アジア政治経済掲示板から転載貼り付け

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/09/23 09:31

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 学問道場の隠れ掲示板群はどうやら復活しそうにないので、アジア政治経済掲示板も諦めてそのうち消える前に、私の文章を投稿順にまとめてこちらに移して保存しておきます。

 アジア政治経済掲示板から転載貼り付け致します。

 【佐藤裕一による転載貼り付け始め】

[1431] 「アジア政治経済掲示板」の再出発 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/08(Thu) 07:00:02

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 この「アジア政治経済掲示板」の管理人さんは、現在でも[1]を書いた岐丸さんというかたなのでしょうか。単純にワード検索をかけると、2003年11月あたりが岐丸さんの最後の投稿のようですが、もしくはハンドルネームを変更されているのでしょうか。現在の管理状態は、どなたがどのようにされているのでしょうか?

 掲示板への書き込みが[1430]の2008年8月23日からストップしているのは、学問道場サイトトップの表面に、掲示板入り口が表示されていないからでしょう。詳しい経緯は存じ上げないのですが、レイアウトの改変や一部掲示板の削除などがあった際に、表示されなくなったのでしょうか。

 今はサイト上部のプルダウン選択項目からわざわざ入ってこなければなりません。非常に億劫な作業で、しかも今は基本的に会員しか投稿出来ませんから、これで過疎化しなければ嘘です。学問道場には既に死んだ掲示板や幽霊掲示板が結構あります。

「読者からの個人メールの転載掲示板」の[495]でも書きましたが、他にもトップに入り口が表示されない、主要掲示板に含まれない各掲示板があります。トップの掲示板一覧下の空白部分にはまだまだ余裕があり、全部表示しても余りそうです。入り口を少し増やして表示したところで容量を大量に消費するとも思えません。今からでも一旦全ての掲示板を表示した方がいいのではないでしょうか。

 それらの中には確かに理解に苦しむ内容の掲示板があります。過去ログだけ保存して、後は閉鎖して整理処分した方がいいような掲示板がありますが、放棄していなければ管理者の判断次第でしょう。

 もしくはシステムを担当している人が直接作業を行うのでしょうか。半ば形式上は管理者であっても、実質上放置している場合もあるでしょう。もしくは始めから管理者が会員ではなかったか、管理権限の引継ぎを行わないまま会員としては退会してしまい、管理者不在になっている可能性も考えられます。

 他にも、主題が他と重複していて書き込みが分散してしまっている掲示板、主に文献情報を保存するための掲示板、そして設置当初の意義が薄れてきてしまった掲示板など、頻繁に投稿・閲覧する性質が低い掲示板もあります。

 ところが逆に設置当初と比較すると、むしろその意義が大きくなってきたように見える掲示板もあります。今、アジアがどんどん重要になってきて、世界政治と世界経済の中心に近付いてきています。この「アジア政治経済掲示板」は存在意義があるのではないでしょうか。あるいは、アジアの政治と経済は単発で掲示板を立てる程の論題ではない、という考えもあるでしょうけれども。

 私はサイトトップの主要掲示板一覧に「アジア政治経済掲示板」を加える事を希望します。掲示板の管理人さん、いかがでしょうか。

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[1432] 大トルキスタン国家 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/09(Fri) 00:03:28

 会員番号4655の佐藤裕一です。
 2002年当時の当掲示板にあった投稿記事が目に留まりましたので転載・再掲載します。もう7年経過しているのに、カザフスタンのナザルバエフ大統領もウズベキスタンのカリモフ大統領も、いまだに現職です。

 大トルキスタン構想は、イスラム教の宗教的連帯というよりも、トルコ系の人種的連帯という視野から見た国家統合、国家建設構想のようです。ただ中央アジア地域諸国に限るとは思います。対外政治的な、外交上の一種の牽制で、アメリカやロシアなど上から政治的に干渉してくる諸勢力に対して、理念・理想を表明しておくという事だったんだとは思います。

 これから中央アジア諸国が統合されて、大トルキスタン国家が誕生する可能性はあるのでしょうか。まだ近代国家制度が出来てからですらそんなに経っていないし、中央アジア諸国は旧ソ連から独立してからも20年も経過していません。彼等の国家意識は固まっているのでしょうか。

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

[609] 大トルキスタン構想 投稿者:Rss-K 投稿日:2002/09/13(Fri) 17:52:53

このニュースは、個人的には、けっこう重要かも
と思いましたが、国内の主要紙では見かけなかったなぁ…
(貼り付け開始)

http://www.worldtimes.co.jp/w/rosia/news/020910-064704.html

大トルキスタン構想が浮上、現実化に
カザフスタン大統領、ウズベキスタンとの将来の統合を表明

 【モスクワ9日大川佳宏】カザフスタンからの報道によると、同国のナザルバエフ大統領は九日までに、「カザフスタンとウズベキスタンは将来的に統合する必要がある」と述べ、両国統合に向けた意向を表明した。首都アスタナで行われたカザフスタン、ウズベキスタン両首脳の共同記者会見で明らかにしたもの。

 ナザルバエフ大統領は「われわれは両国の友好だけでなく、両国民の将来を考えなければならない」と統合の必要性を強調。一方、ウズベキスタンのカリモフ大統領は「これは専門家による慎重な協議の結果であり、両国は歴史的な合意に達するだろう」と述べている。

 タジキスタンを除くカザフスタン、ウズベキスタンなど中央アジアの国々はトルコ系民族が主体であり、民族作家や一部文化人などの間で、これら国々を統合する大トルキスタン国家建設が唱えられている。

(貼り付け終了)

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 ウズベキスタン国内の西部には「カラカルパクスタン共和国」という自治共和国があるそうです。身の回りで話題に上ったのを聞いた事がありません。中央アジアは、まだまだ日本人には馴染みも薄いし興味関心も低い地域なのでしょう。

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[1433] アジアから世界の平和に貢献するカザフスタン共和国 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/09(Fri) 17:00:03

