文書の倉庫 (6)歴史研究・日本属国史研究 転載貼り付け2

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/27 01:19

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 引き続き「文書の倉庫」から転載貼り付け致します。各個人掲載のEメールアドレス及びURLは省きます。

 

 文書の倉庫 (6) 歴史研究・日本属国史研究
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=6

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2001/03/29(Thu) 00:51
投稿者名:かたせ
タイトル:副島先生が注意深くウオッチしていたイタリア人、ついにムッソリーニの政治思想を日本に初めて紹介

副島隆彦先生の著書「ハリウッドで政治思想を読む」から引用します。映画「コーザ・ノストラ」の解説の部分です。
まず、151ページから。
(引用開始)
 どうやら、イタリア・ファシスト党を率いてドイツ・日本と組んだイタリアの政治指導者であったベニト・ムッソリーニという男は、政治思想的にも相当に大きくて未だに深いものをもっている人物らしい。それは、中世以来のイタリアのカトリシズムの長い伝統に裏打ちされたものであるらしい。ロマノ・ヴルピッタというイタリア人外交官が、そのことを、それとなく私たちに伝えようと、長いこと日本に駐在している。日本には、まだほとんど、その偉大さは伝えられていない。ムッソリーニの思想は私たちには全く解読されていない。彼は一九四五年四月に、逃走中の北部イタリアで、パルチザンにつかまって、愛人と共に絞首刑にされた。
(引用終わり)

次に94ページから。
(引用開始)
 ムッソリーニは、一九四三年七月に、首相の座を追われ、一九四五年四月に、イタリア・パルチザンゲリラに、北部の山中を逃亡中につかまり絞首刑にされた。そのときの写真は今も残っている。ムッソリーニはイタリア・ファシスト党の党首であり、ファシズム運動の党首であった人物だが、中世ヨーロッパ最大の伝統を引くイタリア政治思想の優れた思想家であったらしい。バチカンの僧侶知識人たちによるムッソリーニ研究が、今なお連綿と続いている。現代イタリア人を私たちが本当に理解しようと思ったらムッソリーニを研究しなければならないようだ。
(引用終わり)

 ここで紹介されているロマノ・ヴルピッタ氏が、日本語で本を著(あらわ)しました。
「ムッソリーニ (一イタリア人の物語)」(中公叢書、2000年12月初版、中央公論新社)です。http://www2.chuko.co.jp/new/200012/003089.shtml

 副島先生の文章の内容から逆算すると、この本によってはじめて、ムッソリーニの優れた思想を日本人は理解できるようになり、そして現代イタリア人を本当に理解する重要なきっかけが与えられるはずです。そのくらい大切な本のはずです。

 ところで、そうするとそもそも現代イタリア人のことを私たち日本人はまだ理解できていないことになってしまうのですが、本当でしょうか。「イタリア?良く知ってるよ。サッカーに、ルネサンスに、パスタ。いい国だよ。イタリア人は明るくて陽気だし。人生を楽しんでいるのが、うらやましいよ。」と反論をしたくもなります。

 この本の、「後記」から引用してみましょう。
(引用開始)
 現在、イタリアは日本で人気のある国に違いない。しかしそのイメージは地中海料理、ブランド物やデザインや美術やオペラやセリエAやスポーツカーなどである。総じて言うと<甘い生活>に関わるものである。けれども、ひょっとすると働き蟻の日本人は、遊び好きなキリギリスのイタリア人を羨ましがりながらも、心の底では蔑視しているのかもしれない。
 ともあれ、あの<甘い生活>の裏にある、統一国家になってからの約一世紀半の間、イタリア民族が経験した激動の歴史について、ほとんどの日本人は知るところがない。ムッソリーニはある意味で、この希望と挫折の歴氏を象徴しているのである。彼の大いなるドラマの背景には、イタリア国民の大いなる季節がある。そのことを私は、日本人にも知ってもらいたかった。とりわけ、絶望のなかにあって多くのイタリア人が、思想の正否を別にしても、どのように自分の志を貫いたかを。そのためにこそ私は、日本では余り知られることのないイタリア最新の研究成果を踏まえて、独断的ではあるかもしれないが、これまでのステレオタイプと異なったムッソリーニのイメージを紹介することにしたのである。今年イタリアでは、「ベニート・ムッソリーニとともに第三ミレニアム」という二〇〇〇年のカレンダーが、八十万部というカレンダーとしてはトップのベストセラーとなった。新しいミレニアムを迎えるイタリア人にとって、ムッソリーニはいまだに不思議な魅力を発揮しているのだが、その根底には民族の歴史への深い認識があるのではないだろうか。勝者の論理をもって歴史を判断しがちな日本人に、この事実についてよく考えてもらいたい。
(引用終わり)

