アジア政治経済掲示板から転載貼り付け11
会員番号4655の佐藤裕一です。
続けてアジア政治経済掲示板から転載貼り付け致します。
【佐藤裕一による転載貼り付け始め】
[1456] 題名と名前を逆に入力してしまいました 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/12/01(Tue) 01:14:39
会員番号4655の佐藤裕一です。
下記の投稿[1455]番、入力箇所を誤ったようです。題名が「会員番号4655 佐藤裕一」になり、投稿者が「故・片岡鉄哉先生関係の文章で阿修羅掲示板から転載まとめて保存2」さんになってしまいました。大変失礼致しました。
それにしても、[1455]の中にある副島先生の紹介文で、
「……雑誌の対談等で漫画家小林よしのりに対し自身の学問上の師である小室直樹、岡田英弘に次ぐ師であると絶賛し告白する。理由は日本の保守派が実際のところ愛国派の衣を被った米国に媚びへつらう飼い犬のポチでしかない事を小林が見抜いた事による……」
というのがありますが、本当でしょうか。この話を今までに耳にした事が無いのですが。
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[1457] 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/12/21(Mon) 21:02:52
会員番号4655の佐藤裕一です。
故・若泉敬氏の『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 新装版――核密約の真実』(以下、省略する場合は『他策』)を先日読了致しました。
一九九四年五月に出版された元の本ではなく、二〇〇九年十月に出たばかりの新装版の方です。手嶋龍一氏が「新装版に寄せて」を書いています。
私が今まで読んだ事がある本の中で、一番長く読書時間が必要になりました。それほどまでに読破するのが大変でした。といっても頭脳明晰である氏の文章は実に読み易いのです。時間がかかってしまったのは、単にもの凄く分厚い本だからです。しかも上下二段になっているもので、それが実に全十九章あります。私は元々遅読なので一気に読み進められない事もあり、半月以上もかかりました。
まず最初に、この沖縄返還と日米密約の事に関しては副島隆彦先生の『属国・日本論』もしくは『改訂版 属国・日本論』の、「第一部 属国日本論・日本の本当の姿」「二 なぜ佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞したのか」が日本語で書かれた最高の文章であり、『他策』に関する書評にもなっているものだと考えます。
反共の闘士・ニクソンの壮大なソ連打倒の世界戦略構想、米中接近による楔の打ち込みによるソ連挟撃、その一環としての沖縄と基地にある兵器の撤去といった視点は『属国・日本論』によって示されています。不当な評価のままである『属国・日本論』こそ、再評価されるべき歴史的重要文献の1つだと思います。
私には書評といった立派なものは出来そうもないので、読後感想文みたいな代物ではありますけれども。『他策』は本当に大著でありますので、敬意を払う観点からも何か書きたいと思います。私が副島先生の文章をなぞっても仕方ありませんので、かなり本筋から離れたものですが、とにかく自分が感じた事だけを書きます。
それから『他策』に度々引用されている参考文献の『佐藤栄作日記』は未公開第一次資料になっていて、閲覧と引用を許可された部分だけを遺族の好意で引き写したものらしい。若泉氏が他界した年に『佐藤日記』が出版されているので、もっと前に出版されていたら『他策』にも繁栄されていただろうと思う。
それでは、『他策』の著者の経歴については最終頁から引用致します。私は勿論、生前の氏にお会いした事はありません。
(引用始め)
若泉 敬 わかいずみ けい
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昭和五年福井県生まれ。福井師範学校か
ら東京大学法学部にすすむ。ロンドン大
学大学院、ジョンズ・ホプキンス大学客
員所員などを経て、京都産業大学教授に
就任。佐藤栄作首相の特使として、沖縄
返還交渉にあたる。平成八年七月没。
(引用終わり)『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 新装版――核密約の真実』(若泉敬著、二〇〇九年十月三十日 第一刷発行、文藝春秋社刊、632頁)
詳しい著者の経歴についてはウィキペディアをご参照願います。
