阿修羅掲示板から転載「大逆事件(幸徳秋水事件)への流れ【れんだいこのブログ綴り】」
会員番号4655の佐藤裕一です。
阿修羅掲示板から転載貼り付け致します。
(佐藤裕一による転載貼り付け始め)
大逆事件(幸徳秋水事件)への流れ【れんだいこのブログ綴り】
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/150.html
投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 7 月 13 日 22:02:53: sypgvaaYz82Hc
大逆事件(幸徳秋水事件)への流れ【れんだいこのブログ綴り】
(最新見直し2006.10.10日)
これより以前は、「日本社会主義運動の前史、平民社活動史」
(れんだいこのショートメッセージ)
「日本社会主義運動の前史の二期」は、1906(明治39)年2.24日の「日本社会党」の設立より始まる。ところが「日本社会党」も、穏和系運動と急進主義運動へと分岐する。急進主義の先頭に立ったのは幸徳であった。
ところが、幸徳らは1910(明治43)年、「大逆事件」により検挙され、翌年刑死する。「大逆事件」は日本の社会主義運動に壊滅的打撃をあたえた。その後に社会主義を守りつづけたのは、堺利彦を中心としたきわめて少数の人びととなる。ここまでの流れを二期とする。以下、検証する。
——————————————————————————–
——————————————————————————–
【第一次西園寺内閣の「社会主義取締りの新方針」】
1906(明治39).1月、山県有朋系の桂軍閥内閣が日露講和条約をめぐる騒動の責任をとって総辞職し、代わっていくらか自由主義的な色彩を帯びた政友会総裁・西園寺公望を首班とする内閣が登場した(第一次西園寺内閣)。西園寺内閣は成立と同時に「社会主義取り締まり」の新方針を発表して、社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきであるとの態度を明らかにした。
この気運に乗じて『光』派の社会主義者たちは1月中旬、「普通選挙の期成を図るを目的とす」を綱領に掲げた「日本平民党」の結社届を提出したところ、受理された。意を強くした社会主義達は堺利彦らを中心として、1906(明治39)年2.24日「日本社会党」の結社届を出してみたところ、これもまた難なく許可された。「日本社会党は社会主義を主張す」との党則を掲げており、してみればこれが我が国における最初の社会主義政党が認められた瞬間であったことになる。
——————————————————————————–
【「日本社会党」が設立される】
1906.2.24日、両党合同の形式で日本社会党の創立大会を開き、ここに日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生することになった。大会は、「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張す」との党則を決定、評議員として堺、片山潜(1月に米国から帰国)、西川、山口、田添鉄二、森近運平ら13名を選出した。正式党員は約200名であったといわれる。
生まれたばかりの日本社会党が直面したのは東京市街鉄道三社の電車運賃値上げ問題であった。党は運賃値上げ反対運動に乗り出し、3月11日と15日には山路愛山の国家社会党と共同で「市民大会」を日比谷公園で開催した。15日の大会終了後は、有楽町の市街鉄道会社、東京市会に向けてデモをかけたが、群衆は3000名にも膨れ上がり、中には投石する者も現れるなど、大荒れとなった。このため、党員は暴動化を懸命に制止したにも関わらず、凶徒聚衆罪で西川、山口、大杉栄ら10名が逮捕、起訴された。
とはいえ、この結果、3銭から5銭への均一運賃の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議を市会で通すことにも成功した。このように運賃値上げ反対運動が大きな高揚をみせた背景には、日露戦争後も継続された増税や物価高騰に苦しむ大衆のうっ積した怒りがあった。結党直後の社会党はこの大衆の不満を組織し、緒戦を飾ったのであった。そして、これが社会主義政党が公然と指導した日本で最初の大衆運動であった。
——————————————————————————–
【幸徳秋水の帰国と党内への衝撃波】
こうした状況を見て、滞在先のサンフランシスコが大地震に見舞われたこともあって6.23日、幸徳秋水が滞米半年余で急遽帰国した。秋水は6.28日の帰国歓迎会で「世界革命運動の潮流」と題して帰朝第一声を上げた。秋水は、次のように第一声を挙げた。
「過去一年余の入獄と旅行とは、予の主義理想に何らの変化も与えざりき、予は依然として社会主義者なり。ただその主義理想は変化なしといえども、これを実現する手段方法は変転することなしと言うべからず。今や欧米における同志の運動方針は、まさに一大変転の機に際せり、我が日本の社会党たる者もまたこの新潮流を看取するを要す」。