 以下、私見です。
 最後の部分は、考えさせられる発言です。ムッソリーニと同時代、司馬遼太郎の小説も避けて通る戦前のあの時代、アメリカに敗北したあの時代、現代の日本人がまったく評価していないあの時代を再評価できるかが問われているのだと思います。そして、その時代を代表するのは、近衛文麿だと思います。まだまだ、時間がたたないと再評価は難しいのでしょうか。私は残念ながら、まだまだ力量不足です。
この本と通して、日本人とイタリア人がより深く理解できる手がかりは得られそうです。話が飛びましたが、以上、私見でした。

なお、ファシストの再評価などにつきあうヒマのない忙しいみなさまにも、序章「ムッソリーニというイタリア人」だけはお読みいただく値打ちはあると思います。「その評価をめぐって」「政治思想について」「ドゥーチェとして」の副題があり、ムッソリーニの人となりや政治思想の成り立ちなどについてわかりやすく記述されています。20ページ程度の分量ですから、ぜひ本を手にとってみてください。

その中に書かれてある、同時代の人物のムッソリーニへの評価を箇条書きにします。
(1) チャーチル(イギリス首相):「ローマの精神を具現化した現在の最大の法律制定者」と称賛。その法制度を「世界の発展の座標」であると断言。戦後も著書「第二次世界大戦」で為政者としてのムッソリーニの功績を褒めたたえている。

(2) フランクリン・ローズベルト(アメリカ大統領):「現代の最大の問題を理解し、かつ解決する方法を」を示したと評価。

(3) ヒトラー(ドイツの独裁者):一生彼を師匠として彼を尊敬。

(4) ガンディー(インド独立運動指導者):ファシズムに敵意を抱きながらも「ムッソリーニは祖国の発展を望む、私欲のない政治家である」と認める。

(5) モーリヤック(フランスの小説家):「ムッソリーニによってローマの歴史は今も継続している」

(6) ゴーリキー(ロシアの小説家):「ムッソリーニは優れた知性と意志を備えた人物である」

(7) ストラヴィンスキー(ソ連の作曲家):「世界でムッソリーニをもっとも尊敬しているのは自分だ」

(8) エジソン(アメリカの発明家):「ヨーロッパ最大の人物」

(9) フロイト(オーストリアの精神分析家):「文明の英雄」

(10)パレート(イタリアの経済学者):自分の理論の実践者として、ローマ進軍を歓迎。

(11)ミヘルス(イタリアで活躍した政治学者):「寡頭制(オリガーギー)の鉄則」を発見する中で、イタリアン・ファシズムに傾倒。

ね、読みたくなったでしょ?読んだあと、とても人間味のある、魅力的な人物であったことがよくわかりました。

最後に、この本の見開きから、ロマノ・ヴルピッタ氏の略歴を紹介しておきます。
ロマノ・ヴルピッタ(Romano Vulpitta)
1939年、ローマに生まれる。ローマ大学法学部卒業。1964年イタリア外務省に入る。駐韓イタリア大使館二等書記官。駐日イタリア大使館二等書記官。後に一等書記官を務める。1972年~75年、ナポリ東洋大学院現代日本文学の担当教授。75年、欧州共同体委員会代表部次席代表。現在、京都産業大学経営学部教授(ヨーロッパ企業論、日欧比較文化論)。著書に「不敗の条件-保田與重郎と世界の思潮」他。

以上

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2003/11/09(Sun) 18:58
投稿者名:よしかわ邦弘
タイトル:親鸞等の浄土宗系の仏教宗派に対するキリスト教の影響、およびキリスト教の伝来時期について

