「政策論の失速とモメンタム減衰 – ネガキャンに巻き返された後半戦」

投稿日:2010/09/11 07:57

「世に倦む日日」から貼り付けます。

(転載貼り付け開始)

2010.9.10.
「政策論の失速とモメンタム減衰 – ネガキャンに巻き返された後半戦」

先週は、小沢一郎が政策論で押しまくり、新鮮な風を吹かせて代表選の序盤を制したが、今週に入ってすっかり形勢が変わった。一つは、小沢一郎の政策論の攻勢が衰えて止まったことがあり、もう一つは、菅陣営による猛烈なネガキャンの巻き返しがある。菅陣営とマスコミの反撃は、政策主張以外の戦略兵器を動員したもので、週初からは世論調査の十字砲火、週中には鈴木宗男の失職と収監、そして青木愛の不倫報道と、用意周到で効果的な作戦が波状攻撃で展開された。鳩山マニフェストの原点へ戻れと訴える小沢一郎の「政治主導」の主張は斬新だったが、その中身として提示した一括交付金の議論は、繰り返すうちに反論を受け、当初の清冽な説得力を失っている。論戦の経過の中で、言わば政策論のガス欠の状態に陥った。予算編成の問題を争点に据え、「官僚主導」を批判する政策戦略で臨むなら、一般会計と特別会計を統合して207兆円全体から財源を捻出する方向に議論を集中させ、その具体案(積み上げ)を開示するべきだった。それは、特別会計の中身を洗い出し、天下り法人など官僚の裏金庫に隠されているカネの流れを暴くことを意味する。その具体案が出せなくても、一般会計と特別会計を統合する法手続きを言うだけでも、説得力のある主張となって財源論争をリードできただろう。特別会計はそもそも国民の税金が原資なのだから、それが国会の審議や監視の外に置かれ、運用が官僚に私物化されている現状が異常なのだ。
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一括交付金の問題は、報道されているように社会保障費の部分は削減が難しく、財源捻出の対象として有効なのは公共事業の部分に限られる。したがって、地方への補助金21兆円を全て一括交付金で渡せば、地方はその7割で行政が可能ということにはならないし、3割分が新規財源として国に捻出できるという図にはならない。一括交付金を財源捻出策として過剰に演出して説明を続けたところに、小沢一郎の政策攻勢の限界と蹉跌があったと言うべきだろう。福井県の村のスキー場と融雪設備の補助金の事例は、序盤戦に一回か二回だけ紹介するジャブに止め、それを代表選の論戦の中核に据えて貫徹するべきではなかった。持ち玉が少なすぎる。財源論で論争を企図する場合は、あくまで総額176兆円の特別会計に焦点を当てるべきで、官僚が運用益を積み上げている剰余金や不用金と呼ばれるものを財源化する提案を主軸にするべきだったと思われる。埋蔵金の議論が起こったのは今から3年前だったが、高橋洋一がそれを言い始めたとき、財務官僚や与謝野馨や伊吹文明は存在そのものを否定していた。山岡賢次は、30兆円の埋蔵金を現在でも引き出せると言っているが、これを一笑に付せないのは、3年前のそうした経緯を見ているからだ。特別会計の埋蔵金の問題を財源政策として展開したとき、「官僚主導」の問題は最もクリアに浮かび上がる。

攻める方は攻めやすく、国民に納得と共感を求めやすい。守る側は官僚を守る立場になり、防戦はきわめて困難になる。財源論争は特別会計をテーマに設定すべきだった。紐付き補助金と一括交付金の問題にフォーカスしたのは、率直に言えば、小沢一郎の判断ミスである。さらに、もう少し言えば、この「地方に財源と権限を全て移す」政策思想には、ナショナル・ミニマムを危うくする問題が伏在していて、その危険性に注意しなくてはいけない。財源を全て地方に移す場合、何を基準にしてどこにどれだけ移すかが問題になる。首長たちが言っているとおり、自分の県が貰う支給総額が減っては意味がないからだ。現在の小沢一郎は、道州制にそれほど積極的な姿勢は見せていないが、自由党時代はその急先鋒だった。小沢一郎の今回の「地方に財源と権限を移管」のリピートを聞いていると、そのフレーズが現在でも神通力を持っていると小沢一郎が錯覚し、政情を過信しているのではないかと不安になる。地方に税源と権限を移せば何でもよくなるという主張が説得的に響いたのは、今より税収に余裕がある時代のことだった。今は、その前に税収全体を上げる方が先で、地方に分配する総額が減っては地方経済の活性化には結びつかない。スリム化には限界があり、地方は骨と皮になっている。この問題で俎上に上げるべきは、むしろ国の出先機関の廃止であり、二重行政の重複を解消する論点である。

地方整備局と地方農政局の機能を自治体に移管する行革課題だ。この政策は、政権交代前の民主党が特に強調していた背景がある。一昨年の「道路ミュージカル」の散財行政(整備局)や、事故米の隠蔽に関与した放漫行政(農政局)で槍玉に上がり、世論から強く待望されていて、民主党が政権を取った暁には、真っ先に着手される行革事案だろうと誰もが予想していた。ところが、1年経っても放置されたままで、今ではすっかり議論が消えてしまっている。官僚の軍門に降った政権には、その意思と目標はとっくに捨てられている。すなわち、菅直人の怠慢と変節が衝かれ、攻める小沢一郎に得点が上がる絶好の政策論点であろう。何度も繰り返し言うのであれば、一括交付金ではなく、二重行政の解消を言えばよかった。僕なら実行すると断言すればよかった。小沢一郎の剛腕神話を訴求する材料として最適な小道具となったに違いない。この論点を持ち出さなかったのは、自治労への配慮が先行したからだろうか。脱力する噴飯な話だが、自治労は仙谷由人を応援している。いずれにせよ、一括交付金論の固執とそれに対するマスコミの執拗な反撃によって、小沢一郎の政策論攻勢は失速し、期待と勢いを萎み衰えさせて行った事実は否めない。一週間前の「政策の小沢」の印象が、「古い政策に拘る小沢」に変わった。そこに、マスコミの世論調査の絨毯爆撃があり、鈴木宗男と青木愛の連続弾が放たれ、小沢一郎の劣勢が顕著になっている。

