「小沢一郎へのテロとリンチ、迫害と弾圧 – 政権交代の転覆、革命」
「世に倦む日日」から貼り付けます。
(転載貼り付け開始)
2010.9.8.
「小沢一郎へのテロとリンチ、迫害と弾圧 – 政権交代の転覆、革命」
民主党の代表選が国民一人一人にとって大事なのは、何度も言うように、それがわれわれの生活に大きな影響を与えるからである。この選挙で、小沢一郎が60対40の結果で差をつけられて敗北した場合、マスコミは徹底的な小沢排撃の掃討戦を始める。検察審査会も堂々と起訴へ持ち込む。小沢一郎は政治生命を絶たれ、小沢派の議員で寝返らない者には粛清と迫害が加えられ、公認の保証の取り消しが通告されるだろう。この政治は単なる党内の派閥抗争や権力闘争を意味しない。殲滅され一掃されるのは、小沢一郎が代表選で掲げ唱えた政策や政論である。①企業に非正規の雇用枠比率を法規制すべしとか、②大企業は200兆円の内部留保を社会に還元せよとか、③沖縄に海兵隊兵力は不要とか、④消費税増税の前に官僚の無駄を省けとか、④天下りは禁止で特別会計は廃止だとか、こうした政策論が粉砕され、政治の地上から抹殺されるのである。これらの政策上の要求や認識の一切が、悪魔的異端の表象を押しつけられて焚刑処分され、二度と口に出してはならぬ禁断の扱いにされるのだ。小沢一郎という絶対悪のパッケージで包まれて、焼却炉に投げ込まれて灰にされるのである。支配層の狙いはそこにある。私が小沢一郎への支持を訴えるのは、①-⑤を公論として生かすためであり、少しでも政策として前進させることを願い、これらの主張が廃棄されることを阻止するためだ。
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ネットの中では、一部に小沢支持の熱狂的な声が盛り上がっているが、大半は高見の見物で、代表選の政治をネタにして皮肉と毒言を吐き、小沢信者に揶揄と冷笑を浴びせて悦に入っている。新自由主義の側に立ち、その利害と思惑でネットで蠢いている工作員は、そうした行動が当然だろう。だが、①-⑤の政策主張を正しいと判断し、それが政治の現場で具体化されることを希望する者は、今回は小沢一郎支持の態度を選び、その結果を導く担い手にならなければならない。過去の小沢一郎と自分との関係と経緯をば、一旦はカッコの中に括り入れて保留し、当面の現実を変えるべく政治に働きかけることに集中しなくてはならない。政治は結果が全てであり、今回の結果が次の政治の前提を作る。政治は宗教ではない。信仰を守り抜くことが目的ではない。観念的な内面の満足で止まれる世界ではない。結果を現実に生み出すことを目的とする世界だ。マルクスは、「あらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」と言ったが、眼前の代表選の政治を見ながら、薄っすらにでも、その真相を覚知する者は多いだろう。TBSの杉尾秀哉の狂態を見れば、マスコミが何の意図で何をしているか、本質的な直観と洞察に至るのは難しくない。われわれの生きる権利を奪うため、彼らが牙を剥いているのであり、杉尾秀哉も銃をとって戦闘しているのである。
ここで小沢一郎と小沢派を失えば、①-⑤の政策主張は誰がするのか。この政策論を誰が担うのか。国会内にはすでに左派の勢力は絶えて無い。NHKの日曜討論にすら出席させてもらえなくなった。脱線するが、このNHKの踏み込み姿勢は、影山日出夫の自殺事件と関係している。影山日出夫は保守の立場だったが、討論司会は中立を配慮し、特に少数意見を尊重した番組進行は絶妙なところがあった。大事な争点はわかりやすく浮かび上がるよう討論を組み立て、地味ながら、信頼感のある伝統的なNHKのアナを想起させる秀逸さが光っていた。おそらく、影山日出夫が最も意識していたのは田原総一朗ではないかと私は想像する。あのような討論と司会を放送で絶対にやってはいけないという信念が強くあったのに違いない。オーソドックスなNHKの政治討論を理念型として持っていることが、進行の差配を見ながらよく伝わってきた。政治とは趣味や娯楽の類ではなく、もっと真剣で重要なもので、それは知的に冷静に議論するものだというメッセージもあった。影山日出夫に私が教えられたのは、政治はやはり多数をとることが重要で、民主主義は多数で決まるのだという基本命題だった。影山日出夫が少数意見(志位・福島)を尊重した司会をすればするほど、その少数性の意味がより際立つのである。正論であっても少数は少数。多数を制しなければ本当の正論にはならない。
2日前の記事で、政策主張を公論化することが、その政策を法制化して実行すること以上に重要な意味があるのだと書いた。公論にすること、公論にできることが大事だと言った。同じように、次のようなことが言える。年収200万円とか300万円で暮らす働く貧困層の人々がいて、彼らは生活向上のために政治に具体的な要求や主張を持ち、それをストレートに担う政治勢力があるとする。そして、それは小沢一郎や小沢派ではなく、彼らは社民や共産に親近感を感じ、小沢一郎や小沢派を信頼できる政治勢力とは認めていないとする。だが、もし、こうした働く貧困層が小沢一郎を支持し、その運動に積極的に乗り出し、小沢一郎を代表・首相に据える国民運動の中核になったとすれば、そのことによって、小沢一郎や小沢派の政治的性格は変わるのであり、変わらざるを得なくなるのである。政治はダイナミックなものだ。支持者が政治家を変える。土台である支持者の層や比率が変われば、上部構造である政治家の主張にも化学変化が起きざるを得ない。小沢一郎の政見を注意して聴くとよくわかるが、なるべく幅広い層から支持が集まるよう論点と表現に工夫し、従来からの小沢神話の信者を大事にしようと心がけている。昔から小沢一郎を支持してきた信者には、信念を貫き続けて何も変わってないと言い、逆に従来からの悪印象で小沢一郎を嫌忌していた者には、昔とはすっかり変わった姿勢と政策を強調している。
