「民主党政権とはなんだったのか」

1094 投稿日:2011/09/02 18:14

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作家・橘玲(たちばな・あきら)のホームページ より
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2010年8月20日 橘 玲

民主党政権とはなんだったのか(1)
投稿日: 2011年8月22日 作成者: tachibana

菅首相が退陣を決意し、1週間後にはこの国に新しい首相が誕生する。これを機に、「民主党政権とはなんだったのか」を考えてみたい。

といっても、私は政治学の専門家ではないから、ここでは政治学者・飯尾潤の『日本の統治構造』を導きの糸としたい。同書は、この国がどのような権力関係よって統治されているのかを、政治家や官僚への膨大な聞き取り調査(フィールドワーク)に基づいて検証した労作で、今後も長く日本の政治を語る際の基本文献になるだろう。

飯尾は、日本の統治構造の特徴を「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」の3つのキーワードにまとめる。これら3つの要素は互いに相補的な関係(ナッシュ均衡)にあり、安定的な(なかなか変わらない)日本の「政治」をかたちづくっている。

そもそも議院内閣制とは、 民主的な選挙で選ばれた議員(国民代表)が議会を構成し、その議会に権力を集中する仕組みだ。大統領制では大統領と議会に権力を分散するのに対し、議院内閣制では、議会主権による権力の集中が行なわれる。

連邦債務上限問題をめぐる米議会の混乱を見ても明らかなように、アメリカの大統領は議会を統制する権限をほとんど持っていない。日本に政治リーダーシップがないからといって、大統領制に変えても問題はなにも解決しない。

議院内閣制では、議会内で多数を占めた政権党(政党連合)が内閣総理大臣を選出し、総理大臣は各省庁の国務大臣を指名して政府を組織する。このような権力フロー(統治構造)からすれば、政府と政権党は一体であり、議会内での対立は政権党と野党の間で起こるはずである。

ところが実際には、日本の政治には本来の議院内閣制ではあり得ない奇妙なことが頻発する。

ひとつは、各省庁の大臣に実質的な拒否権が与えられていることだ。自民党時代の閣議は全員一致が原則で、大臣が反対するものは閣議決定に回されなかった。大臣は担当する省庁の代理人(エージェント)として、省庁の利害を代表することを求められていた。

このため閣議決定には事前の根回しが不可欠で、前日に各省庁の事務次官が集まる事務次官会議が開かれ、そこで反対のなかった案件だけが翌日の閣議の議題とされることになった。

大臣が各省庁の代理人となり、その合議体として内閣が構成されるのが官僚内閣制だ。

官僚内閣制では、政府における最終的意思決定の主体が不明確化し、必要な決定ができなくなり、 政権が浮遊してしまう。これが日本中枢の崩壊だが、それは議院内閣制の問題ではなく、日本的な統治構造の必然的な帰結なのだ。
民主政(デモクラシー)では、国民(Nation)の代表である国会議員が国家(State)を統治する。これが国民国家(Nation State)だ。ところが日本では、官僚制が国家を侵食することで、この統治構造が大きく変質してしまった。

日本の官僚制は、地方政府(地方自治体、地方公共団体)や業界団体などを通じて社会の隅々にまで根をはりめぐらせている。だがこうした権力のネットワークは省庁ごとに縦割りで分断されており、各省庁は自らの権限をめぐって熾烈な競争を行なっている。

こうした組織では、政策はトップダウンではなく、現場からの積み上げによってつくられる。

業界団体などが必要な政策を省庁に要望し、所轄課がそれをとりまとめて政策の原案をつくる。この原案は「合議(あいぎ)」あるいは「相議」と呼ばれる手続きによって、省内の関係部局の同意を取りつけ、局長間の合意を経て省案となる。

こうしたボトムアップの合意形成は、責任の所在が曖昧になる一方で、現場の実情を踏まえた政策が立案され、その内容が実施担当者に正しく理解されているというメリットも持っていた。その意味では、1970年代前半までの「政策不足」の時代にはきわめてよく適応した。