続いて次のように述べた。
概要「ドイツではビスマルクが普通選挙の制を採用して民間不平の安全弁となすや、ドイツ社民党は議会・選挙闘争に全力を注ぎ、『我らは議会に多数を制し、もってその志を行うべきのみ。社会党運動は平和的なり、立憲的なり、合法的なり』と揚言するようになった。そして、第二インターの諸党も皆これにならい、我が日本の社会党も、従来議会政策をもってその主なる運動方針となし、普通選挙の実行をもってその第一着の事業となせり。だが、その結果はどうか。
三百五十万の投票を有せるドイツ社会党、九十人の議員を有せるドイツ社会党、果たして何事を為したりや、依然として武断専制の国家に非ずや。依然として堕落罪悪の社会に非ずや。投票なるもの甚だ頼むに足らざるに非ずや。代議士なる者の効果、何ぞ甚だ少なきや。労働者の利益は労働者自ら掴取(かくしゅ)せざるべからず。労働者の革命は労働者自ら遂行せざるべからず。これ近時欧米同志の叫声なり。
それ社会党たる者、一に議会政策にのみ重きを置かば、その勢力を得たる際において来たり投ずる者の多数は必ず常に議員候補たらんと欲する者のみ。彼の地位、名誉、権力の利益のために来る者、ひとたびこれを得れば直ちに腐敗し、堕落し、少なくも譲歩し沮喪せざる者まれなり。而して、その為したるところは、わずかに某法律の制定、某条項の改廃に止まりて、いわゆる社会改良論者、国家社会党の為す所と何の差違ある事なきに至らん。しかり、社会党の理想目的たる今の社会組織の根本的革命に至りては、到底これを議会内の賛否に求むべからずと、これ近時欧米同志の盛んに論道する所なり。
ここにおいてか、欧米の同志は、いわゆる議会政策以外において社会革命の手段方策を求めざるべからず。而して彼らはよくこれを発見せり。何ぞや、爆弾か、合口か、竹槍か、筵(むしろ)旗か。否、これらは皆十九世紀前半の遺物のみ。将来革命の手段として欧米の同志の執らんとする所は、しかく乱暴の物に非ざるなり。ただ労働者全体が手を拱して何事も為さざること、数日もしくは数週、もしくは数月なれば即ち足れり。而して社会一切の生産交通機関の運転を停止せば即ち足れり。換言すればいわゆる総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を行うにあるのみ」。
幸徳の演説は党員たちに天地のひっくり返るような激しい衝撃を与えるものであった。というのは、普通選挙制を獲得して、議会に多数を占めることで政権を握り、社会主義革命を遂行するという「議会政策」論、すなわち合法的なブルジョア議会主義の路線を、これまで彼らは誰一人としていささかも疑うことなく信じて来たからである。以後、党内は若い同志を中心に寄るとさわるとこの話で持ちきりになるという状態であった。
——————————————————————————–
【日刊平民新聞発行の動き】
幸徳の帰国をきっかけに日刊新聞を発行する計画が持ち上がり、準備が進められていった。彼らは「新紀元」派にも協力を呼び掛けた。木下尚江は結党後まもなく社会党に加入したが、石川三四郎は後に彼が行き着く無政府主義的な個人主義の立場から「政党不信」を表明して堺らの入党要請を拒否していた。その石川も最終的には協力することになり、こうして両派は年内をもってそれぞれの機関紙を廃刊し、再び合同して翌年1月を期して日刊平民新聞を発行することになった。岡山の平民社同人だった山川均が編集部入りを請われて上京するのもこの時である。なお、木下はこれを前後する母の死を契機に「心境の変化」を来たして隠遁生活に入り、社会主義運動から身を引いてしまった。
——————————————————————————–
【幸徳がクロポトキンの「直接行動の思想」を称揚し始める】
この頃幸徳は、クロポトキンの「直接行動の思想」を称揚し、これによる無政府主義的な労働組合主義が支持を増していった。幸徳はゼネストを重視し、議会主義的な運動を批判した。同時に反軍闘争を指揮した。
——————————————————————————–
【雑誌「社会主義研究」が創刊され、マルクス主義文献の翻訳を始める】
1906(明治39)年に刊行した雑誌「社会主義研究」には、エンゲルスの「空想的社会主義から科学的社会主義へ」を翻訳しており、ドイツ社会民主党の諸文献や活動状況を報告している。
——————————————————————————–
【日刊「平民新聞」創刊、華々しく紙上で論戦される】
1907(明治40).1.15日、日刊平民新聞が刊行された。創刊号は秋水の筆になる「宣言」が掲げられ、次のように力強く宣明された。
「吾人は明白に吾人の目的を宣言す。平民新聞発行の目的が、天下に向かって社会主義思想を弘通するにあることを宣言す。世界における社会主義運動を応援するにあることを宣言す」。