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 カザフスタンは世界で9番目に大きい国らしいです。それでは阿修羅掲示板から転載します。

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

アジアから世界の平和に貢献するカザフスタン共和国

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/408.html

投稿者 ワヤクチャ 日時 2009 年 8 月 25 日 21:27:09: YdRawkln5F9XQ

http://www.yomiuri.co.jp/adv/kazakhstan2/

議長のコメント

文明間の対話・時間の論理

わが国は独立以来、宗教人と宗教全体に対する姿勢を根本的に変更し、「信仰と宗教団体の自由に関する」法律を旧ソ連諸国で最初に採択しました。40宗派に属する130民族集団の代表がカザフスタンで平和的に共存しています。この点で、アスタナが多様な宗派指導者たちの対話のための会合場所と開催指定地になったことは偶然ではないのです。

カザフスタンで世界伝統宗教の指導者たちの会議を主催するというヌルスルタン・ナザルバエフ大統領の構想は、世界中の地域社会から広く支持されました。このフォーラムの目的は、世界伝統宗教の普遍的指導原理を探求すると共に、多様な信仰と文明間の対話の促進のために定期的に活動する国際的宗派間機関を確立することです。

「宗教の対話から文明の和解まで」と題する第1回会議が2003年9月にアスタナで開催されました。イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンズー教、道教およびその他宗派を代表する17宗教団体がフォーラムに参加しました。参加者の善意とフォーラムの人道的考え方には世界中から賞賛が集まりました。

その3年後、第2回サミットがカザフスタン首都に特別に建設された平和と協調の宮殿で開催されました。この重要な宗派間フォーラムには、欧州、アジア、中近東、アフリカから29宗教代表団が集いました。
神社本庁統理久邇宮邦彦王が率いる日本代表団も会議に出席しました。国家、国際団体、宗教指導者からの挨拶に加え、全日本仏教会理事長安原晃師からのメッセージも受け取りました。

第2回会議の議題は、宗教間のパートナーシップの育成に重点が置かれました。フォーラムへの挨拶で、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は、近代文明の価値を守り向上させるパートナーシップ強化の必要を力説しました。

大統領は、ほとんどすべての大陸で時折生じる複雑な争いは、政治や武力による手段だけでは解決できないことを強調しました。この点、大統領は、近代世界の異宗教間対話に関する原理の概要を示し、これは会議で採択された共同公式文書「宗教間対話の原理」に盛り込まれました。

それらは総じて、相互理解の原理と位置付けることができます。すなわち、対話は、誠実、忍耐、謙遜、相互尊重に基づくべきであり、その最も重要な原理は、他者の神聖な分野へ侵入することを意識的に放棄することです。

ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は、「イランの聖職者とイスラエルのラビ(師)、インドとパキスタンの精神的指導者、その他宗教界の大物の代表たちが1つの交渉テーブルに就き、その会議で起きた精神世界の指導者たちの対話が、際限ない争いに巻き込まれたすべての人たちの間で開催されるなら、相互理解と和睦は間もなく達成されるでしょう」と語りました。

第2回会議において、「対立のイデオロギー」を「平和の文化」に代えるという世界のニーズを反映した共同宣言が採択されました。宗教界の指導者たちは、文明の不可避な衝突という神話を克服し、宗教間のパートナーシップを強化して、近代世界に異宗派間対話の共通原理を適用すべきであることを全員一致で認めました。
アスタナの精神的指導者会議は、多様な宗派代表者が建設的な努力を結集する試み全てが、宗教の相互理解と協力に向けた一歩であり、世界の緊張克服に大いに役立つとことを理解し、知る一助となりました。

日本代表団の一員である薗田稔がこうした考え方を支持し、大いに賞賛したことを知り嬉しく思っています。彼は、アスタナで始まった宗派間対話をあらゆる国で継続すべきであると強調しました。

カザフスタンがすでに2回の宗教指導者会議を主催したことは、注目に値します。それは、広く複雑な地政学的地域において、忍耐と協調の見本となる国が平和と安定の確保に決定的要因となることの強力な証拠です。これに関し、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は、国連での演説で、この重要な組織の主催による世界伝統宗教指導者の第3回会議を開催するよう提案しました。

2010年を文明和解の国際年と宣言するカザフスタンの新イニシアティブは、2008年1月にマドリッドで国連が主催した第1回文明間同盟フォーラムで賞賛されました。昨年11月、国連総会で国連組織の参加と技術的支援による第3回会議を開催する決議が採択されましたが、これは国際紛争を解決し、グローバルな脅威に対処し、外国人嫌いと不寛容を克服する世界の宗教の精神力活用に向けたさらなる一歩でした。

7月初め、世界の宗教指導者たちは、カザフスタンの首都で第3回会議を開催し、忍耐、相互尊重および協力の世界を構築する問題について議論します。日本側がアスタナでこの重要なサミットを開催するイニシアティブを支持してくれたことを感謝しています。
カザフスタンと日本は、あらゆる形とマニフェストで民族宗教的過激主義も受け入れず、かつ阻止していますが、これは私たち両国民の日常生活の規範となっていることは言及に値します。たとえば、異民族間と異宗派間の協調に関するカザフスタン社会の原理は、相手側宗教の信条を排除しない忍耐を説く、仏教と神道という2つの宗教を共存する日本のユニークな経験と一致します。

日本代表団の一員である薗田稔がこうした考え方を支持し、大いに賞賛したことを知り嬉しく思っています。彼は、アスタナで始まった宗派間対話をあらゆる国で継続すべきであると強調しました。

ユーラシアの中心と大陸中央部に位置し世界で9番目に大きな国であるカザフスタンは、アジアとヨーロッパをつなぐ懸け橋です。このことが、わが外交を形作り、バランスのとれた政策アプローチを選択する決定的要因となっていました。

それが、独立早々にわが国が平和外交の原理遵守を宣言し、国の安全保障を確保する問題と、宗教と世界の双方における相互信頼と協力の環境を作り出す問題とを結びつけてきた理由です。