政治家ならそうするのが当然で、なるべく広範な支持を各層から得るべく自己の政治的普遍性の演出に努める。であるなら、その支持層に入り込み、有力な支持層になることによって、「上部構造」たる政治家の政策主張を規定する「土台」になり得るのである。具体的に言えば、反貧困ネットや派遣ユニオンであり、彼らの運動が包摂している数千万人の貧困層である。厚労省の昨年の調査によれば、所得分布の統計で、300万円以下の世帯が全体の44.3%を占めている。200万円以下が31.3%。今、反貧困ネットや派遣ユニオンが掲げる政策主張を、真面目に法制化して実現しようとしている政治勢力はない。NHKの日曜討論にも出してもらえない端数2党には、最初からそんな力はないし、掛け声だけが空転しているだけだ。ギブ・アンド・テイクの政治の論理で、反貧困ネットや派遣ユニオンは小沢派と組めばいい。反貧困の側にとって重要なことは、労働法制を規制強化して非正規職を減らすことであり、労働者の賃金を上げることだ。社民や共産と心中することではないし、まして菅直人に誑かされたまま、内閣府で官僚の手伝いをやり、年末年始の救済活動を恒例行事にすることではない。反貧困ネットや派遣ユニオンは、政策を変える前に政治を変えることに取り組むべきで、政治が変わらなくては政策は変わらない。政策要求が実行されるべく最適化された運動方針を選択するべきで、その最適化理論の中に小沢一郎という駒が必ず入るはずだろう。
①-⑤の政策主張を5議席ほどの端数政党がすることは、この国の支配層の権力は認めて泳がせてくれる。だが、国会で150議席を持つ勢力が本気で実現しようとすると、支配層はあらゆる手段を動員して妨害し、決してその実現を許さない。この国は民主主義の社会だが、それは官僚が天下りと渡りを謳歌し、資本が200兆円の内部留保を溜め込み、格差と貧困を広げる新自由主義を維持する限りでの民主主義であり、そこに手を突っ込む民主主義は事実上保障されてないのだ。昨年の西松事件から今年の陸山会事件の動きは、民主主義国家の司法捜査の範疇ではなく、政権交代を阻止する権力による政治弾圧そのものだった。政権交代は形式的には成ったが、実質的には後退に次ぐ後退で掘り崩され、菅政権において何の意味もなくなっている。検察とマスコミによる小沢一郎攻撃は、戦前の権力による共産党弾圧と基本的に同じだ。テロ行為である。物理的暴力の行使を控えているだけで、精神的なリンチと拷問であり、迫害と弾圧の権力行為である。マスコミと検察は、司法権力と民意を根拠にして小沢一郎に凄惨なリンチを加え、政界引退を脅迫し続けていて、それを受け入れない小沢一郎にさらに拷問を加えている。昨年からの検察とマスコミの動きは、政権交代を転覆させ、その方向を潰滅させるクーデターであり、政権交代の政策的実質化を求める者への合法テロの連続である。官僚と新自由主義の支配権力に挑戦すれば、こうした凄惨な報復を受けることになる。
小沢一郎は、9/6の高知での演説で、「政治生命だけでなく、命そのものも賭ける」と言ったが、この言葉を簡単に聞き流しできないのは、権力側に立って考えたとき、ここまで司法とマスコミで徹底的に弾圧し、なお小沢一郎が反撃と挑戦の意思を持ち続け、少しずつ支持が国民の間に広まる状況に至った場合、次にどんな手段で阻止と妨害に出るだろうかと想像するからである。資本(特に外資)は法人税減税が早く欲しいだろうし、そのための消費税増税の実施を菅政権に急かすだろう。小沢一郎が邪魔で仕方がないだろう。小沢派は小沢一郎というシンボルしかなく、シンボルが斃れる事態になれば、集団は結束を続けること能わず、政策主張する力を維持できない。この国は、実際にテロ(暴力)で政治を変えてきた。戦前だけではない。安保闘争後の浅沼稲次郎への右翼の襲撃と刺殺がある。逆に言えば、この国の政治を変革するためには、志を持った者は命を賭けなくてはならず、革命者の決意によってのみ政治を変える展望を持ち得るということを意味する。労働法制を規制強化して、労働者の賃金を上げるためには、内需を消費から拡大して経済成長させるためには、官僚と資本とマスコミの権力を屈服させなくてはならず、そのためには国民が蹶起しなくてはならない。国民の覚醒と蹶起は何によって媒介されるのか。おそらく、それは挑戦者の死だ。預言者の命だ。吉田松陰の犠牲だ。最近、私はその確信を深めていて、誇張や修辞ではなく、革命でなければこの国の新自由主義の体制を壊すことは無理だと思っている。
国民が蜂起して、杉尾秀哉や古舘伊知郎や大越健介を包囲し、マスコミの世論調査の嘘を暴き、彼らを引きずり降ろさない限り、国民の生活水準が元に戻り、安心して老後を暮らせるという社会にはならない。
(転載貼り付け終了)