「熊野を歩いた小沢一郎の心境」

投稿日:2010/06/15 06:58

「永田町異聞」から貼り付けます。

(転載貼り付け開始)

2010年06月13日(日)
「熊野を歩いた小沢一郎の心境」

渡辺乾介という政治ジャーナリストがいる。変り種である。

「小沢一郎以外の政治家のインタビューには興味がない」と言い切る。いまの世の中の風潮では、袋叩きにあいそうだ。

小沢一郎が海部政権の自民党幹事長だったころから20年にわたってインタビューを積み重ねてきた。もっとも小沢を知るジャーナリストといえる。

おそらくこういう人は、東京のテレビ局からお呼びがかからないだろう。小沢の本質を語ることが、ほとんどの場合、企画に沿わないからである。かく言う筆者もこの方の顔を見たことがない。

「小沢一郎嫌われる伝説」という本を昨年12月に出版した。その最初のページ「『小沢』の序」に、渡辺氏ならではの小沢評が書かれている。

小沢は政治に臨む発想とその行使と手法において自分にも人にも厳しく、それでいて手抜かりがあり、甘く、なお冷たく、政治思想を生み出すときは鉄壁の印象を抱かせる一方で、老婆心ながら何とかしたらいいのにと口を挟みたくなるほどに不用意で、なおかつ人がいい。端から見ていると驚き、あきれるほどに用心深いかと思うと、簡単に人を信じて、狐に化かされたのかと唖然とするほどの騙され方をする。そういうときの小沢は決まって「騙すより騙されるほうがいい」と言いつつ臍を噛むのが通り相場である。

いったい何が言いたいのかと苛立つ読者もいよう。しかし、筆者はこの長ったらしい分かりにくい文章に、強く惹かれた。一種のポエムのようにも感じた。

小沢一郎という人物の彫像に、細かな陰影をつけようと思えば、このような表現がぴったりといえるのではないか。

剛腕、独裁、口下手、壊し屋・・・マスメディアは、さまざまなレッテルを貼り付けるが、それはいわば「記号」のようなものであって、実体ではない。

どんな人にも、多面性、複雑性があり、時とともにその様相は変化していくものだが、小沢はとくにその振幅が大きいのかもしれない。

政治改革の構想力、実行力、指導力、あらゆる面から、卓越した政治家である小沢一郎という人物は、同時に不器用で、不用意で、弱さも人のよさもあって、騙されやすい。しかし、寡黙で言い訳をせず、説明不足のために誤解も受ける。

昨年来、東京地検特捜部の小沢とその周辺に対する常軌を逸した捜査に疑問を感じ、小沢一郎に関する多くの書物や資料を読みあさったが、その過程で筆者のなかに浮かび上がってきた小沢像は、渡辺乾介がジカに見続けてきたそれとほとんど一致する。

小沢が、自民党の中枢にいるころから、自民党政治を「足して2で割る日本的コンセンサス社会」と批判し、政治改革を志したことは周知の通りだ。

中選挙区制のぬるま湯につかっていた議員たちは本音では小沢の導入しようとする小選挙区制に反対だった。海部政権、宮沢政権、ともに「政治改革」を唱えながら実現できなかった。

小沢は同じ経世会の竹下登への反発もあって自民党を飛び出し、非自民連立の細川政権を誕生させて、衆院への小選挙区比例代表制導入、政党助成法、政治資金規正法改正など、いわゆる「政治改革4法」の成立にこぎつけた。

こうした新しい政治の動きが、自社なれあいの55年体制に風穴をあけ、脱官僚支配を掲げた昨年の歴史的政権交代につながっていく。

ところが、どういうわけかその立役者、小沢一郎はつねに「悪役」なのである。しかし、同時に「小沢vs反小沢」という対立軸の中心として、この国の政界のど真ん中に存在し続けている。

さて、なぜこんなことを書いているかというと、小沢氏が昨日、熊野古道を短時間だが歩いたという、ただそれだけの報道に触発されたからである。

毎日新聞の記事に小沢氏の談話が載っている。

「私個人も民主党も、もっと辛抱強く我慢して努力を重ねると、また国民の皆さんの信頼を勝ち取ることができる。身も心も洗われ、再生する」
 
「ポジションには固執していない。私を捨てて、あらゆることに取り組むことが改めて大事だと分かった」

20分間、背広に革靴姿の山道散策だったという。これを筆者は自らに言い聞かせる言葉と解釈した。

辛抱、我慢、努力。私心を捨て、やるべきことをやっていく。それによって、とらわれた心は解放され、心身の自由を取り戻し、再生する。

これはまさに、「禅」の精神そのものである。

97年、臨済宗円福寺で得度を受け、仏門帰依した稲盛和夫氏が小沢氏と親密な間柄であることはよく知られている。

異なる分野ながら互いに「辣腕」をうたわれ、激しい戦いに身をさらした者どうし、心の平穏と自由を求め続けてきただろうし、今もそうであろうことは想像に難くない。

民主党の再生のため、鳩山首相とともに身を退いたあとの空虚感を、怒りや怨嗟で埋めるのは愚かなことだ。

小沢氏はもはやそういう次元から離れ、「私を捨てる」すなわち「無心」の境地を求めつつ、これからなすべきことを自らに問いかけているのではないか。

毎日のように、政治評論家と呼ばれる人物がテレビに登場し、「小沢は民主党を割り政界再編に打って出るかもしれない」などと、いまだに小沢すなわち権力闘争の権化のような見方を語りたがる。

そのあまりに皮相な鑑識眼に、一人の視聴者としてただただ暗澹たる気持に落ち込むばかりである。

(転載貼り付け終了)