「「官僚機構が我々にかけた催眠術」 by インナーマザー」

投稿日:2010/09/07 07:00

「日々坦々」から貼り付けます。

(転載貼り付け開始)

2010/09/07(火) 00:39
「「官僚機構が我々にかけた催眠術」 by インナーマザー」

魂に訴えるものがある「インナーマザー」様のコメント

是非、多くの皆様にお読みいただきたい文章なので、本ブログにも転載させていただく。
(本ブログ9/5エントリー≪「ほめ殺し」が政界再編のきっかけになっていた!≫へのコメント)

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官僚機構が我々にかけた催眠術

小沢さんを貶めるために意図的に褒めそやす「ほめ殺し」戦術は、今回の選挙においては逆効果になっていくと思います。

当時の竹下さんへの「ほめ殺し」は確かに凄かったし、効果的な脅しになりました。竹下さん自身が街宣活動を畏れてしまったからです。竹下さんは総理の椅子が欲しかったため、私欲が畏れを引き出してしまったのです。

小沢さんは街宣活動の嫌がらせなど畏れてはいません。なぜなら小沢さんにとって、もっとこわいものが他にあるからです。街宣活動のネガティブキャンペーンよりも、「官僚機構が国民を滅ぼしてしまうこと」を一番畏れているのです。国民が滅びて国家官僚と財閥だけが栄えるような本末転倒を畏れている。収奪と搾取の果てに国民が使い捨ての商品にされる地獄絵図の到来を畏れているのだと思います。

また、小沢さんは竹下さんのように自分が総理になることに執着していません。菅さんが思想転向して官僚依存を脱構築してくれれば、現政権のままでよかったのです。鳩山さんの仲介で原点回帰のトロイカが確認されたのに、菅さんに「翌朝の豹変」が起きてしまったので、小沢さんは立ち上がっただけのことです。
小沢さんは最初に理念・思想が基礎にあって、それから私欲が発動される男なのです。竹下さんは私欲が先行して私欲に帰着する我欲が強すぎる人ですから、街宣の脅しに過剰反応する隙が生じてしまった。竹下さんは己の欲に怯えた人でした。

小沢さんは天と国民を何よりも畏れているリーダーです。国民を畏れているリーダーは靭いのです。理念・思想が強靭なリーダーはぶれないのです。
彼は自分が死ぬ前に、米国と官僚機構の催眠術から国民を覚醒させたいと本気で行動しているだけなのです。その舞台が政治であり、代表戦というエレメントに過ぎないのです。そして仮に自分が潰されても「覚醒の種」だけはしっかり国民に蒔いてから浄土に逝く。理念は後生の者が引き継ぐ。私が死んでも歴史の流れは変えられない。それが小沢さんの「敬天愛人」であり「至誠通天」の高天原の感覚だと思います。

「気合い」という言葉がありますが、小沢さんはものすごい勢いで天の気と国民の気を結び合わせています。死んで行った者たちとこれから生まれて来る者たちを繋ぎ合わせる媒介として動いていますから、自ずからすべての国民と一体化していくのです。官僚機構の前衛部隊が仕掛けてくる恫喝、情報操作、謀略すら包摂して中和させてしまうと思います。「ファシズムは優しい顔をして近づいて来る」と言いますが、小泉さんの父性とは深度の違うとてつもない父性を小沢さんに感じるのです。

小沢さんの「グランドキャニオンに柵はいらない」という思想はセーフティーネットと危険情報の可視化がパッケージになった「国民の思考力」を信じる誠心の自由思想です。国民への愛情に根ざした厳しい思想です。
小泉さんの新自由主義はもともとあった柵まで取り払い、安全だというニセ情報まで流して、金融博打に誘導するボナパルティズムでした。国民への愛情がまったくなく国民を商品化する催眠術のような思想です。
同じ強烈な父性でも、深さの違いから小沢さんの方が何倍もおっかなく感じます。

小沢さんにはナチズムのような優生思想や排他的ナショナリズムはありません。むしろ初期ムッソリーニ型のファシズムと親和的な「多元性と寛容さ」を感じます。映画「ニューシネマパラダイス」が醸し出す暖かい空気です。
イタリア・シチリア島の村にある映画館は、仕事も収入も身分も違う者たちが集います。カタギも水商売もホームレスすら包摂する暖かい寛容なトポスになっています。映画館が火事になるとナポリ出身の男が宝くじの賞金を使ってニューシネマを再建します。パラダイスの楽園は維持されました。共同体を守るために、出来るも者が出来ることをする。
そんな暖かい村も経済合理性と効率性の商品化が進み、寛容な共同体が流動化して行きます。人々の絆も変化してしまったように見えますが、主人公のトト少年と映写技師のアルフレードの親子のような絆は、戦前戦後の半世紀を経ても決して切れてはいなかった。

