『JFK』JFK(1991) 1.映画から見えてくるアメリカと日本の共通点

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/12/15 09:00

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 本日は2010年12月15日(水)です。約10日ぶりに書き込みます。本当は11月22日中に投稿したかった題材なのですが、あれこれ調査したり書き足したり怠けたり先送りしたりで、だいぶ過ぎてしまいました。

 今回は基本「だ・である」調の文体でいきます。

 

 ● 11月22日は何の日か

 11月22日は、どういう歴史的出来事があった日か。日本国法定の休日ではないが記念日としては「いい夫婦の日」という、どうでもいい答えが第一に浮かぶのが日本人の普通だろうが、そんなことはまさに心底どうでもいい。

 11月22日は、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・フィッツジェラルド・“ジャック”・ケネディ(John Fitzgerald “Jack” Kennedy,1917年5月29日-1963年11月22日)が暗殺された日である。

 以下、私がただケネディと書いた際はジョン・F・ケネディのことを指す。それ以外の「ケネディ」を含む言葉に言及する際には、例えば弟で司法長官であったロバート・ケネディ(RFK)などのように区別出来るように表記する。もっとも略称のJFKを用いればいいだけなのだが、著作物や映像作品として単に「JFK」という題名の作品群があるため、どうしても紛らわしいところがあるからそれを避けるためだ。

 ケネディ暗殺の年、1963年から計算すると47年が経過したことになるが、欧米人の死についての習慣が分からないので、日本人が何回忌がどうだと言っても仕方がないのは確かだ(一周忌と違って次の回忌からは数え年と同じである。私は昔からこの「数え年」という残存習俗が大嫌いだ)。

 それでグーグルのキーワード検索で「ケネディ」「JFK」関連のニューズ検索すると、サッカーその他の「ケネディ」が沢山出てきてかなり調べにくいのだが、大体以下のような記事が検出されてきた。

 もうすぐ50年ということで、新しいケネディ大統領暗殺の真実追求映画を作ろうとしているらしいレオナルド・ディカプリオが搭乗していた飛行機が「11月21日」、エンジン故障で「ジョン・F・ケネディ国際空港」に引き返す騒ぎに巻き込まれたというのは悪い冗談としか思えない。軽い警告を受けたんじゃないのかね彼は。

 

ケネディ氏また1位…米歴代大統領の人気調査 国際 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101207-OYT1T00790.htm

時事ドットコム:「奴隷解放宣言」に3億円=大統領署名文書で史上最高額-米
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201012/2010121100156

CNN.co.jp:ケネディ大統領暗殺の秘話 元警護官が回想
http://www.cnn.co.jp/usa/30000986.html

時事ドットコム:米のエンジン故障機にディカプリオさん=難逃れる
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20101123026040a

レオナルド・ディカプリオ、新作映画でケネディ大統領暗殺の謎に迫る – シネマトゥデイ
http://www.cinematoday.jp/page/N0028508

モンローとケネディ兄弟の写真、競売へ (1-2ページ) – SankeiBiz(サンケイビズ)
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/101119/cpd1011191116006-n1.htm

asahi.com(朝日新聞社):ケネディ大統領のスピーチライター、ソレンセン氏死去 – 国際
http://www.asahi.com/international/update/1101/TKY201011010061.html

【島人の目】ケネディ時代の終焉 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-170389-storytopic-1.html

JFK暗殺犯とされるオズワルドのひつぎ競売へ 世界のこぼれ話 Reuters
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-18425420101201

J.F.ケネディ 大統領当選から約50年ついにデジタル化されるケネディの写真(ギャラリーあり) ギズモード・ジャパン
http://www.gizmodo.jp/2010/12/jf50.html

Who killed JFK Nixon, Johnson, CIA were suspects – The Times of India
http://timesofindia.indiatimes.com/world/uk/Who-killed-JFK-Nixon-Johnson-CIA-were-suspects/articleshow/7096573.cms

Obama Caves, Just Like JFK – Brian Domitrovic – Past & Present – Forbes
http://blogs.forbes.com/briandomitrovic/2010/12/14/obama-caves-just-like-jfk/

Presidential hopeful Rick Santorum rejects JFK’s separation of church and state Catholic News Agency (CNA)
http://www.catholicnewsagency.com/news/presidential-hopeful-rick-santorum-rejects-jfks-separation-of-church-and-state/

Notes from mother of JFK assassin Lee Harvey Oswald found NOLA.com
http://www.nola.com/news/index.ssf/2010/12/notes_from_mother_of_jfk_assas.html