わが国は、国際社会の責任ある一員であることを証明しました。つまり、カザフスタンは、自主的に世界で4番目に大きな核兵器工場を放棄し、世界最大のセミパラチンスク核実験場を閉鎖しました。こうした前例のない運動は、国際安全保障の向上に貢献し、一般国際社会とりわけ日本から賞賛されました。

カザフスタンは、欧州、北米、中央アジアの56カ国からなる欧州安全保障・協力機構(OSCE)の今後の議長職を、多極化した世界において安全保障構造モデルを求める重要な一歩であると見ています。欧州安全保障とカザフスタンを欧州機構に段階的に統合する機会の実現を支持するため、文明化された東西の一部である「欧州に向う道」プログラムが策定されました。

わが国は、偉大なシルクロードを回復するこの途上にある分裂路線を排除するため、一致協力し努力してきました。
カザフスタンと日本は強い関係で結ばれており、その特徴として、相互尊重および友好、パートナーシップ、協力に対する情熱があります。

カザフスタンの統合プロジェクトと核不拡散条約加盟ならびにアジアで交流・信頼創出対策会議を開催する私たちのイニシアティブを支持する日本の積極的姿勢は、両国が同様のアプローチを持つことを証明しました。さらに、日本は、カザフスタンが国連安全保障理事会の非常任国として日本選出を後押しした事実を歓迎しました。

カザフスタンと日本の緊密な協力を促進する日本のユーラシア外交の論理的継続は、核兵器不拡散、民主主義および安定化を通じ、地域における政治的対話と経済協力の進展、平和の推進を目的とするシルクロード外交でした。

2008年6月、ヌルスルタン・ナザルバエフ・カザフスタン大統領による日本公式訪問は、両国関係を著しく強化しました。訪問中に、軍縮進展に対する傑出した貢献、国際安全保障と平和、忍耐および国際的調和強化に関する世界的イニシアティブに対し、国家元首に日本の最高位の勲章、大勲位菊花章が贈られました。

日本国天皇には、両国間の友好と相互理解強化への貢献に対し、外国指導者に付与されるカザフスタン最高位の勲章、アルチン・キラン章が贈られました。

カザフスタンと日本の貿易と経済協力は増大してきました。カザフスタンの首都の基本計画は日本の著名な建築家、黒川紀章が設計し、またアスタナ国際空港は日本の援助で建設されました。

議会間の連携も強化されてきました。わが国の意向に十分沿う国会議員からなる推進会議である、カザフスタン・日本議会同盟は、10年以上活動してきました。
同時に、カザフスタン上院には日本との協力に関するグループがおり、下院であるマジヒリスが同グループを設置しました。

第3回世界伝統宗教指導者会議に招待された神社本庁と全日本仏教会の指導者、江田五月上院議長を迎えることを楽しみにしています。

カザフスタンと日本の緊密な協力を促進する日本のユーラシア外交の論理的継続は、核兵器不拡散、民主主義および安定化を通じ、地域における政治的対話と経済協力の進展、平和の推進を目的とするシルクロード外交でした。

きたるアスタナのフォーラムに向け周到な準備を行ってきました。世界伝統宗教の指導者と代表者、欧州、アメリカ、アジア、アフリカ、中近東からの名誉あるご来賓が活動に参加します。成熟した対話の促進と、フォーラムで採択される勧告の策定を手伝う参加者の中に著名な政治家たちもおりますから、きたる会議はこれまでとは異なるものになるでしょう。

フォーラムに先立つ会議事務局の会合では参加者からのすべての提案を検討し、会議では、忍耐、相互尊重、協力の世界を構築する宗教指導者の役割に関する問題を議論することに決定しました。部会の名称は「道徳と精神的価値、世界倫理」、「対話と協力」、「特に危機の時代における連帯」です。

こうして、カザフスタンの首都は、国際的議題の最も切迫した課題に関する世界宗派代表者の対話のための、伝統的開催指定地になりつつあります。きたるフォーラムは、忍耐、相互理解、対話と協力の原理を強化する国際社会の努力にもちろん貢献し、地球の平和と協調を推進する着実な一歩となるでしょう。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

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[1434] マハティールと東アジア経済共同体 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/09(Fri) 18:15:47

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 東アジア経済共同体について実質上の元祖提唱者である、マレーシアのマハティール元首相が当然支持しています。オーストラリア、ニュージーランドの除外は実にマハティール氏らしいですね。

 共同通信の記事を転載します。

(転載貼り付け始め)

2009/10/08 – 9:31

東アジア経済共同体の実現に期待

 【クアラルンプール共同】マレーシアのマハティール元首相は7日、共同通信のインタビューに応じ、東アジア共同体構想を掲げる鳩山由紀夫首相の下で日本外交が「米国の支配」を脱し、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国による「東アジア経済共同体」の実現に指導力を発揮するよう期待を表明した。同氏は鳩山首相がアジア重視や対等な日米関係を掲げていることを「支持する」と言明した。

共同通信社

http://www.swissinfo.ch/jpn/news/international/detail.html?siteSect=143&sid=11323319&ty=ti&positionT=2

(転載貼り付け終わり)

 次に東京新聞の記事を転載します。

(転載貼り付け始め)

日本の米支配脱却に期待 マレーシア元首相

2009年10月8日 17時00分

 インタビューに答えるマレーシアのマハティール元首相=7日、クアラルンプール近郊(共同)

 【クアラルンプール共同】マレーシアのマハティール元首相(83)は7日、クアラルンプール近郊で共同通信のインタビューに応じ、東アジア共同体構想を掲げる鳩山由紀夫首相の下で日本外交が「米国の支配」を脱し、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日本、中国、韓国による「東アジア経済共同体」の実現に指導力を発揮するよう期待を表明した。