新聞創刊から1カ月後の2月中旬には日本社会党の第2回大会が予定されていた。大会を10日後に控えた2.5日付の平民新聞第16号に、幸徳秋水は「余が思想の変化(普通選挙について)」を発表し、大会に向けて「直接行動」論を提起した。幸徳は、前記の「世界革命運動の潮流」と同様に次のように述べた。
概要「代議政体は『ブルジョア政治に固有の形式』であり、故に労働者出身の議員といえども議会に入ると同時にブルジョア政治に感化され、堕落し去るのは当然である。社会党の議員はまじめで、民意に背く恐れはないと言われているが、いかなる党派も逆境にある間はまじめである。しかし、議会の多数を占むるを目的とした政党がその目的を達するや否や、直ちに腐敗し去るは当然である」。
(以下、発言は堺、田添のを含めてすべて大意)と喝破したうえで、こう強調する。
「労働者階級の欲する所は、政権の略取ではなくて、パンの略取である。法律ではなく衣食である。故に議会に対してはほとんど用はないのである。法律の改廃のみに依頼して安心するほどならば、これらの事業は社会改良論者や国家社会党に一任して可なり。これに反して、真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」。
そして、次のように提起した。
「我が日本の社会主義運動は今後議会政策を執ることを止めて、一に団結せる労働者の直接行動をもってその手段方針となさん」。
幸徳の「直接行動」論には直ちに二つの批判が現れた。一つは堺利彦、もう一つは田添鉄二のものであった。堺は2.10日付の平民新聞に「社会党運動の方針」を発表し、自分は「大体の考え方」で幸徳と同じだが、「異なるところは全然議会を否認すると、これを併せ用いることにあるのみだ」として、こう述べる。
「社会党の議員が議会に出て、議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」。
「今後、社会党運動の大方針としては、一方に議会政策をとり、一方に労働者の団結をはかり、議会の内と外と常に相呼応して平民階級の活動につとめるにある」。
この堺の折衷的な併用論に対して、田添は幸徳の主張に真っ向から対決し、2月14、15日の2号に渡って「議会政策論」を展開した。
「余は労働者階級をもって現代社会の革命的動力であると信ずる。しかし単にパンに対する自覚、すなわち生活そのものに対する自覚だけでは、直ちに社会を根本から改革する勢力となるものではない。パンを直接に獲得するというだけなら、労働者は政治意識なき労働組合運動にとどまり、ストライキやその他の武器を擁して資本家に肉薄する行動も、賃金労働者の位置を改善するに止まるに過ぎない。現代社会の組織の欠陥を政治的に意識し、さらに新社会建設を人類の正義の観念の上に意識するに至り、すなわち労働者が階級意識に覚醒した時、はじめて社会の根本的改革を遂げ得る動力となるのである。そして、この点からすれば、議会政策も直接行動もともにこの階級意識覚醒の有力なる方便と見ることができる」。
「社会党の運動は決して単純ではなく、ひとすじみちではない」。
「社会改革を志すものの往々陥りやすい謬見は、社会革命が一活劇の下に実現しうるという観念である。……社会は人為の創造ではなくおのずからなる進化であり、原人時代の過去から進化してきた現在の社会が一個体、一有機体として新社会に入るまで進化せず、その用意が成熟せず、社会進化を構成する一動力すらも不用意である以上は、たとえいかなる天才英雄が焦っても、いかなる有力な団体の活動をもってしても、社会革命は行われない」。
こうして三者三様の見解が出揃ったところで、2.17日、日本社会党はその歴史的な第2回大会を迎えることになった。
——————————————————————————–
【「日本社会党」の党内論争】
1907(明治40).2.17日、日刊平民新聞紙上での「直接行動か議会政策か」を廻る前哨戦を経て、これを決する日本社会党第2回大会が開かれた。議会主義を守ろうとする田添鉄二、片山らと、無政府主義的な直接的行動に訴えようとする幸徳、山川、大杉栄らと、その中間派の堺ら三派が論争を為し、政府は安寧秩序を害するとして結社禁止となり、この政党も僅か1年でその活動を閉じることになった。
この大会の模様を考察する。まず党則第一条「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張す」を「本党は社会主義の実行を目的にす」と改めた後、決議案の審議に移った。
堺の提案した評議員会の原案は、第一項に「我が党は労働者の階級的自覚を喚起し、その団結訓練につとむ」と謳い、第四項で「左の諸問題は党員の随意運動とす」として、これまで「社会主義運動の第一着手」とされてきた「普選運動」を、治安警察法改正運動や非軍備主義運動や非宗教運動と同様に「党員の随意運動」に格下げするというもので、一見、両派に配慮した形のものであった。
