文書の倉庫 (0)アメリカ政治思想・アメリカ政治分析 転載貼り付け2

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:13

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 引き続き「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (0)アメリカ政治思想・アメリカ政治分析
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=0

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/08/25(Fri) 00:05
投稿者名:荒木章文
タイトル:「フランシス・フクヤマ氏≠レオ・シュトラウス派」仮説

副島隆彦の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人達」講談社α文庫P.111 において次のように解説されている。

《フランシス・フクヤマの著作『歴史の終わり』The End of History and the Last Man(1992年 渡部昇一訳 三笠書房刊)は、ヘーゲリアン・モデルによる人類史の精神史的な全体スケッチである。この優れた本の中でフクヤマは自分の、レオ・シュトラウス派としての信念表明を行った上で、さらに「この地上のすべての国家が、結局最後には、アメリカ型のリベラル・デモクラシーに到達するのだ。それで人類の歴史はひとまず終わるのだ」という挑戦的な世界モデルを提示した・・・・。》

まずここで確認しておかねばならないことは
「フランシス・フクヤマ氏=レオ・シュトラウス派」・・・①
ということである。

 次に自然法(natural law)について前掲書P.193において次のように説明されている。

 《①自然法natural lawというのは、ギリシア古典哲学のアリストテレスAristotle(BC384-322)まで遡る大思想であり、その内容は「人間社会には、それを成立させて、社会を社会、人間を人間たらしめている自然のきまり・おきてがある」というところから始まる。》
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.193

《アメリカの政治思想家で今、このナチュラル・ローを最も強く主張するのは、シカゴ学派のハリー・ジャファーHarry Jaffa教授である。彼は現在、カリフォルニア州にあるクレアモント大学の法哲学研究所の所長である。そしてこのハリー・ジャファーの先生が、レオ・シュトラウスである。》
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.194

つまり、このナチュラル・ローの思想は、アリストテレス以来の大思想である。
また、このアリストテレスの思想を研究しているシカゴ学派の創始者であり、アメリカ哲学界の大御所にレオ・シュトラウスがいる。
このレオ・シュトラウスのことを「永遠の相の下の保守思想家たち」・・・・②
と副島隆彦は、「現代アメリカ政治思想各派の見取り図」で分類している。
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫」

《エドマンド・バークの①ナチュラル・ローの思想は、このようにして、現代につながる保守の思想として、「近代民主主義憲法体制そのものと対決するものとして生まれたのである。だから、この世の中を表面的なキレイゴトとしてではなく、もっと深く深く考えようとする、優れた保守的人格の人々が今も世界中にたくさん存在して、彼らは「我れはバーキアンBurkean(バーク主義者)なり」と言うのである。彼らは、利権や現実勢力に結びつく現実的保守主義者たちとは違って、「永遠の保守的態度の人々」と呼ばれるべきだ。》
「世界覇権国アメリカ動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.200

ここで整理すると次のようになる。
バーキアン=ナチュラル・ロー思想=永遠の保守的態度の人々・・・③

《本書の第三部では、この秩序の根源の過去と今後のありかたを見ていきたいと思う。社会の倫理的な秩序が崩れつづけて久しいという見方は、一部の保守主義者が昔から唱えてきたものだ。イギリスの政治家エドマンド・バークは、伝統や宗教にかえて理性を重視しようとした啓蒙主義そのものが問題の根源であると論じたし、バークの後継者にあたる現代の論客達も、やはり世俗的な人間主義が今日の社会問題の根底にあると主張している、この60年間に道徳意識がいちじるしく衰えたという面はたしかにある。その意味では、保守主義者の言い分は正しいかもしれない。だが、彼らはある一点を見落としている。社会秩序は衰える一方というわけではなく、長い目でみればまた盛り返してくるものだ。》
「フランシス・フクヤマ 鈴木主税訳 大崩壊の時代(上)早川書店」P.18

この中で、フランシス・フクヤマ氏は「バークの後継者である現代の論客達」「保守主義者の言い分は正しいかもしれない」「彼らはある一点~」と表現している。
 これは、明らかにこれらの人々とフクヤマ氏は思想的異なることを意味する。
バーキアン≠フクヤマ氏・・・④

以上②③より
バーキアン=ナチュラル・ロー思想=永遠の保守的態度の人々=レオ・シュトラウス派・・・⑤

④⑤よりフクヤマ氏≠レオ・シュトラウス派になる。

これは①と矛盾する。
従って、背理法により①の「フランシス・フクヤマ氏=レオ・シュトラウス派」という前提自体がおかしかったことがしめされた。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/01/28(Sun) 04:24
投稿者名:かたせ
タイトル:映画の題名「怒りのぶどう」とは誰が怒っているのか?

