ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
会員番号2054 投稿日:2026/09/27 12:07

【715】鬼道と鬼神について

2054です。本日は2026年9月27日です。今回は、「物理学者が解き明かす邪馬台国の謎」の著作にある下條氏の見解をさらに考察してみたいと思います。

今回は、「鬼道と鬼神の違い」についてです。

 

(1)下條氏の見解について

まず下條氏は、「鬼道」と「鬼神」を以下のように二分します。

■鬼道 = 五斗米道の神々のことで、別名は「天神」である

■鬼神 = 土着神による怪しい呪術や占いのこと

つまり鬼道は神ですので「敬うべきもの」、鬼神は怪しい呪術ですから「捨て去るべきもの」で、五斗米道は後者を禁じたとします。老子想爾注という五斗米道の解釈テキストを根拠として「五斗米道では鬼神を信じることを禁じているのだ。だから、鬼道ということばは、まさに、鬼神と区別をつけるためにあることばである」とします(上掲書p59)。

 

(2)私の疑問の出発点について

一般的に鬼道と鬼神を区分する見解は聞きませんし、言葉のニュアンスとしても疑問がありました。

古来から中国大陸では、「鬼」とは本来は「死者の魂」そのものを指し(※1)、「神」とは、「天にあって万物を生成する霊力のこと」をいいます(※2)。つまり、

■鬼=土にかえる死者の魂(属性は陰・地・死者・過去)

■神=天上から万物を生成・運行させる天の霊力(属性は陽・天・生命・未来)です。

 

たとえば、「魂魄」という言葉は、この鬼神の考え方をよく示す言葉です。

魂(こん)も魄(はく)もどちらも「気」のことをいうので似たような意味と見えますが、実は全く違います。精神の向くベクトルが逆方向なのです。

人間が死んだときに「土にかえる霊」が魄(はく)でベクトルは下に向いています。他方、「天上に消化する精神」が魂(こん)でそのベクトルは上に向いています。いわば正反対の2語が接合することで天上から地面までをすべて含んだ世界観を内包した用語になっています。

鬼神という言葉も同じです。世界全般を示す用語に過ぎません。

 

そして、このような語源から考えれば、鬼道も神という言葉にはなりません。「鬼」が土に帰る死者霊を指す以上、「鬼道」とは地に留まる死者(鬼)の霊の「通り道」とか、霊を呼び寄せる「手法」を指すことになります。ここから口寄せや降霊によって吉凶を占う実践的手段(シャーマニズム)という意味に転じたと考えられます。

実は、後述する福永光司氏の説明も、この語源に即した説明になっています。

もともとの語源からして下條氏のいう定義は違うのではないか?

果たして下條氏の二分論は正しいのでしょうか。以下、私が検討した点を示したいと思います。

 

※1 「鬼」の古来からの用法について

鬼とは、人の帰する所を鬼となすと、『説文解字』(後漢の漢字字典)にあり、また、儒教の『礼記・祭義篇』においても「命あるものは必ず死し、死せば必ず土に帰す。これを鬼と謂う」とあります。つまり「死んで土にかえる死者の霊魂のこと」をいいます。

※2 「神」の古来からの用法について

『説文解字』によれば神とは、天神にして万物を生み出し生長させるものと定義されます。

 

(3)福永光司氏の見解の誤読について

下條氏は上掲書において、「鬼道」とは五斗米道のことなのは道教研究者の中で常識であるとのべ、神塚淑子氏や福永光司氏の見解を紹介している。しかし、少なくとも福永氏については下條氏の見解と同じではありません。なぜなら下條氏が引用している文章にも「この三張道教は中国古来の巫術を中心として祈福や治病などを行い」と書いてあります。五斗米道が鬼神を禁じているなら、このような呪術は行わないはずなのに、怪しい呪術や占いを行っている、と福永氏はしっかり言及しています。

 

実は、福永氏は『道教と日本思想』(徳間書店、1985、p75~80)において、「鬼道」という言葉の意味変遷について詳述しており、下條氏の説明とはまったく違うことを述べています。

鬼道という用語が紀元前のいつから使われ、意味がどのように転じたのか、3000文字以上を用いて詳述しています。引用するのは長すぎるので、私が内容を要約します(私の意訳も含みます)。

 

