アメリカの標的
会員番号4655の佐藤裕一です。
本日は2010年11月26日(金)です。今回も基本、「です・ます」口調の文体でいきます。
それにしても本当にここ最近、耳障りな情報が続々と耳に入ってきますね。
会員用ぼやきにおいて先生が「1175」「米中激突の前哨戦となった尖閣衝突事件。なぜ中国は強硬姿勢を示さざるをえないのか。副島隆彦 2010年11月25日」を掲載なさっています。更には重掲に[133]「北朝鮮・韓国砲撃合戦 への ブレジンスキーの自署記事(戦略論文)を載せます。これが最高度での現状への理解です。」が投稿され、どちらも拝読致しました。
今度の講演会の話題にも、極東情勢についての話題が占める割合に影響が出るでしょうけれども、聴講する会員には予め、ある程度の理解をしていてほしいのでしょう。
それにしても極めて不愉快な事態について、私も普段から巡回している各サイトの見解を閲覧してまわっていますが、巡回サイト以外のたまに見に行くサイトにおいても、とても面白い見方があるなぁと感じるところです。
例えばデヴィ夫人のアメブロ、2010年11月24日投稿文章、「冷静に考えよう! 北朝鮮が韓国の島に砲撃!」です。
デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba
http://ameblo.jp/dewisukarno/
遡ること2日前の時点での文章なので、民間人(軍属なのか? 純然たる一般人なのか?)が死亡していないという情報は古いですが、今回の事件を考える際に、領土係争と主張の問題をもってきた視点は面白いですね。
私はデヴィ夫人の政治思想的立ち位置も大体分かりますし、インドネシアと北朝鮮の友好関係も考えれば、夫人の見解が北朝鮮寄りになるのは自然なのでしょう。私は夫人ほどには北朝鮮の肩を持ちません。
大きくはいつもの謀略に引っ掛けられ、命令されているのであろうということは分かりますが、それでも北が唾棄すべき独裁犯罪国家であることにかわりはありません。米中露(ソ)の地政(地勢)学の国家・軍事戦略に乗っかり続ける金王朝支配のために、無理矢理に失敗国家を存続させられているという人民の犠牲については、同情の余地があるでしょう。
旧冷戦が終わった現在、さっさと韓半島の民族分裂状態を解消して、民主政体の国家統一を樹立させる以外に、根本的解決などないのです。その実現困難な大問題に比べれば、南北間の38度線付近の領土領海問題などは些事、瑣末です。統一したら解消されるのですから。
それにしても、内政においても不快な報道に事欠かないですね、名古屋リコール不成立の件。まったくもって腹立たしいを通り越す。
「これがなぜ無効」異議5百件…名古屋リコール 政治 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20101126-OYT1T00197.htm
河村名古屋市長:来月辞職、再出馬へ…リコールの責任取る
http://mainichi.jp/select/seiji/news/m20101126k0000e010005000c.html
時事ドットコム:リコール要件、緩和方針=自治法改正案を提出へ-総務省
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010112500820
選管の小ざかしい木っ端役人どもめが、と罵りたいところだが、選挙管理委員には元市議のOBが天下りしているとのことです。
名古屋市議会リコール驚愕の展開! 署名再審査を決めた市選管の気になる政治的中立性|相川俊英の地方自治“腰砕け”通信記|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/9891?page=2
しかしちょっと待ってほしいのですが、「天下り」っていうのは官僚がする悪弊を指すのじゃないの、ということです。それを、元市議会議員が天下っているという。市議というのは地方公共団(自治体)のれっきとした政治家ですよ。都道府県議会や市区町村議会の選挙を経て当選しているのですから。