かたせと申します。
「ハリウッドで政治思想を読む」(副島隆彦著、2000.8、メディアワークス)の201ページから引用します。映画「怒りの葡萄」の解説です。
(引用開始)
アメリカの一九三〇年代の大不況のさなかの、中西部農民たちの悲惨な生活を描いた名作『怒りの葡萄』The Grapes of Wrath(1940)は、古い映画だか、アメリカの政治シーンを語る上では、きわめて重要な映画作品である。あまりに古いので、この映画を最近の新しい政治映画とからめて話そうと思ったが、それではとても語りきれないと判断したので、古い映画なのだが、独立させてこれ一本で論じて、アメリカの社会の今につながる本当の姿という観点から解説することにした。
まずタイトルの『怒りの葡萄』だが、これは、原作者のジョン・スタインベックの小説そのままである。原タイトルが” The Grapes of Wrath”『ザ・グレイプス・オブ・ラス』で、そのまま『怒りのぶどう』であり、昔から日本でも文学作品としてはたいへんよく知られている名前だ。ところがその意味が分かっている人はほとんどいないのではないか。「ぶどうが怒ってどうするの」ぐらいのことであろう。全く、「うさぎおいしあの山」で、「どうしてうさぎを食べたらおいしかったのだろう」と、同じ世界である。少年時代の私がそうだった。『怒りのぶどう』とは、聖書(バイブル)の中から取られた言葉である。なぜ、葡萄が出てきて、これがWrath(ラス、怒り)なのかという素朴な疑問が、まずあるべきだ。こういう基本のところの理解を、一つづつ、ちゃんとやらないから、日本人の西洋理解は足元からふらつくのである。
 この映画は、カリフォルニア州でとれる葡萄農園のぶどう摘みの最下層労働が、背景にある。この映画でも、中西部の自分の畑を捨ててカリフォルニアに流れ込んできた、葡萄摘みの日雇いの移動労働民が主人公だ。収穫された葡萄から葡萄酒(ワイン)を作る工程では、古くから、葡萄を人間たちの足で踏み潰してきた。そして、実は「この踏み潰される葡萄たち」とは、我々哀れな人間たちのことなのである。ある時、神の怒りを買って、神の足で、ぐちゃぐちゃに踏み潰された人間ども、ということなのである。これが「怒りの葡萄」という言葉の意味なのである。
(引用終わり)

次に、キリスト教の経典から引用します。葡萄のたとえで一番有名な箇所である、旧約のイザヤ書第五章から。
紀元前七〇〇年代、現在のイスラエル地域にあった、ユダという国の預言者(神の言葉を預かる者)であったイザヤ。彼が、首都エルサレムの住民に語りかけます。最初は、とても楽しそうに。。。
(引用開始)
「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。
ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。
私の耳に、万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。 十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」
(引用終わり)
(注)最後の文。「四千平方メートルのぶどう園から、たった四リットルのぶどう汁もとれず、三百六十リットルの種をまいても、たった三十六リットルの収穫しかあげられないからだ。」

 原作者スタインベックは、この箇所を念頭に置いて「怒りのぶどう」というタイトルをつけたのでしょう。神が人間に対し怒っている、ぶどうのように踏み潰す、のです。
こんな考え方は日本人の感覚からは絶対に出てきません。その証拠に、映画の題名でつまずいています。
西洋の理解を足元からきちんと固めるためには、聖書にどんなことが書かれているのか勉強して、日本人にとって異様な、これらの考え方を理解しておく必要があります。

続いて、「ハリウッドで政治思想を読む」202ページから引用します。
(引用開始)
しかし、ここ(かたせ注:「怒りのぶどう」という題名)では、単にキリスト教という宗教が固有に持つ、自虐性をことさら愛する性格が強調されているだけではない。ここには、人間社会(人類)を貫く、冷酷な法則性としての、現実の過酷な世界、ということが含意されているのである。すなわち、人間とは、自分の夢や希望や願望通りに生きていける存在ではない。冷酷に、この人間世界を外側から支配している自然のルール、あるいは神のルールに屈従しながら、生きていかねば済まないのである。
(引用終わり)

続いて210ページから引用します。
(引用開始)
アメリカの政府累積債務は、十二兆ドル(千三百兆円)ある。日本の政府累積債務は、九九年末現在で、国の分に地方政府(県や政令市)のものを合わせると、六百八十兆円である。これらは全て赤字国債と政府借入金の形になっている。この借金を一体、誰が返すのか?増税して税金で穴埋めしようとすると、国民が反対する。そこで、更に、ずるずると赤字国債を発行し続けることになる。一体誰がこれらの国家の負債を将来返すのだろうか。借金を踏み倒して、無しにしてしますということはできないのである。もし、そういうことをしたら、そのときに私たちは、まさしく神の怒りによって、踏み潰される葡萄となるであろう。借金を踏み倒したら、そのときは、戦乱か、人間の大量死が待ちかまえている。
(引用終わり)

最後に、私が上記文章を要約してみます。一面的ですが、ご容赦ください。

「『自分の夢や希望や願望とは全く関係ないところで、人間世界を外側から支配しているルールがあることを認める』。
神の意志から自然の法則へと内容の変化はあるが、西洋思想の歴史ではこの考え方が、旧約聖書の時代からぶれることなく一貫している。しかし、日本人にとりなかなか理解しがたい考え方のはずである。だから私が解説する。」
これが、副島先生が日本人にわかってもらおうとしている大きな事実だと考えます。

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/01/31(Wed) 01:35
投稿者名:かたせ
タイトル:俳優クリント・イーストウッドは、アメリカ民衆の保守思想リバータリアニズムを体現している。そして、日本では?