予期されていたとおり、決議案には二つの修正案が提出された。一つは田添からのもので、第一項の後に、第二項として「我が党は議会政策をもって有力なる運動方法の一なりと認む」を入れ、「随意運動」の項から「普選運動」を削除するというものである。もう一つは幸徳からのもので、第一項の「我が党は」の後に「議会政策の無能を認め専ら」と加え、同じく第四項から「普選運動」を削除するというものであった。
田添と幸徳は持論に従い熱烈な弁舌を振るって、それぞれの修正案を擁護した。そして他の代議員の賛否の発言を含めて三時間余を討論に費やした。かくて、議会主義を守ろうとする田添、片山らと、無政府主義的な直接的行動に訴えようとする幸徳、山川、大杉栄らと、その中間派の堺ら三派の論争が繰り広げられた。
採決に移り、田添案2票、幸徳案22票、評議員会案28票で、原案が可決成立した。原案が通ったとはいえ、これまで党の一枚看板であった普選運動を今後は党としては取り組まず、やりたい人がやるというのだから、その内容は本質的には幸徳案寄りであり、採決の結果は実質的には「直接行動」派の圧倒的な勝利を意味していた。
——————————————————————————–
(私論.私見) 【秋水の「直接行動」論解析、秋水の「直接行動」論提起の歴史的意義】
社労党の町田勝氏は「マルクス主義同志会」の「マルクス主義入門」の「日本社会主義運動史」中で次のように記している。
秋水の「直接行動」論が理論的に見れば基本的にアナルコ・サンジカリズム以上のものでないことは明らかである。彼が「直接行動」論に傾斜していった直接の契機としては、滞米中のI・W・W(世界産業労働組合、幸徳の渡米に先立つ半年ほど前の1905.6月にヘイウッドらによって結成された)の急進組合主義者やロシアの亡命社会革命党員との交流、折からの第一次ロシア革命におけるゼネストの蔓延、さらには獄中で読んだクロポトキンなどの無政府主義的文献の影響等々をあげることができる。
しかし、その根底には数年来の認識の深まりの中で明確となってきたドイツ社民党の議会を通じての革命という俗悪なブルジョア的議会主義に対する深い幻滅、ベルンシュタイン主義をはじめとする第二インター諸党における修正主義の台頭と、これに口先では抽象的・原則的な批判を浴びせつつも、実践的にはこれに妥協・追随するベーベル、カウツキーらの欺瞞的な正統マルクス主義派への激しい反発があった。秋水の持って生まれた革命的な性情・気質はこれらに敏感に反応したのであった。
「直接行動」論の提起で秋水が意図した核心は、これまで彼らがお手本としてきたドイツ社民党流の議会主義、合法主義、改良主義の路線を克服し、日本の社会主義運動を革命的な方向へと転換させることにあった。その限りで、秋水の提起は全く正当であり、歴史的な意義を持つものであった。実際、秋水の議会主義、改良主義に対する仮借ない批判は、あたかも戦後の社共のブルジョア的な腐敗、堕落を見通して、それを完膚無きまでに暴露しているかのようである。
しかし、彼がブルジョア的な議会主義、改良主義に対置したものはマルクス主義的な戦略・戦術論ではなく、「ゼネストによるパンの略取」というアナルコ・サンジカリズムでしかなかった。議会で多数を占めることで合法的にプロレタリア革命を実現するという議会主義のナンセンスは秋水の強調する通りである。それは究極的には労働者階級の組織された力、蜂起に至る革命的大衆行動によるブルジョア権力の打倒とプロレタリア権力の樹立によってのみ可能である。しかし、秋水の「直接行動」論では、労働者の革命的大衆行動がその一つの形態に過ぎないゼネスト(しかも多分に自然発生的な)に一面化されており、プロレタリアートによる権力の奪取という課題についてもあいまいであった。
また、こうしたアナーキズムに独特な見解と関連して、そうした革命闘争を最終的な勝利に導くために、労働者階級をいかに組織し、鍛え上げていくのか、そのためには何が必要かということ、つまり理論的にも組織的にもマルクス主義に基礎を置いた強固な革命的な党組織(合法的あるいは非合法的な)を作り上げていくことが何よりも必要だという観念も希薄であった。そしてこの点は「ガラス張りの組織」を自慢としてきた明治期社会主義者の特徴で、そのおおらかさを示すものであると同時に、またその致命的な弱点でもあった。
もっともこの点でひとり秋水を責めるのは酷であろう。というのは、ドイツ社民党および第二インターの修正主義、日和見主義に鋭い革命的な批判を浴びせたあのローザ・ルクセンブルクでさえも、そのゼネスト論に見られるように、大衆の自然発生的な革命性を過大視し、その結果、組織的にも日和見主義者と一線を画して独自のプロレタリア革命党を建設するという任務を軽視する、サンジカリズム的な偏向に陥っていたのだから。当時、この課題を一貫して追求していたのはロシアのボルシェヴィキだけであったが、レーニンの党組織論などはまだ日本に伝わってはいなかった。