若泉敬‐Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/若泉敬
さて『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という本の題名の読み方ですが、「他策なかりしを信ぜむと欲す」という風に、普通にそのまま「む」と読んでしまいがちです。もちろん実際の発声は「む」ではなく「ん」になりますから、「他策なかりしを信ぜんと欲す」と読みます。
なんでこんな古めかしい表現をしているのかなと思ったところ、『他策』の謝辞に由来が載っていました。該当部分を引用致します。
(引用始め)
ここで、拙著の題名について、その由来を述べておきたい。
日清戦争(一八九四―九五年)当時伊藤博文内閣の外務大臣として、多事多難な明治期外交を担った陸奥宗光の回想録に、『蹇蹇録』がある。"当時外交の写生絵図" と陸奥自らが形容したこの労作は今や古典としての地位を確立しているが、国際政治・外交の一学徒たる私にとっても、文字通り、座右の書である。
この『蹇蹇録』を結ぶに当り、陸奥宗光は自らの所信を、こう開陳した。(1)
「されば今回下ノ関条約の変改の如きも、事後の今日においてこそ政府は外に屈従したるの姿あれども、事前の大勢においては、その実、内に顧慮する所ありてここに至りたるなりというを以て、むしろ事実の真相を得たりとすべし。要するに今回三国干渉の突来するや、まさに日清講和条約批准交換期日已に迫るの時にあり。而して政府は三国および清国に対するの問題を一時に処理せんため百方計画を尽したる後、遂に乱麻を両断し彼此各々錯乱せしめざるの方策を取り、その清国に対しては戦勝の結果を全収すると同時に、露、独、仏三国の干渉をして再び東洋大局の治平を撹擾するに至らしめざりしものにして、畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当らしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」(傍点―引用者)
この古典的外交史記に肖り、もとよりそれが僭越不遜であることを承知の上で、「他策なかりしを信ぜんと欲す」(2)という、近代建国期の傑出したわが国ステーツマンの心境を、敢えて自らの心境として、題名に借用させて頂くことにした。ひたすら、陸奥宗光伯ならびに関係者各位、読者の皆様の御海容を仰がなければならない。
(中略)
(1)陸奥宗光『蹇蹇録』(岩波書店、一九八三年)三七〇―三七一頁。なお『蹇蹇録』は一八九五年(明治二十八年)除夜に脱稿、初めは外務省で印刷されて一八九六年刊行された。しかし外交の機密にわたる秘書として三十三年間公開されず、一九二九年に『伯爵陸奥宗光遺稿』(岩波書店)が出版され、そのなかで漸く全文が公表された。
(2)一九二九年公表の底本では、「他策なかりしを信ぜむと欲す」となっている。なお本著作「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の表題および書体は、国立国会図書館所蔵の『蹇々餘録草稿綴』に依る。
(引用終わり)(前掲書、5~7頁)
(注1:傍点は若泉氏が、我にありては……~……信ぜんと欲す、まで振っていますが、ここでは省きました)
(注2:文中「各々」の二文字目は二の字点ですが、正確な記号が表示出来ないので一般的な同の字点に変えました)
(注3:送り仮名はここでは省きました)
このよう書かれている通り、最初は陸奥宗光が「他策なかりしを信ぜんと欲す」と吐いた言葉が元であったようです。
若泉氏が傍点を振っている部分、陸奥の「我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当らしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」は、まさにそのまま若泉氏の心境を表しているのだと思います。
「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」とは、当時を振り返ってみて、自分以外の誰が自分と同じ立場に立ってあの難局に対応していたとしても、他に何か別の方法・上策をとれる可能性は決して無かったのだと信じたい、という意味でしょう。
およそこれ以上に考えられない程の悲痛な言葉です。若泉氏の魂の叫びそのままなのでしょう。読み終わった今となっては、他に適切な書題は無いと言っても過言ではない、そんな感想を抱きます。
