「科学」という言葉を使い続ける限り日本に本当の近代学問は無い
会員番号4655の佐藤裕一です。
● 故・小室直樹先生は社会学問者であり、日本に数少ない近代学問者だ
前出の新聞なのですが、その日の新聞に故・小室直樹先生の訃報が載っていました。
これでようやく公式報道に出ていたことを確認しました。亡くなったのは9月4日、死因は心不全だそうです。ネットのニュースにも出て、ウィキペディアも更新されました。ただその小室先生の訃報について、少々気になるところがありました。
故人の肩書きというか職業紹介が、評論家となっていて、ネットのニュースでもまず評論家となっています。多作だったし多くの日本人の認知は著作を通してですから、確かに評論活動をしていらした評論家であり著作家であることは間違いないでしょうけれども、私は多少違和感を覚えました。あくまでも第一番目には生涯の天職としての、学者と解説すべきではないのでしょうか。
日本人で学者と称するに値する人間が果たして何人いるのか知りませんが、真に学者である人物が第一に学者と呼ばれないのは何かが歪んでいるといえます。
日本の象牙の塔というか、特殊日本的繊細文化に沿って細分化された、閉鎖学界だか学会だか学芸会だか学術団体だかお遊戯会だか知りませんが、まぁそんなところが小室先生の業績をどれだけ認めているのかどうかなんてどうでもいい。
小室先生はもちろん学者です。もっと詳しく言うと社会学者なのですが、それだと社会学専門に限定されて受け止められてしまいます。小室先生は経済学や政治学でも成果を収めています。社会科学の各分野にわたって業績をあげているのですから、「科学」という日本語を使うことを前提にして問題無しとするのならば、社会科学者でいいでしょう。
私は個人的には勝手に小室先生のことを社会学問者、もしくは近代学問者などとお呼びしたいのですけれども。学問者などというのはいかにも言い難くてダサい日本語であり、科学者という言い易くてかっこいい響きにはならないですね。
● 小室先生でさえが最期まで「科学」という日本語を使い続けた
現代(近代ではない)日本社会の空気が、まだ「科学」から「学問」に変更することを受け付ける気配が、微かにも見られません。「科学」という言葉を廃して、この「学問」という言葉に置き換えて、それを正しい言葉遣いとして使うという副島先生の素晴らしい主張と決断は、広く認知されてはいないのです。
この学問道場ですら覚束ない有様です。一度定着した言葉の訂正運動というのはそれくらいの至難の道のりです。その言葉が社会で通用しているという既成事実がありますから、そこに挑戦するにはあえて意図して使っていかなければならない。
小室先生でさえが「科学」という言葉にはあまり抵抗しなかったのでしょう。日本人相手には日本語の枠の中でしか何事も成せませんから、小室先生でさえ日本語との付き合いには折り合いをつけて臨んでいたでしょうが、天才的頭脳の思考においてはさぞかしもどかしく、辛かったことでしょう。
それでも日本語で日本人に論理を説くことを小室先生は止めなかったのです。小室先生の「学問」に対する真剣な姿勢、真摯な態度こそを、私のような若輩者でも見習いたいものです。
「科学」という言葉のまずさを本格的に指摘したのは英語研究をしている副島先生でした。外国語が分かるようになると、母語のまずさもよく見えてくるようです。
英語については副島先生が日本において、最先端かつ最も肝心なところでの第一人者です。改革者どころかまさに開拓者と呼ばれるべきですが、今現在に至るまで重要な諸提言は無視されています。
● 科挙の学だから「科学」。それでいいのか?
