毒蛇山荘日記より
投稿日:2013/09/30 08:47
私は、「小沢一郎」は支持しているが、「小沢一郎ファン」や「小沢一郎支持者」 を支持しているわけではない。小沢一郎支持者の中に勘違いしている人がいるようだ。小沢一郎支持者の中に左翼や左翼崩れが紛れ込んでいる。それは悪いことではない。小沢一郎の強さは、左翼も右翼も、そして保守も、その人間的魅力と存在論的な政治的想像力で、懐のなかに取り込んで行くところにある。しかし、最近、状況が変わってきている。小沢一郎が、小沢一郎支持者たちの言動や政治思想に引き摺られているように見える。たとえば、左翼系の小沢一郎支持者たちが、孫崎享のように、「小沢一郎」を、「反権力」「反体制」「反米」のシンボルにしようとしている。小沢一郎自身も、その流れに乗ろうとしている気配が見られる。私は、古くからの小沢一郎支持者の一人として、それは、「政治家・小沢一郎の終焉」につながると考える。少なくとも、私は、「小沢一郎」を、「反権力」「反体制」「反米」のシンボルとして祭りあげようとする動きには賛成出来ない。些細なことのように見えるが、小林秀雄や柄谷行人が、「マルクス」と「マルクス主義者」を区別したように、私は、「小沢一郎」と「小沢一郎支持者」を区別する。小沢一郎には「存在論的思考」があるが、小沢一郎支持者にはイデオロギー的思考しかない。