マスゴミの誕生

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/09/03 09:15

会員番号4655の佐藤裕一です。

近頃、日本の刑事もの、警察もののTVドラマが多過ぎて参ってしまう。

検事や法廷ものと、探偵推理ものは最近は少ない気がする。派手なアクションシーンを演出するとなると、『踊る大捜査線』の青島刑事(織田裕二)ではないが、現場に居合わせている場面を撮る必要があるわけで、警察や刑事ものがどうしても多くなるのは分かる。その他には最新の科学警察とか、特殊な頭脳集団が知能戦を展開するものだったりするのが多い。

職場から家に帰ってくると夕食の時間帯だから、ちょうど親が居間で観ている時間帯なので適わない。聞きたくなくても不愉快な音声として脳内に入ってくるのだから困る。似たような番組ばかり、供給過剰である。もう食傷気味……いや、もともと好きではないのだが。

いつ頃からか捜査ものというジャンル自体を、はっきりと嫌いになった。勿論、重要なのは内容、中身なのだから、好きなものや面白いものが出てくれば、観たいと思うが。今のところ日本のでは見当たらない。皆無だ。一人で観るなら、まだ楽しめる方法があるのだが(ここは感動するところなのか、それとも笑うところか、みたいな)、複数人数でなんて観たくない。

これでもかと押し付けがましく、「警察は国民の安全を必死に守っているんだ! 危険を顧みず、体を張って犯罪を取り締まっているんだ!」「刑事は正義の味方なんだ! 被害者のために犯罪者を許さないんだ!」という感じの、警察と刑事、検察は必要なんだキャンペーンを毎度毎回繰り返されると、さすがにうんざりしてきて、かえって逆効果なんじゃないのと思ってしまう。意図が透けて見えるが、露骨過ぎる。犯罪者は追い詰められて、仕方なく犯罪を犯してしまった人物であることも多いが、扇動目的を誤魔化しきれていない。

ここまでやられると国民は、自分達が犯罪者だと言われているように感じるからだ。暴力団と双璧を成す犯罪者の巣窟は、果たして公権力を笠に着ている。それは一体どこの組織だろうか。何故TVドラマでは、警察官の犯罪者と組織犯罪、刑事の犯罪者と組織犯罪、検察官の犯罪者と組織犯罪を描かないのだろうか? 目的のためには手段をかえりみないという、違法捜査ばかりしている。冤罪、濡れ衣のかけ放題。暴力団は元来から犯罪組織であり、警察と検察は組織犯罪に手を染めているということだ。犯罪組織と組織犯罪、言い方の違いである。

最近、政治謀略電波部門担当の国民扇動番組が、あまりにもあからさまで悪辣なプロパガンダが過ぎたせいで視聴者から嫌われかけたので、少し退場していっているのと入れ替わっているのだろう。

たまに大企業や官僚やアメリカを批判しているのは単なるガス抜きか個人的意見だ。結論までなど見たくもないが、結局は政治家の責任か国民のせいに誘導されるはずである。あとは北朝鮮とか中国とかの近隣独裁諸国家のせいにする。真の結論は、官僚、アメリカ、新聞・テレビ。この3つが最悪のトライアングルであり、アメリカの手先が官僚、官僚の手先が新聞・テレビである。手先中の手先は新聞・テレビであり、お家芸ですらお許しを得なければ権力者を叩くことは出来ない。まず今までの謀略報道の所業について、冤罪被害者と政治家と国民に許しを請え。

さて、ドラマ以外にはスポーツ解説、ニューズか映画、天気予報、お笑い番組くらいしかないのだから、TV視聴者層の選択肢は限られている。クイズ番組も教養番組もワイドショーも歌番組(一度死に絶えてから久しい。音楽業界はもはや、各人がそれぞれ生き残れるかどうかでしかない)その他諸々、全部お笑い番組と化している。垣根が取り除かれていって、さらにはお笑いに迎合、従属していっている。

まぁTV局はそれでもいい、商業判断だから。そうでないと視聴率が取れないし、CMの値段も下がってしまうから、需要に合わせてTV局が番組を発注するのは、私営の営利企業として当然の経営判断だ。