小沢一郎の失速については、政策論の中身だけでなく、選挙戦の手法や戦術の面についても問題点を指摘できる。9/3のテレ朝スパモニ出演、9/4と9/5の新宿と梅田での立合演説会、9/6の高知での川上戦術と、ここまでは素晴らしかった。が、そこから停止状態にある。例えば、沖縄の普天間基地に飛んでもよかったし、トレードマークの山間僻地への行脚は一日一回はやってよかった。民主党の議席のない山口とか、参院選で確執を残した静岡などが、効果が上がる場所だったと思われる。とにかく、その地点にはマスコミが大挙して集まるのである。撮影された映像が必ずニュースで報じられる。紺と赤と緑の「国民の生活が第一」の絵がテレビに出る。地方第一の姿勢が茶の間を説得する。その演説の空間に、菅原文太などの親交のある支持タレントを呼び、ツーショットの絵を作ればよかった。プリファレンス(支持率)の向上に繋がる。マスコミの世論調査の攻勢に対する反撃材料になる。それと、すでに多くから言われているが、ネットを使った選挙戦術が弱すぎる。これは、小沢一郎本人がネットを使ったことがないためだが、側近がその意義と効能を説明し、テレビでの政策主張の後はネットを主戦場にする作戦を組むべきだった。例えば、小沢派と反小沢派の議員による政策論争は、テレビでなくネットの場に持ち込んで、アーカイブを見せればよいのだが、そういう企画が一本も立ち上がらなかったのは残念な点だ。小沢派の中に参謀総長の人間がいないのである。

この点は、単に戦術上の問題と言うだけに止まらず、小沢軍団の人材の層の薄さを強烈に印象づけるマイナス要因で、代表選の票の行方にも影響を与える問題ではないか。鳩山由紀夫などは、平田オリザをスピーチライターに起用して、上手に世論の点数を稼いでいた。そういう演出の工夫は小沢一郎も採用するべきで、本人の努力が足らないと言わざるを得ない。もっと「変わる」必要がある。今からでも遅くないから、ネットを本格的に使い始めるべきで、道具として政治に利用するべきである。マスコミは敵陣営なのだから、マスコミを戦場にして闘えば地の不利は明らかではないか。Ustreamの活用について、ここで喋々するまでもないが、小沢一郎は今は旬のコンテンツなのであり、最新の動画情報を配信すればそこに必ず人が群れる。つまり視聴率が取れる人気キャラクターの存在だ。テレビは、小沢一郎の印象を悪くする目的で編集して放送しているが、ネットではその心配のないまま安全に映像を流せるわけで、これを活用しない手はない。例えば、鳥越俊太郎とか、森永卓郎とか、久米宏と対談する企画で映像を作り、それを流せば、相当なアクセスを取れただろうし、その評判をマスコミが無視することはできなかっただろう。今、テレビが蓮舫と細野豪志に討論をさせたりしているが、あれをネットでやればよく、ネットの中で小沢支持派と菅支持派が本格討論すればいいのである。政治報道をマスコミに独占させず、ネットがシェアを持つとはそういう姿だ。今週、もっとそういう動きがあってよかった。

小沢一郎がモメンタムを作れる空間はネットしかないのだ。それと、政策論の問題に立ち戻って、気になる点として、小沢一郎の論点と主張のスケールがどんどん小さくなって行った問題を感じる。この代表選を報道するマスコミが世論を代弁して言う一つの要求として、両候補は大きな国家ビジョンを論争して欲しいという点があった。これは、二人とも大きな国家の将来構想を出していないという苦情の裏返しであり、多くのマスコミ論者が同じ意見を持っている。われわれも、同じ不満を持って代表選を見ている。この点について言えば、小沢一郎以上に問題なのは菅直人で、大きな構想はおろか小さな政策まで何もなく、あるのは「雇用」の連呼だけで、論外としか言いようがない無能な様を呈している。そして、論者たちもわれわれも、菅直人に構想の提示など最初から求めていないし、そんなものが出る政治家とも思っていない。論者たちがリクエストをしているのは、小沢一郎に対してなのだ。小沢一郎に国家ビジョンの提示を求め、それを論評したくてたまらないのである。その角度から見たとき、残念ながら、小沢一郎の代表選の政策論は、時間の経過と共に逆に小さく小さくなって行っている。政治主導と予算編成を勢いよく打ち出した先週と打って変わり、今週は2兆円の予備費支出とか、目先の小さな円高対策と財政出動の話になってしまっている。小沢一郎に期待されているのは、もっと大型の政策構想であり、中長期の新しい国家計画だ。それは、「国民の生活が第一」を哲学とするものである。そこへ議論を持って行けばよかった。

「国民の生活が第一」は、すでに単なる政治標語ではなくなっている。小沢一郎の政治哲学を象徴する語であり、この上に、小沢一郎は大型の政策構想を乗せればよいのである。鳩山マニフェストを超える「新日本改造計画」を打ち出せばよいのだ。

(転載貼り付け終了)