Re:【cogito ergo sum】

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2011/03/03 17:29

 李漢栄さんへ

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 李さんブログ『異端医師の独り言』を毎日拝読しています。

 

異端医師の独り言
http://blog.livedoor.jp/leeshounann/

異端医師の独り言 【cogito ergo sum】2011年03月03日
http://blog.livedoor.jp/leeshounann/archives/51801216.html

 

 上記、本日掲載記事【cogito ergo sum】にて私への文章がありましたので、いつも通りこの掲示板をお借りさせていただき、とりあえずの返答と致します。

「我思う、ゆえに我あり」といえばルネ・デカルトの『方法序説』は既に読みましたが、養老孟司氏の『唯脳論』は未読でした。早速に購読予定リストに追加致します。彼はリバータリアンなのですか。

 私は『唯脳論』だけでなく、現時点で養老氏の本を1冊も読んだことがありません。というのも先生が全然言及されないものですから。もっとも私が見逃しているだけの可能性もありますが。

 映画にしてもそうなのですが、先生が高評価を下している書籍を既に山ほどチェックしていまして、未入手の本の数を数えるとすごいことになっています。自分でもリストを見るたび呆然となります。それも日本語で書かれたものに限っているというのに膨大なのです。

 おまけに私は遅読です。駄本と判断したものか、よほど私と本(または著者・作家の人格)との相性が合わなさ過ぎる場合以外は、ちゃんと読まなければ気が済まない性格です。赤線も引きますし。

 ずっと漫然と生きてきた私の読書暦(読書人暦)は短く、読書量は情けないほど少ないです。既読の本を置いている書棚に、ちゃんとおさまってしまいます。「あーあ子供時代からもっと沢山読んでればよかったのになぁ、あの暇なだけの時間がもったいない」と、今更ながらに思います。

 私が本格的・自覚的に本を読むようになったのは、先生の『属国日本論を超えて』という本を手にとって衝撃を受けてからです。李さんはいつ先生を知ったか覚えておいではでないとのことですが、私は著者に対して強烈な印象を受けましたので覚えています。

 最初の部分を立ち読みして、そのあまりの激烈な調子に驚き「なんだこの人」ということで買ってみたのです。大学中退後でしたので、人生を見失っていてあまりに惨めで陰鬱だったので、とにかく一読して平凡でない感じの本を読みたかったのですね。今はあの書店は潰れましたが、あまりいい思い出はなく、数少ない感謝の1つですが、私にとっては大きい感謝です。

 ところで、遅読と読書量の少なさの反動がきているせいでしょうか、現在私は軽度の読書病にかかっているようです。

 どうも逆らい難い強迫観念のような、それこそ脳内の一部からの要求というか指示が常に出されるようなのです。あれも読んでいなければ失格、これも読んでいなければ無知、それも読んでいなければ論外と、どれもこれも全部読んでいなければ発言資格無しといったていで、脳内の一部が他の部分に、常に偉そうに命令してくるのです。それはそれは態度が居丈高です、この脳の一部は。いつもいつも何か建設的な作業に着手すると妨害してきます。

 だから最近は仕方なく強制的に読む本の数を決めるなどして、読書制限をかけるようにしています。金銭面のこともありますが、積読もたまっているので、最近は買い込むことも避けています。それでも安くて大量に売られている場合、ついつい買ってしまいます。

 渡部昇一氏の『知的生活の方法』「ハマトンの見切り法」でしょうか、私も見切りかたのコツを身につけて実践していく必要があるといえましょう。

 こういった私の情けない現状がありますので、身に余るお褒めの言葉をかけて頂きましたものの、『唯脳論』の書評・読後感想についてご期待に沿えることが出来るかどうか分かりません。ご要望は承知致しました。将来的に購入する予定(未定)リストに加えるだけならいくらでも入りますので、李さんのお薦めなどありましたら今後も是非伺いたいものです。

 さて、『肩をすくめるアトラス』Atlas Shrugged(アイン・ランド著、脇坂あゆみ翻訳)のことですが、申し訳ございません。私はこちらも未入手であり未読です。