商業とは基本的に需要に合わせて供給していくものであり、いくら「我々は一般の産業とは違う。クリエイティヴに供給から先に創出していっているのだ!」と主張しても、それは真に先駆的な、イノヴェーションと呼ばれていいほどの事業にだけ当てはまるのである。新規産業や新機軸も、普及と時間経過による既成化していくにしたがって、既成かつ既製の事業や商品は、どんどん供給先行を諦めて需要重視に切り換えていかざるを得ない。そうでないと購買層から本当に見捨てられてしまう。自動車産業、IT事業、携帯電話事業、みんな同じである。

新聞・テレビだけが例外ということなどない。テレビについては革命はあらかた終わった。映像技術の進歩については続いていくが、別にテレビという箱と媒体でなくてもいいし、こだわる必要が無い。新聞は書籍と一緒で要は紙であり出版産業の範囲に含まれるし、テレビは映像産業の範囲に分類される。箱自体は家電だ。特段に別扱いする必然性は薄まってきたのだ。自覚せよ。

さて、斜陽業界以上の悲哀と悲劇(喜劇)、悲しいのは知的な、とても知的な出演者達だ。知識人、文化人、教養人、言論人、有識者、学者、学識経験者、評論家、司会者、コメンテーター、インテリ芸能人、茶坊主。表現は色々である。みんなお笑い芸人と絡んでいるどころか、自身がお笑い芸人と化している。

しかしこの現象は成り下がりではない。むしろ成り上がりである。お茶の間に笑いを提供するという、他人の役に立つ仕事につくようになったのだから。有害無益の手先茶坊主よりもよっぽどマシである。手先人生の果てにも、ある程度は職が用意されているのだから、日本は平和というのは本当だろう。

薄っぺらの無内容番組に出演するようになっていったのは当然の帰結であり、彼等の浅薄さ加減の原点回帰である。最近そうなったように見えるだけで、元々、そうだったのである。死んでいった人達はこの時代に突入する前に、具体的に国民の目の前で露見することなく消えていき、幸せであっただけの話である。最近はメッキがはげたのを隠しようも無くなったので、開き直り、居直りをするしかない。彼らも食っていかねばならないのだ。

これから政府の有識者委員会という、存在そのものがお笑いの、無駄委員会が廃止されていって、使い捨ての腐れ茶坊主どもが追い出されていくとなるとすれば、生き延びるためにますますその傾向に拍車がかかることになるだろう。それでも、TV局自体がなりふりかまっていられない経営情勢という時代だから、やっぱりいつでも使い捨てであり、新聞となると何も言う必要は無いほど悲惨なのだろう。低劣さに歯止めがかからない。

それでも私は営利上、商業上の判断を、それだけの理由では批判しない。儲ければどんどん儲かればいいし、拡大するなら拡大すればいいし、商業的に敗北するんなら併合吸収されるなり縮小するなり、破産して退場するなりすればいい。

商売は商売でいいのだが、それが公務員であった場合とか、公的資金導入とかいって税金が投入されていたりすると、当然批判の対象となる。誰のカネだそれは、ということだ。私にとってはこれが一番、目を光らせる問題である。だから公共の電波と、電波行政を握る総務省の許認可行政と、それから半官半民なのか、わけが分からないNHKの存在自体が問題となる。

あとは不偏不党の原則に違反し続ける政治謀略報道、虚偽、名誉毀損などの著しい悪質報道が批判されるべきところだが、これは日本の特殊事情ではなく、世界的にそうなのだろうと思う。私はせめて、あのBPO(放送倫理・番組向上機構)の、「こんにちは! 僕テレビです! 僕みんなのハート傷つけたりしてないですよね? 嘘の情報流したりしてないですよね? 子供達によくない番組放送したりしてないですよね?」っていうCMだけはとにかく止めてくれないかと思う。聞くたびに虫酸が全身を駆け巡る。

世界中の報道機関は、程度の差こそあれ、みな偏向報道と虚偽報道をしているはずである。イラク戦争のときのアメリカのテレビ報道は典型例だが。中立報道なんてそうそう出来はしない。ましてや真実の報道なんて本当に本気でやろうとすれば危険過ぎて、命がいくつあっても足りない。だから権力の監視機関が、いつの間にか国民の監視機関に成りかわっている。権力者の都合に合わせて、管理統制に率先して協力する手先になる。マスゴミの誕生である。権力者の保身を批判する資格のある者はマスゴミに従事する人間の中で、一体何人いるだろうか。