我々はその限界をあげつらうことよりも、むしろ日本の社会主義運動もまた、第二インターの醜悪な修正主義、日和見主義に反対する国際的な革命的潮流に連なる健全な一翼を生み出し得たことをこそ誇るべきであろう。レーニンはローザの死に際して、彼女は様々な誤りを犯したが、それでもなお彼女は決してニワトリではなく、大空を高く飛ぶワシ(革命家)であったと評したが、これに倣って言えば、秋水もまた確かにワシであった。
これに対して、田添の「議会政策」論は、なるほど個々の論点においては、秋水の「直接行動」論の急進組合主義的な狭さや一面性を鋭く衝いたり、秋水が議会主義に反発する余り議会の利用を一切否定してしまったのに対して、議会を労働者階級に対する宣伝・扇動・組織化の一手段として革命的に利用するという観点を押し出すなど、現実的で正当な主張も少なくない。しかし、全体としてのそれはブルジョア議会主義を明確に否定するものではなく、むしろそれを温存し改良主義と日和見主義に道を開くものであった。
——————————————————————————–
【西園寺内閣が平民新聞を発売禁止にするとともに、社会党に解散命令を下す】
さて、党則の改正や「直接行動」派の勝利など日本社会党の左旋回に驚いた西園寺内閣は、大会での幸徳の演説要旨を掲載した2.19日付けの平民新聞を発売禁止にするとともに、22日には社会党に安寧秩序を害するとして結社禁止処分に付し解散命令を下した。こうして日本で初めて合法的に存在を許された社会主義政党は一年ほどの短命に終わった。
——————————————————————————–
【平民新聞廃刊に追い込まれる】
その後も平民新聞に対する弾圧は続き、3月には山口孤剣の「父母を蹴れ」、クロポトキンの「青年に訴う」(大杉栄訳)を掲載した各号が相次いで発売禁止とされ、前者の新聞紙法違反事件では4月13日、筆者の山口が禁固3カ月、編集発行人の石川が同6カ月、新聞は発行禁止の判決が下された。このため、日本で最初の日刊社会主義新聞は財政難も相まって翌14日、この世にあることわずか3カ月、第75号をもって廃刊に追い込まれたのであった。
——————————————————————————–
【日本左派運動の分裂促進する】
6月に入ると、東京では片山、田添、西川が週刊「社会新聞」を、大阪では森近運平が半月刊の「大阪平民新聞」(後に「日本平民新聞」と改題)を創刊し、前者は「議会政策」派、後者は「直接行動」派を代表する機関紙の役割を果たすことになった。こうして05年の平民社解散に伴いキリスト教社会主義派とマルクス社会主義派に分裂した日本の社会主義運動は、今度はマルクス派内部が日和見主義的改良派(軟派)と急進主義的革命派(硬派)へと再分裂することとなった。
この頃より両派は「軟派」、「硬派」とも呼ばれるようになった。当時、片山潜や田添鉄二らは議会活用論を唱えたが、幸徳秋水の直接行動論の方が人気があった」。8月に開かれた社会主義夏期講習会が両派の協力した最後の事業であった。しかし、講習会は両派の激しい論戦の場と化し、分派闘争をますます激化させる契機となった。その後、両派は組織的にも分裂を遂げ、軟派が社会主義同志会を結成し、日曜研究会を開催し始めたのに対抗して、硬派は金曜会を結成し、社会主義金曜講演会を設けた。そして、11月27日付けの「社会新聞」には電車運賃値上げ反対闘争で堺、幸徳が電車会社から買収されていたかに誹謗する西川の文章が載るなど、両者の対立は感情むき出しの泥仕合の様相さえ呈してきた。一方、軟派の内部でも、片山の頑固一徹の性格とその余りの卑俗さ(例えば彼は労働組合の組織化を促すために無尽で反物を与えたらどうかなどと盛んに提案した)に反発する若い人たちの突き上げで、片山は社会主義同志会から除名されるという始末であった(08年2月)。
——————————————————————————–
【赤旗事件】
1907(明治40)年の天長節(11月3日の天皇誕生日)に天皇暗殺をほのめかすビラがサンフランシスコの日本領事館の正面玄関に貼られるという事件が起こり、政府に強い衝撃を与えた。元老山県はこれを西園寺内閣打倒に利用しようと策動した。こんな状況の中で、翌08.6.22日、「赤旗事件」が起った。
1908(明治41).6.22日、神田錦輝館に数十名の社会主義者、無政府主義者が集まり、筆禍事件で一年余の刑を終えた山口孤剣の「出獄歓迎会」が硬軟両派合同で開かれた。閉会間際に、大杉栄や荒畑寒村らの青年が「無政府共産」と赤字に白く抜いた大旗を三本振り回し「ああ革命は近づけり」と高唱しながら、軟派の人々の周りを練り歩いた後、戸外に飛び出したところ、警察官ともみ合いになり、大杉、荒畑らはもちろん、止めに入った堺や山川らも逮捕検挙された。世に「赤旗事件」と云われる。
この時、大杉栄、堺利彦、大須賀、菅野スガらは東京錦町署に留置され、警察当局から拷問された。大杉は、左胴腹を靴で蹴飛ばされ、荒畑は裸にされてリンチされ、悶絶させられた。大須賀、菅野ら3婦人にも生傷歴然たるものが認められている(「二六新報」)。