福永氏によると、3段階で意味が変わるとのことです。

(1)第1段階

本来は神をまつる祭壇において鬼神が出入往来するための道路(物理的・神事的な道)という意味でした。つまり、「宗教儀式上の道路」を指していました。紀元前の周〜秦・前漢時代のことです。

(2)第2段階

道路そのものから、鬼神そのものをあやつる行為、つまり、呪術ないし宗教的な信仰儀礼そのものという意味に転じます。これが後漢〜三国時代のことで、まさに卑弥呼の時代の話になります。この時代において、卑弥呼の「鬼道」とは土俗的な呪術・シャーマニズムそのものを指す言葉となります。

(3)第3段階

南北朝時代以降になると、仏教の影響もあり、後世の道教側(五斗米道などの後身)は、外部から「あんなのは、低俗な鬼道(シャーマニズム)だ」と攻撃されるようになります。そのため、道教側でも「いやいや自分たちは崇高な教えであって、土着の巫術呪術である低俗な「鬼道」と一緒にするな」と言い出して、鬼道にネガティブなレッテル貼りがされるようになりました。そして道教側は自分たちは「鬼道」から脱却しようとしていました。

以上です。

少なくとも福永氏は、「鬼道」は五斗米道のことであるとも、五斗米道の神々であるとも、まったく述べていません。

(4) 老子想爾注の成立時期と鬼神を禁じた理由について

老子想爾注の成立時期は争いがあるようですが、卑弥呼の時代(福永氏の第2段階)ではないだろうというのが有力なようです(参照:麦谷邦夫『老子想爾注について』)。

南北朝時代以降であれば、自分たちの教義と、古来からの土着呪術を区分する必要があった時期ですから、低俗な風習は禁じるという文脈において「鬼神(巫術、呪術)を禁じた」と解釈ができます。そして、自分たちの教義は「崇高で正しい教え」として逃げ切ろうとしたのでしょう。その「言い逃れロジック」が老子想爾注に表れています。

そのように考えると、卑弥呼の時代の話でもなくなりますし、老子想爾注を根拠に「鬼道」と「鬼神」を区分するのは区分自体が誤っているだけでなく、時代錯誤にも陥っているように思います。

 

(5) 范曄の後漢書について

陳寿は『三国志』魏志倭人伝で卑弥呼の行為を「事鬼道(鬼道に事え)」と書きましたが、のちにその記述をもとに『後漢書』倭伝を編纂した范曄(はんよう)は、これを「事鬼神道、能以妖惑衆(鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす)」と書き換えました。

「鬼神」が天神地祇や先祖霊全般を指す以上、「鬼神道」とは神霊全般を動かす呪術・神事「全般」を意味します。つまり、当時(5世紀)の歴史家(范曄)自身が、「卑弥呼の行っていた鬼道とは、鬼神を祀って妖術を行う土着の呪術(=鬼神道)のことだ」と表現したものと言えます。

このように古来から5世紀の後漢書までの用法を見ていると、鬼道と鬼神の二分論というのは、五斗米道を特別視する何らかのバイアスのかかった物の見方と感じられてしまいますが、皆様はどう思われますでしょうか。

 

(6)古代の為政者は巫術者の素養がある

小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗からきた神武』p168~170には、為政者の必要条件が記載されています(※3:引用箇所は長いので最後に記載します)。

その内容を簡略にまとめると、以下のようになります。

(1)古代においては、王自身がシャーマンであり、シャーマンの長であった(最近の中国研究者の見解)。(2)巫術者の役割は、時代によって変遷している。もともとは(その語源からも)死者との交流を行った。死者との交流だけでなく、吉凶を占い、ときには、ひでりや雨乞の時、犠牲として天に捧げられた。

(3)時代が経つと、死者との交流よりも、風雨や天災を支配する呪術が巫者の条件になっていく。戦国時代中期以後、中国民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、風雨を支配する巫術者と考えられていた。

 

下條氏(そして岡田英弘氏)は華僑説を頻繁に持ち出しますが、古代の為政者は商才たくましいだけの華僑では務まりません。シャーマンであれば、損得勘定で動く商売人は、むしろ似つかわしくないと思えるのは私だけでしょうか?