アルフレードがトトへ遺品として残した一本の映画フィルムがラストシーンで流れます。官僚機構に検閲された「いかがわしいキスシーン」のフィルムの断片をアルフレードが内緒で保存していて繋ぎ合わせたものです。
「キス」という人と人とを繋ぎ合わせる象徴的なシーンをファシズム国家は嫌がります。国民をバラバラにしてからファッショする必要があるからです。しかし国家官僚がどんなに上から束ねようとしても限界があります。このようにフィルムは後生に引き継がれていくのです。本来の共同体は下から、つまり社会の側から結束していくものなのだということを象徴するラストシーンです。

私は、小沢さんと検閲フィルムを無言の遺言としてトトに残したアルフレードが重なって見えるのです。

小沢さんはイタリアのファシズムが後期になってナチズムに飲み込まれて共倒れした理由をよく分っているのだと思います。
理念だけではダメ。血と大地の情念に飲み込まれる。かといって国家権力の強化だけでもダメ。社会の側から国民と一緒に作って行く包摂社会が「歩留まりのある国民国家」の在り方なのだ、というギリギリの生き残りの国家ビジョンを小沢さんは描いていると思うのです。
ニコニコ動画の会見で小沢さんが「銃剣では民は心はつかめない」と語った言葉に小沢思想が凝縮されていると思います。

新帝国主義が反復している世界で、ファシズムの流れは避けられない。ファシズムを保護主義と言い換えても実態は同じです。ならば、寛容で多元的な「他国と棲み分けする暴走しないファシズム」を作って行くにはどうすればよいのか。そんな都合のよい安全なファシズムなんて可能なのか。

官僚が独占している権力を国民の代表である国会議員に分散させる。さらに地方分権という方法で中央の官僚権力自体も分散させる。そしてなにより、官僚機構が暴走しない国家は、社会の側から思考する世論によって担保される。これらがパッケージになって「天の感覚」によって包摂される。

ニューシネマパラダイスのラストシーンを見ながら、小沢さんが何を伝えようとしているのかを類比的に考えています。アルフレードはトトの恋人の伝言をわざと隠して別れさせます。トトに村を出て戻ってくるなと旅立たせます。。そして自分が死ぬ間際にもトトへは俺が死んだことは伝えるなと言い残します。しかし結果としてトトはアルフレードの死を知り村へ里帰りして遺品のフィルムを手にします。そしてアルフレードの誠心と自分がアルフレードからかけられた魔法の逆説を悟ります。歳をとって大成した自分がなぜいまここにもどって来てこのフィルムを手にしたのか。フィルムを再生することですべてを理解します。ミネルバの梟が夕暮れに飛び立つように。

可視化、思考、養生、行動、天の感覚。もう既に五つのエレメントは揃っています。国民が今まで官僚機構とマスコミによって検閲されて来た「キスシーンのフィルム(国民と国民の絆)」をしっかり見直して、国民を情報操作と分断統治で管理して来た宣撫工作の弱点を見定め、天を見上げながら繋がれば完成です。

完成すれば終わります。終われば必ず復活します。小沢さんは我々国民と天とを繋げる捨て身の媒体ですから、小沢さんの言動に込められた言霊を丁寧に受け止めて行けば、ほめ殺しの街宣も謀略も大地に吸収されていくでしょう。

我々が小沢さんを守るという発想ではなく、我々がすべてと繋がっていくという構えが、結果として小沢さんに力を与え、我々も力を得る。この弁証法が大事だと思います。

小沢さんがニコニコ会見で、明治維新から140年も官僚支配が続いてきたんだっちゅうのだから、もうそろそろね、平成維新でしょ、という趣旨の発言をしましたが、歴史の流れが翻訳されています。

菅さんは追い詰められている観念先行のイデオローグですから、アジテーションの工作を自分では控えながらもスタッフにやらせる戦術を強化するでしょう。しかし、やればやるほど逆効果になりますから大丈夫だと思います。

そのような意味で、「ほめ殺し」は平成維新の祝砲なのかもしれませんね。

官僚機構が我々にかけた最大の催眠術は「今は平時だ」という虚構のビジョンです。本当は、戦後は終わっていないのです。それを毎日1000人が自殺未遂をすることで教えてくれているのです。高齢者の遺体がぞくぞく発見され、行旅死亡人が増大しているのも、「平時という偽装」を死者たちが知らせてくれているのです。
小沢さんは死者のメッセージが分っているので、今が戦時だという事実を「だから平成維新だっちゅうの」とはっきり可視化して戦っている国民の同志なのでしょう。

(転載貼り付け終了)