1.はじめに
副島隆彦氏が著書「ハリウッドで政治思想を読む」の中で、親鸞の教説がキリスト教の影響を受けているとの指摘があります。以下に引用します。
(128ページから引用開始。副島隆彦「ハリウッドで政治思想を読む」)
『スター・ウォーズ エピソード1』で、一番光っていたのは、やはり東洋的な惑星ナブーの女王であるクィーン・アミダラ役を演じたナタリー・ポートマン(Natalie Portman)であろう。
(略)
女王アミダラというのだから、これは中国仏教の浄土門における阿弥陀如来(アミダニョライ)からとった人物像であろう。タイやチベットの仏教には阿弥陀信仰はないだろうが、似たような女神ならいるだろう。如来は、シャカムニの姿の一つ(化身)だから女の仏はいないはずなのだが、観音菩薩などは、どう見ても女神像。五~一二世紀の中国で栄えた阿弥陀如来の流れである。
おそらく、阿弥陀如来は、本当は、キリスト教のマリア信仰が、トルキスタン(中央アジア)を越えて中国にやって来たものだろう。その途中で、仏教の中に変形されて取り込まれた信仰である。それらは日本の最高学問機関であった比叡山に仏典の形で多くもたらされた。こうして日本までたどりついた時に、法然や親鸞の日本浄土宗になった。親鸞上人は、比叡山で修行僧だった時に、この浄土教の仏典を読んだが、その中に、他の経典の中に紛れこんでマリア信仰が中国的に変形して中国語(漢文)仏典になっていたものがあったのだろう。たとえば親鸞上人は、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」で知られる。これは、「善人なほもて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや」という例の文句で有名である。善人であれば極楽浄土へ行くことができる。そうであるならば、あればなおさらのこと現世で悪行を重ねた者は、極楽浄土(天国)に行けるのである、という強度に逆説的な理論である。浄土宗では、人間は、現世ではただひたすら念仏をとなえさればよしとする。この親鸞の「悪人正機説」は、日本の知識階級に何世紀もの間支持されてきた思想だが、どう考えてみても、これはキリスト教、とりわけパウロの説教である。
 だから日本の浄土宗の原型は、中央アジア経由のマリア信仰であり、キリスト教の変形したものである。この考えは、おそらく日本の仏教研究学者たちの間でも長い間、密かに語られてきた事実であろう。私は、まだその手の仏教学の裏の論文に行き当たったことがない。しかし、もうすぐ捜し出すだろう。
(128ページから引用終わり。副島隆彦「ハリウッドで政治思想を読む」)

2.本の紹介
よしかわ邦弘です。東方キリスト教(景教)が、親鸞に直接影響を与えていることを示す本をみつけたので紹介します。
 「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」(著者:久保有政、ケン・ジョセフ、徳間書店、2000年2月29日初版)という本です。内容の一部を引用します。

(121~122ページから引用開始。久保有政、ケン・ジョセフ「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)
 日本では、一〇世紀になると「称名念仏」の信仰が広がりはじめ、一二世紀には、法然や親鸞が「南無阿弥陀仏」の念仏を大衆化しました。
 「南無」とは、「帰依する」とか「信仰する」という意味で、「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏を信じます」とか「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。法然や親鸞は、この念仏を唱えるならば、誰でも浄土(基督教でいう天国)に生まれることができることができ、救われると説いたのです。
 こうして仏教思想が、“神的存在者(阿弥陀仏)の名を唱え、信仰を表明するならば、誰でも救われる”というかたちになっていったのは、新約聖書・使徒の働き二章二一節の、
「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」
という原始基督教および景教の信仰が、様々なプロセスを経て、仏教思想に影響を及ぼしていった結果にほかなりません。
(121~122ページ)

よしかわ邦弘です。副島隆彦氏の主張と同じ主旨のことが述べられています。
では次に、浄土宗系の考えに基督教がダイレクトに影響を与えていた証拠について記した文章を、引用いたします。