「アメリカの秘密」(副島隆彦著、発行:メディアワークス、発売:主婦の友社、1998.07)から引用します。クリント・イーストウッド主演の映画「許されざる者」(1992)の解説の文章です。
まず、リバータリアニズムの総論説明です。35ページから。
(引用開始)
 アメリカ共和党の保守主義者の中から、「リバータリアニズム」という思想を掲げる人々が出現して、やがて三十年ほどになる。リバータリアンの主張は簡潔に言えば、「反過剰福祉・反税金・反官僚統制」である。リバータリアンは、「アメリカ連邦政府の政治家や官僚たちが、社会福祉を推進するという主張を口実に、我々市民から様々な名目で税金を取り立て、カネを巻き上げて自分たちで勝手に使い散らしているのだ」と考える。
 現代の官僚主義においては、官僚たちは自分を「福祉のための公務員」だと偽り、社会のニーズに応え、「福祉社会」を実現するために自分たちは存在するのだと半ば信じきり、その実、社会に取り付いて「自分たち公務員のための福祉」に没頭する。
 欧米では、現在、「公務員とは社会の寄生虫parasite(パラサイト)である」という理解が広まりつつある。「理屈はもうどうでもいいから、とにかく官僚はいなくなってくれ。大量の公務員を養うために、巨額の税金が自分たちに掛けられるのはもうゴメンだ」という真の民衆の保守思想が、ここから生まれた。
(引用終わり)

次に、クリント・イーストウッドとリバータリアニズムとの関係について。36ページから引用します。
(引用開始)
 クリント・イーストウッドは、一九七〇年代に映画『ダーティハリー』シリーズで、初期のリバータリアンとして華々しく登場した俳優である。大都市の悪人たちを、サンフランシスコ警察殺人課のハリー・キャラハン刑事(ダーティハリー)がマグナム44で撃ち殺す映画である。リベラル派の人権団体は「犯罪者の人権を守れ」と主張して、クリント・イーストウッドを激しく嫌った。しかし、今やアメリカの大衆は、あまりに社会に蔓延(はびこ)る凶悪犯罪者に対して、厳しい刑罰と制裁を加えるべきだと考えている。
 映画『許されざる者』では、暗闇の物陰に隠れてから傍観している町の人間たちに向かって、殺し屋ウィリアム・マーニーが放ったあの言葉がやはり圧巻である。
「お前たちが蔑(さげす)みながら、そのくせ必要悪として存在させている、この町の売春婦たちをもっと大切に人間として扱え」
 ここに、本物の保守思想がある。民衆の生活の汚らしい部分を含めた全場面を心から愛し、一切の偽善を拝し、ありのままの人間像をみつめようとする新しい思想の姿がここに浮かび上がって来る。ビル・クリントン大統領のような、ハンサムで好人物ぶった男の虚飾の仮面の皮を剥ぎ、その薄っぺらな思想や人生観をはっきり見抜いている本物のアメリカの中年オヤジたちの世界こそが、リバータリアン保守思想の世界なのである。
(引用終わり)

 アメリカのビル・クリントン大統領(民主党)が偽善者呼ばわりされています。なぜでしょう。実は、映画「許されざる者」では、それとわかる人物を保安官(その名もビル!)として登場させて、露骨に非難しているからです。政治映画の面目躍如。
 副島先生の解説から、非難の理由となる部分を引用してみましょう。34ページから。
(引用開始)
 本物の民衆が生きる世界には、売春婦もヤクザ者も詐欺師も生きている。それに対してリベラル派の人間たちが支配する社会では、「人間はみな平等」というスローガンのもとに、社会の表面から差別が消えて、差別なき差別が水面下に薄暗く広がるのである。
 保安官ビルは、確かに町の正義と治安のために尽くしていた。紛れもなく、現代アメリカの民主党政治家のような男である。彼らは人間を差別しないという政治思想に忠実で、現実に存在する実社会の様々な醜いものを、制度的に解決できると信じている。しかし、実際にはそんなことができるワケはないから、醜いものの表面を偽善的な正義の思想で覆い隠す。
 このリベラル派の思想は、日本にも広く蔓延している。「反戦平和、護憲、人権、平等、環境保護、海外派兵反対」を叫んでさえいれば、自分たちが正しいと思い込んでいるウスラ馬鹿たちである。さらに困ったことに、この者たちはそのような自分を、社会的には高学歴で知的で賢い人間であると思い込んでいるのである。現在ではさらに悪賢く、保守派のフリをする連中まで出てきた。こうしたリベラル派Liberalsは、アメリカにも山ほどいる。彼らは、本来の本物の古典的リベラリズム(=自由主義)とは、実は縁もゆかりもない人々なのである。
(引用終わり)

なお日本では、副島先生がリバータリアニズムを提唱されています。以下はその宣言です。
36ページから。
(引用開始)
 私は、目下、このリバータリアニズムを日本に紹介・導入するという任務を帯びている。
 私の考えでは、公務員の数は現在の五分の一にまで減らすべきである。日本はもちろん、どこの国も余計な公務員があまりにも多すぎる。私たちの周りにいる公務員たちの、あの自分たちの人権と福祉だけが実現された、あのふてくされてヒマそうな感じを見よ。あれが「社会の役に立ちたい」と考える公僕(パブリック・サーバント)を自ら志した人間たちの姿であろうか。この本の読者にもし公務員がいるとしたら、そのフザケきった職務内容を自ら恥じよ。「自分は民間企業のサラリーマンと同じぐらい懸命に働いている」という公務員がいたら、私と論争せよ。私は、日本にも山ほどいるリベラル派の偽善的な態度の一切を拒否している、この国で初めてのリバータリアンである。
(引用終わり)

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2002/02/06(Wed) 22:04
投稿者名:ジーラ
タイトル:宇野正美講演会・傍聴記 「反ユダヤ伝道師」かく語りき

 宇野正美講演会・傍聴記
「反ユダヤ伝道師」かく語りき
副島隆彦(評論家)

