「デパートメント・オブ・アンソロポロジー・アンド・リングイステイックス(人類・言語学部)」

菊地研一郎(会員番号2555) 投稿日:2010/09/19 07:09

会員番号2555の菊地研一郎です。

副島隆彦の論文教室「0101」(鴨川光)に対して。

言語学者の鈴木孝夫と田中克彦の対談を引用して、
アメリカの「文化人類学」とは何か、
鴨川論文とは別の角度から光を当てます。

19?20世紀のアメリカンズ(主に英独からの移住者)は、
行動主義という新方法によってインディアンズ(未開の先住者)を研究し、
ヨーロピアンズ(主に英仏独)からの独立を試みる。

そして我々日本人は広い意味では研究対象となったインディアンズの一員である。

〈鈴木 (略)
 服部(四郎。引用者注)先生は当時(1950年。引用者注)、構造言語学的なご自身の素養があるにもかかわらず、アメリカ言語学にすごく批判的で不満だった。服部先生はヨーロッパ的な意味論と音韻論とテーマが両方あったのですね。ところが、アメリカはご承知のように当時は行動主義の全盛時代で、意味なんてそんなわけわかんないものは言語学で扱わない。だから、言語学は口から出て他の人の耳に到達する音波だけを研究するので、頭のなかで何が起きているかは心理学か哲学かにお任せする、という純客観主義のアメリカ構造言語学の最盛期だったのです。だから服部先生は意味の研究ができない。
 構造言語学は、インディアンの無文字社会をアメリカ社会が取り込むために、とにかく言葉がわからないといかん、そのためには文化もわからないといけないというので、文化人類学という学問と同時にアメリカで発達した。インディアンというヨーロッパ文明、ギリシア・ラテン語ではどうにも説明できない異質の言語、文化、それを理解しようというのが文化人類学なのです。
 ですから、アメリカの言語学は相当長いあいだ言語学科としては独立していなかった。言語人類学科だったのです。だからどこの大学でも「デパートメント・オブ・アンソロポロジー・アンド・リングイステイックス(Department of Anthropology and Linguistics)とたいてい書いてありました。
 私が一九七〇年代にエール大学へ行ったときも、教えた学部はデパートメント・オブ・アンソロポロジー・アンド・リングイステイツクス。言語学はアメリカの大学のなかでまだ独立はしてなかったのです。

田中 その文化人類学は、まだ一度も歴史が書かれなかった無文字の民族の文化を主として研究した。それで成功したのがルース・ベネデイクトのアポロ型とデイオニソス型というパターンを利用した文化の研究で、その経験をもって日本の文化の研究をやったのです。そのようにして書かれた『菊と刀』は日本語に翻訳されてずいぶん読まれた。そして文化人たちの議論の的になった。非常に多くの人が怒っちゃったのですね。
 つまり、歴史を自分で書いたことのないような歴史のない、文字もない異民族の文化研究の方法を、そのまま日本に適用したというのでね。日本のような高く深い文化のある国を文字のない文化と同じ方法で研究するのはけしからんという派がいた。柳田国男は、彼の民俗学のある方法論を補強してくれると考えていたようだけれど。そのほか折口信夫、和辻哲郎なんかも入っていたかな、いろいろな人が寄ってたかって文化人類学を問題にした時代があるのです。
 それはアメリカ言語学の方法論を問題にしたというのとよく似ていて、面白いですね。言語学のほうは服部さんのような人がいたから、おおむね素直に受け入れられて成功した。これは当時のアメリカの学問の言語および文化研究を代表するアスペクトだったと思うのです。〉
鈴木孝夫,田中克彦『対論 言語学が輝いていた時代』(岩波書店、2008)pp.12-14