うさんくさい謀略報道も電波商売、謀略言論も言論商売だと言われればそれまでで、言い返す言葉もない。一人一人にとっても商売なのだ。謀略言論を番組に対して販売提供する商売。受注してるおおもとの電通以上のおおもとは官僚とアメリカである。それでも個人の商売は商売で尊重するし、偽善者でいるよりも言い切ってもらった方が、こっちもすっきりする。人生は割り切りが必要である。だがやはりそこまでであって、その姿勢、人生態度に尊敬の念は起こってこない。そんなものは湧きようが無い。

本を書いている言論人も全て言論商売をしている売文業者であって、それでいいのである。商売じゃないのはアマチュア言論(私含む)でインターネットをやっているか、自費出版かはたまた道楽か、本当に無報酬でやっていける身分であるか、本職が別にあるかの話で、プロの物書きでありながら飢え死にしながらなんて到底やっていけない。プロが対価を受け取るのは当然である。やっていけるのならば。謀略本やら陰謀本を出すのも自由である。やはり売文の中身、内容が重要だ。出版業界も相当追い詰められていて新古書店と一緒に倒れそうなくらいだろうが、頑張ってほしいものだ。インターネット革命は素晴らしい反面、無料文化の悪弊もひどい。国民文化が敗北して滅びかかっている。一度滅びたほうがいいかもしれないが。

話を戻すと、私は正直、つまらない無内容延々繰り返しのドラマよりも何よりも、やらせくさい低脳お笑いバカ番組の方が好きだ。どのくらいああいった番組の作成に暴力団が関わっているのか分からないが、真面目なフリをした浅薄番組や謀略報道と比較すれば、苦しまないで見ていられる。わざわざ不愉快になるよりも、まだバカ笑いしたいところだ。精神衛生上、テレビを全く見ないことにしているという、変人タクちゃんと違って(馴れ馴れしくて申し訳ない、サイト名乗りの公称しか知りません)、私は割り切って見られる性格です。

大物実力者の総合司会者のもと、雛壇芸人やアイドル達が、クイズ番組形式で学芸会というか、御遊戯会みたいにみんなで集まって、実に微笑ましい光景を展開していたりする。紅白歌合戦のかわりにお茶の間団欒の文化として定着しているんだろう。国民総白痴化とか言われるけれども、今に始まったことでもなかろうということだ。

しかし。日本のお笑いは、政治を対象にしてしまうと、途端に程度が知れてしまう。西欧近代諸国のような超がつくほど高度に洗練された笑いは、この日本では所詮無理である。何しろ理解出来る土壌が元々無いのだから、成立する余地が無い。手を出せば一気に東アジア的土着民の、典型的愚劣さ加減を露呈するだけだ。スキャンダル暴露レベルから上に行けない。世界基準で通用する政治思想が無い。輸入もので、しかも日本的変造を経た、「それっぽいもの」しか無い。

それもこれも全て先生がずっと指摘している通りである。笑いにタブーは無いという原則、建前を強調して、政治を笑いの対象にするのも結構だが、これらの事柄を無視して進み政治を笑おうとすると、後には滑稽な笑いしか残らないだろう。「自分達は世界に通用する立派な人物である」と思い込んでいる人間がいて、国民からもそう思われているという事実が、既にこれ以上無いというくらいの、一番のお笑いなのである。

お笑い芸人はいいし、アイドルも役者も、テレビ芸能人という芸能人はみんなお笑い芸人と化しているが、もうあれはあれでいい。問題は知識人、文化人、教養人(以下略)の人達は、手先使い捨て人生からどうやって方向転換していくのだろうか。余計な心配をしてしまった。答えは知的お笑い芸人として、暫くはやっていけそうだろう。学校産業で食いっぱぐれた学者達も吸収してもらって。まぁ日本の大学とか大学院って、お笑いだろうから、お笑いからお笑いに労働人口が移動するだけだろう。……また少し僻みが出てきたか。業界人間も各人が活動して生き残ればいい。個人に実力があれば会社がいくつか潰れていっても渡り歩いて食っていけるだろう。出来ない人は失職して堅気になり、健全な職業についた方が本人と経済のためである。

