田中角栄事件と小沢一郎事件の決定的な違いについて

会員番号2370番 投稿日:2012/04/19 11:39

田中角栄事件と小沢一郎事件の決定的な違いについて書いている文章を
「世川行介放浪日記」より転載します。
http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/d3cdb1a994380fe2959dc7d99ba66173

(転載貼り付けはじめ)
小沢裁判への雑感
2012年04月18日 17時34分02秒

 1976年、
 田中角栄という優れた政治家が、
 5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑で逮捕され、
 一審で有罪判決を受けて、控訴を重ね、やがて政治生命を失った。
 当時は、検察に象徴される「司法の正義」に、国民の多くは喝采をおくった。

 2011年になって、その弟子である政治家小沢一郎が強制起訴され、
 この4月26日に、判決が出る。

 無罪有罪は五分五分、というのが一般的な見方だが、
 僕は、これは無罪でなければならない、と思っている。

 それは、小沢支持陣営の立場から言うのではなく、
 「法の威厳」の立場から、そう思っている。
 戦いは、相手の状況と心理を読まなくては駄目なのだ。

 ネット荒野では、わめくだけが取り柄の「ネット壮士」たちが、
 論理性も何もない感情的刺激語を書き散らして与太をまいているが、
 僕が信頼に足る<知性>と思ってつき合って来て、
 かつては小沢一郎に好意的で、今は小沢一郎に懐疑的な人たち、
 (たとえて言うなら、「島根のI君」のような人たちのことだが、)
 彼らに、最近、「この裁判をどう思うか?」と訊いた。
 すると、
 彼らは、一様に、
「小沢一郎がどうとかこうとかではなく、
 これだけ証拠のない裁判で有罪を出すことは出来ないだろう。
 それをやったら、自分たちは、もう、この国の法を信じられなくなる」
 という回答を返してきた。

 やっぱりな、
 と思った。

 おそらく、
 ここが、この小沢裁判の判決において、一番の問題点なのだ。

 小沢一郎を抹殺するために、有罪判決を出すことは、
 それは、それほど難しいことではないはずだ。
 執行猶予付きの有罪判決。罰金刑。公民権停止。
 これは、出来る。
 田中角栄はこの抹殺手法で政治生命を剥奪された。

 あれから
 30年ほどの歳月が流れたが、
 おそらく、小沢一郎を強制起訴して、ある時期まで、司法官僚たちは、
 30年経っていても、まだ田中角栄の時の手法が使える。
 司法には、それだけの威厳と、国民からの信頼がある。
 と思っていたはずだ。

 しかし、今回の小沢裁判を冷静に検証すると、
 田中事件は宗主国米国の強い意向から始まったものであるが、
 今回の小沢一郎事件の発端にあったのは、
 小沢一郎が、戦後理念の一つである「三権分立」を重んじ、
 国会答弁に内閣法制局を出さない。と言ったことだ。
 ここは、決定的な相違だ。

 
 小沢一郎の主張は至極真っ当なものであった。
 三権分立は<戦後理念>の核の一つであり、戦後日本の骨格であった。
 著しい風化の中で、その実務担当者にすぎない法務官僚たちが、
 法を縦にとって国家運営に口を挟みすぎたのは、
 三権分立を損なう行動だった。
 だから、まず政治の場から三権分立の原点に戻せ、と主張する小沢一郎は正しかった。

 が、
 これまで法によってこの国の政治に深く関与していた法務官僚にとっては、
 小沢一郎は、いくら殺しても殺し足りないくらいに「憎い男」になった。
 そして、事実、
 法権力のありったけを駆使して、「小沢抹殺キャンペーン」を張った。
 つまり、今回の小沢一郎抹殺劇は、法務官僚たちの<我欲>である。