 政治、経済など幅広い分野で連携し、東アジアの共存と繁栄を目指す同構想は、マハティール氏が1990年代初めに提唱した「東アジア経済会議(EAEC)」が原型。同氏は鳩山首相がアジア重視や対等な日米関係を掲げていることを「支持する」と言明し、「われわれは日本が米国に支配されているとの印象を持っていた」と述べた。

 東アジア共同体の枠組みについて、日本の前政権などは中国の影響力を薄めるため、ASEANプラス3(日中韓)にインド、オーストラリア、ニュージーランドを含めるよう主張。これに対し同氏は「オーストラリアとニュージーランドは除外するべきだ。欧州人の国で政策も欧州諸国と同じ。心はアジアにない。含めれば、米国主導のアジア太平洋経済協力会議(APEC)と同じになる」と強調した。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009100801000486.html

東京新聞

(転載貼り付け終わり)

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[1435] 核使用条件緩和 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/16(Fri) 05:50:15

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 地域紛争などの局地戦でも核兵器を使用したとなると、ロシアは原爆投下国としてアメリカと道義上同列になってしまうので、実際には使用しないと思いたいのですが。

 紛争地域といってもチェチェンなどで爆発させるのは、国内で使ったという事なので内戦という事になりますから自国民大量虐殺になります。独立を認めないという理屈からいえば、チェチェン人は自国民という事になるはずですから。いくらロシアが歴史的に虐殺と粛清慣れしているといっても、時代が違います。

 それにしてもこの時期に核による先制攻撃を国是とするとは皮肉としか思えませんね。アメリカも先制攻撃の方針を正式には撤回していないと思いますので対抗上そうなりますから、アメリカ政府には批判する資格がありませんから。

 Yahoo!ニュースから転載します。

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091014-00001110-yom-int

露が核使用条件緩和へ、地域紛争で先制攻撃も

10月14日22時49分配信 読売新聞

 【モスクワ=緒方賢一】ロシアのパトルシェフ安全保障会議書記は、14日付のイズベスチヤ紙に掲載されたインタビューで、年内にメドベージェフ大統領に提出する新軍事ドクトリンでは、核兵器による先制攻撃を行う条件として地域紛争への対応を新たに加える方針を明らかにした。

 核を使用する条件を緩和するもので、核廃絶を求める国際的な流れに逆行するとの批判を招くことになりそうだ。

 軍事ドクトリンは国防政策の基本文書。ロシアは現行ドクトリンで、自国や同盟国が核をはじめとする大量破壊兵器による攻撃を受けた場合と、通常兵器による大規模な侵略を受けた場合に核を使用できる、と明記している。

 地域紛争でも核兵器を使用する可能性を警告することで、ロシアは南オセチア問題で敵対するグルジアなどに対し、軍事的な圧力を高める狙いと見られる。

最終更新:10月14日22時49分

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

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[1436] 人文学の分類の中では歴史学が最も大切 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/25(Sun) 22:49:50

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 私が岡田英弘先生の事を知ったのは、副島隆彦先生の著作を通してでした。その名前をはじめて意識して目にしたのは、『属国日本論を超えて』(副島隆彦著、五月書房刊、二00二年九月一0日第二刷発行)の文章からです。思い出深いこの本が副島先生の著作とのはじめての出会いだったので、間違いありません。当時は岡田先生の本はもちろん1冊も読んだ事がありませんでしたので、優れた歴史学者であるという、それだけの情報しか知りませんでした。

 私はその後、副島先生の本を貪り読むようになりました。それから段々と他の人の本を読む際には、副島先生が高く評価する人物の本や、推薦なさっている本を読むようになりました。私は遅読なので、自分の人生時間の事もありますし、どうしてもそうなってしまいました。小林よしのり氏の漫画は読まなくなりました。

 副島先生の本を読むにつれ、先生のそのまた先生・師匠である数少ない人物の中で、小室直樹先生の著作はかなり大量に購入出来ましたので、手当たり次第読みました。故・片岡鉄哉先生の著作は目にとまる事が少なく、また吉本隆明先生の著作は当初から読む気になりませんでした。

 それで岡田先生の著作は読んでいるかというと、何とも中途半端でお恥ずかしいのですが、数えてみたら現時点でたったの計5冊でした。

1 『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(岡田英弘著、弓立社刊、一九九四年一0月三一日第一刷) 初版ですっ!! ……大きい声では言えませんが、某新古書店最大手で入手致しました。岡田先生、申し訳御座いません。そして手放した以前の持ち主よ、ありがとう。

2 『この厄介な国、中国』(岡田英弘著、ワック出版刊、2001年12月10日第2刷)(クレスト社刊『妻も敵なり』の改訂版)

3 『やはり奇妙な中国の常識』(岡田英弘著、ワック出版刊、2003年8月8日第3刷)(新書館刊『中国意外史』の改題・改訂版)

4 『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(岡田英弘著、ワック出版刊、2006年9月21日初版発行)(原書房刊『皇帝たちの中国』の改題・改訂版)

5 『日本人のための歴史学 こうして世界史は創られた!』(岡田英弘著、ワック出版刊、2007年5月24日初版発行)(弓立社刊『歴史の読み方』の改題・改訂版)

 以上です。岡田先生の全著作はリストアップしていますので、遅きに失した感は否めませんが、これからでも手に入れて読んでいきたいと思います。特に『世界史の誕生』(単行本と文庫版がある模様)という本が、題名からしてかなり気になっているところです。

 さて1の『日本史の誕生』なのですが。どうも何年か前の私は、最初に『日本史の誕生』を読んだ時に、そのもの凄さがピンと来なかったようです。おそらく岡田先生の記述の仕方がかなり学術的だった事もあると思いますが、私の頭脳の方が追いついていかないため、その壮大さに気付けず通過してしまい、よく全体を把握して理解出来なかったのだと思います。