日本では、官僚制は閉じた存在ではなく、社会に深い根を持っている。これは社会の側が、業界団体や政治家を通じて官僚制を侵食しているということでもある。すなわち官僚制とは、日本においては、社会諸集団の結節点として機能しているのだ。

議院内閣制では国会議員は国民代表だが、官僚内閣制では社会集団のさまざま利害を官僚が代弁することになる。これが省庁代表制で、日本は自律した省庁の連邦国家なのだから、「省庁連邦国家日本(United Ministries of Japan)」と呼ぶこともできる。

ところが70年代末になると、日本社会が成熟し政策は飽和して、さまざまな問題が露呈することになる。

官僚にとっては新しい政策を立案し権限を拡張することが最優先だから、似たような法律が乱立し、際限なく増殖していくことになった。

行政が複雑になり、権限が分散化するにつれて、「拒否権」を持つ者が増えて合意形成に時間とコストがかかるようになった。

最大の問題は、既得権に干渉するような政策の立案がまったく不可能になったことだ。こうして官僚内閣制は、90年代以降の日本の危機にまったく対処できなくなった。
日本の政治のもうひとつの特徴は、政権党が自らを「与党」と名乗り、政府から距離を置くことだ。

自民党時代は、党の政務調査会が実質的な立法活動を担い、族議員(派閥の有力議員)が政策決定を実質的に支配した。これが「派閥政治」だが、しかし先に述べたように、官僚内閣制では政府に官僚を統制するちからがないのだから、政治家がその権限を別の場所に求めるのは当然のことでもある。

与党の合意のない法案は閣議決定を行なわないという不文律が生まると、官僚は自分たちの政策を実現するために政治家の支持を得なくてはならなくなった。日本では、国会運営は党の専管事項とされ、政府(内閣)は関与できないため、与党議員の協力や野党議員の暗黙の了解がなければ法案は議会を通過できないのだ。

その結果、「国対政治」で与野党が国会審議を紛糾させればさせるほど、官僚は対応に窮し、政治家の権限が拡張していくという奇妙な現象が起きることになった。

さらには自民党の人事システムでは、大臣は能力や実績とは関係なく、一定以上の当選回数に達した議員に平等に割り振られる名誉職とされたため、実際の権力は官僚以上に政策に精通した族議員に集中することになった。これが「政高官低」で、90年代以降、若手の官僚が省庁を見捨てて政治家に転進する例が急増した。

政府・与党二元体制は、官僚内閣制と省庁代表制のもとで、「国民代表」としての政治家が行政に介入する非公式な仕組みであったが、その行動は選挙区や支援団体の利害に左右され、日本全体の利益に関心を持つことはなかった。

こうして日本の統治構造は完全に行き詰まり、「小泉改革」を経て、民主党による政権交代が実現した。

次回は、民主党(鳩山政権)が、日本の統治構造の抜本的な変革を目指したことを検証してみよう。

民主党政権とはなんだったのか(2)
投稿日: 2011年8月24日 作成者: tachibana

いまやなつかしい鳩山政権のマニュフェストを読み返すと、その冒頭に「5原則5策」の政権構想が掲げられている。「内閣官僚制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」という日本の統治構造の変革を民主党が目指していたことがよくわかるので、すこし長くなるが引用しておこう。
【5原則】
原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。

【5策】
第1策 政府に大臣、副大臣、政務官(以上、政務三役)、大臣補佐官などの国会議員約100人を配置し、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、調整、決定する。
第2策 各大臣は、各省の長としての役割と同時に、内閣の一員としての役割を重視する。「閣僚委員会」の活用により、閣僚を先頭に政治家自ら困難な課題を調整する。事務次官会議は廃止し、意思決定は政治家が行う。
第3策 官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する。
第4策 事務次官・局長などの幹部人事は、政治主導の下で業績の評価に基づく新たな幹部人事制度を確立する。政府の幹部職員の行動規範を定める。
第5策 天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止する。国民的な観点から、行政全般を見直す「行政刷新会議」を設置し、全ての予算や制度の精査を行い、無駄や不正を排除する。官・民、中央・地方の役割分担を見直し、整理を行う。国家行政組織法を改正し、省庁編成を機動的に行える体制を構築する。