Book Review: The Kennedy Detail: JFK’s Secret Service Agents Break Their Silence by Gerald Blaine with Lisa McCubbin
http://blogcritics.org/books/article/book-review-the-kennedy-detail-jfks/#ixzz186eGz4

PleasantonWeekly.com Library, Towne Center Books to host Secret Service agent’s report on Kennedy assassination
http://www.pleasantonweekly.com/news/show_story.php?id=5625

Prelude To Wikileaks JFK on The Dangers Of Government Secrecy Motherboard
http://motherboard.tv/2010/12/14/prelude-to-wikileaks-jfk-on-the-dangers-of-government-secrecy

 

 セオドア・C・ソレンセンが死去したほか、ケネディ暗殺事件当日のシークレットサービス元警護官(本当か?)が回想を出しているくらいで、新発見などの情報は見当たらない。アメリカ人はなんでも競売にかけるんだなぁという感想しかない。英語は読めないし。

 

 ● 新たな証拠というのは一体どの段階の話か

 仕方がないので少し前の情報を持ち出すが2007年の記事。

 

故ケネディ元大統領暗殺事件、単独犯説をくつがえす新たな証拠を発見 – 米国  国際ニュース AFPBB News
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2226527/1606384

 

 翻訳前の英語文章記事があるのかは分からないが私は読めないし、発表者達の意図も分からないが、日本語文章の記事は投稿時点でまだ読める模様なので確認可能。

 元FBI捜査官達が弾丸破片の調査及び弾道分析をした結果、狙撃実行犯が2人いた可能性があり、弾丸が3発以上発射された可能性があるという。3発目の弾丸が他の弾丸と異なるからだという。

 ただし「オズワルド単独犯行説」に疑問を投げかけてはいるが、記事ではオズワルドの他に共犯である第2の暗殺者がいた、というような書き方をしている。

 あくまでもオズワルド本人が、実際にケネディを銃撃した人物の1人である、ということについては変わりはないらしい。3個の弾丸のうち2個がオズワルドの銃が発射したもので、3個目が第2の暗殺者の銃が放ったものである可能性があると。それ以上の背後に迫るものではないようだ。

 サイエンスの技術と方法を用いた分析であるから、そこから先の推測や憶測には踏み込まない、ということであろうからどうしても限界がある。撃った本人が本当にそこに居たかどうか別人かどうかは、弾丸や弾道だけを調べても判明はしない。後から弾だけベッドや車中にポイッと転がされたりしてね。

 前提を再検討せずそのままにして普通に考えれば、この分析記事から導かれる単純な結論は「オズワルドも含めた複数犯行説」ということになってしまう。はっきり書いてなくてもこの記事を読んだらそう感じるだろう。

 ケネディ大統領とジョン・コナリー知事を貫いた「魔法の弾丸」の弾道のことはどうなったのだろうか。暗殺事件から何十年も経っているとはいえ、研究者達が事件に対して公正中立な立場を保てるかという疑問もある。

 それにしても、オリヴァー・ストーン監督の『JFK』JFK(1991)(私が持っているDVDはディレクターズカットの特別編集版で吹替え無し、9シーン約17分を追加、ストーンが再編集したもの。206分)が公開されてから何年が経過しているのやら、2010年の現在に至ってこの分析結果をもってして真相解明が少しでも進展している、と判断していいのかどうか。

 私のDVDディスクでは両面読み取りになっていて前後半に分かれている。だからというわけではないが、この掲示板の1回の投稿分量が限られているので投稿も複数回に分ける。ストーリーの内容ごとというわけでもないのでご了承を。また、ウィキペディアなどの参考・参照サイトURLなどは後でまとめて貼り付ける。記述ミスや事実誤認は全て私に文責が有る。

 映画評論といっても既に先生が最高のものを世に出しており、私が先生を真似ても劣化コピーしてしまうだけでしょうがないし、研究家ではないので真実についても断定出来る能力は私にはない。独自研究家でもないド素人としては、映画の中身の詳しい論評や真実判断よりも、現代日本人としての視点と感想に重点を置いて率直に述べたい。

 さて、ここから先は映画『JFK』について(学問道場内に映画用掲示板もありますが、私は分散投稿を避け、ここだけで書き込みをしています)。もしお読みになって頂けるかたがいらっしゃいましたら、ということでどうぞ。

 以下、映画未鑑賞のかたはネタバレ注意、未見のかたには是非とも推奨します。

 

