「希望」
2010年09月16日
「希望」
昨日の本ブログ「菅内閣で日本は破滅へ」にいくつかコメントをいただいた。
Caccyo様にはコメント欄でお答えした。つづけて500様からも心肝を叩かれるようなコメントを頂戴したので、こちらで回答する。直接には14日の民主党代表選における菅直人が不正選挙で首相再任になった絶望的状況をどう捉えるか、でありつつ、深くは絶望にはどう向き合うかをしたためて500様へのお答えとしたい。
Caccyo様からは、「我々の子供たちに明るい未来は来るでしょうか?」と、胸に突き刺さるようなお言葉をかけていただいた。
それに対して私は、以下のようにいささか冷めた返事を書いた。
「明るい未来は来ないでしょう。
なぜかなら、それは古代社会からずっと現代まで、民は虐げられ、外国勢力やときの政権に押さえ込まれてきているからです。
しかし、われわれはその虐待にめげずに闘ってきた先人に連なろうと思うのみです。
希望はほとんどが打ち砕かれる運命にあるのですが、「にもかかわらず」希望を後世に託して生きられるかどうかが、人間の価値を決めるのだと思います。
人間はプライドです。勝てなくとも、絶望でも、プライドを堅持することのみ…。」
この回答では短すぎると思いつつ、続けて500様への返事をコメントしようとしたが、長くなるのでこちら本欄に書く事にした。あわせてCaccyo様への追伸である。
500様のコメントの一部をこちらに書いておく。
* * *
昨日の民主党代表選に落胆し絶望していたところこの項を読み、日本人としてこの時代の苦難にどう向き合っていけば良いのかのヒントを得たような気がします。所詮力をもたない一庶民にできることもないと悶々としていましたが、日々自分を高めていく努力をしていくことが今の自分にできることなんですね。毎日をもっともっと大切に過ごしていこうと思います。
* * *
14日の民主党の(菅支持者の)裏切りは、小沢氏に大きな希望を託していた、誠実な、理非のわかった人たちに衝撃を与えた。多くの方はこの500様のように、打ちひしがれているのかもしれない。
昨日の阿修羅掲示板を見ると、怒髪天を突く怒りをぶちまけている人もいる。
「国民は、幾ら言葉を尽くしても言うことを聞けないことが良く解った。つくづく日本に、日本人に愛想が尽きた。言葉を弄して国民を欺き、官僚、アメリカにへりくだる菅一派を斯くのごとく支持する、民主党員、サポーターの愚劣さは吐き気を催す。
そういうクソ集団が支持する民主党など自民党よりも汚く、幼稚性は将来何の希望ももたらさない。今は、ともかくクタバレ民主党。クタバレ日本、と言う以外の気持ちが起こらない。」(天橋立の愚痴人間)
気持はよくわかるけれど、ここで地団駄踏んでもしょうがない。昨日もブログに書いたが、たとえ14日に小沢氏が勝利しても、首相にしないどんでん返しが待っているように私は予想していた。ユダヤ・マフィアが小沢首相実現を許すわけがないからである。
昨日も書いたが、副島隆彦氏が言う、ここは悲観せず、絶望的にならず、自重して生き残っていかねばならぬという主張に賛同する。しかし副島氏は、いざとなったら直接の街頭行動も辞さないなどと読者を煽っておきながら、これでいいのかとはおもうけれど…。
話を戻せば、500様の意見は「所詮力をもたない一庶民にできることもない」と、落胆して書いておられる。
悔しいことながら、これはそのとおり、力をもたない一庶民には「できることもない」のである。仮に何か成功しかかっても、次の瞬後には潰されるのだ。
なぜ潰されるかといえば、あまりにユダヤの力は強大で、しかもその陰謀を信じないノー天気な大衆が圧倒的多数を占め、簡単にだまされているからだ。
希望は砕かれる。必ず。いっとき解放されることがあっても、すぐ潰される。それが人類の歴史であった。清教徒革命だろうがフランス革命であろうが、みな同じ。大きくはこうした革命はユダヤ・マフィアが仕組むからだ。
日本でも西郷隆盛が「首相」の時代に、庶民解放が矢継ぎ早になされたが、あっという間にユダヤ・マフィアらによって潰され、西郷は追放され、最後は報復として殺された。
しかし、われわれは500様が愚痴るようには「悶々として」はならないはずである。
なぜかはただ一点、人間はプライドなのだから。
歴史には、悪と闘った先人の屍が累々と続いている。映画の題名を借りるなら「長い灰色の線」が続く。映画の意味はアメリカ陸軍の制服の色を灰色と言っているのだが。
悪と闘った先人の屍は我らの誇りである。聞く耳(心)があれば彼ら偉人たちが、「俺たちの屍を超えていけ!」と叫んでいる声が聞こえるであろう。
このことから学ぶべきは、以下のことではないだろうか。
「希望」とは“今”で捉える場合は、乙女が希望に胸を膨らませるとか、夢は必ずこわされるとか捉えるような辞書的な意味だけではなくて、「生活と生活過程の違い」(2010.9.2~4)で説いたように、「希望」はいわば「希望過程」としても捉えるべきと言えよう。「 悪と闘った先人の屍が累々と続いている」とは、彼らが希望に殉じて、途半ばで殺されたり、自殺したりして果たせなかった歴史が連綿と続いているけれど、それを人類史の栄光の過程を捉えることこそ弁証法的な捉え方であり、「希望過程」と言ってよいように思う。