「内閣官僚制」とは、内閣総理大臣の指示に従って国務大臣が省庁を統治するのではなく、各大臣が省庁の代表としてふるまうことだった。そこで民主党は、事務次官会議による事前の根回しを廃止し、そのかわりに政治家を大量に省庁に送り込んで、政治主導の意思決定を行えるようにした(幹部職員の人事も政治家が決めるとした)。

それと同時に、事務次官会議に代わる総合調整の機能として「国家戦略局」を創設し、予算の骨格の策定まで行なうとマニュフェストには記した。

「省庁代表制」では、中央政府は地方政府や業界団体を手足のように使って、社会諸集団の利害を代弁し、政策の立案から遂行までを行なってきた(同時に利害関係者は、政治家や業界団体を介して官僚の意思決定に影響力を及ぼした)。

そこで民主党は、地方政府に大幅に権限を移譲するとともに、「ひもつき補助金」を廃止して自由に使える「一括交付金」にすることで、地方政府を財政的にも自立させ、中央政府との役割分担を明確にしようとした。それと同時に、天下りや渡りなどを全面的に禁止し、官僚と民間との癒着を絶つことを目指した。

「政府・与党二元体制」では、政権党が「与党」として政府から距離を置くことで、族議員など党(派閥)の有力者による非公式の行政への介入が常態化していた。民主党のマニュフェストでは、政府と与党を一元化し、意思決定を内閣に集中することを明確にうたった。

ところで、こうした「改革」は民主党の独創というわけではない。自民党政権でも日本の統治構造の欠陥は認識されており、改革への努力は始まっていたと飯尾は指摘する。

橋本内閣では、行政改革会議を中心に内閣機能強化と省庁再編が実施された。各省庁に副大臣と政務官を配置することにしたのは小渕内閣で、小泉内閣では経済財政諮問会議で基本政策を決め、首相主導の内閣がトップダウンで政策を実施する「大統領的」手法がとられた。

それと同時に、官僚の世界でも変化はすこしずつ起きはじめていた。

まず、政権中枢に近い内閣府の官僚に権限が移行することで事務次官を頂点とするキャリアパスが揺らいできた。さらには地方自治体が独自性を主張することで、明治以来の中央官庁の威信も低下した。

自民党から民主党への政権交代は、こうした政治改革の流れをさらに加速させるはずのものであった。

政治改革の目的は、議院内閣制の下で内閣に権力を集中させることだ。しかしこれは、一歩間違えば独裁へとつながりかねないから、権力を統制する仕組みが不可欠となる。それが、政権交代だ。

自民党時代は派閥抗争によって擬似的な政権交代が行なわれてきたが、民主党はマニュフェストという「国民との契約」を掲げて選挙をたたかい、政権交代できることを示した。

政権党の内閣に権力を集中させても、その結果に満足できなければ、次の衆院選で政権交代させればいい。権力統制の仕組みとしては、こちらの方がずっとすっきりしている。民主党は、政権交代という選択肢を有権者に提供したことで、強大な権力を行使する正統性を得たのだ。

2009年の民主党は、(すくなくともマニュフェストのうえでは)日本の統治構造の問題点を明確に意識し、その変革を目指していた。「ばらまき4K」は政権交代のための方便であり、税と社会保障の一体改革は新しい政治体制でこそ実現可能になる。だとすれば政治=行政改革こそが、民主党政権の本質だったのだ--たぶん。
ところが鳩山政権は、当初こそ事業仕分けで喝采を博したものの、マニュフェストにも記載のない沖縄・普天間基地の移設問題で国会を紛糾させ、さらには小沢一郎幹事長(当時)が政治資金規正法違反で強制起訴され、鳩山自身も個人献金の虚偽記載が明らかになったことで行き詰まって政権を投げ出してしまった。

代表戦の結果、菅直人が総理の座を担うことになったが、その直後の参院選で大きく議席を減らし、衆参のねじれ国会で立ち往生することになった。その後、東日本大震災と福島原発事故で延命したものの、けっきょく政治改革はなにひとつ進まないまま辞任することになった。