それが「天下り」という表現をされるとは一体どういうことなのかというと、つまり日本の現状において、地方自治体の議員というのは役人と性質が似たようなもの、役人の延長線上に議員も含まれている、そのような感覚・認知をされている。市議会議員というのは、ちょっとした偉い役人と同じような分類をされている、内外から。実情としては、そういうことです。
だから元地方公務員として役人出身の「役人政治家」以外の市議達も、みんな「役人的政治家」であって馴れ合いばかりやってきたから既得権益に浸りきっていて、あさましい守旧派根性丸出しであり、何の気概もありゃしないのです。本当の改革派首長なんて厄介な目の上のたんこぶであり目障りでしかなかったわけですね。こんな連中には減税の大切さなんて微塵も理解出来ないことミジンコのごとし。
そういえば地方自治で思い出したのですが、ちょっと前に故・小室直樹先生の『アメリカの標的―日本はレーガンに狙われている』(小室直樹著、講談社刊、一九八一年十一月三十日 第一刷発行、一九八一年十二月二十七日 第二刷発行)という古い本を読みました。
某新古書店最大手で見つけたから買ったのです。アマゾンでは画像掲載がありませんが、レーガンと鈴木善幸(最近まで、てっきり田中角栄だと勘違い)が融合している、なんとも気色の悪いイラストが表紙の本です。「●●蔵書」っていう印が押されていたので、どっかの図書館から流れたんだと思います。
Amazon.co.jp: アメリカの標的―日本はレーガンに狙われている 小室 直樹 本
http://www.amazon.co.jp/アメリカの標的―日本はレーガンに狙われている-小室-直樹/dp/4061292706
副題からも分かるように、当時の時事的な国際情勢の中で書かれているものなので、今となると内容も古びています。学問道場ほか、ネット検索をかけてみましたが、大きく取り上げて話題にされている文章は見当たりませんでした。
確かに既に発表された論文を基に基本構成がなされており、それほどたいした本ではありません。ただし、あくまで「小室先生著作群の中の1つにしてみれば」という枕詞を冠することを忘れず、それを前提にしての評価です。もしその他の凡庸な学者や評論家がこの本を書いたのだと仮定すれば、一気にその人の生涯の主著になってしまうことでしょう。
『アメリカの標的』は一九八一年出版ですから、私が生まれる前に書かれています。なので時代はソ連崩壊前、即ちバブル崩壊前です。戦後日本の高度成長経済が絶頂期を迎えています。そんな当時の日本の順境下にあって、既に小室先生は米ソ挟撃による日本攻撃の可能性ありと警告を発していらっしゃった。日本の政治家と官僚は、小室先生の鋭い洞察力を全然活用しなかった。
ソ連によるアフガン侵攻の恐怖が喧伝される最中にあって、自由主義陣営の旗手、アメリカ合衆国を一番に警戒していたのです。米ソ冷戦下の日本の僥倖なんかは、そんなにいつまでも続かないことを見抜いていた。副島先生も仰せですが、戦争では挟み撃ちに遭うのがこわい。
『アメリカの標的』の「むすび」から引用致します。ルビは省きます。段落で改行します。
(佐藤裕一による引用始め)
「現在の日本は錯覚のうえに成り立っている。……アメリカとソ連はお互いに敵、アメリカは日本の味方でソ連は敵だという、三十六年一日のごとき虚妄の前提のうえにすべてがうちたてられている」
(中略)
もちろん、日本にも再軍備を要求してくる。「平和憲法」をタテにして断っても、アメリカには、ちゃんとその次の手を打つ。自分で軍備をするのが嫌なら、他の「同盟国」に経済援助をしろ、と、この要請は断れない。それに経済援助ともなると、野党も反戦的文化人もあまり金切声をあげないし、憲法問題も起きてこないので、抵抗の力は弱いのである。
(中略)
アメリカの要求を断ることができないということは、本質的にはアメリカの属国であるということではある。しかし、パクス・アメリカーナから放逐されたら、もはや日本の生きる道はない。
その当のアメリカが、日本は、「属国」視するにはあまりにも強大になりすぎた、と脅威を感じたらどうだろう。アメリカが弱くなり、ソ連もさらにそれ以上弱くなって、お互いに同病相あわれんでいるとき、日本の経済のみが隆々と栄えたならば、米ソが、日本殺しの第二ヤルタ会談を開かないという保証がどこにあろう。
かかる米ソの結託を防ぐことこそ、日本国策の最大の課題でなければならない。
