文書の倉庫 (8)言語学関係・英語もの (9)翻訳 転載貼り付け

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:23

 会員番号4655の佐藤裕一です。

「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。これで完了です。

 北伯氏が投稿「anarchism/無政府主義」で紹介している参考URLの中にある「アナキズムFAQ」は「アナーキー・イン・ニッポン」というサイトの一部で、英語サイトを翻訳した夥しい量の日本語文章が掲載されている模様です。一気に全部読むのはとても無理なので、気が向いたら少しずつ読んでいきたいと思っています。

アナーキー・イン・ニッポン
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/

アナキズムFAQ
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/

 

 文書の倉庫 (8)言語学関係・英語もの
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=8

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/08/03(Thu) 16:10
投稿者名:管理人
タイトル:副島著「道具としての英語」を参照して作られたプログラム

自己紹介

こんにちは、(hello のつもり)

 私は、****といいます。本を出したことはありませんが、今西春樹という筆名を使っています。
 最近、このサイトを見つけました。ずいぶんと精力的に活躍しておられますね。
副島さんの1日分の記事のあまりの多さにびっくりしてしまっています。とても読み通すことは出来そうにありませんが-(すいません)。
 理科系人間です。---こんなことを言うのは馬鹿だと自分でも思いますが、とりあえず、超お忙しそうな副島さんに興味を持ってもらうには最適なフレーズであると思って、ほんのギャグ程度に使わせていただきます。また、プログラマでもあります。
 私は、「道具としての英語」という本で副島さんに興味を持ちました。今でも副島さんの意見には賛同する部分が多いです。
 私は、自分自信が世の中に対して表現したいと考えていたことを、あるプログラムとして実現しました。その時、副島さんの、「道具としての英語」という本が大変参考になりました。また、その中の考えを多く利用させていただきました。
 大体5年ぐらいかかったのですが、その時考えていたことの雛型とも言うべきプログラムを作ることが出来ました。多分、日本の文科系人間には決して評価されることの無いプログラムであろうと思っています。でも、副島さんには、是非とも評価していただきたいと思う気持ちがありましたので、このメールを書かせていただきました。そのプログラムのヘルプファイルの最後には副島さんの、「道具としての英語」という名前も出させていただいております。
 できましたら、次のサイトを是非ご覧になって、時間がかかるかもしれませんが、プログラムをダウンロードして使ってみてください。ぜひご意見をお聞きしたいと思います。プログラムの名前は Katakana Japanese Editor といいます。

アドレスは、(佐藤裕一による註:個人サイトURLを省きますが、既に無効であり飛べません)です。

 でも、まだまだ不完全なものでもあることもご理解下さい。
 注意として、このサイトは、米国のWindowsユーザー向けのものです。
つまりアメリカ人が、アメリカの機械で見て見れるように作られています。
インターネットエクスプローラで見る場合、もし文字化けしていたら表示のエンコードを、西ヨーロッパ言語に指定する必要があります。
 プログラムもアメリカ向け(機械的にです、内容は超日本的かもしれません)なのですが、日本の機械でも問題無く動きます。

 ご活躍を期待しています。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/12/01(Fri) 21:48
投稿者名:Imanishi Haruki
タイトル:2~3日前に気付いたこと(投稿遅れ)

今日、はっと気付いたこと。

 今日、はっと気付いたことを述べます。
 もしかしたら、このことは自分が(副島先生の本も含めた)何かの本で読んだり、あるいは聞いたりした事で、忘れていたのが表面に浮かんだのかれ知れませんが、その場合はお許し下さい(または、指摘して下さい)。
 実は今日(11月27日)はっと気付いたことです。
 会社の帰りに地下鉄の中で、何気なくアメリカ人は“I”をそんなに強くは発音しないのではないか、と考えていたのです。その時、突然思いついたことは、『日本語では第一人称が省略されることが多い』と言われているが、本当は逆で真実は『英語では第一人称が省略されないことになっている』という考えの方が本当なのではないか、と思ったのです。すると、みるみる考えがふくらんできました。
 本来、自分が言うことに関して、わざわざ「自分は…」と言う必要はないのではないだろうか?
 そうだ、日本語が『私は』という第一人称を省略しているのではなくて、実は英語が省略出来ないのだ。なぜなら「命令形」になってしまうからだ。
 例えば、“Ok,I go.”と言うとする。日本語なら『うん、ぼくも行く』という意味である。その第一人称を略すと、日本語は『うん、行く』となるのに、英語の方は“Ok,go.”となるから『よし、行け』あるいは『よし、行こう』になってしまうのである。
 『英語では格を位置情報として持っているので、第一人称を省略出来ないでいる』
というのが真実の答えだと思ったのです。
 もし省略できるのならば、省エネを指向する人間の傾向(実はずぼらな傾向)からして、英国人であろうとも、当然に省略が行われていたのではないかと思えるのです。
 間違っているでしょうか?
 もし正しいとするならば「日本人は、奥ゆかしくて自己主張を控える傾向を持っているから、第一人称を省略することが多いのだ」という美談めいた説明は、根本的に問い直す必要があることになります。
 なんとなく自分なりに、面白いことだと思ったので書いてみました。