 ● 政治映画であり歴史映画。現実の政治的事件が風化すると歴史になる

 私はオリヴァー・ストーンが作る映画の熱心なファンではない。

 これまでにストーンの監督作品では『サルバドル/遥かなる日々』Salvador(1986)、『ウォール街』Wall Street(1987)、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』Natural Born Killers(1994)、『ニクソン』Nixon(1995)、『アレキサンダー』Alexander(2004)、『ワールド・トレード・センター』World Trade Center(2006)を観た。ストーン製作では『ラリー・フリント』The People vs. Larry Flynt(1996)を、ストーン脚本作品では『ミッドナイト・エクスプレス』Midnight Express(1978)、『スカーフェイス』Scarface(1983)、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』Year of the Dragon (1985)、『エビータ』Evita(1996)などの作品群を観た。それでも大ファンというわけではない。

 それでも『JFK』はすごい映画であると思う。真実追求のハリウッド法廷闘争映画ものではあるが、同時に高度な政治映画なのである。それも思いっきり危険な部分を主題として正面から取り上げている。国家権力、現実の政治というものを考えるのに格好の映画である。

 何年か前に、先生の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)』(副島隆彦著、講談社+α文庫、2004年4月20日第1刷発行)(あまりに読み過ぎて、(上)(下)共に帯がボロボロ)を読んだ後に、この映画『JFK』を最初にDVDで見たときは正直何が何やら、さっぱり理解不能状態であった。ダラスとダレスが一緒になってしまう程度の理解だったから仕方ない。

 私のような事件当時に未だ生まれていない、テレビや新聞を通してすら時代の目撃者ではない世代の、しかも外国人にとっては、興味を持てても実感は持てない部分が多い。9・11事件後に生まれた世界中の子供達が、9・11の崩れ去るような衝撃を体感したことがないことと似たようなものである。

 9・11事件にしたって私は現場にいたわけでもなし、当事者でもなくてテレビを見ていただけじゃないかと言われればその通りである。それでも世界中に広がった激震の影響を受けた、その「時代の空気」を吸って生きた人間であることには違いない。

 事件が風化して人々の記憶が希薄化してから、やっと何かが見えてくるということもあるだろう。時間経過によって直接に利害関係がある人間が少なくなってくるということもある。この点だと9・11事件は10年も経過していないので、まだまだ「歴史」と割り切れるほどではなく生々しい「出来事」の段階だろう。昨日の出来事のような気もするし、あまりに事件が矢継ぎ早に訪れるせいもあってか、遠い昔のような気もする。

 いくらインターネットという、情報伝達手段の飛躍的発達と普及によって真実の暴露による露見、発覚が劇的に速まってきているとはいえ、政府が公式に事実であると認定するには、9・11事件は当時の生存者の不都合が多過ぎて障害である。ケネディ暗殺事件にしてからがそうなのだから。真実が不都合なのである。渦中にある人間は対処に必死、夢中であって、歴史を振り返るように現在を見る余裕は少ない。現在進行形の、特に当事者達が物事を客観視するというのはなかなか難しいものがある。

 ジム・ギャリソン地方検事が事件後3年も経過してから、ルイジアナ州選出の民主党上院議員のラッセル・ロング(父親がヒューイ・ロング)との会話で疑惑について関心を持ち、ウォーレン委員会のいい加減な報告書を読んで自分が調べなければという使命感にかられた時の、それまでの漫然と過ぎ去った時間と自分に対する悔しさの気持ちは察して余りある。ウォーレン委員会が真剣に調査しておらず、重要な問題を避けて通る報告書の記述の杜撰さに憤るに至るまで、時間が空いてしまったわけだ。その間に徐々に人々の関心が薄れるが、当事者も落ち着きを取り戻してくる。

 先生が最近、歴史から学ぶことこそが本当に大切なことだと盛んに唱道していらっしゃる。歴史学は文献をあれこれ解釈することが基本だから、社会学問の範疇には入らず、あくまで言葉、文字を扱う人文学の一分野であるという先生の見解に私も従っている。それでも、歴史を学ぶことは大事なのだという。

 文字は人や物に名称をつけるためや、読み書きが出来て日常生活に困らないように、意思疎通の利便性のためだけにあるのではなく、歴史や出来事を子孫や後世の人間に継承していくためにもある。意思疎通手段以外で人文学が何かの役に立つことがあるとしたら、他の学問理解のため、そして歴史を学ぶということでもあると思う。その他の人文学は学問の前に勉強すべき初等段階にあるに過ぎないが、歴史学だけは社会学問と並び立つほど、人類にとって重要なのである。