そもそも、現代のビジネスマンのイメージを古代にそのまま投影するのはアプローチとしても正しくないと私は思います。

低俗な呪術と蔑視されてきた巫術ですら、(断片的なものがおおくても)史料や伝承などに痕跡を残しています。仮に華僑が為政者であり、「華僑が倭国を支配した」のが事実なら、なぜその証拠が史料上に何ひとつ存在しないのか。その点をもってしても、私は、華僑説は誤りであると判断しています。

以上です。

 

※3 『江南出身の卑弥呼と高句麗からきた神武』p168~170、貼り付けはじめ

巫術と、卑弥呼が長じていた鬼道とは同じ道教的呪術と考えられているが、鬼道の鬼とは魂が天に昇る前の死者をいう。悪く言うと魑魅魍魎の類にもなりうる状態の死者である。鬼道とはその道に通じた人というのが文字づらからみた解釈になる。紀元一世紀に巫術の中心地である江南の紹興に住んでいた王充(『論衡』論死六二・訂鬼六五)によると、巫女は元弦(楽器の類といわれるが詳細は不明)を叩いて死人の魂を下ろし、死者に話をさせるとある。それだけではなく、吉凶を占い、ときにはひでりや雨乞の時、犠牲として天に捧げられる場合もあった。周の時代には手に茅を持って舞い、託宣をしたという。『記紀』にみえる天岩戸に隠れたアマテラスを誘いだすため、手に小竹葉を持って舞ったアメノウズメの命が巫女のオリジナル版というのは通説である。

これらは主に巫女の場合だが、戦国時代中期以後、中国民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、風雨を支配する巫術者と考えられていた。後年になる程、死者との交流よりも、風雨や天災を支配する呪術が巫者の条件になっていくようである。

我々が現在見ることができる中国の史料はだいたい正史だから、中国歴代王朝が支持した儒教が中国の民衆の基礎哲学と思い込みがちである。しかし、現在では初期の時代から近代に至るまで、道教的観念と渾然一体となった巫術が民衆を心身共に支配していたという説が有力になっている。

最近の中国の研究者は、古代においては、王自身がシャーマンであり、シャーマンの長であったと考えているようだ。しかし、中国の古代はシャーマン=王だったとしても、為政者が儒教を民衆統治の手段にしてからのち、本当の意味で民衆を心身ともに支配した巫術者の行為はおおむね時の権力に対してアンチテーゼとして働くため、裏面史として史料に残される例が極めて少ない。また、正史の編者はすべて官職にある者、あるいはあった者だから、為政者の立場、つまり時の王朝からみた歴史を記述するという限界がある。だから民衆の中から起こった巫術者が指導する反乱は、正史の断片的記述から丹念に拾いだす他はないのである。

(貼り付けおわり)

会員番号2054 投稿日:2026/09/23 15:57

【714】金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は誰がいつ持ち込んだのか

2054です。本日は2026年9月23日です。2022年8月に重たい掲示板において下條氏とやりとりをした続編を4年ごしに投稿したいと思います。ご興味のある方は、重たい掲示板:[3453]、[3456]、[3458]、[3459]もお読みいただければ幸いです。

以前の投稿で下條氏が自説を最も根拠づけたのは金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)の存在です。この点について考察してみたいと思います。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡というのは、大分県のダンワラ古墳から出土された直径21.1㎝の鉄製の鏡です。鉄の鏡はさびやすいので、銅鏡以上に高度なものとされます。この鉄鏡は背面に金錯・銀錯の象嵌をほどこされ、きわめて高級なもののため、「王宮関係に限られる(物理学者が解き明かす邪馬台国の謎p36の引用箇所、潘教授の見解)」。つまり国宝級のものということです。
この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の存在を根拠に、下條氏は「なぜそんな貴重な鏡が日本にあるのか?」と問い、「それは卑弥呼が魏王室と縁戚関係だからだ、そう考えないと説明できない」としています([3459]の回答によります)。
正確を期すために箇条書きすると以下のようになります。
(1) この鉄鏡は曹操の身内(息子や娘)しか持てない貴重品であり、魏王室と縁戚関係にあった張氏一族(張玉蘭)であるからこそ所有し、厚遇された
(2) 銅鏡百枚とは別に、張魯の娘が個人的に卑弥呼に送った鏡である(上掲書p76)
(3) 魏王室の縁戚だから、卑弥呼は「親魏倭王」として金印紫綬や莫大な返礼品を授与された
(4) 許氏一族などは魏王室の縁戚ではないため、この鉄鏡の存在や金印紫綬の説明がつかず、卑弥呼ではあり得ない