 私は、”Katakana Japanese”というホームページを開いていますので、もし興味がありましたら、訪問して見てください。このサイトは驚くなかれ
アメリカ人に日本語を書かせようというサイトなのです。でも、それは二次的な応用であって本当の意図は、日本語を従来とは全く異なった視点から捉え直そうとすることなのです。

(佐藤裕一による註:個人サイトURLを省きます)

Imanishi Haruki
(佐藤裕一による註:個人Eメールアドレスを省きます)

 副島先生、あるいはスタッフの皆様。もしこの記事が価値の無いものと思われるなら削除お願いします。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2000/12/30(Sat) 15:58
投稿者名:Imanishi Haruki
タイトル:コンピューターコマンドの二通りの表現方法

コンピューターコマンドの二通りの表現方法

 コンピュータを操作するものに『コマンド』というものがあります。ウインドウズやマッキントッシュではマウスによって操作しますが、大型のコンピュータや、UNIXなどで、よりプログラムの製造の分野や、コンピュータの内部的な情報を扱う場合には、英語に近いコマンドをキーボードから叩き込んでコンピュータを操作します。
 command とは「命令」という意味ですので、コンピューターに対して「命令する」というイメージになります。Windows にも実際は、そのようなコマンドが用意されています。COPY コマンドは多分多くの人が知っているのではないでしょうか。AというファイルをBへコピーするなら次のように書きます。

COPY A B

COPYという命令の後ろに続くA,Bをパラメータと言います。Windows には、比較的に簡単なコマンドしか在りませんが、普通の業務で使っているコンピューターのコマンドは色々の機能を持っているので、パラメーターが多くなります。すると、次のように書かれるようになります。

コマンド A,B,C,D,E,F

人間はコンピューターより記憶力が弱いので、何番目のパラメータに、どのような内容の値を置けば良いかについて正確に覚ておくことは出来ません。また必要の無いパラメータを省略しようとすると、

コマンド ,,,D,,F

などと見にくく書かなければなりません。要するに機能が増えるにつれてコマンドが使いづらくなってしまうのです。それは、パラメータの位置そのものに意味が在るからそうなってしまうのです。
 そこで、次のような書き方が工夫されるようになりました。

COPY SOURCE(A) TARGET(B)

つまり、パラメータを、その内容を示す単語で括って記述するようになって
きたのです。こうすると、パラメーターの順番は関係無くなりますし、必要
の無いパラメーターは自由に省略出来ます。(ここで前回の話につながりま
した。位置に意味が有る言語においては、(主)語の省略が難しいという話
です)
 ここからが本題です。
 前者の位置情報を使う方法は英語の文の構造に近く、意味語を使う方法は日本語の文の構造に近いことに気付かれると思います。我々が5文型を習う理由はここにあったのです。(英語に自信はありませんが)例を挙げてみます。

Taro gave Hanako a flower.