 世にも恐ろしい「ユダヤの陰謀」を説く男は、
 ただの中年オヤジに見えたが……。
 軽妙な語り口がもつ「説得力」と話の中身を真正面から検証する

 7月20日(1995年)に、神田の日本教育会館・一ツ橋ホールで開かれた、宇野正美氏の「1996年 国家存亡の危機が来る」という講演会を聴きに行った。そうか。この人物が、H氏やA氏やY氏と並んで、「ユダヤによる世界支配の陰謀」を唱えて、日本の言論界の一角で、異様な気炎をはいてきた宇野正美氏か。私は視線を凝らして講演を待った。ふと横を見たら、近くに新右翼「一水会」の鈴木邦男氏の顔が見えたが、なんとなく挨拶しそびれてしまった。

「日本を支配する闇の秘密組織」の真実?

 宇野氏は丸々と太った、中年ハゲおやじふうの中堅企業の経営者然とした、ひとあたりの良い人だった。物腰の柔らかい、かつ軽快な語り口に、少し拍子抜けした。この人が「ユダヤの陰謀」という恐ろしいテーマをひっさげて,もう二十年も言論活動をやっている人なのか。もし本当に氏が「陰謀」なるものを暴いてしまった人だったら、とっくの昔に殺されていないのはなぜだろうという疑問が脳裏をかすめた。
 宇野氏ら陰謀評論家は、世界の一般民衆を操る支配階級の人びとの、さらにそのまたごく少数の限られた人びとの秘密クラブの存在を確信することから、自分たちの言論活動を開始する。彼らの言論は、日本の公共言論(大新聞、テレビ、大手雑誌)に登場する機会はきわめて少ない。そのチャンスはほとんどあたえられていないといってもよい。しかし、単行本の形でなら、どの書店の棚のなかにもたくさん見つけることができる。出版物としての表現の自由の機会は奪われていない。むしろ、一定の固定読者を抱えて、静かな人気がますます高まっている。
 宇野氏は、少し早口でしゃべるので、はじめは、少し聞きずらかった。集まった聴衆は40歳代から50歳代が目立ったが、彼らは宇野氏の講演会の常連らしく、場内に違和感はない。だからといって、なごやかに打ち解けあった雰囲気というのでもない。政治団体や宗教団体が主催する講演会とも違う。ひとり2000円也の入場料を払って、自分の考えを作るうえでの貴重な情報を入手して、ビジネス・商売・人生の役にたてよういう人びとの集まりである。800人収容のホールは9割方埋まっていたので、今どきの講演会としては成功している部類に属するのだろう。35万円払えば、出前・出張講演もするそうだ。
 陰謀評論家・宇野氏の講演がこのように盛況だということは、彼が時代の流れ、時流の波に乗っているということであって、この一点はけっしてあなどれない。ビジネスマンや企業経営者ふううの人びとを多く徴収として抱えているということは、そこに何かしらの真実が含まれていると考えないわけにはいかない。

 小気味よく語る宇野氏の推理にのめり込む聴衆

 丸々2時間の講演を聞かされる方には、それなりの笑いがほしい。「日本を支配する闇の秘密組織」の話だけでは、その場がもたない。宇野氏はすっかり場なれした話芸で、巧みに聴衆の息を抜いて笑いをさそってくれる。長野県出身だが、関西で育ったらしい。関西弁で、現在の日本経済が陥ってしまったバブル破裂後の困難な状況を、わかりやすく解説していく。体験談も適当に盛りこまれている。
 小学生の頃、終戦直後の買出し列車に乗り合わせて、警察のヤミ米狩りの「臨検」にあった。バッグのそこに祖父が詰めてくれた貴重な米袋を、警察の職務質問からうまい具合に守り抜き、米を没収されずに済んだエピソードを語って、私たちの笑いをさそった。この人には、「ユダヤの陰謀」を説く深刻さは、みじんも感じられない。私は軽い失望を覚えた。「ユダヤの秘密組織による、日本支配・制服の野望」という、およそ日常の言論のなかでは聞くことのできない、あるいは公言することが強く憚られる内容が、ここでならたっぷり聴けるぞと予測したのだが、それほどでもなかった。
「1990年にバブル経済が破裂したあとの5年間で、世界で、日本で、〇〇、〇〇の事件がありましたね。これは、〇〇が〇〇して、〇〇になったものでした。その背後に、世界を操る〇〇〇〇の存在があるのです」。要約するならば、宇野氏の話は、このスタイルに終始している。「〇〇という事実がありました。これは、皆さんもご存知のとおり〇〇〇〇だったのですが、これも実は〇〇〇〇がからんでいるのです」。
 この語り口調は、なかなか小気味よいのである。そうか、あの事件も、この事件も、やっぱり裏に秘密があったのか。自分もヘンだな、と思っていたんだ。聴衆は、宇野氏の推理いつしかのめり込んでいく。開場は静まり返って、みんな真剣に聴き入っている。いろんな厳しい人生経験を積んでそれなりの生き方をしてきたあとでも、人間はこの程度のホラ話に一気のめり込むことができるのである。