新聞は知らないが、テレビ放送は戦後のテレビ漬け世代には必要だ。全て無くなったら彼等が発狂死してしまう。ここら辺の事情を山田宏哉さんがご自身の「文筆劇場」というサイトで書かれており、実にその通りだと思う。

地デジとかいう、家電業界含め各業界間と省庁のあざとい利権商売で、残った視聴者層の老人達まで敵に回していいのか? いざとなったら、お年寄りの貧困世帯にUHFとかの対応アンテナ設置工事と最低限のテレビを配って回ったほうがいいよ。国民の都合ではないんだから、不公平ながら名目も立つ。

まぁこんな具合なのだから、幅をきかせて謀略報道や虚偽報道で国民と政治に迷惑をかけず、税金を使わないのであれば、それでいい。無論、新規参入を妨害するなどもってのほかである。思い上がるなということだ。参入、退出の自由を確保して風通しを良くするべきだ。

ただし民放は需要と供給が、単純なテレビと視聴者の関係に当てはまらず、CM収入でスポンサー形式をとっているのでいびつな部分があって、電通とかが付け入ることになる。是正の自由を経営形態の余地として残すべきだろう。その点についてこの掲示板に前に書いたものを転載貼り付けしておく。

勢いで書いたが、結論はテレビ業界はお笑いを提供することでのみ当面は生き延びられるだろうから、それに徹したほうが良いんじゃないかという有益かつ親身な提案である。今回は以上。

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

[610] 産業の変化に対応する際における日本のテレビ放送業界が持つ問題を5点 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/01/20(Wed) 23:06:31

会員番号4655の佐藤裕一です。以下「だ・である口調」の文体でいきます。

現代はナショナル・フラッグ・キャリアでさえ経営破綻・整理される時代だ。親会社だとか銀行が助けてくれる時代ではない。どこにも余力が無いどころか、自分達も倒産の可能性が常にあるのだから。

国家による税金投入の救済もモラル・ハザードを引き起こす。国家による特別扱いが、市場の主人公であるはずの民間自由企業・私有会社のやる気をなくさせ、活気を失わせる。

テレビ・大新聞の大幹部も、もはや自分達が特別な身分・立場ではいられない事に気付いているはずだ。ただでさえ産業のあり方が変化しているのに、今まで通り国民に牙をむき続けて謀略報道・謀略放送を続けられると思う方がおかしい。まるで自分達には破産の可能性が無い、そういう根拠なき前提を無条件に思い込むのは危険だという事だ。

植草氏は「政・官・業・外・電」の「悪徳ペンタゴン」を命名したが、この中で一番下の地位にあるのは「電」である。「業」は様々だが、植草氏の定義によると大資本だという事なので、やはり「電」が最下である。特に「官」の下にあって、予め許される範囲内でしか「官」批判は出来ない。そして刃は「政」に向けられる。はっきり言うと国民政治家に、である。

彼等は国民に反逆してしまった。もうテレビ・新聞が何社か潰れたところで、国民生活にさしたる悪影響を及ぼさない段階になってしまった。潰れないで居座り続ける方がかえって迷惑だ。その時に、国家・国民あげての大騒動が起こっているという「ふり」をするな、と今から言っておく。

業界人間と関係者達が大変なだけだ。大した事態ではない。普段からどこそこの会社が経営破綻したとか、合併・統廃合がどうのとかを淡々と冷酷に解説しているだろう。それと同じ事で国民も平然としていられる。今から心構えと対応の準備をしておくべきだ。官僚の前例踏襲主義のように、今までがこうだったのだからと凝り固まった意識のままでいてはいけない。そのうち過去に郷愁を抱くようにどんどん変化していく。

中国の方がかえって、テレビが何十社も競争しているらしいじゃないか。国家統制によって報道の自由が「公然と」制限されているという事以外は、向こうの方がよほど健全な市場だろう。中国が国家としての共産主義の標榜という、現実から乖離した大嘘を捨て去る日が来たらどうするのか。

という事で今回は産業の変化に対応する際における日本のテレビ放送業界が持つ問題を5点ほど挙げる。

1.許認可行政・電波利権・総務省による放送業界支配の問題

総務省による許認可行政。電波利権を国家に握られている。よって裁量が官僚の匙加減次第となり、放送市場への参入の阻害要因となっている。総務省支配を止めるべきか。

自由市場が成立している前提条件1つは、基本的に参入と退出が自由、という事である。

ここに総務省支配の許認可行政の問題が横たわっている。現状、参入が自由が無いのだ。アナログ放送の終了、地デジ強制移行なども国家主導でなければ出来ないだろう。家電業界も需要創出を望んでいるのだろう。