 映画原案の1つである、On the Trail of the Assassins: My Investigation and Prosecution of the Murder of President Kennedy『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』(ジム・ギャリソン著、ハヤカワ文庫NF、岩瀬孝雄訳、一九九二年二月十五日 発行、一九九二年四月十六日十六 十八刷)を読み終わり、さらに『JFK』を何度か観直してみたが、やはりジム・ギャリソン役(ケヴィン・コスナー)の名演技が光っているので、現実に起きた暗殺事件という重たい題材を真剣に扱っているにも関わらず、それほど苦にならずに見られる。アクションシーンが盛り沢山でないと眠るという人にとっては1回通して視聴するのも辛いだろう。

『JFK』は政治映画であるが、歴史映画であると言ってもいい。脚本はストーンの他にザカリー・スクラー、原案にはギャリソンの他にも研究家のジム・マース著、Crossfire: The Plot That Killed Kennedy『クロスファイア』(未邦訳?)というように、追及派を揃えている。ギャリソン本人は何とアール・ウォーレン最高裁長官役で出演している。

 ただし演出のための虚構も入っているし、全員が実名というわけでもないようだ。商業映画なのだからこれは仕方ない部分だろう。実際のザプルーダーフィルム(由来はケネディ暗殺の瞬間の前後を偶然撮影したエイブラハム・ザプルーダーの苗字から)の映像を使用しているが、作られた映像も交互に流されることに対する批判もかなりあったらしい。映像産業には限界があるのは承知の上で見なければならないのは当然である。

 

 ● アメリカと日本の共通点その1。恥知らずな歴史捏造の歴史

 欺瞞の代名詞である、通称ウォーレン委員会(ジョンソン政権下で設置されたケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会)の報告書は、ウィキペディアを見ると情報公開法により1992年に98パーセントは公開されたとのことで、公開に至るまでは映画『JFK』公開による世論とその影響もあったらしい。映画が現実政治に影響するなど日本の邦画なんかでは考えられない事態である。『JFK』自体が真実隠蔽のための謀略映画なのだという意見があったりする。私にはアメリカの映像産業が持つ影響力が羨ましい。

 さて、これまでに公開された調査報告書のほとんどは事件の真相に迫るような代物ではないということだろう。人々に知られても支障のない、もしくは支障が少ないものだったわけだ。私には原文読解能力がないので詳細は分からない。

 ウォーレン委員会報告書の残りの2パーセントは、相も変わらず事件の当事者が全員死んだ西暦2039年の機密指定解除で公開文書(declassified、デクライファシドと発声するのかな)になるまで待たなければならない。

 関係のある無実の人間を攻撃から守るために75年も待つのだというが、暗殺の指示者や実行者や黙認者達が生存しているうちに世間から批判・攻撃されることから免れるための間違いであろう。アメリカの刑法や刑事訴訟法を知らないが、たとえ時効だといったところでアメリカ人は羊の群れのよう日本人とは性格が違うし、今でもケネディを尊崇している人達がどういう反応と行動を示すか分かったものではないから、真実が公開されると危険なわけだ。

 ところでネット検索をすると2039年ではなく、2029年だったり2038年9月と出てきたりして公開時期が一定しない。どうもカーター政権下で再調査のために下院に設置した、暗殺問題調査特別委員会の調査結果については、核心部分の機密解除が2029年らしい。待てるか!

 証拠ごとに徐々に公開していくらしい、という文章をみかける。小出しになどせずに一気に全部公開してほしいものだ。そして、全面公開されたとしても、真実が報告書の残り部分に書いてあるとは限らない。

 ウォーレン委員会の調査報告書が物事を誤魔化すための常套手段であり、嘘と真実と無用な情報を膨大な洪水のごとくゴチャマゼに集めた文書だとして、その秘密にされている最終的な部分で以前の文脈とか整合性とかを一切無視して翻り、唐突に真実を結論で書いていることが果たしてあるのかという疑問が残る。そこだけに未公開の真実を凝縮してあるのではないかという期待もあるが。

 陰謀(共同謀議)のことが仄めかすに留まらずに書いてあるとしても、せいぜい複数犯行説の証拠と証言のことが書いてあるだけではないのか。

 オズワルドは単なる身代わりに過ぎず、ケネディは3方から射撃されたのであり、現場の指揮者やマフィアやキューバ人や警察内部の協力者は誰か、この辺りまでか。これより上の方の、真の意思にまで言及がのぼっていったら凄いのだが。なにしろ、委員会が本気で調査して書こうと思ったら書けたはずだ。身内も同然なのだから知り得ただろう。