事件の内容自体はこのような他愛もないものであったが、陸軍の大御所山県派はこれを好機と倒閣工作に乗り出した。7.4日、西園寺内閣は、事件の責めを負う形で総辞職に追い込まれた。世に言う「西園寺内閣の毒殺」である。代わって登場した山県直系の第二次桂内閣は社会主義運動に対する強硬な取り締まり方針を打ち出した。厳罰主義はさっそく実行に移された。
8.14日、赤旗事件の被告に判決が言い渡されたが、治安警察法違反、官吏抗拒罪を問われ、大杉が重禁固2年半、堺と山川が同2年、荒畑が同1年半と前例をはるかに上回る重刑であった。彼らは千葉監獄に下獄した。
——————————————————————————–
1908(明治41)年、田添が極貧のなか32歳の若さで世を去る。
——————————————————————————–
【赤旗事件以降の取り締まり強化】
この頃、足尾銅山に工夫暴動が起り、軍隊出動で鎮圧した。加えて、アメリカの日本社会革命党から檄文が寄せられ、それには露骨に明治天皇の名前を呼び捨てにした上で、政府の社会主義に対する迫害を糾弾し、他日必ず復讐を加えることを誓った文面となっていた。檄文を手にした山県は次のように指示した。 「この責任は、悉く先の西園寺内閣が不穏な言論の取り締まりに寛大過ぎた結果だ。進んで国家の主権に危害を加えようとする社会主義者の如きは一人残らず打ッタ斬るがいい」。
桂首相は、次のように豪語した。 「俺の目玉の黒いうちに、必ず日本に社会主義者を無くしてみせる」。
こうして、赤旗事件以降、官憲の弾圧は過酷を極め、幸徳らには四六時中、尾行が付けられ、彼らはその一挙手一投足まで監視下におかれた。大杉らの本拠「平民新聞社」は壊滅に近い有り様となった。翌09(明治41).5月、幸徳と菅野スガが発行した「自由思想」もたちまち発禁処分となり、まさに手も足も出せない状態に追い込まれてしまった。
——————————————————————————–
【「白樺派」旗揚げ】
1910(明治43)年、有島武郎らが「白樺派」を旗揚げしている。
——————————————————————————–
【「大逆事件」発生】(「大逆事件(幸徳秋水事件)」)
こうして為す術もなく孤立感を深める中で、彼らはアナーキズムへの傾斜をいっそう強め、幸徳秋水を理論的、精神的支柱として管野スガをはじめ幸徳家に出入りする宮下太吉(甲府)、新村忠雄(信州)、新村善兵衛、新田融、古河力作、奥宮健之らの間で天皇暗殺計画が持ち上がった。伝聞されるところに拠ると、岡山で挙行される予定の特別大演習を狙って天皇陛下に爆弾を投げつけようというものであった。菅野は、1908(明治41).6.22日の赤旗事件で捕まりリンチ的取調べを受け、無罪にはなったものの国家に対する復讐の怨念に燃えていたと云う。
幸徳自身はこのテロリズムに乗り気ではなく、4人は幸徳抜きで連絡を取り合っていた。この年11.3日、宮下は長野県明科の山中で爆破の効力試験に成功したが、この爆弾製造の一件が翌1910(明治43).5月に警察に探知された。
1910(明治43).5.25日、桂内閣は、時の権力者・山県有朋と意思疎通しつつ、検事総長・平沼騏一郎の指揮の下で宮下らを逮捕するとともに、これを幸徳らが陰で糸を引く天皇暗殺の大規模な陰謀に仕立て上げ、全国各地の主だった社会主義を一網打尽に検挙し、社会主義運動の息の根を止めようと謀った。これは世界にも類を見ない大規模なフレームアップであり、世に「大逆事件」と云われる。
「大逆事件」で、幸徳秋水、森近軍平ら26名が、全国で数百人の社会主義者が検挙された。各地の社会主義者は労働組合主義であるか議会政策派であるかを問わず、ことごとく無政府主義に繋がるものとして、厳重な取調べを受け、些細な理由でも爆弾事件の関係者であると認定され、投獄された。
6.2日、新聞社各紙が初めて事件を報道した。事件が世情に伝わるや国民の恐怖と嫌悪を呼び、社会主義運動は一時表面から姿を消すことになった。日本における社会主義運動の暗黒時代がはじまることになった。
12月、事件の公判が一般傍聴禁止の非公開で進められ、弁護人側が申請した証人は一人も認められないまま、連日の開廷により、大審院のみの一審制という、近代史上、最大の暗黒裁判により開始から一カ月で、憲法第1条「天皇は、神聖にして侵すべからず」、刑法第76条の「天皇一家に対し、危害を加え、又は加えんとしたるものは、死刑に処す」(いわゆる大逆罪)、爆発物取締罰則に基づき26名が起訴され、大審院の特別審理に移された。刑法73条が初めて適用された事件となった。経緯から見て、「幸徳中心の全体計画なるものは完全なフレームアップ」であった。