とは、次のような意味だったのです。

actor(Taro) action(gave) target-man(Hanako) target-obj(a flower)

日本語はまさに、そのようになっていたのです。わざとカッコを使います。

(太郎)は (花子)に (花)を 上げた。

 上の語の順序をどのように変更しても、意味は同じであることを試して
みて下さい。
 実は格助詞と言われるものが、先のコマンドパラメーターの意味語に相当していたのです。先のコマンドについて考えれば分かるように、両者は全く同じ機能を持っています。しかし、先程のコマンドにあるのと同様な性能の違いが出てきます。

前者は…簡潔、明瞭である、構造に柔軟性が無い、長文に向かない、等。
後者は…複雑、?????、構造が柔軟、長文にする事が出来る、等。

 明瞭さについて?を付けたのは、後者はむしろ意味があいまいなのではなくて、あいまいと見えるほどだらだらと文を続けることが出来るのであって、同じ長さの文なら、むしろ後者の方が明瞭かも知れないと思ったのです。
 このように考えるとき、英語よりも日本語のほうがあいまいであるという議論自体間違いなのではないかと思えるのです。日本語がこのような構造になっている事をはっきりと知っている人なら、日本語を使って英語と同じぐらい意味の明瞭な文を作ることは可能なはずです。(コマンドの例で言えば、ある意味では後者の方がむしろ高級なのです)
 さらに話しを進めれば、コンピューターで言語処理をする場合、後者の方がより解析し難いという話しは当たらないと思えるのです。英語に合わせて解析しようとすると難しいかもしれないが、その文自体の意味を追うとしたら、格助詞と言う意味語の付いた日本語は、英語より解析し易いかもしれないのです。
 それでは、なぜ日本語が難しいと世間では言われているのでしょうか。長くなりましたので、その話しは次回に回します。でも、私の次のサイトを見れば答えは分かりますよ。

 私は、”Katakana Japanese”というホームページを開いていますので、もし興味がありましたら、訪問して見てください。このサイトは驚くなかれアメリカ人に日本語を書かせようというサイトなのです。
でも、それは二次的な応用であって本当の意図は、日本語を従来とは全く異なった視点から捉え直そうとすることなのです。

(佐藤裕一による註:個人サイトURLを省きます)

Imanishi Haruki
(佐藤裕一による註:個人Eメールアドレスを省きます)

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2002/01/03(Thu) 23:47
投稿者名:Imanishi Haruki
タイトル:何故、日本語キーボードは使いづらいのか

何故、日本語キーボードは使いづらいのか
 コンピュータで日本語を入力するのに『日本語IME』というソフトウェア
を使うことはご存知と思いますし、実際に使っていると思います。ワープロの
時代からそうでしたが、キーボードを使って日本語を入力することは、大変に
難しいことのように思えるのですが、どう思われますか?
 もう馴れてしまっている方は「これが普通なのだ」と思っているので、そん
なに感じないでしょうが、日本語IMEの動作に苛立ちを覚えたことはきっと
あると思います。また、自分が始めてそれに出くわした時のことを思い出して
みて下さい。さらにまた、実際にパソコンを教える立場になったりしたら、
日本語IMEの難しさを、きっと実感されることと思います。
 今はそんなことを言っていられなくなりましたが、日本人のキーボード嫌い
の原因はきっとここにあるように思われます。そこで、なぜ日本語IMEによ
るキーボード入力が難しいかを考えてみたいと思います。

 洋画では、パソコンにコマンドを打ち込んでコンピュータと対話している
シーンが見られます。日本では、恐らく成り立ちにくいシーンです。
 英語を入力することを想像して見て下さい。

 英語入力と日本語入力とでは、決定的に違う点があります。英語は、キーボ
ードからアルファベットとして入力された時、すでに文書は完成しているので
す。ところが日本語では、そうならないのです。何故でしょう?
 多くの人々は、それがキーボードというハードウェアの仕組みにあると考え
がちで、事実日本語入力の効率化を考える人はキーボードに目がいきがちです。
ところが彼らは、非常に根本的かつ最も重要な点を見逃しているのです。
 英語がキーボードから入力された時点で、そのまま文書となっているのは、
実は、英語の表記法が空白を挟んで単語を区切る分かち書きになっているから
なのです。
 英米(西欧)人は、その分かち書きの文の要素に単語を当てはめる事に
よって文を組み立てているのです。対して日本人は文の要素に漢字を当て
はめる事によって文を作っているのです。しかもさらに悪いことには、日本人
には文の要素とか、文の構造とかに関する認識が全く欠けているのです。
 こういうことです。日本語IME(imput method 何とか)という名前が
付けられているが、それは「日本語入力システム」などと呼べてものではな
くて、実際には、超高度に作られている「漢字選択システム」に過ぎないの
です。
 日本人の文章は、キーボードから入力した時点では文章になっていない。
何故なのだ…!これは、あまりにもおかしなことであると思いませんか?
変だとは思いませんか?我々は会話をするとき、“あ”とか“い”とかいう
音素だけで十分に話しが通じています。ところが、キーボードから入れた
ままの“あいうえお”が文章にならないのは、あまりにもおかしい。
 結論を言います。その原因の一つは文章に漢字が使われていることであり、
その二は、文が分かち書きされていないことなのです。そして、この漢字が
使用されていることと、日本語が分かち書きされていないこととには、密接な
関係が在ります。
 日本語においては、分かち書きの原理が、漢字とかなの組み合わせの中に
職人芸的に組み込まれているのです。
 だから、欧米人が空気を吸うようにして、自然と考えを進めてきた、文の
構造、つまり文の組み立て方に関するような研究が日本では育って来なかっ
たのではないでしょうか。(自分はこの分野では素人ですので、知らない
だけかもしれません、専門家の方はお許しを)
 ある事項を明確に示すのに、『どのようにして主語と述語を組み合わせる
べきか』と考えるより、数千年の積み重ねの文庫の中から『もっとも適切、
あるいは、もっとも人々を驚かせるような素敵な漢字を当てはめる』ことの
方に価値を置いていたのが、日本の知識文化だったように思えます。その
一点の素敵な漢字を際立たせる見返りとして、文章の構造は軟弱になって
しまわざるを得ません。