 当時のリンドン・ジョンソン副大統領も政府高官も治安維持機関も捜査機構も情報組織も諜報工作組織もダラス警察も軍産複合体もモサドもイスラエル首相ダヴィド・ベン=グリオンも反カストロ派亡命キューバ人も海運王もマフィアも暗殺に全面協力していた、上層部の暗殺実行指示者は誰々で、どこどこ財閥当主の意思によって発動が許可され、最高指揮責任者は誰で、射撃実行者は誰々だ。こういうことが残りにすっかり書いてあるとは、なかなか思えないのだ。しかもケネディの脳などを含め保管資料が消失、行方不明になったりしているらしい。

 アメリカの公的資料保存やら情報公開の精神といっても、この程度のシロモノじゃないか。威張れるほどのもんじゃないよ。恥の上塗り捏造文化にしたってNASA(連邦航空局)だけの専売特許じゃなかろう。日本だけが黒塗りだの不透明な閉鎖的社会だのと批判されるいわれはない。

 日本国民に嘘をつき続けた歴代自民党政権の、アメリカによる日米核密約などの順次機密解除攻撃にしたって、あれはもうそろそろ限定的に公開してもいいと判断されているわけだ。どうせ日本国民から追求されるのは日本の政治家と官僚などの選択肢の乏しい、当時の哀れな属国側交渉担当責任者「だけ」である。

 故・若泉敬著、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 新装版――核密約の真実』(若泉敬著、二〇〇九年十月三十日、文藝春秋社刊)参照。ここではヴェトナム戦争継続下における沖縄返還と基地提供、繊維貿易摩擦などが日米交渉の主題となったが、国会で当時のリチャード・ニクソン大統領やヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が糾弾されることなどない。

 故・佐藤栄作元内閣総理大臣は死後でもノーベル平和賞の取り消し運動が起こる。私見だが私は若泉、佐藤首相、両氏の仕事(課せられた交渉義務)に一定の評価をしている。時代の制約を受けている属国指導者と孤独に全責任を負って死んでいったその密使に向かって「わざわざ沖縄が戦略的に一番値上がりしていた時期に買ってしまいましたね」などとは言えない。属国に他策無し。

 ストーン監督の映画『ニクソン』では中国とロシアの外交が描かれており日本は相手にされていない。沖縄返還も対中戦略外交の一環であったことは先生が既に指摘している。

 さて日本では、アメリカに配慮・遠慮して歴史を捻じ曲げ、普段の現実政治をも虚偽と幻想で塗り固める作業に余念がない。同様のことが日航機墜落事故(米軍の原因追求無し、責任不問)や薬害エイズ事件(米企業の原因追求無し、責任不問)などの歴史的事件・事故でもみられた。属国指導者層は仕方なく必死に歴史捏造を繰り返す。それだというのにあろうことか、アメリカの方から日本の努力を無にするように、限定的に情報公開やら暴露やら委員会での妙な発覚が起こったりするわけだ。

 ところが、ケネディ殺しは帝国内において引き起こされた共同謀議であるものだから、責任も自分達にある。そうなると嘘と欺瞞で塗り固めて誤魔化しの隠蔽工作をしまくる。そうして無残極まりない公式の報告書が出来上がり、国民が納得しないとなれば75年くらい先延ばし真実を公開しますよと開き直る。これで他所の国の政治的成熟度がどうだなどと言えた義理か。自他二重基準の世界帝国である。このように歴史捏造・事実隠蔽はアメリカでも日本でもなされる作業だが、覇権国・帝国と周辺国・属国とではその必然性、動機が異なるのである。

 世界帝国では自他二重基準の発動は政治や外交だけではなく、経済においても同様になされる。近年もっとも分かり易い典型的な適用事例は、他国に押し付けておきながら自国に都合が悪くなった途端の時価会計の放棄だろう。もはやなりふり構っていられない緊急事態だから、属国なんかに気を使っている場合などではない。

 しかしながら、日本もこれから政治家の暗殺や不審死についての調査を行う国会への委員会の設置や、完全な強制力を持つ年限情報公開法の制定をするべきだと考える。法制度としてはアメリカから見習うべき点は依然として数多いことも指摘しておく。

 

 ● アメリカと日本の共通点その2。官僚役人の謀略癖はどこの国も一緒

 ちょっと映画『ニクソン』の話に行き過ぎたので『JFK』に戻る。1960年代アメリカを描いている映画ではあるが、過去から現在の日本と共通する部分をさらに挙げるとすれば、1つは治安維持や捜査機関、諜報工作機関の官僚や役人達の謀略癖(ぼうりゃくぐせ、ぼうりゃくへき、どちらの読み方でもいい)である。

 ギャリソン本人も危うく空港のトイレで警察を動員した「ゲイ疑惑謀略作戦」に引っ掛かりかけたが、素早く察知して何とか危機を脱した。映画ではどうしても描くべき内容が多過ぎて省かなければいけなかったろうが、他にもギャリソンは沢山の謀略攻撃を仕掛けられている。