大審院特別裁判所公判も一般傍聴が禁止され、全くの秘密裁判となった。被告の殆どは事件に無関係であることを述べ、今回の事件は無政府主義者の陰謀と云うよりもむしろ検事の作為陰謀であると弁難した。翌1911(明治44).1.18日、大審院の特別法廷(鶴丈一郎裁判長)が開かれ、起訴からわずか1カ月のスピード審理で被告26名のうち24名に死刑が宣告された。死刑宣告された24名とは、幸徳伝次郎、菅野すが、森近運平、新村忠雄、宮下太吉、古河力作、坂本清馬、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂、崎久保*一、成石勘三郎、松卯尾一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎、内山愚童、武田九平、岡本*一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小林丑治。新田融は懲役11年、新村善兵衛が8年の有期刑に処せられた。大逆罪の裁判は一審即決で、控訴も上告も許されなかった。
翌19日、天皇の恩赦の形で坂本清馬ら12名が無期懲役に減刑、他の2名は長期の刑に処せられるという措置が採られた。早くも一週間後の1.24日、東京監獄で、幸徳(41歳)、森近(31歳)、松尾(33歳)、新美(33歳)、内山(38歳)、宮下(37歳)、古河(28歳)、奥宮(54歳)、大石(45歳)、成石(30歳)、成石弟(30歳)の11名の死刑が執行された。翌1.25日、管野スガが処刑された。立ち会った教誨師は沼渡政憲。
赤旗事件に連座した荒畑寒村は、「日本社会主義運動史」の中で、大逆事件の真相を次のように語っている。 概要「この事件は要するに、宮下、菅野、新村、古河が陰謀の中心であったが、その陰謀はただ天皇暗殺の消極的な目的にとどまり、それ以上はいかなる積極的、具体的な計画も立てていなかった。宮下、菅野、新村の3人が初めから積極的にこの計画を立てていたことは争えないとしても、幸徳氏の如きは途中から全く無関係となり、その他この事件に連累した被告たちは、単に話を聞いていわゆる大言壮語、それは面白かろうといったくらいの程度に過ぎなかったであろう。大逆財の予備というほどの計画でさえも無く、且つこれに連座した被告の間に共通の意図や統一ある連絡というようなものは到底認めることができない。結局この事件は全然政府、裁判所の捏造によったものではなく、多少の根拠はあったにしても、大部分の被告は政府の手によって無理矢理に一つの事件に纏め上げられてしまったと見ることができよう」。
大逆事件の弁護に当った今村力三郎氏は、「幸徳事件の回顧」の中で次のように述べている。 概要「私は今に至るもこの24名の被告人中には多数の冤罪者が含まれていたと信じています。天下の耳目を蠢動したあれ程の事件に、弁護人の申請した証人は残らず却下して、全被告を死刑に処したのですから、裁判所は予断を抱き、公判は訴訟手続き上の形式に過ぎなかったと、私は考えていました。厳刑酷罪をもって皇室に忠なるものとする固陋な裁判官には、弁護人の弁論なぞ耳に入らないのであります」。
神崎清の「革命伝説」が個々の被弾圧者の実像に踏みこんだうえで「大逆事件」の全体構造を物語っている。作家の徳富蘆花は、幸徳らが処刑された1週間後の第一高等学校雄弁部主催の講演会で、「謀反論」と題して次のように述べている。 「天の目から正しく謀殺ー謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも闇中にやってのけてー死の判決で国民を脅して、12名の恩赦でちょっと機嫌をとって、他の12名はほとんど不意打ちの死刑ーいや死刑ではない、暗殺ー暗殺である」。
「諸君、幸徳らは、時の政府に謀反人とみなされて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となることを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」。
皮肉家として知られるバーナード・ショーは、次のように述べている。 「日本は今や明らかに欧米列国に伍する文明国となった。その証拠には、12名の無政府主義者を死刑に処したではないか」。
——————————————————————————–
【「大逆事件」その後の動き】
堺利彦、山川均、荒畑勝三(寒村)らは赤旗事件で検挙されていたために、難を免かれた、と信ぜられる。危うく難を免れたものの処刑に前後して出獄した彼らを待っていたのは文字通り四面楚歌の閉塞状況であった。堺は10年暮れに「売文社」を設立し、山川らはその社員となり、代書業で糊口をしのぎながら、再起を期してこの社会主義の厳しい冬の時代を耐え忍ばなければならなかった。
他方、軟派の西川光二郎は同年「社会主義者の詫証文」と称される「心懐語」を発表して、運動から手を引いてしまった。片山潜は、田添亡き跡も「社会新聞」の発行を続けたが、普選が実現すれば天皇制と帝国憲法のもとでも議会に多数占めることによって社会主義を実行することは「容易」だと述べるなど、ますますひどい無原則主義に陥っていった。
志賀義雄氏の著作「日本革命運動の群像」で、この頃の動きを次のように述べている。
概要「片山君はその頃労働組合主義の立場をとっていた。幸徳君はアナルコ・サンジカリズムの方へ傾いていった。そこで私(堺利彦)が両者の中間に立って社会民主主義でなければいけないと主張した」、「片山、堺、幸徳は、日露戦争の時、これに反対した人々であり、当時の日本の労働者階級や進歩的文化人などの意向を代表し、国民の戦争に対する苦しみと不信などを取り上げて、その先頭に立った人であります」。