(171~171ページから引用開始。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)
 京都、西本願寺には、親鸞上人も学んだという景教の、『世尊布施論』があります。現在は公開はしていませんが、宝物として保管されています。親鸞上人も、景教の書物を読んでいたのです。この『世尊』とはシャカではなく、イエスのことです。
 これは中国で、七世紀に景教徒によって漢語に訳された景教の経典です。それが日本にも持ち込まれていました。内容は、イエスの「山上の垂訓」(マタイの福音書五~七章)等に関するものです。その冒頭の部分を少し現代語訳してみましょう。
 「世尊(宇宙の主、イエス)はこう言われた。人に施しをするのであれば、施しをする前に、まず神にそれを捧げ、それからそれを人に捧げなさい。あなたの左手がする施しを、右手に知らせないようにしなさい。あなたの礼拝が、人に見せるためであったり、人に聞かせるためであったりしないように気をつけなさい。…・・
 あなたに罪を犯している人がいるなら、その罪をあなたが赦すなら、聖なる方も、あなたの罪を赦して下さいます。…・・あなたの宝を地上にたくわえるのはやめなさい。殺人や強盗に略奪されたり、きず物になったりしてしまいます。あなたの宝は天国にたくわえなさい。そこではこわされることも、失われることもありません。…・・」
 『世尊布施論』はその後、アダムの創造と堕落、イエスの降誕、生涯、教え、さらに基督教的救い等についても述べていきます。こうした『世尊布施論』を、親鸞が何時間もかけて学んだということは、興味深いことです。
 実際、クリスチャンが親鸞の教えを学んでみると、そこには非常に基督教に似たものを感じることがあります。用語は仏教的にしてあるけれども、思想的には「これは基督教の教えじゃないか」と思わされるようなことに、しばしば出会うのです。
(引用終わり。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」

よしかわ邦弘です。
 浄土教系の教えというのは仏教の形をとりながら実際はキリスト教の教えであると、私は考えます。「絶対他力」という考え方などは、自力での修行のベースに置くそれまでの仏教の考えからは大きく逸脱し、むしろ「異端」の領域に入っていると考えます。
浄土教の教えが説かれはじめた当時のことをよく知る慈円の著書「愚管抄」から引用します。既成仏教の側からの敵意を目の当たりにできます。

(279~281ページから引用。慈円「愚管抄」巻第六。「日本の名著、慈円・北畠親房」中央公論社。1983年初版)
 建永年間[西暦1206年]のこと、法然房(源空)という上人があった。京の市中に住んで、近年になって念仏宗を立て、専修念仏と称して「ただ阿弥陀仏とだけ唱えるべきである。それ以外のことは、顕密の修行[奈良仏教のような顕教、あるいは天台・真言のような密教]はするな」ということをいい出したのである。
 ところがこの専修念仏の教えは、異様な、理非もわからず知恵もないような尼や入道によろこばれ、ことのほか繁盛に繁盛を重ねて、教団は急速に大きくなりはじめた。その仲間に安楽房(中原師広、遵西)という者がいた。[略]住蓮と一組になって、六時礼賛(一昼夜を六つに分け、各時に仏を礼拝し懺悔する行)は善導和上(唐の浄土教家)の教えられた行法であるといって、それを布教の中心とし、尼どもの熱烈な帰依を受けるようになった。
 ところが尼どもは教え以上のことをいいふらし、「専従念仏の修行者となったならば、女犯を好んでも、魚鳥を食べても、阿弥陀仏は少しもおとがめにならない。一向専修の道に入って、念仏だけを信ずるならば、かならず臨終の時に極楽に迎えに来てくださるぞ」といい、京も田舎もすべてにこのような教えがひろまっていったのである。そうするうちに[略]、[後鳥羽上皇妃などの皇族の女性の方々が]いっしょになってこの教えを信じ、ひそかに安楽房を呼び寄せて、その教えを説かせて聞こうとしたので、安楽房の方も同輩を連れて出かけていくようになり、夜になっても僧どもをとどめておくようなことが起こったのである。それはあれこれということばもない有様で、ついに安楽・住蓮は首を斬られたのであった。
 法然上人は流罪となり、京の中にいてはならぬと追われてしまった。流罪のことも、後鳥羽上皇のしかるべき御処置があったのに、法然を支持する人々がすがって少し手心が加えられたように思われる。しかし、法然の味方はあまりに多く、赦免されてのちついに東山の大谷(京都市東山区)というところで亡くなった。その時にも、往生だ極楽往生だといいたてて人が集まったが、しかるべき往生の証拠はあらわれず、臨終に際しての振舞にも増賀上人(有名な往生者)などのようにとりたてていうべきことはなかったのである。 
 しかしこのように臨終に人が集まったりしたので、この教えは最近まであとをひいて、いまだに大方の魚鳥を食い女犯を行う専修念仏の禁止ができないのであろうか、比叡山の衆徒が決起して空阿弥陀仏(法然の弟子)を中心とする念仏の信者を追い散らそうとし、念仏の信者どもが逃げまどったりしているようである。[略]
 法然の弟子といって魚鳥女犯のようなことなどをはじめたのを見ると、本当にそこに仏法が滅びていく姿があらわれていることは疑いない。これを考えて見ると、悪魔というものには、人々を従わせていく悪魔と、物ごとにさからう悪魔とがあり、ここでは人人を従わせていく悪魔が悲しくもこういう教えをひろめているのである。阿弥陀仏の教えのみが広がり、それによって得られる救いのみがましていうことが真実であるような世には、本当に阿弥陀仏の救いで罪障が消えて極楽へ行く人もあるであろう。しかし、そのような世にはまだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教えに従って救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきことである。
(279~281ページから引用。慈円「愚管抄」巻第六。「日本の名著、慈円・北畠親房」中央公論社。1983年初版)