日本の凡百の外交官なんかは、若泉氏の爪の垢を煎じて飲んだとしても、氏が至り着いた境地の足許にも及ばないはずです。当時の舞台裏をそれなりに知る少数の人達以外では、同様の苦境に立った経験のある人間にしか共感出来ないのでしょう。
それで、私は読み通してみて気付いたのですが、例の西山事件に対する言及が本書には一切無かったと思う、という事です。西山氏の名前も出てきていないはず。本文も脚注なども含めて、多分ですが。もし記述している箇所があれば目に留まったと思います。間違っていたら申し訳ありません。
西山太吉氏の西山事件(沖縄密約事件・外務省機密漏洩事件)の事を私もよく知らないのですが、ウィキペディアを見てみると西山事件が指すところの密約は以下の通りです。
(転載貼り付け始め)
概要
佐藤栄作政権下、米ニクソン政権との沖縄返還協定に際し、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報をつかみ、毎日新聞社政治部の西山太吉が社会党議員に漏洩した。
(転載貼り付け終わり)
西山事件‐Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/西山事件
このように西山氏の一件での密約は、本書で書かれている核持ち込みに関する密約とは別のものらしいです。これに限らず日米間の密約というのは多々あるのでしょう。混同しないように注意する必要があります。
ですから西山氏の件については若泉氏自身が関与していないので、氏が本書で言及する必要も無いといえばそれまでではあります。しかしながら若泉氏は西山事件の当時も情報は入っていたでしょうし、隠棲した後も報道を目にしている訳ですから、何か思う所はあったはずですが、その事は本書からは分かりません。
この西山事件に関しては、時の佐藤栄作長期政権にしても、権力の悪い部分が出ていたという事はあったんだろうと思います。
とにかく当時の政府と与党(自民党)は、日米関係を優先にして動かなければならなかった時代です。そこでそのアメリカから領土を平和裏に返してもらうのですから、代償は大きかったわけですね。選択肢は限られていたのです。ベトナム戦争にしたってベトナム人やベトコンの事が内心可哀想だと思っていても、表立っては反対出来なかったし、基地提供では協力し続けた。経済上・産業上の理由も大きいでしょうが。
私は当時生まれていなかったので、リアルタイムでその時代を生きていない人間にとっては、どうしても実感がわかないというか、どういう空気だったのか、なかなか分からないという所があります。本を読む事によって追体験出来る範囲にも自ずから限界があります。
その1つが当時の日米間の経済・産業交渉で、「繊維戦争」とまで呼ばれた苛烈極まりない貿易摩擦問題です。本書の第十七章の章題は「絡みつく繊維」です。現代日本人にとっては繊維産業の事は、その関係者でもなければ、わざわざ思考対象に入ってくる事はほとんどないでしょう。まず日常の話題にすらのぼりません。
本書を読み通すと分かるのですが、ジョンソン政権が任期を終えてニクソン政権に交替してからは、常に繊維交渉の難題が若泉氏に纏わりついてきて、重くのしかかってきます。
特に後半部分に話が進んでいくにつれて、どこのページを開いても、というのは少し大げさですが、辟易するほど繊維という単語が頻出します。若泉氏ご自身が本当に辟易していたのでしょう。本書での引用でも、あのキッシンジャーですら回顧録で「繊維に無理矢理巻き込まれたのは不幸であった」「後悔のタネになった」という趣旨の文章を書いている事が紹介されている程です。
日本からの輸出攻勢で窮地に陥っていたアメリカの繊維産業を助けるという公約で選挙を勝ち抜き当選したニクソンにとって、日本との交渉は何としても上手くまとめる必要があったらしいです。
ここでも副島隆彦先生の「政治と経済は互いに貸借をとりあってバランスする」という理論が現実に適用されている場面が書き出されています。
政治と経済は車の両輪です。政治は内政に限らず外交及び国防・安全保障も含まれます。当然ながら領土問題そのものも政治問題でありますから、経済問題に対する交渉材料として使えるのです。両国民の手前、建前上は取引ではない事にしますが、本音は取引そのものです。
ところが首脳同士の信頼関係で取り決められた約束の、対価の支払いがなかなか履行されずに、政権まで変わってしまったりしてニクソンも相当苛立ったようです。田中角栄内閣で決着をみたとの事ですが、この辺りの詳しい事は分かりません。
首脳会談で沖縄返還交渉が返還で正式に決着した後も、繊維の問題でのゴタゴタは続いていて、若泉氏も関わっているのですが、そこの部分はほとんど書いていないのです。