しかし菅首相は、皮肉にも、日本の統治構造における内閣総理大臣の権限を明らかにするうえで大きな貢献をした。そのことを示す好個のエピソードがある。

7月27日、菅首相は海江田経産相の頭越しに、経済産業省に対し電力需給に関する情報をすべて開示するよう文書で指示した。この措置に対して海江田大臣は、「私は全部開示してきた。これまでやってきたことはほとんど無駄だという思いだ」「悔しい。信用されてないと思った」「私の行動に納得がいかなければ、そのときは首を切っていただくことになる」などと述べた。

さらに29日の衆院経済産業委員会で、自民党議員から早期辞任を求められた海江田経産相は、「もうしばらくこらえてください。お願いします。頼みます」などと声を詰まらせ答弁し、席に戻った後、涙を堪えきれず顔を手で覆った。

『日本の統治構造』で飯尾は、日本の内閣総理大臣は憲法上は強大な権限を持っているものの、内閣法ではなんの権限もないと述べている。

憲法第72条には、「(内閣総理大臣は)内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」と定められている。これによれば、内閣総理大臣には各省庁官僚を使って、行政事務を実施する権能が与えられていると解される。

一方、内閣法第3条は、「各大臣は、別に法律に定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する」とある。これを厳密に適用すると、内閣総理大臣は、分担管理大臣としては、内閣府(かつての総理府)の長としての権能しか持たない。すなわち、その他の各省庁に指揮監督権を行使することはできず、総理大臣にはほとんど権限が残っていないことになる。

これまでは内閣法に則って、あるいは慣習として、首相は大臣を通じて行政を統括し、各省庁に直接の指示・命令は出さないことになっていた。だからこそ海江田大臣は、菅首相の仕打ちを自分に対する侮辱ととらえたのだ。

しかしこの騒動は、制度上、内閣総理大臣はオールマイティに近い権力を持っていることを明らかにした。浜岡原発の運転停止要請にせよ、全原発に対するストレステストにせよ、日本の総理大臣は、やろうと思えばなんだってできるのだ。

しかしこれは、民主党がマニュフェストで高らかにうたった「政治主導」とはまったく異なるものだ。

マニュフェストによれば、総理直属の「国家戦略局」に官民の優秀な人材を結集し、そこで策定された国家戦略に基づいて、首相の強力なリーダーシップの下、各省庁を統括する国務大臣や副大臣、政務官などの政治家が官僚を指揮して政策を立案・実行することになっていた。

だが国家戦略局は「国家戦略室」に格下げされ、その位置づけも曖昧で、大震災以降もほとんど存在感を示せていない。そうなると、首相がどのような手続きを踏んで意思決定をしているのか外部からはまったくわからなくなる。これが、経産省や電力会社に対する一連の指示・要請が「思いつき」「パフォーマンス」と批判された理由だ。

これは控えめにいっても、民主党がマニュフェストで主張した「新しい日本の統治構造」とはまったく関係のない、グロテスクな権力行使だ。「権力の集中」が、総理大臣が恣意的に強大な権力を行使することなら、これはたんなる独裁にほかならない。

民主党はきわめて理念的に日本の統治構造を分析し、設計図を引き直すようにシステム全体をつくりかえようとした。それは自民党時代からの共通認識に基づくもので、淵源をたどれば小沢一郎の『日本改造計画』に行き着くのだろうが、現状分析や対処法(ビジョン)が間違っていたとはいえない。

それではなぜ、民主党の「日本改造計画」は失敗してしまったのか。鳩山政権の金銭疑惑や菅政権での参院選の敗北がなければ、民主党はマニュフェストどおりの改革を実現できたのだろうか。次回は、そのことを考えてみたい。

民主党政権とはなんだったのか(3)
投稿日: 2011年8月26日 作成者: tachibana

「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」という日本的な統治構造では、仕切られた省庁の枠組のなかで、ボトムアップの合意形成によって政策がつくられていく。この仕組みは戦後の復興期、社会の各層に的確な政策が必要とされていた時期にはきわめてよく適合した。