 突如連邦捜査に逮捕され、ピンボール賭博との関わりの証拠テープを捏造されたり、架空の脱税で起訴されたりして、他の検事連中からも足を引っ張られていたことが『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』に書いてある。諸々の捏造裁判では最終的に無罪になったようだが、ギャリソンの名誉失墜による捜査妨害という目的は一定の成果をあげてしまったようだ。地方検事選挙での4選目は阻止され落選することになる。

 地方検事局内でも、単なる人間関係の内部対立やギャリソンの方針についていけずに辞職した脱落者以外にも、外部の圧力に屈した内通者、ギャリソンを罠に陥れるために動いた者、捜査協力者の中に紛れ込んだスパイ等に資料を持ち出されたり、盗聴もされたりしてさんざん悩まされたようだ。映画では検事局内の部下1人の裏切りに集約されて表現されていたが、実際はそんなものではなかったようだ。

 ギャリソンが法廷に呼んだ証人の中にも、計画的に頭がおかしい人間(演技?)を紛れ込まされたりしている。まともだったはずなのに出廷すると急におかしくなって、「自分の子供が入れ替わっていないかどうか確かめるために、事前に指紋をとっている」などと証言してギャリソン陣営の信用を傷つけさせた。ところがなんと、この人の行為の証言を、私はさほどおかしい話だとも感じなかったのだ。一家の自衛策の一環として指紋をとっておいて何故いけないのか、という感想である。

 こういう薄汚い謀略を警察や秘密工作員達の実行部隊がするのは、対外工作が多いアメリカやイスラエルは飛び抜けているとしても世界各国共通であり、現代日本でも最近の代表的事例でいえば経済学者の植草一秀氏が主に警察の汚れた実行部隊によって謀られたことで分かるが、その傾向は顕著である。このことについては少しずつ日本人も気付いてきているが、まだまだ盲従派が多数派である。

 アメリカが規模の面でも犯罪の量でも、日本の100倍恐ろしいだろうことは想像に難くない。日本のヤクザ、暴力団なんかがアメリカのマフィアと比較にならないのと同じである。華僑はじめ中華マフィアと違って、日本ヤクザがアメリカに進出したという話を私は聞いたことがない。当然そんなことをすれば向こうのマフィアによって、瞬時にして皆殺しにされ無様に逃げ帰るのは目に見えているから、そんなことは考えもしない。島国内部で全国制覇など、こじんまりしてるのが賢明である。バブル期に散々騙されて向こうの株や資産を買い漁ってしまい、ほうほうのていで逃げ帰った日本企業群より、生身の危険と身の程を分かっているだけ賢い。だから日本ばかりがヤクザ汚染国家というわけではない。先生が仰せのように、比較すれば国家規模に合わせた程度問題になるのである。犯罪産業と同様、国家謀略の規模も当然、国家規模に見合ったものになるであろう。

 国務省管轄下のCIA(中央情報局)は国外での諜報活動が任務で、国内で工作活動しないなどという建前というか、国内を捜査する司法省管轄下であるFBI(連邦捜査局)との棲み分けが出来ているなどと、まともに信じるわけにはいかない。その他、DIA(国防情報局)やNSA(国家安全保障局)など軍の情報機関のトップや幹部達も大統領本人に直接の忠誠を誓っているはずなのだが、実際は建前通りではなさそうだ。

 大統領個人に普段から傍で仕え、警護する立場の代表といえばシークレットサーヴィスである。『ザ・センチネル/陰謀の星条旗』The Sentinel(2006)という映画があって、私は見ていないが、シークレットサーヴィスからはもう百何十年も、いまだに裏切り者が出ていないのだという。本当かよと言いたい。

『ザ・シークレット・サービス』In the Line of Fire(1993)という映画もあって、こっちは主演がクリント・イーストウッドだが地上波で見たことがある気がする。シークレットサーヴィスは誰に忠実なのか、誰に忠誠を誓っているのだろうか。本当は大統領の動向を見張っている役目ではないのか、危険な兆候を示すかどうかなど。

 

 ● アメリカと日本の共通点その3。報道人間による権力追従ぶりは洋の東西を問わない

 さらにもう一点、映画『JFK』から見えてくるアメリカと日本の共通事項を挙げるとすれば、新聞やテレビなど、報道機関に携わる人間達の悪質さだ。これは本当に洋の東西を問わないのだろう。

 ギャリソン著『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』にもマスコミの性格を鋭く指摘した文章があったので、一部を引用する。

 

(引用始め)