 宇野理論が人びと心を魅了する素地

「この1月17日の関西大地震は、人工地震の可能性が、1%はあります」
「3月のオウム事件は、地下鉄サリン事件は、北朝鮮が裏で糸を引いているのです」
「最近起きたソウルのデパートの倒壊事件。奇妙でしょ。ビルの中央部分だけが、一気に崩れ落ちるなんて。これは、低周波兵器でズーンと低周波をかけると、起こるのです」
 こういう与太話にまでは、私はつき合いきれない。私は「ユダヤによる世界支配の陰謀」など信じない。人種差別を煽って自分の見識を疑われるようなことは望まない。
 しかし、である。私は、「陰謀」の存在自体は否定しない。世の中に「陰謀」の類はたくさんあると思っている。日本の建設業界の官僚・政治家をまき込んだ各種の「大型談合」も陰謀(共同謀議)であるとえばそういえる。日本よりも何倍も規模が大きく、かつ、世界覇権国であるアメリカ合衆国の、政治・経済の実権を握っている支配層の人びとの間に、多くの「陰謀」があるのは当然のことだと思う。
 そして、1990年以来の、日本のバブル経済の崩壊によって深刻な不況に陥っている現状は、やはりニューヨークの金融界が、日本の経済膨張を抑え込むために陰に陽に仕組んで実行したものであると信じないわけにはいかない。薄々とだが、ビジネスマン層を中心にこのような話は語られ広まっている。
 私の友人のなかに銀行員が何人かいる。昔、いっしょに『ニューヨーク・タイムズ』紙の早朝読み合わせ会という勉強会をやっていた友人のひとりは、ニューヨーク駐在勤務から帰ってきた後に、私にははっきりと語ってくれた。
「ニューヨークの金融センターは、ユダヤ系の人びとに牛耳られており、彼らの意思に逆らうと商売ができない恐ろしいところだ」
 彼は、宇野理論のような直接的なユダヤ陰謀論は説かないが、そのような傾向が存在することを信じている。株式の大暴落を引き起こし、ついで地価の下落、そして円高による波状攻撃で日本の大企業の力を弱体化させ、日本国民の金融資産の3分の1は、ニューヨークで解けて流れて、消失してしまった。日本の資産の運用先の大半は、その金利の高さゆえに、アメリカの政府債(TB、トレジャリー・ビル)や社債で運用されてきたからである。それが、円高で元金の方がやられてしまった。
 偉そうに日本経済の先行きを強気で予測していたタレント経済学者や官庁エコノミストや、経済評論家たちの信用はガタ落ちになった。本人たちがいくら居直って、過去の言動を隠そうとしても、自分の財産を吹き飛ばされた人びとはもう彼らの言うことなど信じない。それではこんな時、誰を信じたらいいのか。ここに宇野正美氏のような人物の、実に
わかりやすい世界経済の動きについての意思的分析が、人びとの心を魅了する素地が生まれる。理論経済学の基礎知識も怪しい宇野氏の経済予測で「この先、日本経済は、もっともっと悪くなりますよ」と聞かされて、人びとは身構えるようにして聴き入るのである。

 宇野氏が”ユダヤと闘って”見えてきたもの

 この三年ほどで、宇野氏の考えは二つの点で大きく変化している。かつて文芸春秋系のネスコ社から出していた本では、単純素朴な、ユダヤの秘密組織による日本征服説が説かれていた。これは、若い頃からの氏の聖書研究と愛国感情が混じり合った産物だった。最近は、「ユダヤ人には、アシュケナージ・ユダヤ人というニセものがおり、スファラディ・ユダヤ人という本物のユダヤ大衆を抑圧するためにイスラエルを建国したのだ。そしてこのイスラエル建国主義者たちがシオニストであり、国際陰謀をめぐらす諸悪の根源である」という考え方をしている。
 かつての論調ではフリーメーソン、ビルダーバーグ、イルミナティ、TC(米欧日三極会議)、CFR(外交問題評議会)などの秘密結社や国際機関と、ユダヤ人の秘密結社との関係がどうなっているのかはっきりしなかった。ところが、今回の講演では、「ザ・クラブ・オブ・アイルズ」というヨーロッパの旧来の王侯貴族達の裏結社が、これらすべての秘密クラブの上に君臨し、序列を作りそのずっと下の方で使われているのがユダヤ人たちである、という簡単な理論になっていた。この論旨は、今回読んだ『ユダヤと闘って世界が見えた-白人支配の崩壊と「二つのユダヤ人」』(宇野正美著、1983年、カッパ・ビジネス)でも確認できる。
 日本は、マスコミ(メディア)の情報統制の厳しい国である。私たちは、日頃、日本は表現の自由が完備している自由主義国だと信じているが、けっしてそのようなことはない。日本の大メディア(大新聞、大出版社、テレビ局)は、国民生活にとって本当に大切なことは報道しない。たとえば、今度の40兆円とも100兆円ともいわれている不良債権の問題でも、誰に責任があり、どのようにコソコソと処理してしまおうとしているのか、「お上」にとって都合の悪い記事は、どこでも突っ込んでは書かないのである。大企業も自分たちのスキャンダルを必死でおおい隠すので、「社会の番犬」としてのジャーナリズムの出る幕は限られる。記者クラブ制度という「談合」組織とサラリーマン化した記者たちがほとんどの情報を自分たちでいいように握りつぶし合っている。このような息苦しい雰囲気にあっては、宇野氏のような陰謀理論家たちの、規制の枠を踏みはずした野武士のような行動が、頼もしく見えないはずがない。
 文芸春秋が、95年2月に「マルコポーロ廃刊事件」を起こした。ナチスのホロコースト・毒ガスによる大量ユダヤ人虐殺に疑義を提起した記事掲載に対して、サイモン・ビーゼンソール・センターとうユダヤ人の「ナチス・ハンター」の人種差別監視団体からの抗議で、あっという間に腰砕けになって全面謝罪し、雑誌そのものを廃刊してしまったという驚くべき事態が生じた。
 その後も文芸春秋は、坊主ザンゲの「研修会」を受けさせられたりしているというが、この事実は、宇野氏の主宰・発行する情報誌『エノク』三月号(144号)でも報告されている。ちなみに、この『エノク』はかつて、なぜか知らないが、私の家にも勝手に送られてきた時期がる。サイモン・ビーゼンソール・センターのやり口はやはり批判されるべきだった。言論に対して言論で応じずに、いきなり、フォルクスワーゲン社やフォード社の役員会議に通報して、そこから文春に対する広告の停止という圧力をかける手段に出たのである。何十社ものアメリカの大企業(およびその日本法人)にその動きが連動し、広告停止の圧力を受けて文春の経営陣がおびえあがらなかったはずがない。このようなうやり方は、「陰謀」があろうがなかろうが、許すべからざる所業である。文春の屈服ぶりも見事なものだったが、圧力をかけた側のユダヤ人人権組織の人々の高圧的な態度は、日本人の識者の大方の重低音の怒りを十分に買っただろう。
 ADL(アンタイ・デファメーション・リーグ、名誉毀損防止同盟)やブナイ・ブリスなどの同種のユダヤ人権組織のアメリカ本国での「反差別糾弾」のやり方を今回実体験し、あるいは目の当たりにして、「陰謀」があろうがなかろうが、日本人はかなり賢くなったことだけは確かである。
 以下では、宇野氏の陰謀理論から、その荒唐無稽な部分を取り去り、なるべく事実の部分だけを拾いあげて、私なりの謎解きをやってみよう。