以上を前提に私論を述べていきます。
まず時代背景から考えます。
もともと江南の巫術者集団は為政者による儒教思想のアンチテーゼのような存在で、彼等は道教と結びついて、地下水のように脈々と民衆の中に流れていき、絶えることはありませんでした。そして、何かのきっかけで反乱が勃発し、そのたびごとに為政者側は鎮圧したり懐柔したりを繰り返す、というのが中国史です。そして、2世紀後半は、後漢の内紛期で、ちょうどその民衆による反乱が突出した時期です。許氏の乱(172年)や黄巾の乱(184年)がそれにあたり、周辺諸国は好むと好まざるとにかかわらず余波を被った時期です。
歴史は連動しますから、朝鮮半島や日本列島はもろに影響をうけたことが史料上からうかがえます。
新羅本紀には173年に「倭女王卑弥乎が使者を遣わして交際を求めて(阿達羅王に)来訪した」とあります。その年号は許氏の乱の1年後です。魏志倭人伝も合わせると、許氏の巫術者(許黄玉)が、列島の「卑弥呼」の名称を語って北九州(伊都国)に定着し、倭人の小国王たちに共立されたのだろうと解釈できます。なお、黄玉は巫術と関係の深い表現で、巫術(魏志倭人伝にいう「鬼道」)にすぐれた卑弥呼にふさわしい名前です(※1)。
新羅(辰韓の1国)では、184年に阿達羅王が死に、伐休王が即位しています。伐休王は風雲を占い、洪水や日照り、その年の豊凶を予知し人の邪正を判断する能力があることから人々は「聖人」と称した。風雨を制御したり、吉凶を占う能力があるのが巫術者の条件ですし、巫術者は「聖」の字をよく使います。そう考えると、伐休王は巫術者であると考えて差し支えなく、黄巾の乱が掃討された年に新羅王になったことからみて黄巾の乱の残党であると考えられます(小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武』現代思潮新社p173)。つまり、その時期に倭国には許氏の勢力があり、その援護もあって中国を追われた残党が新羅王になったわけです。
そのような時代背景をもとに考えてみましょう。
巫術や道教といった思想背景を同じくする許氏が先に邪馬台国に根付き、その後に張氏一族などが亡命・逃亡先として邪馬台国に移動することは十分考えられることになります。それは邪馬台国が魏に使いを送っている239年ごろとは限りません。例えば魏が滅亡する265年や、もっと後になって魏王室の関係者が縁戚を頼って日本列島に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をもって移住したというシナリオも考えられなくもありません。そして、そのシナリオの真偽は鉄鏡をいくらシゲシゲと眺めてもわかりません。
つまり、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は「いつ、だれが、どのように」持ち込んだのかは解明できないわけです。
下條説は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏王室との縁戚関係があるから(卑弥呼に)送ったとしか考えられません」としますが、論理的には、「他の可能性はいくらでも考えられる」ということになり、そう評価するのが現時点の妥当な結論かなと私は思います。
換言すると、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡というのは、それ自体は貴重な考古資料であると評価できますが、その「モノの存在」から「張玉蘭=卑弥呼」や「魏王室との縁戚関係ゆえに下賜された」という、直接の証明資料にはなり得ないわけです。
私は、魏王室が「縁戚関係による温情(ファミリードラマ?)」などで、邪馬台国を厚遇したとは思いません。当時の国際情勢による計算(呉や高句麗との連合を防ぐために懐柔策とした)が働き、厚遇したと思います(詳細は[3453]に記述)。また、そもそも張玉蘭では新羅本紀の年号と合わないため、下條説は誤っていると思います。
ただ、下條説を正しいとして、「張玉蘭は卑弥呼である。卑弥呼は魏に使いを送った。魏王室の縁戚だから金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をもらった」ということを正当化するのであれば、他の側面(鉄鏡以外の独立した根拠)から「張玉蘭は卑弥呼である」ことを証明しなければいけないと思います。

※1 許黄玉の「黄玉」について
中国では仙女は鼻の上に、黍ぐらいの大きさの黄玉をあざのようにつけているのが特徴で、それがない者は偽物とされていたそうです。仙女は道教的な仙人の女性版ですから、霊験あらたかな巫女に近い存在です。まさに卑弥呼に似つかわしい存在です。
※参照:下條竜夫『物理学者が解き明かす邪馬台国の謎』秀和システム
学問道場の諸兄諸氏のなかで、ご興味のある方はぜひご一読されることをお勧めいたします。