 しかし、
 司法官僚たちは、
 官僚機構、政界、マスコミ、言論界…、
 自分たちの息のかかった組織をすべて使って抹殺劇を企てたが、
 その司法の慢心を、市井にある<無言の知>の層の人々は、
 親小沢とか、反小沢とかいった立場の別に関係なく、
 推移をしっかりと見ていた。
 見て、
 判決次第では、司法の威厳が失われるぞ、
 とまで危惧するようになった。
 ここもまた、田中角栄事件と小沢一郎事件の決定的な違いだ。
 検察が「法の正義」の代行機関でなくなっていることを、
 この国の<知性>が見破ったのだ。

 <無言の知>の層の人々が気づいたのは、おそらく、次のようなことだ。

 小沢一郎裁判は、
 法務官僚だけでなく、
 本来はこの国の裏方(実務家)であるべき高級官僚たち全体の<我欲>、
 もっと言うと、利権保守本能、
 それにすぎない。
 その<我欲>が法によって保護されたなら、
 この国はもはや法治国家ではなくなってしまい、
 それは国家の危機につながる。

 彼らの多くは、ネットを闊歩する小沢支持の「ネット壮士」たちの野蛮無礼な言動を、
 侮蔑と嫌悪の眼で見ていたから、
 そうした壮士たちの抗議行動に組する気持ちにはならなかった。
 しかし、
 動きはしないけれども、
 小沢裁判の経過だけは、黙って、しっかりと、見つめてきた。

 一方の法務官僚たちは、
 この20年間ほどで、官僚支配に慣れつつある国民を、舐めきっていた。
 まさか、小沢一郎裁判が司法の威厳の危機に届く裁判になるとは、
 予想だにしていなかった。
 と思う。

 法務官僚たちの誤算は何だったかと言うと、
 平成に入って、確かに、国民の<知性>も劣化していったが、
 しかし、
 司法もまた、劣化の坂道を下っていた。
 自信家ぞろいの法務官僚たちは、おそらく、そこに気づいていなかった。
 これが大誤算であった。

 僕などが、今回の小沢裁判を無罪でなければならない、とするのは、
 この司法世界の知性と危機感に視線を向けるからだ。

 裁判官も、馬鹿ばっかりがいるわけではない。
 今回の判決の処置を一つ間違えたら、
 国民の司法に対する信頼が一挙に崩れ、
 法の威厳を失うかもしれない、
 と危惧する司法担当者もまだ多く存在しているはずだ、
 と思うからだ。
 そうした視線で小沢裁判を見つめてきた僕などからすると、
 司法の威厳を重視する司法担当者は、
 小沢一郎に対して、無罪判決しか出せないはずだ。
 という気がする。

 そうは言っても、
 小沢裁判は、無罪が出るかもしれないし、有罪が出るかもしれない。
 そんなことは、司法担当者しかわからないことだから、
 ネット壮士たちのように、勇ましいことを書く気にはなれないが、
 たった一つ言えるのは、
 仮に、有罪判決が出たとしたら、
「この国の<法>は、もはや信頼に足る<法>ではなくなったのであるから、
 法の遵守は無用である」
 と考える人間が出現しても、
 それを誰も非難することが出来なくなるだろう。
 ということだ。

 小沢一郎裁判は、
 法務官僚たちの<我欲>から始まった裁判ではあるが、
 意外な展開を見せ、
 平成の法の深部までを突き刺す錐(きり)にまでなってしまった。
 これを司法担当者たちがどうこなすのか。
 <無言の知>の層の人たちは、無表情を装いながら、
 26日の判決を待っている。

(転載貼り付け終わり)

世川行介(せがわこうすけ)
1952年島根県生まれ。大和証券勤務後、特定郵便局長に。43歳で郵便局長を辞し、上京。5年間の歌舞伎町暮しの後、各地を放浪、現在に至る。著書、『歌舞伎町ドリーム』、『郵政 何が問われたか』、『地デジ利権』、『泣かない小沢一郎(あいつ)が憎らしい』