つまり、我が国左派運動の草分けは「片山、堺、幸徳」の3名を指導者として挙げることができるということになる。
大逆事件以降、社会主義運動と労働組合運動は全く押さえつけられてしまった。その後は、堺、山川、荒畑の凡俗トリオが指導者的地位にあった。この凡俗性は卑下するために冠しているのではない。それらを乗り越える指導者が現れなかったという痛苦として表現している。
荒畑寒村が「自伝」に次のように記している。
概要「大逆事件以後、吹きすさぶ真っ黒な反動の嵐の中に運動はまったく火が消えたようで、同盟の半ばは散じ、半ばは枯骨の感なきを得なかった。この空白の時代は第一次大戦の末期までつづき、その間における政府の圧迫はほとんど正気の沙汰とも思えなかった」。「社会主義の冬の時代」の到来となった。
「大逆事件(幸徳事件)」は日本の社会主義運動に壊滅的打撃をあたえたが、そのもとに社会主義を守りつづけたのは、やはり、堺利彦を中心としたきわめて少数の人びとであった。
「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」には次のように記されている。
概要「こうして大杉栄の直接行動論は日本では潰えたが、中国の革命家たちがこれを継承していくことになる。彼らは、『直接行動とは軍事的な反乱を起すことだ、そのためには武器弾薬を集めねばならない』と考え実行に移した。上海や香港を経由して武器弾薬の密輸入を始め部隊を形成して、清朝の権力に対して武装蜂起を企てていった。それがやがて辛亥革命となって、清朝は滅びる。その後にできた軍閥政権を、孫文たちが出てきて国民革命で打倒する。さらにそれから二〇年経たないうちに、今度は毛沢東たちが新民主主義革命を行うわけです。このように、中国の人たちは、自分たちの状況に応じて変革を具体化していくだけの力があったのに対して、日本ではそうはいかなかった。日本の社会主義者の理論と実践には距離がありすぎた。その原因が問題です」、「中国の社会主義運動は日本では想像もできない残酷な迫害を受けながら、だんだん大きくなっていく。ついに1935年に日本の党組織は壊滅し、中国では遵義会議のあと抗日統一戦線の飛躍的発展が始まる」。
——————————————————————————–
【「特別高等警察」創設される】
8.21日、警視庁の官制改正により、特別高等課が庁内新設された。それまで警視庁高等課の中にあった特別高等課と検閲係が、高等課から分離され、新しい課として独立した。警視庁特高課のスターと時点での仕事は、1・同盟罷工(労働者のストライキ)に関する事項、2・爆発物に関すること、3・その他特別高等警察に関する事項、4・各種不穏文書・図書・新聞記事の検閲に関する事項の4分野に、内偵取締りの目を光らすことであった。新設当初の特高課は、課長1名、特別高等係7名、検閲係6名、計14名からなる小さなセクションであった。
「日本の暗黒 五色の雲」(森村誠一、下里正樹、宮原一雄、新日本出版社)の17Pは次のように述べている。 「まさか、この総員14名の小さな課が、やがて全国各府県にもれなく設置され、猛烈な自己増殖を遂げながら全警察機構を特高化し、日本の民主主義と平和を圧殺する怪物になろうとは、生まれた当時誰一人として予見した者はいなかった」。
——————————————————————————–
【「青鞜社」結成される】
1911(明治44)年、白樺派に続き、平塚雷鳥らが「青鞜社」を結成するなど新たな文芸思潮が起こってくる。
——————————————————————————–
【片山潜が東京市電のストライキを指導】
1911(明治44)年の終わりから翌年の1月まで、東京市電の6千名の運転手と車掌によるストライキが打たれた(東京市電争議)。片山潜がこれを指導した。
——————————————————————————–
【美濃部達吉の憲法講話】
1912(明治45)年、 美濃部達吉が、憲法講話の序文で次のように記した。 「専門の学者にして憲法のことを論ずる者の間にすらも、なお言を国体に借りてひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑えてその絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下にその実は専制政治を行わんとする主張を聞くこと稀ならず」。
——————————————————————————–
これより以降は、「大正ルネサンス運動その陽と陰」
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_taigyakugiken.htm
(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)