この国家・公権力と電波・放送の関係については、私には簡単な答えが見付からない。もちろん私は自由主義者なので、基本的には国家の干渉は嫌いだ。しかしはじめからインフラというか、電波塔など様々な施設が必要な業界である。水道・ガス・電気と似ている。だからずっと保護・育成産業だったわけだ。過保護が過ぎて不良になってしまったようだが。

やはり今までが悪すぎたのだ。電波の暴走をどうしたらいいのか、ここの問題が難しい。総務大臣の指導による干渉だとか、何とか自主規制委員会などでは到底解決出来まい。言論の自由と暴走の根本問題がある。

とにかく私は反税金投入論者であるから、基本的には許認可などなくして、もとの電波のほうも民間の私営会社としてそれぞれ契約すればいいのではないかと安易に思う。法律違反があったときだけ捜査すればいいのではないか。

2.クロスオーナーシップ問題

クロスオーナーシップ制限・禁止についても、私は簡単には賛成しない。

独占・寡占の問題を許認可権を持つ総務大臣が言う事に疑問があるのである。この状況を作ってきたのは総務省と長年の自民党政府であり国家である。経営体系をどうするのかはそもそも私営会社の自由にすべき事ではないのか。

国家公権力による保護・干渉があると、その先の議論はみんなグチャグチャになってしまうのである。これが世の常である。新聞会社とテレビが一緒という問題より、国家の干渉の方が大きい問題だ。謀略の手段・手先になってきたのだから何の同情もしないが、それでも国家の干渉を排除する事が私の中では優先する。

3.外国資本の参入問題について

考えられるの議論なので一応挙げてみたが、外国資本といってもさして問題はなかろう。私はたいして心配しないし問題視もしない。

かえって活気がでるだろう。日本人は日本語しか話せないので英語による洗脳は結局出来ない。脳みそが外国語の洗脳についていけないのである。株取得だけ制限するなど対策も取れるだろうが、基本的には自由にすべきと書いておく。

むしろ日本語という非関税障壁、文化防衛の負の側面・弊害が心配である。これからどんどん弊害が出てくるだろう。

4.広告業界支配による民放問題

これは民放が視聴者と契約を交わしていないという事実から起きてくる問題である。

多くのまともな識者から、もうずっと指摘されているだろう。テレビ業界はNHK以外は視聴者から受信料をとっていないので、必然的にCMの広告業界に過度に依存する事となる。日本の現状では電通支配である。

無料文化というのはいびつなものである。タダほど高いものはない。視聴者は煽られ、操られ、騙され、踊らされ続けるという料金を何十年も黙々と支払ってきたのだ。これがいわゆる高い授業料というやつである。

金を払っていないという事は、自分達の意向が反映されなくて当たり前であり文句は言えない、という事なのだ。視聴率調査は視聴者のために行っているのではなく、広告業界のために行っているのである。テレビ業界にとって本当のお客様は視聴者ではなく広告業界なのだから当然である。前にも書いたがインターネットもこの無料文化問題の巨大弊害を抱えている。

それで、依存先の広告業界から放送内容に注文をつけられてしまい、干渉されてしまうので報道や放送が都合のいいように捻じ曲げられてしまう。

単純に考えられる解決方法としては、テレビを持つ各受信世帯の個人個人の視聴者と直接期間契約を結び、受信料金を支払うようにするというものである。

これがごく普通の市場、需要(買い手)と供給(売り手)の関係であり、契約体系である。視聴者は好きな放送局とだけ受信契約を結べばいい。今まで通り受信料はとらずに広告料金だけでやっていけるというなら、その放送局はそうすればいい。番組制作にヤクザ支配が絡んでくるのがどうとか、家電のテレビそのものの値段、その他余計な雑収入、支出などは無視して話を進める。

ここで注意すべき事があるのだが、私は「受信料を取らず広告料を取る」(民放モデル)か「受信料を取り広告料を取らず」(NHKモデル)の二者択一だと言っているのではない。「受信料を取り広告料も取る」でもいい。何もおかしい事ではないから、法律でこれを禁止するべきではない。どちらも取るなんて強欲だ、などと言ってはならない。