『日本史の誕生』を読み返すのも課題なのですが、凄すぎる本というものは読み進め易いとは限らないわけです。そこで読み返すにしても、もっと手頃な本から徐々にの方がいいなぁと思いまして、今所有している中で探しました。2の『この厄介な国、中国』と3の『やはり奇妙な中国の常識』は岡田先生の中国本ですから、これはどうしても岡田先生の中国嫌いが前面に出てしまいます。

 4の『誰も知らなかった皇帝たちの中国』は中国本ですが、岡田先生の専門であるモンゴル史や満州との関わりがありますので、また読んでみようと思っています。そして5の『日本人のための歴史学』も中国の話がかなりを占めているようですが、読者向けに歴史学を説明しているようなので、1つの教科書としていいのかなと思っています。

 近年、副島先生は共著も含め歴史関係の著作と歴史漫画を世に出しています。最近になって歴史学が大切だとおっしゃっていたと思います。歴史学は人文学の1つの分野です。それでも人文学の代表である文学始め言語学、教育学、芸術学その他一般教養と比較してみると、歴史学はおおいに学ぶ価値を見出せます。個人にとっても全体にとっても、本当の歴史が認識されれば大変に有益であると思います。

 この学問道場には「岡田英弘歴史掲示板」がありますが、私はあの掲示板の表示方法がどうも苦手なので、この「アジア政治経済掲示板」に投稿したいと思います。

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[1437] 歴史とは言葉であり、決して、外界に存在する実体ではなく、何かの事件が起こったときに成立するものでもない。 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/26(Mon) 00:06:35

 会員番号4655の佐藤裕一です。

『日本人のための歴史学』で岡田先生は、最初の著者の言葉の欄から、いきなり「歴史とは何か」とぶっています。さすがです。

『日本人のための歴史学』から著者の言葉全文を引用します。

(引用始め)

 歴史とは言葉であり、決して、外界に存在する実体ではなく、何かの事件が起こったときに成立するものでもない。歴史を創るのは英雄でも人民でもなく、歴史家である。歴史家が文字を使って世界を記述したときに、歴史が創り出されるのである。その意味で、歴史は思想であり、文化の一種である。

 著者

(引用終わり)『日本人のための歴史学 こうして世界史は創られた!』(岡田英弘著、ワック出版刊、2007年5月24日初版発行、引用個所は表紙の著者の言葉)(弓立社刊『歴史の読み方』の改題・改訂版)

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[1438] 考古学は歴史ではない 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/28(Wed) 17:35:12

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 岡田先生の『日本人のための歴史学』では、「はじめに」で考古学と歴史の違いを明快に説明しています。副島先生も歴史の話題になると折に触れて、歴史学と考古学の区別を書かれています。歴史学も考古学も、ともに人文(ヒューマニティーズ)に属するとはいえ、その中でも明確な違いがあるということになります。

(引用始め)

 考古学は歴史ではない――はじめに

「魏志倭人伝」にでてくる、有名な邪馬台国の話を読むと、だれしも、いったい考古学者はどうしているんだ、と思いたくなる。 

(中略)

 ここでは、邪馬台国の位置問題をとりあげよう。

 これには、二つの派がある。一つは畿内大和説であり、一つは北九州説である。

 日本で一番古い史書の『日本書紀』の編者は、もちろん畿内説であったと見えて、その「神功皇后紀」の三十九年(西暦二三九年)、四十年(二四0年)、四十三年(二四三年)の項に、なんにも断らないで『魏志』(通称「倭人伝」を所載する史書)を引いているし、六十六年(二六六年)の項には「普起居注」を引いて、「倭女王遣重訳貢献」としている。

 しかし「魏志倭人伝」の本文を見ると、実はこの間の二四七年には卑弥呼は死んで、台与が立っている。だから二六六年の「倭女王」は卑弥呼ではないことになるが、『日本書紀』はその矛盾をほっかぶりしている。

(中略)

 ここに日本の特殊事情がからんでいて、考古学者といえども、多かれ少なかれ、文字の史料に縛られているのだ。

 日本では、文字を刻んだ遺物が出ることは、まずない。あくまでも、土器や石器の出土だ。土器も、石器も、いやというほどふんだんに出るが、それに伴って、文字らしいもの、銘文らしいものが出ることは、めったにない。

 それに反して、『日本書紀』や『古事記』の確固たる伝承がある。あまりに確固としているので、ついついそれに頼りたくなる。『日本書紀』の紀伝には批判的でも、その伝承には、いくらか態度に差があっても、多かれ少なかれ、利用せざるを得ない。

(中略)

 いままで日本の考古学は、「大和朝廷」などという、『日本書紀』の主張に煩わされ過ぎた。もういい加減に、『日本書紀』を卒業するべきときだ。

 そういうわけで、『日本書紀』の歴史のイメージをさっぱりとぬぐい去って、あらためて考古学の成果だけを問題にする。それはなかなか大変だが、考古学者として、そうするのが正しい態度というものである。

 そこでさっき言った、日本では文字を刻んだ遺物がほとんど出土することはない、ということが問題になる。それは天武天皇陵や、持統天皇陵でもそうだ。ましてそれ以前の陵墓は言うまでもない。

 結局、考古学は歴史の史料にはならない、と言わなければならない。

 考えてみたまえ。考古学は物を扱う学問だ。考古学が扱う土器や石器は、それに文字が刻んでない限り、だれの物やらわからない。かりに名前があったとしても、その名前を持つ人が、どういう言葉をしゃべっていたのか、どの社会のどういう集団に所属していたのか、その集団のなかで何をしていたのか、その集団がよその集団にどのように見られていたのか、およそ見当がつかない。ただ土器や石器が、どのようにして発展してきたかがわかるだけである。

 例えば縄文時代が、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期に分かれる。といっても、その分け方は縄文土器の形式によるものである。その途中にどんな重大な事件が起こっても、それが外敵の侵入によるものであっても、土器の形式に変化がない限り、時代の分け方には反映しないわけだ。 

