈ソブリン/国債〉問題が管直人氏を消費税首相に転身させたのだと思います。
考えてみたいのは、これは何か、です。
「脱官僚」スローガンの第一人者であったのに、首相になってみたら、なぜ消費税首相に転身してしまったのか。
小沢一郎氏が、さっそくこの問題で首相を牽制しました。
「民主党の小沢一郎前幹事長は1日、参院選応援のために兵庫県朝来市で街頭演説し、使途が決められている国の〈ひも付き補助金〉の弊害を指摘、『地域で考え金を自由に使えば無駄な経費は何兆円も省ける。財源はある』と述べた。管直人首相が提起した消費税増税論議を牽制した発言だ。」日経新聞2010.7.2
管首相の消費税発言は何か、と考えると、私は、これもまたこの国を統治するのは誰か、という問題ではないか、と思います。
つまり、財務省は、実は弱小省だったのだ、と。
この時点で、その気になった管首相の勢いに乗らなければ、念願の財政問題の解決に向けて踏み出せなかった、と。
もし財務省が、従来の神話であったように、最高の権力省だったなら、かくも日本国の財政赤字が積み上がることはなかっただろう、と私は思います。
占領中にドッジ氏によって、均衡財政の正しさを習得したのが大蔵省官僚でした。その遺伝子は平成時代の大蔵官僚にもあったはずです。
それが、なぜ、巨額の財政赤字となったのか。
これは、要するに、大蔵官僚は、他の省庁、そして自民党族議員の「ばらまき」要求にノーと言えなかっただけではないのか。
この点、副島隆彦氏が興味深い指摘をしています、
「日本の官僚のトップは財務省(旧大蔵省)だと、私も倣って思い込んできましたが、どうやら法務省・検察庁だったようです。このことが明るみに出ました。このことがスゴイことでした。」『小沢革命政権』P.25
そうであるとともに、民主党政権になってからの官僚の反撃運動は、かえって、私には、官僚主導時代のたそがれ事件であると思えます。
日本国憲法では、とっくに官僚主導は終わっています。
憲法が制定されてからの昨年までの63年間は、アマテラス神話がまだ効果を発揮していました。しかし、ついに、日本国憲法の在民主権神話が、ついに戦後世代に浸透してきました。
だから、官僚たちは、最後の抵抗を試みているわけです。
この点、防衛庁を自主退職された太田述正氏が、簡単に述べています。
官僚主導問題など、ばかばかしいことだ。政治家が主導しないだけの話である、と。官僚たちは、日本国憲法のもとでは、もともと気が弱いので、政治家が主導しないことをいいことに、天下り構造をこっそりと作ってきただけの話、と。
その通り。
戦後の日本人は、まだ在民主権者の幼年期にあったので、その力を発揮できないだけでした。
だから成人すれば、革命が起きるのは当然のことでした。
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2010年 7月 3日(土)08時39分0秒
「外務省職員を、昨年7月、正式に追放されていた佐藤優 投稿者:ウエダ 投稿日」
おはようございます、皆さん、植田です。
佐藤優氏の現状の身分ですが、昨日、起訴休職外務事務官と名乗っている、と私は書いたのですが、確認しようと『小沢革命政権』のプロフィールを拝見したら、昨年6月に最高裁上告が棄却されたとのことです。そして翌月の7月に外務省の職員であることが終わり。失職しました。
なるほど、それで、昨日紹介したような過激な発言がストレートに口に出てくるようになったのか、と私は、なんか、妙に納得しました。
私のように、最初から、律令理性社会の権力構造の階段登りの競争に参加することを放棄している人間には、どうでもいいキャリア構成ですが、佐藤氏には、さぞかしショックだったことでしょう。
なにしろ、佐藤氏は、真面目に「国」のために粉骨砕身していた人です。そのことがかえって外務省から追放される原因になったとは、佐藤氏自身、その時は、つまり、2002年に国策逮捕されたときは、きつねにつままれた思いだったことでしょう。
そして昨年の夏、正式に日本律令権力構造から放擲されたわけです。
もちろん、だからといって日本人であることを抹消されたわけではありません。
律令権力構造から追放された、ということです。
ここに、タイムリーに民主党による政権交代が起こりました。2009年8月30日。
そして、半年もたたないうちに、羽毛田事件が起こり、石川・小沢事件が起こりました。
これらは何か?