何故なら、それに見合った放送・報道内容(供給)でなければ契約(需要)が成り立っていかないからだ。

「受信料を取り広告料も取る」モデルにおいて、高い質を保証出来ないのであれば、受信料を値下げするなど低く設定する必要が出てくるし、視聴者・視聴率が少ないのであれば、広告料もそれなりにするか量を増やす必要がある。そうでもしなければ、どんどん契約が解除されていくからだ。料金を下げたくないし、受信者・広告業界の契約者も減らしたくないのなら、放送の質を高める以外に方法は無い。

「受信料を取らず広告料を取る」(民放モデル)でやっていくなら、広告業界の方を向いている事を承知の上で視聴者は楽しめばいい(外国には広告だけの専用放送局というのがあるらしい)。もちろん視聴者は誰でも無料で自由に見られる。どうせ視聴者がいなければ広告業界は商売が成り立たないのだから。視聴者には番組の他に、自分達にとっては余計な広告の時間帯が挟まれているという代償があるだけだ。

「受信料を取り広告料を取らず」(NHKモデル)の場合、他の2つのモデルよりも放送内容の質が高くなければならないのは当然である。受信契約を多く取りたいと思うのならそうするしかない。一応理解しやすいよう便宜的に(NHKモデル)と言っているが、正確に言うと違う。NHKは受信料金を強制的に徴収するのであるから、自由契約ではないのだ。これは次の5で書く。「受信料を取り広告料を取らず」というのは、視聴者が自由に見たい番組がある放送局と契約するというものである。潰れるとことは潰れればいいし、新規参入もしたければすればいい。自由契約こそが大事である。

この3つのモデルがどれもあるというのが、健全なあり方であろう。

雑誌や新聞などもそうでしょう。何百円かお金を払って、それに広告が載っているからって、そんなに文句や不満なんて今時の人は抱きません。広告ばかりになってきて嫌気がさしたのなら、もうその雑誌や新聞を買わなければいいだけの話だ。この点においては、例え奇妙な宗教団体の広告収入に依存しているとしても、新聞の方がまだテレビよりも健全である(宅配制度など妙な制度があるが)。

無料の求人情報誌は依頼主という顧客があるからこそ成り立っている(が、このままだと先行きは苦しいだろう)。逆の広告に依存しない週刊誌というのは、資本主義に染まらないなんて孤高の精神でやっていたのもあったが、やはり時代に合わなくなっていった。そういう考え方では駄目である。広告収入をとらないというのであれば購読料に跳ね返るから、よっぽど内容が高くなければならない。テレビもこういう他業界と同じになるべき。

ただラジオはもう無理だ。受信料を払っている人しか聞けないラジオ放送なんて、現代の市場では成り立たない。「受信料を取らず広告料を取る」しかない。これも時代の流れである。ポケベルが携帯電話の登場に押し退けられて業界自体が完全に消滅したように、無くなる時は無くなるのである。

ラジオはもう縮小市場になってしまって久しいからそれでいいのである。みんな趣味みたいに聞くので愛されている放送局はそれでいい。

テレビの方が頂点から下っていくから、これからまずいだろう。いまのところはインターネットの普及率もテレビには追いついていないし、その脆弱性が解決していないから助かっているが。そのうち身動きが取れないまま先細りで手遅れになる可能性がある。産業のあり方が変化している事についていけるか、それが問題だ。対応していくには需要と供給の関係を考えなくてはならない。

5.NHK問題

廃止しろ。

それか完全私営化で民放にでもなれ。こんなものに税金を使うな。強制徴収を止めろ。誰も契約したかないのにテレビがあるだけで受信料を取るというのは、税金と同じ性質のふざけきったものである。細かい違いをあげて受信料は税金ではないなどと言うな。税金を徴収しながら税金を投入されているのだNHKは。

もはや国民国家の良心ではなくなって久しい。電通の支配を受けない唯一の存在だからといってみても言い訳にならない。1~4の根本的改革を実行すれば電通などどうでもよくなるのは目に見えている。

だからNHKに改革など必要無いというのが私の結論だ。存在そのものが無駄だから後腐れの無いようにするか、放り出すかのどちらかにせよ。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)