 同じくアイン・ランドの『水源』The Fountainhead(藤森かよこ翻訳)は全部読みました。無論、素晴らしかったのですが、一体読了まで計何日かかったか覚えていません。英語であれ日本語訳であれ、「最初から最後まで読み通すには気楽に楽しんでいこう」などという姿勢で臨むべき作品でないのは明らかです。実際上、何も頭に入らずに内容が素通りで通過する通俗的娯楽小説とは根本的に違います。きっと『肩をすくめるアトラス』もそうなのでしょう。

 とはいえ未読である『肩をすくめるアトラス』(アトラス・シュラッグド)の内容は分かりませんので、読む価値があるかどうかという質問にはお答えする資格が私にはありません。

 言うまでもなく同じ本といっても、小説作品とその他の一般書籍、例えば『利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー』(アイン・ランド著、藤森かよこ翻訳)といった本では、当然読み方も異なってきます。

 普通の本では、著者の人格・性格と意見がいくら密接に繋がっているとしても、最悪、著者が大嫌いであっても、どれだけ癇に障っても、無理矢理に無視することも可能でしょう。論文でもそうですね。互いに客観的評価、批評の仕方こそが大事であり、あまり感情的にばかりなっていてはいけませんし、それでは説得力を失いますから。

 ですが小説には文体や作品の内容だけでなく、作者から滲み出る作風と読者との根本的相性というものが抜き難く関わっており、その度合いは普通の本との比ではないでしょう。たとえ面白くても感覚的に嫌いな作品があったり、多少つまらなく感じても何故だか好きな作品があったりします。小説は書き手も読み手も、最初からそれが前提であっていいので、素直な自分の感覚こそ優先していいし、大事なことです。

 李さんはお仕事も多忙でしょうし、相性的に『肩をすくめるアトラス』を読み進めるのが到底困難だと感じるということであれば、軽く飛ばし読みをしてみて、目に止まったり気になったりする文章や台詞の箇所があれば、その付近前後の部分を読んでみたりするというのはどうでしょうか。

 それから先のストーリー展開を知ってしまうという代償が難点ですが、作品によっては途中から読むと面白かったりするケースがあります。李さん、そういう経験ありませんでしょうか。あれは「序論・本論・結論」ではなくて「起承転結」(今はさほど使わないのでしょうか)でいうと、「承」と「転」の辺りの面白さがありながら、最初の「起」がかなり義務的すぎる導入部分となってしまっているせいで、しんどくなるから起こる現象なのでしょうね。そこで中断してしまう。

 思い切って一気に100ページ単位で適当に飛ばしてみたりすると案外いいのではないでしょうか。私が体得したコツは、っていうほど偉そうに言うほどのものじゃありませんけど、第2章とか第3話などの区切りがある場合、その始めのところからは読まない方がいいです。文章の書き始めに盛り上げ所を作らない・作れない傾向の作家である可能性が高いからです。李さん、この「起回避読書術」を試してみては。

 ほんとに注意をひく文章の途中だったり、登場人物の台詞のやりとりが目に止まって興味を抱いたりするようなところから読み始めるのがミソです。そこから先夢中になるようであれば、後回しにしていた過去の部分にも興味が持てるようになります。……私だけでしょうかね。

 ちなみに「結」から読むのは全然勧められません。面白さが半減どころか台無しということもありますが、往々にして「結」だけ読んで全部読んだつもりになってしまうからです。どうしてもこれをする時は、全体を読むことを諦めた際に限った方がよいかと存じます。

 あるいは、飛ばし読みをするにせよしないにせよ、読むのを一旦止めてしまって、他の本に取り掛かってから、気が向いたら再度読んでみるのが一番いいのでしょうか。

 李さん、本の価値を問われたのにかわりに読み方の話をしてしまいまして、大変失礼致しました。『肩をすくめるアトラス』はついに実写映画化されたそうですので、日本で公開された映画を視聴してから再度読んでみるかどうか決める、というのも1つの考えかと存じます。

 以上、急いで書きましたので乱筆雑文にてご容赦願います。