佐藤優:ウクライナ人とロシア人の関係史の構造的変化

会員 投稿日:2022/03/01 03:34

ウクライナ人とロシア人の関係史の構造的変化
佐藤優・作家・元外務省主任分析官
2021年12月30日
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20211227/pol/00m/010/016000c

(転載始め)
 ロシアとウクライナの関係が緊張している。ウクライナのゼレンスキー政権はポピュリズムを基調とする。現在、ウクライナ東部のルハンスク州(ロシア語ではルガンスク州)の約半分、ドネツク州の約3分の1は親露派武装勢力の実効支配下にある。

 ゼレンスキー大統領は、これら2州の実効支配を回復しようとしている。自国の領域の実効支配を回復することは当然のように思えるが、ウクライナ東部に関して、事態はそう単純ではない。

◆「帝国臣民」だったウクライナ東部の人々
 ウクライナ東部に住んでいる人々は、歴史的にロシア語を話し、ロシア正教を信じるロシア帝国臣民(近代的な国民ではなく、皇帝に忠誠を誓う人々)と考えられていた。

 1917年11月にロシアで社会主義革命が起きると、同時にウクライナ人民共和国の成立が宣言された。当時は第1次世界大戦中で、ウクライナ人民共和国はドイツと連携し、ソビエト・ロシアと戦った。18年3月にブレスト・リトフスク条約が成立し、ドイツ、ウクライナなどとロシア(ソビエト政権)の間に和平が成立し、ロシアは戦争から離脱した。このときのウクライナとロシアの国境線が基本的に現在の両国を隔てることになった。しかし、18年末にはソビエト政権が西部を除くウクライナのほぼ全域を実効支配する。そして22年にソ連邦が結成されたとき、ウクライナもソ連に加盟したが、国境線に変更はなかった。

◆ソ連のプロパガンダ
 ソ連時代には、「形式的には民族的、内容的には社会主義的」というスローガンでソビエト国民を形成する運動が本格的に展開された。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツはウクライナ・ナショナリズムを利用するとともにそれがドイツに都合がよくなくなると弾圧するという首尾一貫しない政策をとった。

 対して、スターリンは第2次世界大戦を大祖国戦争と名付け、ロシア人、ウクライナ人など民族の差異にかかわらず祖国を防衛する戦争だというプロパガンダ(宣伝)を展開し、それが奏効した。ソ連赤軍は旧来、ロシア帝国やソ連の版図になかったウクライナ西部のガリツィア地方を編入した。さらに戦前はチェコスロバキア領であったザカルパチア地方を共産化する前のチェコスロバキア政府に割譲させた(その結果、ソ連はハンガリーと国境を接するようになった。56年のハンガリー動乱ではこの国境線を越えてソ連軍がハンガリーに侵攻した)

◆「ソビエト人」の誕生
 ソ連のウクライナ政策は文化的自治を強化する方向とロシア化する方向で若干のジグザグがあったが、政治的にウクライナ人はソ連制度に組み込まれていった。政治、経済エリートの階梯(かいてい)を上る際にロシア人かウクライナ人かベラルーシ人かという差異は考慮されなかった。これら民族出身のエリートは自らをソビエト人と考えるようになった。

 一方、ガリツィア地方では反ソ武装闘争が50年代半ばまで続いた。また、ソ連支配を望まないガリツィア地方のウクライナ人たちは亡命し、その多くがカナダに移住するようになった。現在もカナダのエドモントン市周辺には数十万人のウクライナ人が住み、ウクライナ語を常用している。カナダで最も多く話されているのが英語、2番目がフランス語で3番目がウクライナ語である。カナダにとってウクライナ問題は国内問題でもある。

◆ウクライナ人のアイデンティティー
 54年にフルシチョフ・ソ連共産党第1書記は、それまでロシアに帰属していたクリミア半島をウクライナに移管した。当時は国内国境の移動だったので、これが後に深刻な問題を引き起こすことをフルシチョフは全く想定していなかった。

 80年代後半にゴルバチョフのペレストロイカ政策によって外国人のソ連訪問が緩和された。従来厳しく制限されていたガリツィア地方への外国人の旅行が可能になり、カナダのウクライナ系の人々がウクライナの民族主義者に資金援助を行うようになった。

 91年12月の独立国家共同体の創設とソ連崩壊によってウクライナが独立することになった。国境線はソ連時代の国内国境がそのまま国際国境になった。ウクライナ政府は公教育を通じてウクライナ語の普及を行うとともにソ連時代とは異なるウクライナ史を教えるようになった。その結果、ソ連時代はほとんどロシア語を話していた首都キイウ(ロシア語ではキエフ)の人々もウクライナ語を話し、ウクライナ人というアイデンティティーを持つようになった。

 ただしハリキウ(ロシア語ではハリコフ)、ルハンスク、ドネツクの東部3州に居住する人々はロシア語を話し、ロシア正教を信じ、経済的にもロシアとの結びつきが強く維持されていた。民族的には、ロシア人とウクライナ人の複合アイデンティティーを持つようになった。別の見方をするとソビエト人のアイデンティティーが残っていたので、自らがどの民族に帰属するかを突き詰めて考えることがなかった。

◆選択を迫られたウクライナ危機
 事態が大きく変化したのが2014年のウクライナ危機である。ヤヌコビッチ政権がマイダン革命で倒れた後、同年2月にヤツェニュク政権が成立した。ヤツェニュク政権は従来、ウクライナ語とロシア語の2カ国語政策を改めウクライナ語のみを公用語化する政策をとると宣言した。

 このような政策が取られた場合、ウクライナ語で書類を作成することのできない公務員は失職する可能性があった。また国営企業の幹部職員もウクライナ語が堪能でなければ職を追われるリスクがでてきた。この危険にロシア語を常用する人々が圧倒的多数を占めるハリキウ州、ルハンスク州、ドネツク州、クリミアなどでは市庁舎占拠などの反乱が起きた。

 ヤツェニュク政権は、ウクライナ語公用語政策を撤回したが、政府に対する東部地域やクリミアの住民の不信感は収まらなかった。クリミアにはロシア軍が介入し、ルハンスク州とドネツク州では親露派武装勢力が一部地域を実効支配するようになった。この過程でウクライナ東部に住む人々は自らのアイデンティティーがウクライナ人かロシア人か選択することを迫られた。ロシア人を選択した人々は親露派武装勢力が実効支配する地域に移動し、ウクライナ人と考える人々はこの地域から逃げ出した。

◆民族意識の分化が起きた
 現在、ルハンスク州、ドネツク州の親露派武装勢力が支配する地域に住む人々はウクライナとの再統合を望まず、ロシアに併合されることを欲している。ロシアでは14歳以上の国民に国内パスポートを発給する。親露派武装勢力が実効支配する地域では既に60万人以上がロシアの国内パスポートを受領している。

 このような状況でゼレンスキー大統領がこれら2州の実効支配を力で回復しようとすると数十万人のロシア人が武器を取って抵抗する。ロシアのプーチン大統領としても同胞を見殺しにすると権力基盤が揺らぐ。従って、ゼレンスキー大統領がルハンスク州とドネツク州の現状を維持する方針を明確にしない限り、緊張は続く。

 最大の問題は、ウクライナ東部でウクライナ人とロシア人の民族意識の分化が決定的になったことだ。今回の危機を回避したとしても、ウクライナとロシアの民族的対立は今後も続くことになる。それはウクライナ人とロシア人の数百年の関係史で初めて起きた構造的変化だ。

(転載終わり)