 ニューオーリンズへ戻る飛行機のなかで、私はカーソンや私に質問をしたNBCの弁護士たちの思考様式のことを考えてみた。私の見解に対して彼らがいらだったのは、それが彼らの見解と異なっていたからというよりは、私がケネディ暗殺事件に陰謀がからんでいると明確に主張したためだ。話が陰謀におよぶと、弁護士たちの顔にあきらかに軽蔑の色が浮かんだことを思い出した。私は、自分が一九三〇年代なかばのドイツ国民で、アドルフ・ヒトラーの正気を公然と疑ったために精神病院へ送られることになり、それに先立って尋問を受けてでもいるような錯覚を覚えた。私が陰謀のあったことを主張し、議論が自熱したときに、カーソンが冷静さを失ったことを思い出した。

 ニューヨークのマスコミの中核にいる人々が陰謀説に対してこれほどのアレルギー反応を示すのはなぜなのだろう、と自問した。陰謀説がなぜそれほどまでに信じがたい、とほうもない考えなのか。

 このとき、おそらくはじめて、私は人々が硬直化してしまい、頭が働かなくなってしまう理由に思い当たった。組織的な陰謀の存在を認めたら、それがある目的のためであったことを認めることになる。つまり、政府の政策を変更させるという目的が存在したことを認めなければならなくなる。アメリカが世界でもっともすばらしい国であることを長いあいだ世界に宣伝してきたマスコミにしてみれば、政府の政策を変更させるために、国の指導者がそのような残虐な方法で排除されることもあり得ることを、認めたくはないだろう。それはアメリカの民主主義が虚構だったと立証するようなものだ。そんなことはあってはならない。したがって、彼らにとって、ケネディ暗殺事件は狂った独り狼がひきおこした偶発的な事件でなければならないのだ。

(引用終わり)『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』(ジム・ギャリソン著、ハヤカワ文庫NF、岩瀬孝雄訳、一九九二年二月十五日 発行、一九九二年四月十六日十六 十八刷)(321~323頁から引用。傍点略。読み易いように段落ごとに改行。自熱というのは白熱のことと思うが原文ママ)

 

 ギャリソンは生来の生真面目さと誠実さで、おそらくは原文でも上品に書いていると思うのだが、私がもっとハッキリ言ってしまうと、真実を暴露していないどころか隠蔽している新聞テレビの報道業界人間どもは、有害なだけで存在自体に何の価値も無いんだよお前らは、そういうつまらない手先人間でつまらない人生をつまらないまま一生終わっていく社会のゴミなんだよ、そういうふうに言われているような感じを受けてしまう、感情の奥底で敏感に察知するのだね報道業界人間達は。

 自分たち報道既得権益の専売特許が脅かされるのを警戒する。報道関係者以外でよっぽど先鋭に真実の追究を行っている人間の存在、特に自分たちの見解と真っ向から反対する脅威の人間を封じ込めなければ、一斉に価値と社会的信用が失われていくことになる。

 だから彼等にとってギャリソンは許せない人間となった。なんとしても社会的信用や声名を失墜させなければいけない。この悪循環により、新聞テレビはどんどんどんどん本当に重要なことを報道することから遠ざかり、謀略報道と娯楽番組ばかり熱心になっていく。

 人間としての価値の無さと人格の薄っぺらさをハッキリされるのが嫌なのだあの連中は。だから本当の真実追求派に対して、変人の陰謀論者のレッテルを貼り、その他のただの陰謀撒き散らし屋と一緒くたにして、やっぱり自分たち新聞テレビが一番信用出来るでしょ、と勝手に安心するわけだ。

 日本のマスコミ人間達は、日本のデモクラシーが成立しているというのは思い込みで、虚構だったと立証されることを恐れて避けるというような、いくらかでも殊勝な動機は持ち合わせてはいないんじゃないか。まぁ日本の律令官僚達の正体や支配の実態を隠すという目的はあるかも。なんにせよ単に権力者に仕える隷従管理者層であるだけだ。これがマスゴミ隷従管理者層が陰謀のレッテル貼りで安心感を得られる理由だ。報道人間というのは何故かどんどん浅薄になっていく。それが業界人間になっていくということだろう。

 逆に言うと薄っぺらくならなければ、業界では平穏無事にやっていけないのだ。立派な人格のままでは、精神が擦り切れていく。そのうえクビや生計もかかっている。昇進するためには上層部とスポンサーの意向も無視出来ないし、真の権力者層の意向はもっと無視出来ない。多くが安全と生活のために権力者の手先になっていく。積極的手先と消極的手先がいるように、自覚的手先と無自覚な手先がいる。日米ともに半自覚的なのが一番多いというところだろう。