 極端に結論付けてしまえば、日本語キーボードが使いづらい本当の原因は、
キーボードというハードウェアや、日本語IMEというソフトウェアにある
のではなくて、「漢字と仮名を混在させる表記法」という誰もが空気のように
当たり前の存在であると思いこんでいるソフトウェアにこそ根本的な原因
(欠陥)が在るのではないか、ということなのです。
 恐ろしい事だと思いませんか。日本人の知識の土台となっている文章の
組み立て方の中に、実は『日本語は論理的な思考には向かない』と指摘され
て来続けていた原因となる欠陥が在るとしたら。

 私は、”Katakana Japanese”というホームページを開
いていますので、もし興味がありましたら、訪問して見てください。この
サイトは驚くなかれアメリカ人に日本語を書かせようというサイトなのです。
でも、それは二次的な応用であって本当の意図は、日本語を従来とは全く異
なった視点から捉え直そうとすることなのです。
 最近、”Katakana Japanese Editor”というプログラムを新しくしたので
久しぶりに、このサイトに書き込みしてみました。2001-1-3

(佐藤裕一による註:個人サイトURLを省きます)

Imanishi Haruki
(佐藤裕一による註:個人Eメールアドレスを省きます)

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2006/11/06(Mon) 09:55
投稿者名:Imanishi Haruki
タイトル:源氏物語は本当に難しい本なのか?

こんにちは、
 少し前ですが、このサイトを尋ねて見て、まだ自分のつたない文書が残されているのを見て、大変にうれしく思いました。スタッフの皆さんに感謝すると共に、何か結論めいたものを書いてみたいと感じていました。

 今回書き込みをするのは、前回までに書いたこと(というより、自分が今まで考えてきたこと)を実証しようとして、あるインターネットページを作ったところ、自分自身非常に興味深いものがあるのを感じたので、まだテスト段階ですが、ぜひ皆さんに紹介したいと思ったからです。(というのも、この副島さんのサイトは日本でも最先端を行く優秀な方々が見ておられるのではないかと思うからです)

 また、自分は卒業以来プログラムを作る仕事についていますが、仕事柄、機械翻訳に興味を持って、自分なりに色々なことを調べてみました。そして、あるアイデアにより実際に具体的なものを作ってみようとした、そのまさに始まりの時に、本当に偶然に副島さんの「道具としての英語」を書店で見出したのです。その中に書かれていたことは、まさに自分が必要としていた知識にピタリと符合していました。それがヒントとなって、このような日本語の仕組みにまで範囲が及ぶ非常に興味深い研究(ほとんど趣味ですが)が出来たのです。それも、ここに紹介したいと思った理由です。

 そのページの導入に述べてあるものを以下に転載してみます。

<転載始め>

 源氏物語は、女子大学生でもその全体を読んだことのない難しい書物とされています。
 しかし、更級日記の作者、藤原高標[フジワラノタカスエ]の娘は少女の時から源氏物語を読んでいました。また私は、新聞でアメリカの女性が、少女の時に源氏物語を読んで、その耽美的な世界に不思議な思いをした、と語っているのを見たことがあります。
 なぜ彼女たちは、難しい源氏物語を読めたのでしょうか…?