よしかわ邦弘です。
 当時の既成の仏教(奈良仏教、天台・真言密教)からは、浄土宗が異端の宗派として見られるのはいたしかたないと考えます。そうしたものが、キリスト教の教理の影響を受けていても不思議はなく、上記のような物的証拠が発見できたときも、わたしはそれほど驚きませんでした。

3.キリスト教が以前から流入していた証拠(その他)

(1)墓石から
(172~173ページから引用開始。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)
ほかにも、ザビエル以前の日本に基督教が入っていたという、多くの証拠があります。
たとえば吉田元(よしだはじめ)博士(関東学園短大教授)は、中国の景教徒の墓に見られる紋様と同じものが、しばしば日本の古い墓に見られることに着目しています。
 中国の景教徒の墓を見ていると、たいてい景教の十字架の下に、「なつめやし模様」とみられるものが描かれています。一見、「七枝の燭台」(メノラ)にも似ていますが、下部に根があることから見て、なつめやしだと吉田博士は考えています。
この模様は、たとえば中国の刺桐城の景教徒の墓や、房山県の旧十字寺の景教徒の墓石、その他にも描かれています。それと同じものがしばしば日本の古い墓石に見られるのです。
たとえば、群馬県利根郡川場村の門前に「半三郎の墓」というキリシタン墓石があります。そこには中国の景教徒の墓のものと同じ「なつめやし模様」が、はっきりと刻まれています。この模様は、キリシタン墓石に多く見られます。そして中には、ザビエル来日以前のものも少なくないのです。たとえば福島県郡山市如宝町の板碑は、一二〇八年(承元二年)と刻まれています。
(172~173ページから引用終わり。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)

(2)雅楽から
(170ページから引用開始。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)
日本雅楽会会長・押田久一氏は、今も毎年宮中で演奏されている雅楽の「越天楽」(えてんらく)は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と言明しています。また、福岡県に伝わる民謡「黒田節」は有名ですが、これはじつは「越天楽」の編曲からできたものです。
(170ページから引用終わり。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)

4.キリスト教の日本への伝来はいつまで遡れるか

上記のような証拠から考えると、「キリスト教の伝来は、西暦1549年の、イエズス会士、フランシスコ・ザビエルの日本来航による」というのは、事実としておかしいことになります。
それでは、キリスト教の日本への伝来はいつまでさかのぼれるのでしょうか?
文献で確認できるのは、実は、西暦七三六年です。ちょうど奈良時代。聖武天皇・光明皇后の時代です。