 そこへ来ると、歴史は、文字で書かれた史料をもとにしている。文字史料は、土器・石器と違って、社会の有り様を記録する。これがつまり、歴史上そのものである。

 そういうわけだから、考古学は歴史ではない。考古学は考古学で、独立した学問である。

(引用終わり)『日本人のための歴史学 こうして世界史は創られた!』(ワック出版刊、2007年5月24日初版発行、岡田英弘著、9、11~14項)(弓立社刊『歴史の読み方』の改題・改訂版)

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[1439] 専門化・細分化の害毒 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/28(Wed) 18:16:07

 会員番号4655の佐藤裕一です。

『日本人のための歴史学』から引用します。読み易いように段落ごとに改行しています。

(引用始め)

 専門化・細分化の害毒

 それはともかく、幸か不幸か、日本の学問一般の特徴の一つである過度の専門化・細分化のおかげで、「社会経済史」でも時代別の分化が極度に進んでいて、漢代なら漢代だけ、唐代なら唐代だけ、宋代なら宋代だけ、明代なら明代だけでそれぞれ閉鎖的な学界が出来上がってしまっていて、それぞれの内部だけでしか通じない符牒を使って、いとも瑣末の問題を論じ合うようになってしまっている。

 そのためいつのまにか、こうした問題はこの時代はこの時代だけの特色なのだ、と何の理由もなく思いこむようになり、例えば明代の兵制の特色とされる軍戸・民戸の区別は、清代にもあれば元代にもそうであり、宋代も同じなら唐の府兵制だってやはり変わりなく、その他少なくとも三国までは全然変わりなく遡れるものだ、ということにも仲々気がつかないし、均田制にしてからが秦から清に至るまで、いや人民共和国でも、歴代施行された、ごく当たり前の制度であって、何も隋・唐の特徴ではないことも、皇帝の独裁権が強いのも何も宋代に始まったわけではないことも、まるで分かっているとは思えない。

 中国では秦の始皇帝以来、今日に及ぶまで、何ひとつ変わりもしなければ進歩も発展もしていないこと、世界の他のどの国とも同じであって、ただ一つ時代とともに変わったことと言えば、人口の増加のために都市化と環境の破壊が進行したことだけである。

 ともかく「東洋史」を構成するいろいろな要素は、ここに列挙したように、どれもこれもわれわれにとって最も重大な問題である中国とその文化の核心に迫るものではない。

(引用終わり)『日本人のための歴史学 こうして世界史は創られた!』(ワック出版刊、2007年5月24日初版発行、岡田英弘著、29、30項)(弓立社刊『歴史の読み方』の改題・改訂版)

 ↓の[1438] 引用文の終わりから2文目、「歴史上そのものである。」は誤りです。「歴史そのものである。」が正しいです。失礼致しました。

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[1440] 日本は世界の一部 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/29(Thu) 15:52:32

 会員番号4655の佐藤裕一です。

『日本人のための歴史学』から引用します。読み易いように段落ごとに改行しています。傍点は省きます。

(引用始め)

 それに不都合なことに、「世界史」には、今や「国史」から改称された「日本史」が含まれないのである。これは「東洋史」と「西洋史」が合体したのだから当然だが、その結果は、日本抜きの世界を日本の学校で日本人が学習する、というこになってしまう。まるで日本は世界の一部ではないみたいであり、日本は世界史に何の関係もなく、何の影響も与えない、あってもなくても変わりない存在であるみたいではないか。

 これは単に、世界における日本の位置が不明瞭になる、というだけのことではない。世界に限らず、歴史に限らず、およそどんなものにも観点というものがある。世界史を叙述するのに、どこ中心でもない、人類全体に共通、普遍妥当の世界観に立つ、などと言うのは、もし意識して主張する人があれば狂人に相違ない。イギリス人にはイギリス人、フランス人にはフランス人、ドイツ人にはドイツ人の、それぞれ自国民の歴史的立場を中心としての世界があり、それを不完全にミックスして出来上がったのが「万国史」であり、それに基づいたのが「西洋史」であってみれば、今の「世界史」の西の部分が近東=ギリシア=ローマ=ゲルマン=英・独・仏「正統」論に立っているのも不思議でない。

(引用終わり)『日本人のための歴史学 こうして世界史は創られた!』(ワック出版刊、2007年5月24日初版発行、岡田英弘著、33、34項)(弓立社刊『歴史の読み方』の改題・改訂版)

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[1441] 中国の「皇帝」とは何か。「皇帝」と「アウグストゥス」の違い 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/30(Fri) 19:26:33

 会員番号4655の佐藤裕一です。

『誰も知らなかった皇帝たちの中国』から引用します。読み易いように段落ごとに改行しています。

 (引用始め)

 中国文明には、もっとも基本的な要素が三つある。「皇帝」と、「都市」と、「漢字」である。このなかで最重要の要素はもちろん皇帝なのだが、この、皇帝という言葉自体が誤解を招きやすいので、ここでひとこと説明しておきたい。

 日本のヨーロッパ史学界では、「古代ローマ帝国」や「ローマ皇帝」という言葉を何気なく使っているが、ここに用語の混同があり、世界史の複雑な問題を含んでいるのである。

 厳密に言うと、古代ローマには「皇帝」はいなかった。したがって、古代ローマを「帝国」と呼んでも、それは「皇帝が統治する国家」がという意味ではない。

 古代ローマの初代「皇帝」として君臨したのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の甥のガイウス・オクタウィウス(伯父の養子になってガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと改名)だが、彼の正式な称号は「アウグストゥス」であって、「インペラートル」(英語のエンペラーの語源)ではなかった。

「アウグストゥス」とは、内戦に勝ち残ってローマ市を制圧した将軍に対して元老院が捧げる称号である。ローマの長老会議にあたる元老院には法律を制定する権限があるが、アウグストゥスは元老院で議員の最上席を占め、元老院の審議で決まらない事項はアウグストゥスに決裁を仰ぐことになっていた。つまりアウグストゥスの本質は「元老院の筆頭議員」であって、元老院があってはじめてアウグストゥスが存在するのである。