だがこの大きすぎる成功体験が、冷戦終焉以降の歴史的な変化に乗り遅れる原因ともなった。「省庁連邦国家日本」には、国益のためにトップダウンで合理的な意思決定をする仕組みが備わっていないのだ。

そこで民主党は、2009年の政権交代を受けて、日本の統治構造の改造に乗り出すことになる。

民主党の「原理主義者」たちの理解では、政権交代後にこの国にふたつの権力が並立することになった。ひとつは選挙で選ばれた国民代表を基盤とする民主党内閣、もう一つは省庁代表を基盤とする官僚内閣だ。

ひとつの国にふたつの権力は並び立たないのだから、民主党内閣は、権力闘争によって官僚内閣を打倒しなければならない。このようにして事業仕分けによる官僚バッシングが始まったのだが、じつは主戦場は別のところにあった。

日本の官僚制は、大きく3つの権力の源泉を持っている。

ひとつは、官僚だけが事実上の立法権を有していることだ。

日本では、内閣法制局の審査を通った法案しか国会に提出できない。これは、法令体系を統一的で相互に矛盾のない規定によって構成するためだとされるが、複雑怪奇で膨大な法令データベースを参照できるのは現実には担当部局の官僚だけであり、立法府のはずの国会はほとんど立法機能を持っていない。

二つ目は、法律の解釈を独占し、事実上の司法権を有していることだ。

地方自治体では、法令について不明な部分があると省庁の担当部局に問合せ、官僚が正しい解釈を伝えることが当たり前のように行なわれている。これも法令についてのデータベースを独占しているから可能になることで、官僚は立法権だけでなく司法権も行使できるのだ。

三つ目は、予算の編成権を持っていることだ。

日本国の予算は各省庁の要望を財務省(主計局)が「総合調整」したものだから、官僚が自ら予算を編成しているのと同じことになる。もちろん政治家は族議員などを通じて予算に関与することができるが、官僚と族議員(ロビイスト)は共生関係にあり、こうした非公式の影響力では官僚の権限は揺るがないのだ。

日本は憲法のうえでは三権分立だが、実際は省庁が行政権ばかりか立法権と司法権を有し、予算の編成権まで持っている。さらには、各省庁は法によらない通達によって規制の網をかけ、許認可で規制に穴を開けることで業界に影響力を及ぼし、天下り先を確保している。

こうした権力の源泉を絶つためには、政と官の役割の徹底した組みなおしが必要だ。

アメリカやイギリスでは、「後法は前法を破る」「特殊法は一般法に優先する」といった概念をもとに法令の有効性を判断し、法令相互の矛盾を気にせず法律をつくり、最終的には裁判所による判例の蓄積で矛盾を解決している。これが議員立法が活発な理由で、小沢一郎は、内閣法制局を廃止することで官僚から立法権を奪取し、国会を名実ともに立法府とすることができると繰り返し主張している。

また政治=行政改革では、司法の機能を強化するとともに、官僚の恣意的な法令解釈を排除し、利害関係者が司法の場で法令の解釈を問うことを目指した。

さらには予算の総合調整機能を財務省から国家戦略局もしくは内閣予算局に移行するとともに、民主党の議員が個別に霞ヶ関に陳情することを禁止し、党の要求は幹事長に一元化することにした。

だがこのなかで実現したのは霞ヶ関への個別陳情の禁止だけで、それ以外の官僚の権限に手をつけることはできなかった。

本来であれば、憲法によってその権威を保証された議院内閣に対し、たんなる非公式な慣習でしかない官僚内閣が対抗できるはずもなかった。だが普天間問題で鳩山政権が求心力を失うと、立法・司法・行政権を独占する官僚に、「権力の集中」を目指したはずの内閣は実務を丸投げするほかなくなった。

だがこれは、官僚制が権力闘争に勝利した、ということではない。自分たちの組織が機能不全を起こしていることは、彼ら自身にも認識されていたからだ。
「官僚支配」というのは、各省庁が共同して日本を統治しているということではない。官僚制の本質は、権限の範囲を仕切られたなかでの省庁同士、あるいは省庁内部の局や部、課のあいだの権限争いで、そこには共同の意思はなく、各自が自分たち(と関係者)の利益を最大化するために合理的に行動しようとする。