佐藤氏が自身の体験からこれらの事件を照らし合わせて推理すれば、見える答えは一つ。「この国の本当の統治者は誰か?」の問題が、これらの事件という形で浮上した、と。
官僚なのか、政治家なのか。
いや、私のホームページをご覧になっている人には、なにをいつもの話題のリフレインをしているのか、と思うことでしょうが、まあ、そういうことです。
ここでは、佐藤氏が、日本社会は戦後の今も、本当は律令理性の社会である、と気がついたことが重要です。佐藤氏はまだ「律令理性」という言葉を使っていませんが、もう間もなく、私のこの言葉を口にするようになります。あと2年以内にそうなるだろう、と私は予想しています。もう少し早いかもしれません。半年後かもしれません。
それはともかく、さて、外務省からの追放が正式に決定した今、佐藤氏はどこに自分にアイデンティティーを見いだすか。
これが私には興味深いです。
日本人のアイデンティティーは、ほとんどすべての人が自分が所属している集合体にそれを見つけています。会社であったり、自治体であったり、霞が関であったり、老人クラブであったり。
「近代人」なるものを構成する最大の要因は、理論的には、ということは、近代人の定義をそのようにすれば、ということですが、デカルトの第一命題です。「我思う、ゆえにわれあり」です。律令理性人としての日本人は、もちろん、デカルトの第一原理とは無縁の人たちです。だから、集団がアイデンティティーになっています。
『国家と神とマルクス』(2007)のあとがきにこうあります。ちなみに、この本は、武村健一氏が佐藤氏の新しい知性に注目したことで世に出たということです。武村氏の御用達の出版社、太陽企画出版社からの刊行です。
「世界一級のスパイ・マスターたちの幾名かに私は気に入られ、食事をしたり、一杯やりながら、インテリジェンスの世界の失敗談、成功談、滑稽談をいくつも聞いた。これらの話を聞くうちに、私は立場が異なる人々の間に共通する文化に気がついた。これらの人々は、自国、自民族のために命を差し出す気構えをもっている。しかし、同時にその気構えが、究極のところ、神話によってつくられた物語であることを熟知している。人間は自らの命を捨てることができる物語を作る傾向があると突き放している。」p.251
インテリジェンスの人たちは、たぶん、そういうことなのでしょう。
ついでに、ニュース的な話題では、先週、アメリカで核情報をスパイしていたロシア諜報員が複数でアメリカ当局に捕まりました。今頃、佐藤氏はこの事件の分析に忙しいことでしょう。
で、佐藤氏のアイデンティティーはいかに、という問題です。
外務省を追放された後、彼はどこに自分のアイデンティティーを見つけるか?
個人的には、佐藤氏はキリスト教徒と公言しています。
これは、日本国家には依存しません。
世俗権力を抜け出す立場です。
興味深いのは、こういう信仰の持ち主が、日本国のために外務省職員として必死に働いたということです。
そして、そのことによって外務省を追放された、と。
佐藤氏は、このことをどう考えるか?
「これは神が私に与えた試練なのだ」、と考えるのか?
まあ、そのへんは佐藤氏本人の心情ですから、日本国憲法の条文が保証しているように、日本人はだれでも信教の自由があります。
私に興味深いのは、世俗的身分としての佐藤氏は、今後、日本国をいかに見るか、です。
≪誰がこの国の本当の統治者なのか≫
佐藤氏の場合は、この問いは、自分自身の身体が国策逮捕されたことにより、ジョーダンの問いではなくなっています。
日々、彼の精神を苦闘の中に突き上げる問いです。
(転載貼り付け終了)