会員番号2054 投稿日:2026/09/22 06:43

【713】蘇我氏は鮮卑ではない

2054です。本日は2026年9月22日です。シルバーウィークのお休みの間に投稿をしておこうと思います。
下條氏は「宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その2」において、蘇我氏の出自を北魏からきた鮮卑系の華僑としています。私は根拠がなく、すべて誤りであると思います。

(貼り付け始め)
北魏は534年、西魏と東魏に分裂した。北魏が分裂した東魏の末裔が倭にきたときに、「漢化政策」と似た「和(倭)化政策」をとったのだろうというのが、私の考えだ。漢化政策とは、北魏で鮮卑系の人々が中国風の名前や様式を取り入れたことをいう。だから、もう一回、この漢化政策と同じことをした、(中略)有力貴族も名を変えた。それが大和(やまと)にすむ「すが」「へぐり」「あや」「わに」などの有力豪族だろう。彼らの中には漢民族もいたが、「東漢(やまとのあやうじ)」、「西漢(かわちのあやうじ)」と同じく名前を和風に変えた。
(貼り付け終わり)

2054です。まず北魏の支配層が倭に渡来したという事実はどこにもありません。たぶん渡来していないでしょう。
(1)そもそも日本側から見て、受け入れる義理はどこにもありません。「我々は王族でござる」と言われても、利用価値が認められない集団を受け入れる気持ちは湧きません。王として尊崇するのはもっと無理です。
(2)渡来する側もそれなりの庇護者か血縁者がいなければリスクを冒して渡航はしません。
(3)甘樫丘を含め、大和地方の「広大な一等地」を領有するにはそれなりの軍事力がなければ不可能です。経済力を持つ土着豪族が「はいそうですか、はいどうぞ」と差し出すわけがないです。
(4)北魏の王族や貴族が大挙渡航してきたのなら、後世も含めて資料や伝承が残されるはずです。そのような証拠は私が知る限り存在しません。

東漢氏(やまとのあやうじ)が下條氏の説明に挙げられていました。彼等は北魏分裂の100年以上前に日本列島に渡来した渡来人ですが、彼等の場合は「それ相応の渡来する理由」があり、かつ、庇護者がいたから列島に渡来したと考えられます。以下、通説ではなく私見をもとに説明します。

東漢氏の祖は阿知使主は409年9月に列島に渡来したと日本書紀にあります(応神20年9月条)。彼等はどこからきたのか?
私は409年7月の北魏の道武帝による慕容氏(百余家)殺戮事件によると思います。殺戮を逃れた人たちは高句麗に逃れます。高句麗の広開土王は北魏にパイプがあり、かつ、慕容氏系という条件を満たす人物と考えられるからです。「高句麗本紀」の同年同月条には「平城の民戸を移した。8月に土王は南に巡回した」とあります。この平城の民戸とは北魏にいた慕容氏の人々でしょう。そして、広開土王は「南に巡回した」とあり、「南」とは古来から日本列島を暗示します。広開土王は倭国との戦争に完勝したのですから、倭国を事実上掌握していたようです。
北魏と倭国では「海を隔てて何千里」という距離があります。東漢氏の場合は、平城→高句麗→半島南部→倭国というラインが史料から推測でき、かつ、強力な庇護者(広開土王)がいました。だから、地縁も血縁もない倭国に渡来することができたわけです。
では、東魏の末裔の場合はどうでしょうか?
庇護者も指導者もおらず、何の史料的根拠もありません。「元」と「天」の漢字の形が似ているというのは単なる語呂合わせの域を出ません。
もし本当に蘇我氏などが王族として北魏からやってきたのだとすれば、阿知使主以上のインパクトです。史料や伝承に何の痕跡も残さずに、武内宿禰の子孫に収まること(蘇我氏の祖は武内宿禰であるとされます)は無理があるように思います。

また、最後に余談です。東アジアという政治圏において北魏が覇権を握り、辺境国に影響を与えたという「属国帝国モデル」は私も首肯します。つまり拓跋鮮卑は朝鮮半島や日本列島にも政治的インパクトを与えたと私も考えます。下條氏もその点に賛成されますでしょうか。
もしそうであれば、3世紀後半(285~286年以降)には、慕容鮮卑がその立場にあり、日本列島に100年以上の影響を与えたと私は考えます。下條氏は慕容鮮卑の王族は日本に渡来したと考えないでしょうか?
以上です。
参照文献:小林恵子『広開土王の諡は仁徳天皇』現代思潮新社p77~80