<転載終り>

 人によって感じ方も違うので、はっきりとは言えませんが、自分が特に感じたのは、平安時代のものと現代のものを比較してみたとき、日本の言葉は思ったよりあまり変化していないのではないか、ということです。

 以下のりンクから直接そのページに行けますので、是非ご覧になってみてください。2006-11-4

(佐藤裕一による註:個人サイトURLを省きます。ここのURLは、転載時点で有効のようです)

今西春樹
(佐藤裕一による註:個人Eメールアドレスを省きます)

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

 文書の倉庫 (9)翻訳
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=9

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2004/04/29(Thu) 03:19
投稿者名:北伯
タイトル:natural law/自然法

 The Norton Dictionary of Modern Thought より
【natural law】

 Rules of law laid down by nature. Though many theorists through the ages have recognized the importance of natural law, and have often arged that human law is subordinate to it, they have interpreted what it is and how it has been derived in many different ways. Aristole believed that natural laws were universall recognized, e.g. the law of murder, and never changed. The Stoic philisophers considered natural law to be based on rational thought. St Thomas Aquinas arged that it was the reflection of divine wisdom in human beings, and many Christian philosophers have asserted that human laws and even national sovereigns are subornate to the law of God. International law (see PUBLIC INTERNATIONAL LAW), regulating relations between independent states, has been influenced by natural law theories. Locke based his idea of life, liberty and estate upon NATURAL RIGHTS, which also influenced the French Declaration of Rights, 1789, and the United States Declaration of Independence 1776, and Bill of Rights 1791. The effect of natural law theories upon practical English law is seen in the development equity by the Court of Chancery, the doctrine of unreasonableness as the test of negligence (see COMMON LAW and TORTS), parental rights in FAMILY LAW, the rules of national justice, and civil liberties (see HUMAN RIGHTS). Natural law ideas are often about an ideal, e.g. the Universal declaration of Human Rights.The English jurist H.L.A.Hart believes there is a minimum content of natural law, but few today think that natural law is immutable.

For further reading: J.Finnis, Natural Law and Natural Rights (1980).

【抄訳】
 自然に存在する法の原則。長い期間を通じて、多くの識者が自然法の重要性を認識してきたにもかかわらず、彼等は時折人間の法は自然法に従属すると主張し、その存在と関係を多くの点で理解した。アリストテレスは自然法を普遍的に認識されるものと信じ、例え死刑にされようともその考をを変えなかった。ストアは哲学者たちは、自然法とは合理的判断を基礎とすると信じた。聖トマス・アクィナスは、自然法を人間に内在する神智の顕現であると主張し、キリスト教徒の哲学者たちは、法と王権も神の法の下にあると断じた。独立国家間に結ばれる国際法(参照:PUBLIC INTERNATIONAL LAW)もまた自然法理論の影響を多分に受けてきた。ロックは生涯の思想である自由と所有を、自然権に基づくものとした。それは1789年のフランス人権宣言、1776年のアメリカ独立宣言、1791年の権利章典に影響した。実効性のある英国法における自然法理論の効用は以下に見られる、つまり大法官法院による衡平法の発展、怠慢の証明である不条理の信条(参照:COMMON LAW and TORTS)、家族法における両親の諸権利、自然公平の原則、そして市民の自由(参照:HUMAN RIGHTS)。自然法の思想は時に、国際人権宣言のような理想となる。イングランド人法学者H.L.A.ハートは、自然法の内容は最低限であると信じたが、今日では自然法が不変であると信じるものは少ない。

 参考文献: J.Finnis, Natural Law and Natural Rights (1980).