(佐藤裕一による引用終わり)『アメリカの標的―日本はレーガンに狙われている』(小室直樹著、講談社刊、一九八一年十一月三十日 第一刷発行、一九八一年十二月二十七日 第二刷発行、277、282、283から引用)
その後の経緯はご存知の通りで、実際には武力による米ソ(露)の日本挟撃は実施するまでもなく、金融波状攻撃・大蔵落城・バブル崩壊と景気低迷・米国債漬けによって、アメリカにとっての潜在的「敵国」から、元通りの普通の「属国」状態に戻りました。違うのは湾岸戦争後、日本の自衛隊も戦場に駆り出されるようになり、隷属状態がより一層深まったということでしょう。
さて、小室先生の慧眼、先見の明はいつものことなので、私としても殊更にこの本を推挙するわけではありませんし、最近読んだ本なので思い入れもありませんが、地方自治と議会についての小室先生の文章が印象に残っていましたので当該箇所を『アメリカの標的』から引用します。段落で改行します。
(佐藤裕一による引用始め)
クライマックスは、一九六〇年六月十五日の国会乱入事件であった。西欧デモクラシーの感覚からすれば、国会議事堂が暴徒に占領されるなど、ありうべからざることである。こうなるともう、革命以外の何ものでもありえない。
(中略)
アメリカ人的感覚からすれば、議事堂とはまさに聖域だ。この感覚が、戦後の日本人に、どうしても通じなかった。議事堂といえば、日本には国会議事堂ひとつしかない。それも戦前に作られたものだ。戦後、帝国議会の議事堂では不都合だから、作り直そうとする動きすらなかった。
アメリカなら、どの州にも堂々たる州会議事堂がある。それどころかちょっと名のとおった市の市会議事堂でも、日本の国会議事堂くらい立派で、市役所などとは、まずくらべものにならない。
戦後デモクラシーなどといっても、この点では日本人はいいかげんなものである。日本の県会はみな県庁に同居している。県会は知事のアクセサリーに過ぎないという感覚が、戦後三十六年たっても、当たり前なこととして定着し切っているのだ。だから日本国中をさがしても、地方議会の議事堂なんか、ただの一つもない。そんなものを作ろうとする住民の運動さえない。また、このことの不思議さに気づいている者もいないというありさまだ。
●国会乱入は革命の第一歩
こう考えてくると、日本に国会議事堂が、もし戦前にでき上がっていなかったら、果たして現在存在したかどうか、はなはだあやしいものだといわねばなるまい。
こんなありさまだから、国民のなかに国会議事堂はどんな犠牲を払っても守らなければならないものであるという意識が生じてこないのだ。
しかし、アメリカ人はこれを重視した。
野党の指導者の先導で、暴徒が国会に乱入したというのであれば、アメリカ人はこれこそまさに革命だと思うのである。しかも、それはアメリカに限ったことではない。フランスにおけるナポレオンのクーデターにせよ、ヒットラー政権の全権委任法の成立にせよ、すべて暴力による国会制圧を前提にして行われた。国会を制圧してしまえば、何でも好きなことができる。これこそ、近代国家におけるクーデターの定石である。
だから、政治権力側としては、議会に暴徒が乱入する時に、景観や軍隊が発砲しなかったら、政権はそれで一巻の終わりだと考える。もはや、いかんとも手のほどこしようはないと思う。
これが欧米諸国の常識、いや、常識以前の問題ですらある。
だから、国会乱入のニュースを聞いて、アメリカ国民は、日本は反米革命前夜にあると思いこんでしまったのである。
(佐藤裕一による引用終わり)『アメリカの標的―日本はレーガンに狙われている』(小室直樹著、講談社刊、一九八一年十一月三十日 第一刷発行、一九八一年十二月二十七日 第二刷発行、194~196頁から引用)
日本の都道府県及び市区町村の議会に、庁舎と同居せずに別個に建設されている議事堂というものがどのぐらいの割合であるのか私は寡聞にして知りませんが、小室先生がおっしゃりたいのは近代デモクラシーにおける議会というものの大切さ、そして日本人のおそるべき認識欠如の指摘です。
文中に「県会は知事のアクセサリーに過ぎないという感覚」とありますが、これはもっというと「県職員(役人)の延長線上にあるオマケに過ぎないという感覚」の方が実態に合っているでしょう。さらに「知事、市区町村長などの首長は役人にとって、ただのお飾りであり、交代するまで適当にあしらえばいいお客さんに過ぎない」といった方が近い。