「哲学学者なら、もちろんいっぱいいます。しかし、フィロソファーはいたか。」by 植田信

会員番号4655 佐藤裕一 投稿日:2010/09/04 08:00

 会員番号4655の佐藤裕一です。

 植田信氏のサイト掲示板(一般閲覧者、非会員にも無料公開の方)における最近の文章を投稿順に拝読していたら、気になる植田氏の文章を発見して私の脳内アンテナに引っかかったので、「気になる記事の転載掲示板」の本分としては転載貼り付けさせて頂き、より多くの目に触れるようにする。それにしてもサイトリニューアル後に来訪客を数えるカウンターが無くなってしまい目安が分からなくなってしまった。

 植田氏のサイトは基本的に、登録している会員の会費で成立している有料サイトであって、一国一城の主が管理する独立サイトとして成立しているのだから、私なんかの記事紹介など余計なお節介、大きなお世話といったところは承知である。「気になる記事の転載掲示板」自体がそういう趣旨の掲示板なのでご勘弁願いたい。

 ところで私がここで言うところの「独立サイト」というのは「学問道場の元会員が独立して作ったサイト」だとか、「大手の提供レンタルサーバーを利用しないで管理者が独自に作成しているサイト」とかいった意味ではなく、「そのサイト管理者が販売する商品を客(会員等)が購入する代金で費用を賄い運営が成り立っているサイト」のことを指す。つまりここ「副島隆彦の学問道場」も独立サイトである。

 広告収入だのアフィリエイトだの、営利・非営利などという意味ではない。言論も有料で販売可能な商売である。黒字か赤字かということは確かに重要である。だがIT・ネット革命後の2010年になってもいまだに、ネット言論なんかで食っていくのは至難の業であることは、このサイト管理未経験者の私にすらも、なんとか理解出来る。そうそう言論商売に、金など出さない。ネット無料礼賛文化の巨大な弊害部分である。私も無料文化の恩恵を享受しており、学問道場の会員であるだけなので偉そうなことは言えない立場であった。

 なので今回は私の余分な解説など不用ということで、植田信氏の無料公開版の掲示板から該当文章を転載貼り付け致します。政局が波乱すぎてゆっくり議論していられないのがなんとも落ち着かない。そういう政治動乱の時代状況だ。

(佐藤裕一による転載貼り付け始め)

木田元氏の得意技は、鉄棒だった 投稿者:ウエダ 投稿日:2010年 9月 3日(金)19時05分19秒 編集済
こんばんは、皆さん、植田です。

 リンクをつくるというのは、けっこう面白いではないですか。
 特に、哲学者。
 めぼしいところをピック・アップしてみたのですが、ヘーゲルの『哲学史講義』に出てくる哲学者の名前を全部挙げて行けば、この5倍は必要でしょう。
 しかし、そんなに名前を挙げたところで、普通に考えれば、寿命が足りません。付き合っていられるか、です。

 で、あとは、調整していきましょう。

 そこで、西洋哲学者の場合はいいのですが、ここで悩むのが、日本の哲学者をどうするか、です。
 うーむ、私の悩みは、日本人に「哲学者」がいるか、です。
 いや、いますよ、もちろん、日本語で「哲学者」と名乗っている人たちは。
 梅原猛氏が、堂々と「哲学者」と名乗っています。
 うーむ、しかし、どうも私のイメージと違うなあ。

 タイムリーに今月の日経新聞の「私の履歴書」が「哲学者」の木田元です。
 しっかりと、「哲学者」と名乗っています。
 いや、まあ、中央大学で長く哲学を教えていた人ですから、もちろん、それでいいわけです。
 しかし、うーむ、・・・。

 そうです、哲学という日本語ならそれでいいのですが、これがphilosophy/フィロソフィー、となるとどうか。
 そう、ここで私の中でイメージがしっくりこなくなります。

 うーむ、日本人に、西周、津田真道 以来、フィロソファー/哲学者、がいるか?
 哲学学者なら、もちろんいっぱいいます。
 しかし、フィロソファーはいたか。

 そもそも律令理性人にフィロソフィーが可能なのか?
 いや、知能・知生の問題ではなく、日本社会の中で、普通に、社会的身分を維持しながら、フィロソフィーが可能なものなのか?

 ノー、というのが、律令理性論の答えです。
 もし日本人が本当にフィロソフィーをやろうとするなら、律令社会からドロップアウトするしかない、というのが律令理性が導き出す答えです。
 律令システムと和合して哲学ができるとしたら、それは、フィロソフィーではなく、日本語の「哲学」です。

 では、「フィロソフィー」と「哲学」はどう違うか。
 そう、これを考えるだけで、日本人の理性は律令理性から自然理性へと転換します。

 では、木田元氏は、大学教授として「哲学者」の人生を生きたわけですが、この転換を達成したか。
 今月82歳になったということです。

 小学生の時に、鉄棒の大車輪が出来たとか。

 「4、5年の担任だった西村徳見先生は、長崎県の五島列島出身の体操専攻の先生で、鉄棒の選手だったそうだが、この先生がとてもかわいがってくれた。放課後特別に鉄棒を教えてくれたので、私は小学生のうちから蹴上がりや大振りができるようになった。」日経新聞2010.9.3

 ははあ、なるほど、そうだったのか!!
 いや、私の友人に鉄棒の大車輪ができる非常に優秀な人物がいます。
 優秀な、というのは、日本語では、特に「東大卒」の人につけられますが、この友人も例外ではありません。
 で、木田氏の哲学を慕って、中央大学に入りました。
 東大卒の人が考えることは、こういうところで、もう、常人の理解を超えています。

 で、彼の得意技が、鉄棒の大車輪です。
 ははあ、でしょう!?
 なるほど、師匠が、鉄棒が特技の人でした。
 そうなのかな。
 まあ、冗談です。

 鉄棒と哲学、まるで関係がありません。
 これは、高杉晋作が言う、「おもしろきことのなき世を」面白くするための人間の工夫です。

 しかし、こういうのが、生身の人生なのでしょうねえ。
 ハイデッガーに入れ込んだ日本人が、実は、鉄棒が特技だった、と。

 だから、そんなことは哲学とは関係ないって、なんて、どこかから言葉が飛んできそうです。
 退散、退散。

(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)

 植田信氏の公式サイト
http://www.uedam.com/

 Study of History
http://8706.teacup.com/uedam/bbs

 Study of History 木田元氏の得意技は、鉄棒だった(転載元投稿文章)
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/8799