【雑感】
「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった」ヨハ1:1

 ヨハネによる福音書の最初の一節だ。この[言]の部分、ギリシャ語の原文ではlogosで、本来はは[論理]もしくは[構造]と訳すのが正しい。前ソクラテス期哲学者たちはlogosを、自然界を貫き秩序を保つ[理法]の意味で使っていた。ラテン語のratio、英語のreasonつまり[理性/合理性]。キリスト教の神といわれるとイエスの様な人格をもった存在を想起しがちだが、実際はもっと冷酷で自動的だ。ある法則に従って強固に積み上げられた[論理/構造]。そしてその[論理/構造]を貫徹する厳格な法則。つまりthe law of natureこそが神そのものに他ならない。そして人間社会に於ける神の遍在が、natural lawとなって示される。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2004/05/03(Mon) 06:08
投稿者名:北伯
タイトル:anarchism/無政府主義

 The Norton Dictionary of Modern Thought より
【anarchism】

 A political movement advocating the the abolition of the state and the replacement of all forms of gorvernmental authority by free assocication and voluntary cooperation of groups and individuals. Anarchists disagree about what specific relationships the future society is to be based on, and how it is to be achieved. Contemporary libertarian writers (see LIBERTARIANISM) describe themselves as ‘anarchocapitalists’ and base their hostility to the STATE on the inviolabikity of each individual’s ownership of himself and his property. Historically, anarchists have been hostile to private property as ordinarily understood. The first English anarchist, Willam Godwin (1756-1836), was uninterested in political action and wished ‘EUTHANASIA of government’ to result from individual moral reformation; more commmonly, anarchists have advocated some form DIRECT ACTION. Their MARXIST critics have complained that this is inimical to good organization and effective tactics. Proudhon (1809-65) and Blanqui (1805-81) divided the allegiances of 19th-century anarchists in France, the former wanting peaceful change, the latter an advocate of spontaneous insurrection. Bakunin led the anarchist wing of the First INTERNATIONAL; his quarres with Marx and Engels destroyed the organization in 1876. Bakunin’s enthusiasm for insurrection and spontaneity degenerated into the romantic and suicidal craze for ‘propaganda by the deed’ which swept Europe and America at the turn of century. Johann Moser’s obsession with the criative possibilities of dynamite was characteristic of this period, but even Malatesta, kropotkin and Emma Goldmann were tempted by the thought that assassinating the rich and powerful would leed to a workers’ revolt and thence to the anarchist utopia (see UTOPIANISM).
 After 1900, anarchism ceased to make much impact on the politics of developed countries. In revolutionary Russia, however, Makhno defied the Bolshevik armies (see BOLISHEVISM) for most of the Civil War, while anarchiests held power in Catalonia during the Spanish Civil War. In France, the hold of anarchist ideas on the LEFT has never quiet died out; ANARCHO-SYNDICALISM was a powerful force in TRADE UNION circles until after World War ?, and in the ‘events’ of MAY 1968 anarchism rather than orthodox Marxism ruled the day. the TERRORISM which the far left practiced during 1970s was based on an orthodox hatred of CAPITALIST society, but theexpegtion of insurrection was anarchist. Of much greater intellectual interest has been the continuing revival of INDIVIDUALIST American anarchism associated with writers such as Murray Rothbard and Robert Nozick.

For futher reading; G. Woodcock, Anarchism and Anarchists: Essays (1992).

【抄訳】

 国家の廃止、及びあらゆる形態の統治権力を自由な結合と集団と個人による自発的な強調によって置き換えることを主張する政治運動。アナーキストは将来の社会が基盤とすべき明確な関係性や、その関係を達成する方策に対して異なる意見を持つ。現代のリバータリアン著述家(参照:LIBERTALAINISM)は自らを‘アナーキスト的資本主義者’と表現し、その国家への敵意は個人の所有権と財産権に基づいている。歴史的に、アナーキストは既成事実として常態化した私有財産と対立してきた。最初のイングランド人アナーキスト、ウィリアム・ゴドウィンは政治行動に興味はなく、個々人の倫理的改心の結果が‘国家の安楽死’となる事を願っていた。より一般的に言えば、アナーキストは個人が何の影響も受けることなく行動した結果成立する社会形態を支持してきた。マルクス主義者の評論家は、その思想が優れた組織と効果的な戦術に対して、有害であると説いた。プルードン(1809-65)とブランキ(1805-81)は、19世紀フランスのアナーキストたちの忠誠を、前者は平和的変革を望み、後者は自発的反乱を擁護することによって分裂させた。バクーニンは第一インターナショナルのアナーキスト一派を率いたが、マルクスとエンゲルスに対する不和が1876年にその組織を崩壊させた。反乱と自発行動へのバクーニンの執着は、世紀の変わり目にヨーロッパとアメリカを傾けていた’実行によるプロパガンダ’を、理想主義的で自滅的な狂気へと堕落させた。モゼールの持った社会攻撃の創造的可能性への妄執はこの期間に特徴的なものだったが、マラテスタ、クロポトキン、そしてエマ・ゴールドマンは金持ちと権力者を暗殺し、労働者の暴動とそれに続くアナーキストたちの楽園を導くという思想にとらわれていた。
 1900年を過ぎてからは、アナーキズムは発展した国家に大きな衝撃を与えることを止めていた。しかし革命ロシアでは、マフノがボリシェヴィキ(参照; BOLSHEVISM)を市民戦争での最大多数であると定義し、スペイン市民戦争ではアナーキストがカタルーニャの権力を掌握した。フランスでは、左翼へのアナーキスト思想の呪縛は決して消え去ってはいなかった。第一次世界大戦の後まで、貿易組合の中ではアナーキスト組織主義は強い勢力を持っていたし、1968年の‘事件(5月革命)’の間は政党はマルクス主義よりもアナーキズムが支配的であった。1970年代、極左が実行したテロリズムは、資本主義社会への通俗的な嫌悪の基づいており、反乱を期待するのはアナーキストであった。より知的な支配力は、マレイ・ロスバードやロバートノージックといった著述家と結びついたアメリカアナーキズムのような個人主義者の再生を続けさせる。