会員番号2054 投稿日:2026/09/21 13:50

【712】余談:天の香久山の解釈について

2054です。本日は2026年9月21日です。
下條氏の投稿その1の引用箇所に「衣ほすてふ天の香具山」という万葉集の有名な歌が載っていた。この、教科書に載るような有名な短歌「春過ぎて夏來るらし白妙の衣乾したり天の香山」について考察します。
まず、この歌は、持統天皇の歌とされており、その内容は一般に「春が過ぎて、いつの間にか夏がやって来たようだ。夏になると白い衣を干すという天の香具山に、真っ白な衣が干されているよ」という、実にのどかで平凡な風景をうたった歌とされている。それだけなら、「つまらない絵画のような歌」というだけですが、この歌の真意はそのような情緒的なものでありません。実にドロドロした政治的な意味合いを持っています。たとえていえば「暗号」です。
このことは小林恵子『本当は恐ろしい万葉集』(祥伝社黄金文庫)p174~176に詳しい。私の見解は、小林説に基づいているだけだが、以下紹介したいと思います。
まず前提として持統天皇は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という女性ではない。高市皇子である。そして、高市皇子は天武天皇の長子とされていますが、間違いだ。彼は天智天皇の長子(庶子)である。このことを前提にします(通説と異なりますので、異論はあるかと思いますが、とりあえず、私の仮説に立って、お付き合いいただきたいと思います)。

春過ぎて夏來るらし白妙の衣乾したり天の香具山
春過而夏來良之 白妙能衣乾有 天之香來山

万葉集だけとは限らないが、この時代は五行説の知識がわからないと歌に込められた「暗示」を読み取ることができない。この歌に必要な情報を分解すると以下の通りになる。

(1) 香具山は高市皇子の邸宅のあったところでので、高市皇子を表象する。
(2) 「春」は五行思想でいう天武天皇の季節、「夏」は木徳の次にくる火徳の季節で、大津皇子を指す。
(3) 高市皇子は土徳の人で、かつ近江朝の「水徳」も自認している人物です。
(4) 「白」は天智朝の色です。天智天皇は「金徳」、季節は「秋」です。

五行説から考えると、この歌はきれいに「木・火・土・金・水」が登場し、東西南北の中央に「土(=中央=香久山)」がきています。この短い文字数でよくもまあ計算できたものだと感心します。高市皇子(持統)は「おれが中央だぞ」と自慢しているわけです。そして、意訳すると、天武朝の春は過ぎて(=天武はいなくなった)、夏が来た(=大津皇子朝となった)が、ついに白い天智朝の秋である私(=天の香久山、高市皇子)の天下になったぞ!という、政治的な勝利宣言の歌になっているのです。

さらにこの歌で重要なのが「香久山」に「天」がつくことだ。香具山はすべての歌で「天の香具山」と歌われているわけではない。この事実は無視できない。
「天の香久山」と初めて詠んだのは舒明天皇です。高市皇子の父は天智天皇、その父は舒明天皇です。舒明→天智→高市(持統)という血統を示すためにも「天の香久山」と詠む必要があり、また、「天」のつく香具山の歌の場合は、歌った人物が倭国の主、つまり天皇になったという即位宣言の意味も込めたものと解釈できます。つまり血縁と即位を兼ねた「ダブル・ミーニング」なのだ。

高市皇子=持統天皇という前提に疑問をお持ちの方もいると思います。しかし、その疑問の持たれている方にあえて問いたいと思います。五行説は、当時の知識人であれば当然知っている学問的基盤です。「ああ、この歌は表は牧歌的だけど、裏はこんな意味だね」と誰もが分かるはずです。もし天武天皇の配偶者(あるいは別の人、つまり天武派)であれば、夫である天武の時代の終焉を祝うような歌を詠うはずがありません。それは政敵だからこそできることではないでしょうか。
このような「裏読み」は私はワクワクします。もし学問道場の諸兄諸氏の皆様も興味がわきましたら、『本当は恐ろしい万葉集』(祥伝社黄金文庫)をお読みいただければ幸いです。
以上です。