しかしながら「科学」のまずさ加減は、英語の「サイエンス」との対応関係においてだけの話ではありません。化学(かがく)と同音異義語で紛らわしくて、わざわざ化学(ばけがく)と呼ばなければ会話で区別しにくくて煩わしいということだけでもありません。「科学」という言葉がそもそも日本語として意味不明なのです。
「学問」はそのまま、学び、問うですね。学習なら学び、習う。学修は学び、修めるで、ちゃんと意味が通ります。「科学」は何でしょうか。科の学(?)、科を学ぶ(?)。それぞれの科目を学ぶという意味合い? それならば学科でいいでしょう。学ぶ科目、です。
「科学」が二字熟語としての意味が不明確どころか、意味を成してないのに熟語として構成されているという、最悪のまずさが根本の元凶にあることを、副島先生は明確に指摘されました。ここ、副島隆彦の学問道場が、もし副島隆彦の科学道場だったら、私は会員になろうとは思いません。
もっとも、意味不明瞭のまま成立している熟語は日本語に沢山あります。それらを1つ残らず訂正せよということではありません。物事を根本から明らかにしなければならない「サイエンス」の訳語が、「科学」などという何だか分かったような分からないような言葉でいいのかということです。
それとドイツ語には「ヴィッセンシャフト」という言葉があり、日本語でいうところの「科学」と比較的近い感覚の用語だそうですね。私はここを掘り下げたところで何か有意義な発見があるとは到底思えないのです。所詮「科学」存続の言い訳になる程度でしょう。
元々、中国の科挙の学が「科学」の由来の大元らしいですが、日本は科挙をついに導入しなかったのですから、わざわざこの言葉を意味を改めてどうする、ということです。日本国憲法第9条における自衛権保有解釈のように、無理矢理に捻じ曲がった解釈をしながら意味をこじつけて「科学」を使い続ける必然性などないはずです。
もっとも小室先生によれば、明治以降の日本の高級官僚制度は愚劣なる隠れ劣化版科挙官僚であり家産官僚ですから、それに向けて使うのならば公務員試験とお受験勉強だけを「科学」とでも称していればよろしいのです。似非儒教体制は本当に害悪です。確かにこの意味でいえば、日本人がやっているのは「学問」ではなく「科学」でしょう。実態に合っているといえば、そうです。
その儒教の開祖と言ってもいい孔子は正名を説きましたが、正名運動は現在日本の言葉にこそ必要です。政治のためにでもありますが、それよりは「学問」のために必要です。英語に対応した新語に造語時点での失敗が多くてそれを引き摺っている。
● 有害無益の失敗訳語、「科学」と「哲学」
西周、井上哲次郎、森有礼ら明治維新と開国の頃の、大翻訳運動の当事者の努力には功罪あるでしょうが、やはり失敗訳語や失敗造語の害は大きい、今に至るまで響いているなぁと判定しなければいけないでしょう。文法に抵触しないところの、1つ1つの失敗単語ぐらいは、直ぐに訂正していきたいものです。
学問用語における失敗訳語でも、最低最悪の部類に入るのが「科学」と、「フィロソフィー」の訳語である「哲学」でしょう。
形而上学とか形而下学とかいうのもありますが、こういう字面を見るだけでウンザリして思考停止するような日本語の方が、普段から頻繁に使うというわけでもないし、まだ訂正し易いと感じます。
繰り返しますが「科学」と「哲学」は言い易く、見た目と音の響きが良いので一般受けしました。国民意識にまで深く根付いて定着してしまったため、そうそう簡単には変更を受け付けないのです。
「フィロソフィー」が、知を愛する学で、副島先生が「愛知学」とすべきであったと指摘していますが、あまりに言い難いだけではなく、こっちも日本においては地名に愛知県があるという固有の事情もあって訂正困難です。愛知県を詳しく学ぶ地域学なのか、となってしまいます。
失敗単語をたかが言葉ではないかと侮ってはいけません。言葉は現に法律に使われるし(法律用語からして無理がある翻訳語が多いことでしょう)、政治は言葉によって語られ、戦争は言葉1つの解釈の違いで引き起こされ、人間の性格は普段から使用する言葉から形作られ、時には人生を決定的に左右します。
「科学」の場合は、その研究者・学者が、最初の出発点からその思考が濁らされるという、最悪の効果効用がもれなく人生についてまわります。その学者が学問者ではなく科学者になり果てるのです。大元の言葉が思考を混濁させる元凶、原因なのだからそうなって当然です。
「哲学」もそうです。「哲学」を学べば学ぶほど愛知学者ではなく哲学者になっていきます。
それが表面上は目に見えないから言葉は恐ろしいのです。言霊信仰者でなくても言葉の重要性は片時も疎かには出来ません。使う側のはずの言葉に振り回される人間、主客転倒です。
別に疎外ではないのだから経済の話ではあるまいし、単語ぐらい訂正すればそれでいい話であって。疎外というよりも正しく明瞭な理解を阻害するのが失敗訳語です。だから間違った失敗言語を放置しては駄目なのです。
別に唯名論とかの議論にまで入っていくことまでしなくていいから、駄目な言葉はさっさと捨て去って死語にして、古語辞典に入れてしまうべきです。それが前近代科学の惨状から離脱して、近代学問に少しでも近付く第一歩となります。
暗い世情のなか、慶賀すべきノーベル章の日本人受賞に沸き返ることに水は差すつもりは毛頭ありませんが、日本語の「科学」を捨て去ってしまえば受賞者を称揚するよりも、将来的にはよっぽど良い効果が期待出来るでしょう。