こうした組織は、合意形成の積み上げによって意思決定するのだから、経済が拡大するなかでの分配には長けているが、全体のパイが縮小するとたちまち足の引っ張り合いを起こしてしまう。太平洋戦争における陸軍と海軍の確執がその典型で、彼らの全精力は敵とたたかうことではなく、内輪もめに対処することに割かれていた。

もちろんこんなことは、これまで繰り返し指摘されてきた。しかし、日本でもっとも知的なひとたちの集まりであるはずの官僚制は、何十年たってもこの欠陥を自ら修正することができない。

いつまでたっても変わらないのは、変わらないことに合理的な理由があるからだ。

そもそも公務員の人事制度は、日本社会と独立に存在するわけではない。終身雇用と年功序列を絶対の掟とする公務員人事は、日本的雇用制度の純化した姿だ。

公務員制度改革の理念では、官僚を企画(総合職)と実施(一般職)、および技官(専門職)に分け、政策の立案に携わる企画官僚は内閣に新設される人事局でプールし、省庁を横断して最適な人材を派遣していくことになっていた。これがもし実現すれば、省庁の縦割りは意味を失い、日本の官僚制は革命的な変化を起こすだろう。

だがこの理想世界には、決定的に重要な前提条件がある。

新しい公務員制度では、企画官僚は政権党のシンクタンクの役割を果たすことになるが、常に最適なポストがあるとはかぎらない。幹部の人数は限られているのだから、人材プールで待機中は民間企業で働くことになる。アメリカで行なわれている、官と民の「リボルビングドア」だ。

ところが年功序列と終身雇用の日本的雇用制度では、たとえ現役官僚であったとしても、企業は中途採用をしたがらない。そこで省庁が、コネを使ってなんとか引き取ってもらうというのが「官民交流」の実態になっている。これはもちろん官と民の癒着の温床になるが、だからといって禁止してしまうと、官僚は再就職できなくなって省庁に滞留するほかなくなる。

民主党は、日本的な雇用慣行をそのままにして、官僚制だけをアメリカ型に改造しようとした。彼らに欠けているのは、アメリカの公務員人事制度は、アメリカの労働市場に最適化されているという視点だ。

アメリカでは労働市場の流動性が高く、異業種への転職も頻繁に行なわれ、中途入社は当たり前だ。だからこそ、能力と実績を買われた官僚が民間企業に転職したり、成功したビジネスマンが省庁幹部に政治任用されたりする。

官僚機構をアメリカ型につくり変えるには、その土台である日本的雇用制度を解体しなければならなかったのだ。

官僚制度は誰かが意図的につくったわけではなく、日本社会のなかで自生的に生まれ、歴史のなかを連綿とつづいいて、高度成長期にいまの姿に拡張を遂げた。それは私たちの身近な生活に深く根を下ろし、そこから養分を吸い上げてきた。

私たちは、公務員制度改革を自分たちには関係のない話だと考え、既得権にしがみつく官僚たちに憤慨し、事業仕分けで立ち往生する様を嘲笑した。だがひとは、鏡に写った姿だけを都合よく変えることはできない。

「日本改造」とは、官僚の天下りを禁止することではなく、日本そのものをドラスティックに変えていくことだ。しかし、連合の支援を受けた民主党政権に日本的雇用に手をつける覚悟があるはずもなく、そもそもどの程度理解していたかも疑わしい。マニュフェストは、最初から絵に描いた餅だったのだ。

このようにして「改革」は予定調和的に破綻し、いまでは大臣は省庁の代理人に戻り、与党と政府が責任を押しつけあう旧態依然の統治構造に逆戻りしてしまった。

「改革」は、戦後日本の統治構造が機能不全に陥ったからこそ、やむなく始まった。それがうまくいかないからといって元に戻しても、問題はなにも解決しないばかりか、事態はさらに悪化していくだけだ。これは次に誰が首相になっても同じで、仮に大連立が成立したとしてもさらなる混迷に陥るだけだろう。

私たちは、次なる衝撃に備えなければならない。
(以上貼付)