 これにひきかえ中国には、ローマの元老院にあたる機関が存在したことはない。この点でそれ自体が中国世界の中心である「皇帝」は、ローマの「アウグストゥス」とはまったく性質が異なるのである。
 
 それにもかかわらず、十九世紀の日本の学者が「アウグストゥス」を「皇帝」と訳したのは、先祖代々慣れ親しんできた中国史の枠組みでヨーロッパ史を理解しようとしたための誤訳だった。

 では、中国の皇帝とは何か。これについて詳しく述べていくことにする。

 皇帝の「皇」という字は、火偏をつけると「煌々」の「煌」になるのでわかるように、きらきらと光り輝くという意味がある。

 いっぽうの「帝」という字は、下部(脚)に「口」を加えれば「敵」「嫡」「適」などの旁となる。「帝」のもともとの意味はこれらの字と同じで、「対等の相手」という意味をもつ。このことからわかるように、「帝」の本来の意味は「配偶者」である。

 では「帝」が配偶者だとすると、相手は誰になるのだろうか。ここで、中国世界の成り立ちに触れる話になってくる。

(引用終わり)『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(ワック出版刊、2006年9月21日初版発行、岡田英弘著、19、20項)(原書房刊『皇帝たちの中国』の改題・改訂版)

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[1442] 「皇帝」という称号の誕生 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/30(Fri) 19:28:04

 会員番号4655の佐藤裕一です。

『誰も知らなかった皇帝たちの中国』から引用します。読み易いように段落ごとに改行しています。

(引用始め)

 諸王国を平定し、天下を統一した秦王政が自分にふさわしい称号をつけるために臣下たちと相談したくだりが、『史記』の「秦始皇本紀」にある。

 臣下が答えて言うには、
「いにしえには天皇があり、地皇があり、泰皇があり、泰皇がもっとも貴かったと申します。臣らは恐れながら尊号をたてまつり、王を『泰皇』とし、そのお言葉は『制』とし、その御命令は『詔』とし、天子の自称は『朕』といたしたく存じます」

 これに対して秦王は答えた。
「『泰皇』の『泰』を取り去り、『皇』を着け、これにいにしえの『帝』という称号を取り合わせて、『皇帝』という称号にしよう。そのほかは答申通りにする」

 ここにはじめて「皇帝」という新しい称号が誕生したのである。

(引用終わり)『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(ワック出版刊、2006年9月21日初版発行、岡田英弘著、23、24項)(原書房刊『皇帝たちの中国』の改題・改訂版)

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[1443] 皇帝は中国最大の「資本家」だった 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/10/31(Sat) 00:00:02

 会員番号4655の佐藤裕一です。

『誰も知らなかった皇帝たちの中国』から引用します。読み易いように段落ごとに改行しています。

(引用始め)

 都市でいちばん重要な場所は、中央に位置する県役所と市場である。夜が明けて城門が開くとともに市場も開いて人が集まり、交易は正午で終わった。市場の入場料が商税で、これが皇帝の収入となる。地方の県では、首都から送られた商品や、城内で生産された商品を市場で交易して、その地方の特産品を集めた。地方の特産品は首都の市場に送られ、各地から集まった商品との交易が行われた。こうした商品にかけられる商税は、皇帝の収入になった。また、国内の要地には関所があり、そこを通る商品にかけられる関税も皇帝の収入になった。

 皇帝は中国最大の資本家である。資金が必要な者は皇帝が開いている窓口へ行き、金を借りることができた。もちろん高利貸しであるから金利は高い。

 また、皇帝は工場の経営者でもあった。中国特産の陶磁器や絹織物といった高価な商品については、民間の工場もあるが、上質で技術の高いものをつくる工場は皇帝の直営だった。この制度は、はるか後世まで続いた。

 皇帝の事業はこれだけにとどまらない。外国貿易にたずさわる商人にも、皇帝は商品や資本を貸し付け、もどってきたら利息をとって稼いでいた。

 これらの事業のほかに、漢の武帝の時代には塩や鉄の専売もはじまった。

 いってみれば皇帝は、県という商業都市を支社、支店として営利事業を営む総合商社の社長のごとき存在であり、その営業の及ぶ範囲が「天下」、今で言う中国だったのである。

 では、このようにして蓄えた富を、皇帝は何に使ったのだろうか。

 第一には外交と戦争である。国家というものがまだなかった当時、国家財政と宮廷財政の区別もなかった。外交や戦争といった臨時の出費は、官庁の経常費ではなく皇帝のポケットマネーでまかなわれていた。

(引用終わり)『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(ワック出版刊、2006年9月21日初版発行、岡田英弘著、30、31項)(原書房刊『皇帝たちの中国』の改題・改訂版)

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[1444] BRICs(ブリックス)と中央アジア、中央ユーラシア 投稿者:会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2009/11/04(Wed) 21:05:42

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 ルーパ・プルショサーマンという、元ゴールドマン・サックス社社員の女性が作ったBRICs(ブリックス)という造語は、世界政治及び実際の世界経済の勢力図用語としても定着したようです。

 よくよく考えてみたらBRICsの新興4ヶ国のうち、中国とインドは極東アジアと南アジアですし、ロシアも極東地域を含めてシベリアなど侵略して併呑した地域の大部分がアジア圏ですから、3ヶ国がアジアにありユーラシア大陸にあります。この前に五輪開催が決定したリオデジャネイロという都市があるブラジルだけが南米大陸ですね。ユーラシア大陸の政治・外交・軍事・領土・経済などの諸問題についてブラジルは局外中立的立場で国家間の中に立って、調停出来る国になるのではないでしょうか。 

 ですからブラジルは置いておくとして、北のロシア、南のインド、東の中国に囲まれた最重要な地域が中央アジアという事になるでしょう。確かにカザフスタンのナザルバエフ政権が、政治的安定を求めて全方位外交に徹する理由も理解出来ます。島国や海洋国家には内陸国の心情がなかなか想像しにくいですが、常に最低限の緊張はあるのだと思います。