14日の最後の候補者演説で、小沢一郎氏はテロに倒れた石井紘基氏の遺志を継ごうと語りかけたそうだ。石井紘基を裏切って殺した(?)菅直人は知らぬ顔。
石井紘基は「悪と闘った先人」であり、彼も「俺の屍を超えていけ!」と叫んでいるはずだ。やがて小沢氏も、「私の屍を乗り越えて行け」と叫ぶ側になるであろう。
彼ら「悪と闘った先人」がわれわれに遺しくれたものは、ひとことで言えば人間としてのプライド、その把持である。
唐突な例であるが、特攻隊で戦死した英霊たちは、後世のわれわれに何を残したであろうか。そのことを私はよく考える。
彼らは、死を前にして必ずしもお国のためにとは思っていなかったのではないか。戦士たちは、きっと、なにかを後世に残したいと念願して逝ったと思う。みなさんはそう思いませんか? それを見事に書き留めたのが、吉田満の『戦艦大和の最期』であった。
彼らはむろん大東亜戦争が八百長であることなど知るよしもなかったが、虫けらのように殺されていく己が身の運命を受け入れざるを得ないなかでも、彼らはきっと「人間とは何か」「どう死ぬ事が人間なのか」「どうすることが自分というの人間が後世につながっていくのか」と問うていたのではないだろうか。
なぜかならば、そう問えることこそが、人間の人間たる証だと、彼らは知っていたと思うからだ。また、そう捉えることが彼らとココロでつながることだし、「希望過程」となるのだ。
われわれも彼ら特攻隊の英霊と同じように、今、ユダヤ・マフィアや、トーイツや、官僚や、電通や、マスゴミや、政治家らによって、財を奪われ、生命力を奪われ、希望を取り上げられている。昨日ブログで説いたように、日本人を乗せた列車は線路の途切れた断崖に向かってますます加速して突っ込んでいくだろう。
しかし そんななかにあっても、われわれがなすべきはかの特攻隊の先達と同じように、人間としての矜持を堅持することではないだろうか。
むろんそれが現政権への抵抗運動であってもいい。打倒民主党もあり得よう。
それを止めはしない。けれど、必ず失敗すると覚悟を決めてやることだ。それで誰を恨んでも始まらない。正義は負けるのである。
私は何度かこのブログで説いたが、あの南北朝時代の光厳(こうごん)天皇の生きざまからそれを学んだ。勝者(?)は後醍醐天皇だとなっていて、同情もこの男に集まる。光厳院は名前さえ知らされない。
が、それは違うと思っている人間は、日本中探してもおそらく100人にも満たないだろう。
そのことを本ブログ「常照皇寺の“正気”」(2007年1月1日)や、「『風雅和歌集』論(1~13)」(2008年1月7日~19日)などで論じた。
光厳院は、何度も書くが、歴代の天皇のなかで唯一、戦争責任をとった偉人である。ヒロヒトのように卑劣な責任逃れをしなかった。光厳院は敗れた人であり、隠遁した方である。誰も注目しない。たぶん短歌に詳しい好事家くらいしか名前を知られていまい。
けれど、私の心のなかでは光厳院は燦然と輝く、希望の星であり続けている。これが「希望過程」という。
14日の政変でなぞらえるなら、菅直人が後醍醐で、小沢が光厳院なのである。
光厳院は最後に現在の京都京北町の山中に庵を編んで住み着き、そこで亡くなって、寺は常照皇寺となった。現在の常照皇寺を訪ったとき、同寺のご住職を話をすることができた。住職は淡々としてこう言った「正しいほうがいつも負けるのだよ」と。
万感の思いがこもっていた。私にとって忘れられない言葉となった。
負けていいとは言っていない。Caccyo様のおっしゃるように、明るい未来を子どもたちに残してあげたい。その戦いもやらねばなるまい。しかし、と私は言いたい。
打倒民主党も結構であろう。政治的行動が意味が無いとは言わない。
だが、そうでなくても何か人類の歴史性に棹させるものを後世に残せれば、それで良しというべきか、後世の人たちは必ず認めてくれるものだと思う。
最後にわが師の“メッセージ”をご参考までに載せておきたい。
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読者のみなさん。
また新しい年を迎えました。昨年の日本のというより全世界の自然的社会的な大激動の影響をみなさんも受けていることと思います。端的には生活が突然レベルで苦しくなってきているみなさんも数多くいるはずです。
でも、苦しい、辛いとの弱音は吐かないで(吐いてもよいのですが)人間としての生きる意義だけは忘れないでほしいものです。
少し、むごい発言ととられるみなさんもいることと思いますが、私はそれでも自らの人生構築のために頑張ってくださいといいたいのです。(「綜合看護」2010年1号 南郷継正「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義」45)
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(転載貼り付け終了)