若泉氏が、沖縄返還での密使としての役割を終えたと思って、佐藤栄作首相に自分の事を完全に忘れてくれ、こういう形ではもう会う事も無いでしょうと言って別れを告げた後の一九七〇年の正月に、キッシンジャーから電話が掛かってきて日本が未だに渋っている繊維に関する約束をちゃんと履行するように言われます。
その後若泉氏とキッシンジャーは再び何十回も電話のやりとりをしているし、結局また佐藤首相ともぐだぐだと話をするはめになったのでしょう。若泉氏がどれだけ嫌な気分を味わったのか察するに余りあります。もう文章としても書きたくないのか、最後の文は短くまとめられていますが、その文面には苦々しさが滲み出ています。
さて本書『他策』自体の事ですが、『属国・日本論』によると若泉氏が、佐藤政権で首席秘書官だった楠田實に、出版について了解を得ていた話が載っています。
佐藤栄作元首相が死去したのはノーベル平和賞受賞の翌年で一九七五年六月三日、リチャード・ニクソン元大統領が死去したのは一九九四年四月二十二日です。『他策』が刊行されたのは一九九四年五月という事ですので、ニクソン死去の翌月という事になります。だからニクソンが生きている間から、既に執筆を行っていたという事になります。
しかしもう1人刊行時に、密約を知る当事者で若泉氏以外に生きている人物がいます。勿論、ヘンリー・キッシンジャーその人です。
若泉氏は『他策』出版に際して、キッシンジャーに了解を得ていたのでしょうか。それともキッシンジャーの方から先に回顧録の類を出版して真相を書いているのだから、若泉氏とて出版の了解を得る筋合いは無いという事なのだろうか。
若泉氏が密使としての役目を完全に終えた後のキッシンジャーとの関わりについて書いた箇所は、本書には多分無かったと思います。最後に会ったのは何時かとか、最後に電話で話したのは何時、といった話は本書には出ていなかった。友人としての関係性が持てたのかは疑問ですが、本人同士でないと本当の感情は分からないものです。
若泉氏は一九九六年七月二十七日に亡くなったそうです。病死であるとの事ですが、青酸カリで服毒自殺をした可能性もあるらしい。他殺の話は今の所聞かない。実際どうだったのかは分かりませんが、悩み苦しんだ晩年であったようです。今も元気な(投稿時点)キッシンジャーとは大違いです。佐藤優氏は例の未遂になった自決予告について批判したらしいが、これについては余計なお世話です。他人の生死に関する事なのですから、本人の決め方についてとやかく言う必要は無い。
若泉敬氏という稀有の学者が考案した核政策の4本柱と、それから元は佐藤内閣の方針であった非核三原則(後に国是となる。法律ではない)も実際上は若泉氏が知恵の元になったらしいですが、今でも日本は若泉氏と佐藤元首相の原則によって守られ続けていると言えましょう。核の傘だけの話ではありません。
そして確かに非核三原則の三番目、「持ち込ませず」は核密約によって形骸化・空洞化した理念ではあった。始めから提唱者によって裏切られていた、とも言えるでしょう。だから佐藤元首相はノーベル平和賞に値しないのだという主張が見受けられる。ならばキッシンジャーはどうなのだ。
『他策』を読了した今、私の結論は副島先生と同じです。偽善的なノーベル平和賞自体は好かないですが、佐藤元首相には受賞の功労があったといえましょう。密約に関する調査が、政権交代後になってやっと民主党・鳩山政権によって始められています。
密約が明らかにされる事は歴史的に見て良いことですが、だからといって私は若泉氏の名誉を汚すような事はあってはならないどころか、全ての経緯が分かってくれば、それこそ氏に敬意を抱かずにはいられないはずだと信じています。
若泉氏にノーベル平和賞を……ではなく、なんらかの素晴らしい賞を捧げたいです。個人的にも賞賛に値すると判断出来ます。国際政治学栄誉賞(?)みたいな権威無しの賞を贈っても仕方ないでしょうけれども。
佐藤元首相は核持ち込み密約をニクソンと結び、若泉氏とキッシンジャーは裏舞台(裏部隊)でその青写真を描いたものを用意周到に準備した。しかし佐藤元首相と若泉氏が、沖縄の米軍施政下に取り残された人々の事を思っていなかったという事など考えられない。沖縄含め基地問題の解決は我々の時代で解決すべき事項である。すなわち米軍の全面撤退と日本の自力国防である。
同じ日本人の素朴な感性で捉えれば、あの時代に2人の行いを責められない、そう結論に至りつくのである。方法論はいろいろと、後からの議論は出来るし、結果論だ。「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」。やはり他策は無かったのだ。この言葉を日本を守った2人に捧げて安心させたい。
【佐藤裕一による転載貼り付け終わり】