(166~167ページから引用開始。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)
 日本に来た景教徒に関する最初の公式記録は、『続日本紀』(しょくにほんぎ)(八世紀)にあります。[略]西暦七三六年六月、景教徒であり医者でもあった「李密翳」(りみつえい)というペルシャ人が、日本にやって来たと記録にあります。また彼と一緒に、「皇甫」(こうほ)という景教の教会の高位の人物と思われる人もやってきました。
 またその一一月には、彼は天皇から位を授けられています。滞在六ヶ月にして位を授けられているところをみると、皇室とペルシャ人景教徒・李密翳らとの間には深い関係が出来たもののようです。
 李密翳は宣教師でしたから、皇族に対し基督教の伝道をしたようです。実際、以後宮中の記録に、それまでに見あたらない「景福」という景教用語が散見されるようになります。七四一年(天平一三年)の「国分寺建立の詔(みことのり)」の一節にも、「あまねく景福を求め…・・」
とあります。「景福」は「大いなる幸福」あるいは「景教的幸福」を意味し、「大秦景教流行中国碑」にも見られる景教用語なのです。
 李密翳が日本に来たときの天皇は、「聖武天皇」(七〇一~七五六年)であり、その妃は「光明皇后」(七〇一~七六〇年)といいました。
 光明皇后は、景教の宣教師・利密翳との出会いの後、貧しい人々のために病院を建てたり(療病院)、無料で薬を恵んだり(施薬院)、孤児院をつくって孤児たちを養ったり(悲田院)とうい、たいへん慈悲深いことを数多く行なうようになりました。
 奈良の法華寺には、光明皇后が患者の膿(うみ)を吸って吐き出したという浴室が残されています。彼女自身、看護婦として働いたのです。ナイチンゲールやマザー・テレサのしたようなことを、今から一二五〇年も前の日本人が行なっていたのです。この光明皇后は仏教信者であったと、一般には説明されています。
 ところが、貧しい人や病人、孤児たちを助けるというのは、昔から景教徒が盛んに行なってきたことでした。シルクロードのどこでも、景教徒たちは光明皇后のようなことをしていたのです。一方、こうした慈悲や福祉活動は、当時の仏教徒が行なっていないことでした。当時の仏教は国家安泰・鎮護のための宗教だったからです。
(166~167ページから引用終わり。「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」)

よしかわ邦弘です。
 日本国の正史に、はっきり書かれてある内容ですから、「キリスト教の伝来は遅くとも、736年。」と考えてもよいと考えます。ササン朝ペルシャのお椀が日本にまで伝わって、正倉院の御物として残っているのですから、状況的にも、遅くとも奈良時代には東方キリスト教が日本という文明周辺国にまで伝来し、日本の歴史が並々ならぬ影響を受けてきたことを認めても、格別問題はないと考えます。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

投稿時間:2003/11/15(Sat) 22:15
投稿者名:よしかわ邦弘
タイトル:映画インディー・ジョーンズのあらすじからわかること―――フセインのイラクも、戦前の日本も、現在の北朝鮮も、「政治体制はすべて同じ」と見られている。

2003年にアメリカはイラクに侵攻した。それ以前から、戦後イラクの構想を練っていた2002年10月、アメリカから以下の新聞記事が発信された。この記事と、副島隆彦著「決然たる政治学への道」(弓立社、2002年8月初版)にある映画「インディー・ジョーンズ」のあらすじ分析とを使って、以下のことをわたしは主張したい。
 「『外なる世界』からは、フセインの統治したイラクと、戦前の日本と、現在の北朝鮮とはほぼ同じに見えている。」
まず、アメリカの考えていたフセイン・イラク崩壊後のイラク統治構想について引用する。
【引用開始、『朝日新聞』2002.10.23 朝刊 】
「フセイン後」米が検討本格化 イラク版「GHQ」探る
 (ワシントン=石合力)ブッシュ米政権が、イラクのフセイン政権転覆後の構想作りを本格化させている。米軍主体の占領が一定期間必要になるとみて第2次大戦後の日本を想定したイラク版「連合国軍総司令部(GHQ)」モデルを検討、反体制派への軍事訓練の実施も承認した。ただ、民族や宗派間の対立が激しいイラクに日本モデルを当てはめることには疑念の声も出ている。

 米政府は、国連安保理決議の行方をにらみ、外交的な配慮から政権転覆への言及を控え気味にしているが、武力攻撃の準備は着々と進めている。ブッシュ大統領は、反体制派5千人を対象に、来月から軍事訓練を実施、予算措置として9200万ドル(約115億円)を支出することを決めた。戦闘や通訳要員にイラク人を使うもので、政権転覆に向けた具体的な準備と言える。国内のイラク人が呼応する保証はないが、「民衆は、抑圧から解放されることを望んでいる」(フライシャー大統領報道官)。

 国務省は今年4月から、イラク国外にいる反体制派の指導者、学者らと「イラクの未来プロジェクト」を開始。新政権の構想づくりを始めた。財閥解体や民主化、教育改革などを進めたGHQの占領政策を意識したものだ。米軍主体の占領軍が全土の大量破壊兵器を完全に廃棄。極東軍事裁判同様にイラク軍幹部らを軍事法廷にかけ、反体制派主体の暫定政権を樹立、民主化を進めるというシナリオだ。米政府には、同じく大量破壊兵器を抱える朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への「占領オプション」はなく、イラクの「特殊性」(ブッシュ氏)を際立たせる対応になっている。
【引用終わり、『朝日新聞』2002.10.23 朝刊】

