羽田孜政権のこと
会員番号4655の佐藤裕一です。
スターリンの言葉「票を投じる者が決定するのではない。 票を数える者が決定するのだ」は今現在も生きている、デモクラシー(代議制民主政体)の理想・理念に対する現実・実践上の弱点の1つである。
アメリカ合衆国でさえが選挙の公平・公正さについてはあの体たらくである。日本国などは勿論そうなのだということを再認識するとはいえ、さすがにここまで露骨にやられるとウンザリしてくる。いくら一政党の内部事情とはいえ酷過ぎないか。
こうなっては『泣かない小沢一郎が憎らしい』(世川行介著、同時代社刊、2010年8月30日初版第1刷発行)を読むか、フテ寝するしかない。
私の記憶にボンヤリ残っている最初の日本国内閣総理大臣は宮澤喜一であったが、自分なりに明確な政治に対する自意識を持ってして見始めたのは小泉純一郎内閣からである。それくらい同世代と比較しても自我の芽生えが遅い人間であった。
だから私は、小泉以前の平成政治に対する認識が弱い。昭和にまで遡るともはや歴史に入ってくるからそのつもりで学べばいいが、90年代から2000年ぐらいまでの平成は歴史というには近過ぎて、私の中で抜け落ちている部分である。「失われた10年(政治)」である。
その中で細川護煕内閣、村山富市内閣のことは何とか当時の時代的背景から、その位置付けを少しは理解出来ていたが、羽田孜内閣のことが私にはサッパリ分からなかった。
保守合同・55年体制成立前の片山哲内閣・芦田均内閣や、最近の鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣のような「非自由民主党政権」という、戦後日本の「例外的政治状況」に細川・羽田等の立ち位置も相当する、というくらいの認知しかなかった。細川内閣と同じで、ただ単に担ぎ上げられた人なんだろう、と。
それが『泣かない小沢一郎が憎らしい』のおかげで、羽田内閣と羽田孜という政治家のことが少し分かった気がする。読み始めて最初は「なんで小沢一郎を主たる題材に取り上げているのに、羽田孜の名前が頻出するんだろう?」と感じたが、読み終わったら「あぁ、羽田孜元首相って、そういうことだったのか!」という思いである。
私にとっては『泣かない小沢一郎が憎らしい』は、小泉以前の生々しい平成政治を勉強するのにも良書とさせて頂いた。
それにしても菊地研一郎さんが筑波の集積倉庫でバイトしてたら面白かったのに。
菊地さんの投稿[20]「デパートメント・オブ・アンソロポロジー・アンド・リングイステイックス(人類・言語学部)」についての私からの書き込みは次回に致します。
世川行介放浪日記
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