 宇野「陰謀理論」の誤り

 フリーメーソンやイルミナティなどの秘密結社の存在はさておくとして、TC(トライラテラル・コミッション、米欧日三極会議)は公然と存在する。現在の議長はポール・ボルガ-前FRB(連邦準備制度理事会)議長である。日本人の政財界人たちの委員の名前もなかば公にされている。渡辺武(大蔵官僚、IMF・世界銀行理事会等を歴任した人)や大来三武郎氏(官庁エコノミスト、元外相)、宮沢喜一氏など親日派の人々である。CFR(カウンシル・オン・フォーイン・アフェアーズ、外交問題評議会)も、WJC(ワールド・ジューイッシュ・コングレス、世界ユダヤ人会議)も、アメリカの有力団体として存在する。日本の保守党大分裂・新党運動を始めた小沢一郎氏などは訪米すれば必ず、CFRに出向いて会談する。ちなみにアメリカの政財界・言論界は、1993年に日本の自由民主党を見捨てた。要するに、日本が業界利権の官僚統制をやめて欧米並みの規制緩和を行わないと許さないと決断して、「もう自民党を放置しない」として以来、小沢びいきである。
 「世界ユダヤ人会議」の現在の議長は、エドガー・ブロンフマン氏である。この人の息子で同名の人物が,最近、松下電産が、映画監督のスティーブン=スピルバーグ(同じくユダヤ人)らの叛乱にほとほと手を焼いた末に、泣きついてMCA(ユニヴァーサル映画)の株を売却した相手である。酒造メーカーのシーグラム社の社長で、強硬なイスラエル支援を行う有力財界人のひとりである。副議長は『ワシントン・ポスト』紙社主のキャサリン・グラハム女史である。松下をブロンフマンに紹介したのは、CFRの議長を務め、ブラックストーン・グループという大企業の合併・買収(マージャー・アンド・アクイジッション)を取りしきる金融法人の会長であるピーター・ピーターソンだった。これらのニューヨークの財界人の総帥は、やはり、デイビット・ロックフェラー氏であることは誰もが認めることである。その他、アメリカの政財界内部抗争等については、拙著『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房)を参照いただければ、幸いである。
 宇野氏の主張の誤りは、同じユダヤ系の人びとであっても、グローバリスト(アメリカの力で、世界の金融および政治の秩序を守っていくべきだとする人びと)と、ザイオニスト(Zionist・シオニスト、イスラエル建国・支援主義者)とでは思想が異なるという事実を混同している点である。宇野氏はグローバリスト(世界管理主義者)の財界人たちを全てザイオニストが悪玉で、貧しいユダヤ大衆はそれに抑圧されてる善玉のかわいそうな人々だ,という理論にすり替わっているところがおかしい。グローバリストのユダヤ財界の人びとの多くは、イスラエルとパレスチナの平和共存策を支持して、歴史的和解を唱えている。
 宇野氏の見解は、氏がアメリカのメディアから「日本の反ユダヤ主義者たち」としてヤリ玉に上げられて孤立していた時期に、反ザイオニズムのユダヤ人の政治運動家たちから支援の申し出を受けて、彼らと手を結び団結し、彼らから情報を得られるようになったことによってとるようになった新しい立場である。
 この新版・宇野理論は、「アシュケナージ・ユダヤ人=ニセ者ユダヤ人=改宗カザール人」説を採用している。8世紀頃、中央アジアにカザール王国があったことは、世界の歴史学者たちが認めている。そしてカザール国の国教がユダヤ教であり、周辺国に猛烈に布教していた。この国が12世紀にイスラムに滅ぼされ、東欧のロシア、ポーランド、ドイツ国境あたりに多く移り住むようになった。これが現在、私たちがヨーロッパ系ユダヤ人として典型的に思い描く人びとである。
 たとえばそれは、森繁久彌氏のロングラン・ミュージカル『屋根裏のヴァイオリン弾き』に描かれる、迫害されながらも気高く生きる人々によくあらわされている。このアシュケナージ・ユダヤ人を宇野氏はとにかく悪者に仕立て上げ「彼らはユダヤ人ではない、カザール人だ」という理屈で攻撃し、それに対して、もともとアラブにいた(?)スファディ・ユダヤ人たちが本物のユダヤ人だと主張する。そして、アシュケナージ・ユダヤ人がザイオニストとなってイスラエルを建国し、スファラディ・ユダヤ人たちを支配して抑圧している、と主張するのである。ここまでくると、もともとの「ユダヤ陰謀説」はどうなってしまったのだろうか、といささか心配になってくる。ジュダイズム(Judaism・ユダヤ思想)は、世界中のいろいろな人種が信じたであろうし、ユダヤ人という人種がそもそもどのような人種であるのか、歴史学、人類学、考古学上でもいまだにはっきりしないのである。もしかしたらユダヤ人とうのは、人種ではないのかもしれない。突き詰めれば、ジュダイズムを信じる人びとが、すなわちユダヤ人なのである。宇野理論は、それを「二つのユダヤ人」にまとめることによって、自分の思想の核心点にまでしてしまっている。それらの個々の現象と理論のつじつまが合わなくなったり、かつ事実証明ができなくなると、いきなり『旧約聖書』の記述のなかに根拠を求めようとする。若い頃に聖書研究家として出発した人であれば、事故の信仰による確信もあるのだろうから、余人がとやかく言うことではないが、できることならば、これらの宇野「陰謀」理論を克服して、もっと事実証明力のある陰謀理論にしてほしい・そうなれば、評論家やジャーナリストたちに騙されて怒っているビジネスマンたちの共感をもっと集めるだろう。
 ただその場合でも、聖書研究から始まった経済分析の手法と、日本愛国主義の感情がどこで、どうつながっているのか、が私には理解できない。『ニューヨーク・タイムズ』紙などの記者たちからの悪意のインタヴューをこれまでに多く受けて、悪口や曲解記事を書かれたことを好評しながら、同時に宇野氏は「日本人に受けるように話すには、自分が信じていないことでもそれらしくおもしろく説くのである」というようなことまで外国人記者にしゃべっている。もし、これが宇野氏の真意であるなら、その話芸巧みなパフォーマンス化した伝道者としての姿は、氏の嫌うアメリカのテレヴァンゲリスト(テレビ伝道師として有名なサザン・バプチスト系の説教師たち)と少しも変わりないことになる。