参考文献; G. Woodcock, Anarchism and Anarchists: Essays (1992).

 続けて、The AMERICAN HERITAGE dictionary 4th edition より

【anarchism】

 1. The theory that all forms of government are oppressive and should be ablished.
 2. Terrorism against the state.

【抄訳】

 1. すべての政治形態とは抑圧であり、排除されるべきであるとする理論。
 2. 国家に対するテロリズム。

 もう一つ、 OXFORD Advanced Learner’s DICTIONARY 5th edition より

【anarchism】

 the political belief that there should be no laws and government.

【抄訳】

 法律と統治は、存在すべきではないとする政治信念。

 最後にもう一度、The AMERICAN HERITAGE dictionary 4th edition から

【anarchy】

 1. Absence of governmental authority or law.
 2. Disorder and confuse.

【抄訳】

 1. 統治権力、若しくは法の不在。
 2. 無秩序と混乱。

【雑感】

 [anarchy]という語の意味はかなり混乱していて、一般的な意味と学術的な意味で、さらに学術用語としてヨーロッパとアメリカでそれぞれ意味が異なり、時代によっても若干異なるニュアンスを持つ。anarchismの意味は一般的には無政府主義や単に反政府思想として扱われるが、政治用語としては反統治主義若しくは無秩序主義となる。
 『OXFORD Advanced Learner’s DICTIONARY』はanarchismを[the political belief that there should be no laws and government.]としている。lawsは複数形なので、これは人定法一般を指す。つまり特定の統治行為者と法律を破壊し尽くした後でも、自然法は残る。この意味で、アナーキストは極端な自然法派であると言える。『The AMERICAN HERITAGE dictionary』はニューヨークのDell Publishingの辞書、Random Houseの子会社のようだ。こちらでは[anarchy]を[Absence of governmental authority or law.]としている。このlawは無冠詞単数なので自然法を意味している。アナーキストは欧州では自然法派に、アメリカでは人定法派に属している。
 Nortonはこの項の中で、リバータリアンが自らを[anarchocapitalists]と表現すると書いている。リバータリアンは、統治と法が不在でも自発的に市場原理を組織するという信念を持っている。

副島隆彦の国家戦略論の背景
http://soejima.to/souko/strategy/index.html

アナキズムFAQ
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/contents.html

ウィリアム・ゴドウィン
http://bunken.ih.otaru-uc.ac.jp/yosho/Y_wiriamu.htm

ピエール・ジョセフ・プルードン Pierre-Joseph Proudhon
http://cruel.org/econthought/profiles/proudhon.html

ルイ・オーギュスト・ブランキ Louis-Auguste Blanqui
http://www2.ienohikari.or.jp/WebApl/KJinRyaku.nsf/WebApl/KJinRyaku.nsf/CD6D653E43EAF940492568E00000C8B8?OpenDocument

ピョートル・クロポトキン
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ku/kuropot.html

エマ・ゴールドマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/エマ・ゴールドマン

ネストロ・マフノ
http://www.nestormakhno.info/

ロバート・ノージック
http://www.arsvi.com/0ww/nozick.htm

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)