 ただインドは中央アジアからみると正確には東南に位置しているので、真南はパキスタンですから、インド洋に出られますね。いくら北極海の氷が溶けているといっても、ロシアを通って北極海を通過して物資その他の運搬するというのは無理があると思います。やはり海運はパキスタンから抜けるという事になると、インドがパキスタンを押さえるのは中央アジア各国にとって許せないのではないでしょうか。ただアフガニスタンがありますからね。アメリカは何かとこの中央アジア地域に嫌がらせをしているように見えるのは気のせいでしょうか。

 さて中央アジアの西はというと、広い意味でヨーロッパ圏に入るロシアと、その向こうにヨーロッパという一大勢力圏(しかし旧勢力)が西にあります。アジアではありませんが、地続きのユーラシア(ユーロ・アジア)大陸ですからね。

 それから中近東ですが、BRICsに匹敵する程の一国での大国はありません。これはオスマン・トルコ帝国が滅亡して、トルコが大国ではなくなったからなのでしょう。トルコはヨーロッパに含める場合もありますが、やはりどう頑張ってもアジアなんだと思います。

 中東には他にもイラン、イラク、サウジアラビア、エジプト(アフリカですが)、そしてイスラエルなどの強力で我の強い国々がありますが、これらが1つにまとまる見通しは今のところほとんどないので、中央アジアにとっては宗教的な事柄も含め影響は限定的だと思います。ただ中央アジアの人種的な起源である、トルコの影響はどのくらいあるのか分かりません。

ウィキペディア(Wikipedia) 中央アジア5ヶ国(西トルキスタン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/中央アジア

中央ユーラシア
http://ja.wikipedia.org/wiki/中央ユーラシア

「中央アジア」というとどこからどこまでを指すのか、地域の定義が変遷していたようですが、今では専らカザフスタン、キルギス(何故か「スタン」を外した)、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5カ国を指すようですね。

「中央アジア」と違い「中央ユーラシア」の方がもっと広い概念のようです。

 中央ユーラシアの定義について岡田先生の『日本人のための歴史学』から引用します。読み易いように段落ごとに改行しています。もとの文章の執筆当初はソ連崩壊以前だったようです。

(引用始め)

 中央ユーラシアの歴史世界
 ――民族大移動の波が世界史を作った

 中央ユーラシアとは、地球上のどの地域をさすのであろうか。まずユーラシアからはじめよう。

 ユーラシア(英語の発音ではユアレイジャ、またはユアレイシャ)ということばは、いうまでもなく、ヨーロッパ(英語でユアラプ)とアジア(英語でエイジャ、またはエイシャ)の合成語である。このことばは十九世紀の中ごろにはじめて現われ、最初はヨーロッパ人とアジア人(ことにインド人)の混血児を英語でユアレイジャンと呼んだ。のちにはヨーロッパ人と東南アジア人(マレー人、インドネシア人、ヴェトナム人)との混血児をもこう呼ぶようになった。

 第二の意味は、旧世界のうち、スエズ地峡より西のアフリカ大陸をのぞいた、ヨーロッパ大陸とアジア大陸を一つの大陸とみなしてユーラシア大陸と呼ぶものであって、このほうの意味では、最も早い用例は英語では一八六八年(明治元年)にさかのぼる。

 そういうわけで、ユーラシアということばは、ヨーロッパがアジアの前にきていることからもわかるように、ヨーロッパ人が世界を支配していた時代の産物であり、ヨーロッパ人の立場からみて、アジアをヨーロッパの付属地域とみなす見方を表現したことばである。

 もっとも、ヨーロッパとアジアの境界線をどこに引くかは多分に歴史の産物であって、地図を眺めただけでは、アジアとアフリカを隔てるスエズ地峡のようなわかりやすい地形は、ヨーロッパとアジアの間には存在しない。現在ではだいたいにおいて、ソ連領内のウラル山脈以西、カフカズ(コーカサス)山脈以北をヨーロッパとし、その外側をアジアとするが、これはヨーロッパ人の見解であって、実際にはこの境界線の左右で気候や風土が顕著に違うということもない。

 つきつめていうと、ユーラシアにということばは、ヨーロッパとアジアの宿命的な対立というヨーロッパ人の伝統的な歴史観がまずあって、その上でヨーロッパ人がついにアジアを征服したという時代の世界観を表現したことばなのである。

 ヘーロドトスが語る宿命的対立

 ヨーロッパとアジアの宿命的な対立という歴史観は、前五世紀に在世したギリシアの歴史家、「歴史の父」ヘーロドトスにはじまる。ギリシア人にとって、ヨーロッパとアジアの境界は、黒海と地中海を連ねるボスフォラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡の線であったが、黒海の北岸のウクライナ(ギリシア語でキンメリア、のちにスキュティア)や東岸のカフカズ(ギリシア語でコルキス)については、それらがヨーロッパに属するのか、アジアに属するのか、判然とはしていない。

 ヨーロッパは、ギリシア語エウローペのオランダ語読みである。エウローペーは「幅の広い眼」を意味し、天地の神ゼウスの妃とされる女神の名前である。この女神にかんする伝承はいろいろあるが、普通に知られた神話のかたちでは、フェニキアの王女で、ゼウスに愛され、ゼウスが化した牡牛の背に乗せられて海を渡り、クレータ島にいたり、そこでクレータ王ミーノースを産んだということになっている。これに対してアジアは、前七世紀中ごろから前六世紀中ごろまで小アジア(アナトリア)を支配したリューディア王国にアシアという都市があり、その名前がひろがって小アジア全体(すなわち本来の意味のアジア)をさすようになったとされる。

(中略)

 中央ユーラシアとは何か

 それでは、そのユーラシア大陸のなかで、中央ユーラシアとはとくにどの部分をさす名称なのであろうか。

 このことばをはじめて使った人は、ハンガリー生まれの