『別冊宝島223 陰謀がいっぱい!
―世界にはびこる「ここだけの話」の正体―』
p112-p119
(1995年 宝島社)

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2003/08/30(Sat) 02:48
投稿者名:金の子守熊(no2145)
タイトル:フランシスフクヤマ『歴史の終り』を読む(1)

金の子守熊(no2145)です。副島隆彦著「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」(講談社+α文庫1999年3月)から、フランシス・フクヤマに関する記述を転載します。(109p~113p)
(転載開始)
 フクヤマ 「歴史の終わり」の衝撃

 次にフランシス・フクヤマFrancis Fukuyamaについて述べる。1989年に「歴史の終り?」“The End of History?”という評論文を表①のネオ・コン派の「ナショナル・インタレスト」誌に書いて一躍有名になったのが、日系人知識人フランシス・フクヤマである.現在彼は、カリフォルニア州サンタモニカにあるランド研究所
RAND Corporationに籍を置いて主任研究員をやっている。以前は国務省の政策企画部次長をしていた。
(中 略)
 フランシス・フクヤマはソビエト研究が専門で、ハーヴァード大で博士号Ph.Dを取った人だが、ギリシア古典政治哲学のプラトンやアリストテレス研究の政治哲学者(ポリティカル・フィロソフィアー)であるアラン・ブルームの弟子である.そして更にそのアラン・ブルームの先生が、これまで何度も言及した政治哲学界の大御所、レオ・シュトラウスである.レオ・シュトラウスはアリストテレス研究という古典学問の背景を持つ強固な保守主義者である。
(中 略)
 フランシス・フクヤマの著作「歴史の終り」The End of History and The Last Man(1992年、渡部昇一訳三笠書房刊)は、へーゲリアン・モデルによる人類史の精神史的な全体スケッチである。この優れた本の中でフクヤマは自分の、レオ・シュトラウス派としての信念表明を行った上で、更に「この地上の全ての国家が、結局最後には、アメリカ型のリベラル・デモクラシーに到達するのだ.それで人類の歴史はひとまず終わるのだ」という挑戦的な世界モデルを提示した.アメリカ知識人の間で大きな話題となった.この「歴史の終り」には世界の終末についての重要な問題提起がいくつかあるが、ここではこれ以上は触れられない.ところで、この論文が先の表の①のネオコン派の重鎮のアーヴング・クリストルの「ナショナル・インタレスト」誌に掲載されたということに、極めて重要な意味が含まれている.
 この本の訳書は渡部昇一氏の正確な監訳で92年に出たので、日本でも読むべき人は読んでショックを受けている.この本を読んだ人は、ヨーロッパ政治思想とアメリカ現代思想の共通土壌を改めて知っただろう.ついでに世界の大きさ・広さと日本の国内知識人の劣勢を自覚し、自分たちが世界の思想水準からどれほど遅れているかということに少しは気づいたのではないか.ニュージャーナリズム系の大御所文芸評論家トム・ウルフTom Wolfがこの本の書評文を書いて絶賛したりした。
 フクヤマが、カント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクスなどドイツ系の哲学を連続的に鮮やかに叙述したことが、そもそもアメリカ人知識層にとっては驚きであった.アメリカではドイツ観念論哲学系は、ドイツ人家系のへそ曲りで偏屈な、老人大学教授がやるものだという一般的な印象がある.日本人はドイツ観念論哲学なら読み込みに年季と自信を持っているし、福山はもちろんホッブスやロックやスピノザについても論じているから、この「歴史の終り」をドイツ、フランス系と英米アングロサクソン系の近代政治思想の交流・融合の場として読むと、極めておもしろい。
 ちなみに、このレオ・シュトラウスのフランスの親友が、アレクサンドル・コジューヴAkexandre Kojeveである。彼は、1930ー50年代のヨーロッパ最大のヘーゲル・コメンテーター(ヘーゲル哲学解釈者)である。コジューヴはパリ実業高等研究院Ecole Pratique des Hautes Etudes de Parisで哲学教授を務めた人で、後には、EU(ヨーロッパ統合)運動の推進役としての役人になった。コジューヴこそは、戦後ヨーロッパ最大の知識人だったのではないか.彼の講義を受けて影響を受けたのがレイモン・クノーRaymond Queneau、ジャック・ラカンJaques Lacan、ジョルジュ・バタイユGeorges Bataille、レイモン・アロンRaymond Aron、エリック・ヴェイユEric Weil、モーリス・メルロ・ポンティMaurice Merleau-Ponty、ミシェル・フーコーMichel Foucaultであり、彼らが後に「フランス構造主義」哲学を作ったのである。