 報道人間は自分達こそは隠された真実や事件の真相を追及しているつもりで、その有資格者だと主観的には思い込んではいるが、実際には権力者と自分達に都合の良い内容や無害な内容であれば報道するものの、都合の悪い真実であれば封殺、黙殺して、さらには誤魔化し情報をまぶし、平気で命令による報道路線変更もやる。変節を何の反省も謝罪も政府広報機関宣言もなくやってのける。

 告発者や真実暴露派は応援されるどころか、かえって報道人間達による攻撃に晒され、報道機関内部でも圧力に屈せずに報道しようと試みる勇気のある者は跳ねっ返り、造反者として排除される。

 普段からなるべく真実を伝えたいと感じている者も、大問題になると圧力が激化していき屈従しなければ職も命も危ない。この構図はアメリカも日本も他の国も大して変わるまい。ジャーナリズムから一番近いところの最大の裏切り者は、プロパガンダと虚偽情報を恥も外聞も無く垂れ流す新聞テレビ業界人間達である。

 映画『JFK』でも秘密捜査をリークされてしまって新聞記者が事務所に詰め掛ける様子や、ニューズ放送でキャスターからギャリソンが攻撃されるところを描いている。ギャリソン本人がテレビのトーク番組に出演しても思うような発言はさせてもらえず、写真を映そうという行動を遮られる。

 見るからに軽薄そうな司会者がギャリソンに、

 司会者「大統領暗殺は亡命キューバ人、マフィア、CIA、FBI、ペンタゴン、そしてホワイトハウスも加わった陰謀だということですね。そこであなたに質問したいのですが、リー・ハーヴィー・オズワルド以外で陰謀に参加しなかったのは誰ですか?」

 と言って茶化して観客の笑いをとるシーンがあったが、あれこそテレビ業界人間の本質をよく表していると思う。本当に真剣な人間を常に嘲笑おうとするその姿勢。自分達の人生と同じ程度のレヴェルにまで他の人間を引き摺り下ろしたい、評価を下げて自分達報道権力を誇示し、満足したい。これがまさにテレビ報道の本質だ。反権力を気取りながら真相隠しに率先して加担したのである。

 映画『JFK』自体への新聞テレビの批判やら非難やら誹謗中傷の嵐も凄かったらしいが、ストーンにとってはいい宣伝にもなったんだろう。最近ではダン・ブラウン原作、ロン・ハワード監督作品の『ダ・ヴィンチ・コード』The Da Vinci Code(2006)でも見られた傾向だが、問題作は話題になり売れるから、大ヒットに繋がる可能性が高い。それにしてもヴァチカンとカトリック陣営はケネディを守るつもりはなかったのかな。

 何度でも繰り返すが、商業・営利の側面を無視したり否定したりしていては話が進まないのである。大前提として商売映画、金儲け映画であっていいのである。内容はそこから先の話だ。もちろん、たとえ興行的に失敗したとしても、内容が素晴らしければ名作・傑作として評価され歴史に名が残るという作品があるのは間違いない。それは商業映画、金儲け映画を肯定することとは別の次元の話なのである。

 マスコミの話に戻るが、それにしたって日本のマスコミのひどさ加減は、アメリカの100倍ということはないだろう。ひょっとして同程度なのではないか? それを確かめたいのだが、自分の英語無理解がなんとも悔しい。字幕がないと何を言っているのか分からない。

 関係ないけど、日本のマスコミはマスゴミと呼ばれて久しい。偶然「コミ」と「ごみ」が似ていたことを忌々しく思っている業界人は多いだろう。「エコ」と「エゴ」が似ていることを苦々しく思っている環境保護派たちも同じようなものだ。

 報道業界人間は普段からあれほど軽薄かつ浅薄ぶりを映像全面に露出している。本当に真実を追究するという仕事をするには、1人の人生をまるごと呑みこむほどの物凄い状況になることを覚悟しなければならない。それほど四方八方から抵抗と攻撃に遭うことになる。薄っぺらい業界人間達にそんな仕事が果たして出来るかどうか、考えてみればいい。

 先生のおっしゃる通り、テレビ人間達はカメラの前に座るか立つかしているうちに、才能だけを吸い出されるように消耗、消費しているのであろう。そっちに力を使わなければならないので、志のあった人間も次第に真実は二の次、三の次になり、おろそかになってくる。人生自体が浅薄な人間達が、どうやって真の恐ろしい権力者層の命令や圧力に逆って、真実の報道が出来るなどと信じられるであろうか。本物の真実追求派は常に危険に晒されているのだ。

 次の投稿に続く。