よしかわ邦弘です。
さて、日本人はこの新聞記事から何を思いいたすべきか。
それは、アメリカは次のように日本のことを冷酷に見ている、ということ、
「現在のフセイン政権のイラクと、戦前の日本は同じようなものである。」

それでは具体的に、どのような点で同じように見えているのかという点について考えてみる。副島隆彦著「決然たる政治学への道」から引用する。

【145ページから引用開始。副島隆彦「決然たる政治学への道」】
日本人はあまり気づいていないかもしれないが、イラクの独裁者サダム・フセインと日本の天皇は、ジョーンズ博士的視点からすれば、全くの同じものだ。何も違いもない。イラク国民のフセインに対する忠誠心の厚さは、日本国民多数派の天皇に対する素朴な敬愛の念と変わるところはない。(A)からすれば、フセインも天皇も、全く同じアジアのまじない師(呪い師)であり大神官(グランド・マジシャン)であるに過ぎない。
【145ページから引用終わり。副島隆彦「決然たる政治学への道」】

よしかわ邦弘です。
下線部にある「ジョーンズ博士」うんぬんについての説明を続けて引用する。ジョーンズ博士とは、映画「インディー・ジョーンズ」の中で俳優ハリソン・フォードが演じた役柄名である。
実は、次の引用内容がそのまま、イラクにも、戦前の(ソーシアル・エンジニアリング前の)日本にもあてはまる、ということになる。この点について、目をそらさずに考えてみたい。そして、多分、北朝鮮にも同じくあてはまると付け加えておく。

【142ページから引用開始。副島隆彦「決然たる政治学への道」】
 ここに、一つ、格好の具体例がある。それは、映画『インディー・ジョーンズ』(原題は「インディアナ・ジョーンズ」)である。この映画シリーズの中の、例えば、『魔宮の伝説』などは、アジア人、東洋人に対する欧米人の典型的な理解像である。このシリーズものの映画の中では、インド北部あたりの東洋専制国家が舞台である。ある土侯の国の民衆が、奴隷労働を強制されて苦しめられている。その民衆を救い出す役割が、ハリソン・フォード主演のジョーンズ博士に与えられる。密林の奥や地下の洞窟の中の巨大空間の祭壇に、魔神の偶像が祭られている。その手前に、狂信的な呪術(マジック)に支配された奴隷たちの群れが平伏して狂気の祈りを捧げている。
【142ページから引用終わり。副島隆彦「決然たる政治学への道」】

よしかわ邦弘です。
まず、下線部前半の風景について考えてみる。
「ある土侯の国の民衆が、奴隷労働を強制されて苦しめられている。」
イラクではサダム=フセインが自分を崇拝させながら、イラクの民衆が苦しんでいる、というのが対応する。
北朝鮮では、金日成・金正日の個人崇拝のもと、民衆が飢えに苦しんでいる、というのが対応する。なんだ、結構あたっているな、と私は思う。
というわけで、戦前の日本では、「天皇に忠誠を違いながら、日本人はとても苦しめられていた。戦前の治安維持法違反は最高で死刑であった、特高警察等が思想の取り締まりを行なっていた、自由主義思想も糾弾されていた」、というのが、これに対応することになる。
これは奇しくも、日本社会党・日本共産党の見方と一致する。

下線部後半の内容について
「民衆を救い出す役割が、ハリソン・フォード主演のジョーンズ博士に与えられる。」
これは、イラクでは、ブッシュ政権に与えられる役割になるのだろう。
そして、戦前の日本でこれに対応するのは「I shall return」と言って、その言葉を実現させたダグラス=マッカーサーになるのだ。マッカーサーは日本で何がしたかったのか?
日本人の民衆を救い出したかったのだ。それが、ニューディーラー将校の願いでもあり、マッカーサーの願いでもあったのだ。これこそがソーシアル・エンジニアリングである。獰猛な日本が今後アメリカに歯向かわないように牙を抜くという目的以外の、「民衆を救い出す」というSCAPの熱意によって、日本へのソーシアル・エンジニアリングは正当化される。