 国際政治の”リアリスト”たち

 フクヤマは、実際上ネオ・コン派に加担しているくせに、この国際政治におけるいわゆる“リアリスト“Realist(現実主義者)と、自分の対立線も明らかにしている.ハンス・ヨアヒム・モーゲンソーHans Joachim Morgenthau(1904-80)こそは、アメリカのリアリズム国際政治学を築いた人物だ。

(転載終り)
 金の子守熊です。次に「歴史の終り?」“The End of History?”についてフクヤマ自身が要約している部分を転載する。

(転載開始)
 本書(注:The End of History and The Last Manのこと)執筆のきっかけは、私が「ナショナルインタレスト」誌に書いた「歴史の終り」(”The End of History?”)という題の論文である。その中で私は、一つの統治システムとしてのリベラルな民主主義の正当性をめぐって、ここ数年にわたり世界中で注目すべきコンセンサスが現れている、と論じた.それはリベラルな民主主義が伝統的な君主制やファシズム、あるいは最近では共産主義のような敵対するイデオロギーを打ち破ってしまったからだ、と.だが、それ以上に私は、リベラルな民主主義が「人類のイデオロギー上のシンポの終点」及び「人類の統治の最後の形」になるのかもしれないし、リベラルな民主主義それ自体がすでに「歴史の終り」なのだ、と主張したのである.つまり、それ以前の様々な統治携帯には、結局は崩壊せざるを得ない欠陥や不合理性があったのに対して、リベラルな民主主義には、おそらくそのような抜本的な内部矛盾がなかったのだ.
 もちろん私は、アメリカやフランス、スイスのような今日の安定した民主主義諸国には不正や深刻な社会問題がなかったというつもりではない.けれどもこうした問題は、近代の民主主義の土台となる自由・平等という「双子の原理」そのものの欠陥でなく、むしろその原理を完全に実行できていないところに生じたものなのだ.現代の国々のいくつかは、安定したリベラルな民主主義を達成できないかもしれない.中には神権政治や軍事独裁制のような、もっと原始的な支配形態に後戻りしかねない国もあるだろう.だが、リベラルな民主主義の「理念」は、これ以上改善の余地がないほど申し分のないものなのである。
(以上「歴史の終り・上巻」はじめに13p~14p 三笠書房1992年)

(転載終り)
 金の子守熊です。また同じことをフクヤマはこうも書いている。

(転載開始)
 『歴史の終り』で、私が論じたのは、こういうことだった。ヘーゲルは、「歴史は1806年に終わった』と言ったが、これは正しい.1806年、イエナの戦いにナポレオンが勝ったとき、ヘーゲルは自由主義の原理が統合されたのを目の当たりにした.革命の原理を越える政治的進歩は本質的に起こらなかった。1898年共産主義の崩壊は、全世界がリベラル民主主義に向けさらに収束するという大団円を知らせたに過ぎない。
(以上『人間の終り』はじめにから ダイヤモンド社2002年)

(転載終り)
金の子守熊です。他の掲示板で、フクヤマの「歴史の終り」に対する評価をきっかけに活発な議論がなされている。彼らの、フクヤマの著作を引用せず、自らの記憶だけで議論を展開しているのを見ると、彼らの知力に感心しながらも、フクヤマの著作をじっくり読み、その主張を吟味してみたいという思いが強くなってきた。お釈迦様ではないが、結局はフクヤマの手の中で踊っているのではないか?
そこで、自分の非才ゆえ、時間がかかるかもしれないが、これから「歴史の終り」をはじめとするフクヤマの著作を吟味し、小文にまとめていきたいと思う。

以上 金の子守熊 拝

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)