映画のシナリオを、引き続いて引用する。
【142ページから引用開始。副島隆彦「決然たる政治学への道」】
そこに、生け贄にされる囚われの白人女性が連れてこられ、危機一髪のところで大乱闘の末に白人男の英雄によって救い出される。この時、奴隷たち(現地の民衆)を魔術にかけていた悪者の呪い師(マジシャン)が殺されて、奴隷たちはめでたく解放されて、自分たちの部落に帰って行く。
【142ページから引用終わり。副島隆彦「決然たる政治学への道」】

よしかわ邦弘です。
ここでも下線部について考えてみる。
「奴隷たち(現地の民衆)を魔術にかけていた悪者の呪い師(マジシャン)が殺されて、奴隷たちはめでたく解放されて、自分たちの部落に帰って行く。」
イラクの場合は、アメリカのイラク攻撃と戦後の再建ということになる。
日本なら、アメリカ占領軍によるソーシアル・エンジニアリングが完了して、ということになる。

ここで再び新聞記事を引用する。
【引用開始、『朝日新聞』2002.10.23 朝刊】
国内のイラク人が呼応する保証はないが、「民衆は、抑圧から解放されることを望んでいる」(フライシャー大統領報道官)。
【引用終わり、『朝日新聞』2002.10.23 朝刊】

よしかわ邦弘です。
「解放されることを望んでいる」民衆とは誰のことか。
イラクの場合、アメリカの思惑とおりサダム=フセインが排除されるとなると、「解放される」民衆の代表とは、フセインに反旗を翻した反政府組織で構成した新政府になるであろう。
 これを戦前の日本の場合にあてはめてみる。「解放される」民衆の代表とは誰のことか? イラクの場合の類推で考えると、これまでの戦前の日本政府に目のかたきにされていた政治犯・反政府系の政治団体ということになろう。それが日本共産党や日本社会党を作った人脈である。これが、日本共産党・日本社会党をSCAPが支援した理由であろう。

 さらには民衆の中には、自分たちが解放されたことを喜ぶ人たちもいるであろう。それが、敗戦直後の日本では、それが日本的左派とでも呼ばれる人たちである。ソーシアル・エンジニアリングを喜ぶ階層である。

 映画「インディー・ジョーンズ」の筋書きでもって、マッカーサーのしたかったこと、日本的左派がSCAPに支持された理由、等がわたしには、よく見えてきた。
アメリカ映画はすばらしい。 ただし、その裏側にある恐ろしさを、ほとんどの日本人はいまだにわかっていないと私は思う。

最後に、参考として、フセイン政権崩壊後の、イラク暫定政府の状況についての新聞記事を引用する。
【引用開始、共同通信2003年9月1日記事】
 (バグダッド1日共同)イラクの暫定政府には、多数派のイスラム教シーア派組織から共産党、クルド人組織まで、イラク国内の主義主張の違うさまざまな宗教組織や民族組織、政党から入閣し、新生イラクの基礎固めを目指すことになった。
 このため「寄り合い所帯」の感は否めず、反フセイン体制では一致していた各派が戦後復興や治安の回復という難題を意思統一を図りながら解決できるかどうか存在意義が問われることになる。
 米軍主導の下で発足した統治評議会は当初、八月上旬にも暫定閣僚を任命する予定だったが、閣僚ポストをめぐる調整が難航。米軍という“重し”により、辛うじて維持される暫定内閣とも言え、今後、新政府の樹立に向けて各派の主導権争いの激化も予想されそうだ。
 シーア派イスラム教徒が閣僚の過半数を占めるが、シーア派内でも複数の団体が同協議会に参加し、一枚岩ではない。このため、旧政権下で弾圧を受けてきたシーア派教徒が新政府樹立に向け、政治的主導権を握るかどうかは予断を許さない。
 また、バグダッド大学の教職員、学生らを対象にした世論調査では、62%が統治評議会は国民の意思を反映しておらず、79%が同評議会には独立性がないと回答した。
 暫定内閣についても「国民の代表」というより「米軍の傀儡(かいらい)」との印象を持たれる可能性が強く、今後どこまで国民の支持を得るか不透明だ。
(了) 09/01
【引用終わり、共同通信2003年9月1日記事】

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)