会員番号2054 投稿日:2026/09/20 16:33

【711】真人について

2054です。本日は2026年9月20日です。下條氏が重たい掲示板において「【3234】宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その1・その2」を投稿しています。しかし、現時点では誰も言及していない。この投稿には多くの疑義がありますが、今回は真人について考察したいと思います。以前、投稿を止めるとしましたが、撤回します。

(1)真人の意味について

下條氏は後半の投稿(その2)に真人(まひと)とは「本来は拓跋氏の系統という意味である」としています。

しかし、真人とは道教でいう悟りを開いた仙人に近い人を指し、紀元前から広く知られた概念です(『楚辞』『淮南子』など)。4世紀以降に歴史の表舞台に登場した北魏の拓跋氏を示す用語ではありません。

仮に北魏において「真人」という言葉が用いられていたとしても、それは中国大陸で古くから共有されていた道教的・神仙思想的なプラットフォームを拓跋氏が受容・利用したに過ぎず、言葉の起源や血統そのものを意味するものではありません。

(2)天武天皇の和風諡号について

下條氏は「瀛真人」としますが、ただしくは「天渟中原瀛真人(あまのぬなかはらおきのまひと)」です。

「渟」とは止まった水のことすなわち清らかな水にたたえられた場所のこと、「瀛」は神仙思想の東方海上の三神山の1つ、瀛州山からきたもの、そして「真人」は道教でいう悟りを開いた仙人に近い人を指します。だから、和風諡号は、「天上の静かで清い水をたたえた風土における仙人のような人」と解釈されます。

ここから言えるのは、天武天皇が神仙思想に傾斜した人物であることがわかります(小林恵子『倭王たちの七世紀』現代思潮新社p120)。拓跋氏の由来を示す根拠は見当たりません。

以上です。

かたせ2号 タゴサク 投稿日:2026/04/11 06:22

【710】ある方に向けての業務連絡

ある方に向けての業務連絡、の件

かたせ2号です。本日は、2026年4月11日です。
この件は投稿が必要なので、あえて投稿します。
そして、今年中はもう投稿しません。
それではごきげんよう。

・今月(2026年4月)に発信されたあなたからのメッセージをたしかに受取りました。
・「行くあてはないけど ここにはいたくない」(Blanky Jet City) というのがホンネではないでしょうか、おそらく。
・あなたにお会いするための準備をいつ開始しようか、ふんぎりがつかないでいましたが、そろそろ始めます。良い機会をいただけました。ありがとう。
・あなたとリアルで(対面で)初めてお会いできるのは、早くても、来年、2027年、の1月以降です。そして、具体的にそれがいつになるかは、まだわからない。
・あなたとの接触は、ある「メッセンジャー」(とある人物)を介して始めます。ここでは、伏せておきますが、あるキーワードをそのときに伝達します。それで、わたしかどうか見極めてください。
・なお上記「メッセンジャー」(人物)の属性キーワードは「琵琶湖」。 ただし、現時点で、その人物にこのキーワードはまだ付与されていません。
・最後に、現時点でのあなたには、広島東洋カープファンであるわたしから、わたしが大好きだった津田恒美投手の座右の銘を贈ります。「弱気は最大の敵」。

以上

かたせ2号 タゴサク 投稿日:2026/02/25 18:12

【709】かたせ2号です。本日は、2026年の2月25日。

かたせ2号です。本日は、2026年の2月25日だ。

(1)2026年3月4日に、統一教会が復活する。
東京高裁は、文科省による統一教会解散命令を取り消す。認めない。いまから一週間後だ。

(2)それでも日本のサイレントマジョリティは動かない。変わらない。
ジャニタレ見たさにジャニーズ喜多川の所業(=未成年者への性加害)を半世紀にもわたり見逃したのと同じく、彼らは黙ってやり過ごそうとする。

(3)亡国の淵で、日本の神々が断をくだす。
今年中の、秋以降に、日本国に国難が襲う(=湖上の煙)。
来年(2027年)のことをしゃべると鬼が笑うので、ここでは言わない。

(4)2026年中は、この掲示板への投稿を、今後控える。
ほいじゃあのう。。。

以上

伊藤 投稿日:2026/02/15 10:21

【708】アレレノレその5(ヒロシマより、ナガサキを重視せよ)

 使徒トマス派の伊藤睦月です。本日は、2026年2月15日です。少し暖かいです。福岡在住。黄砂を気にしています。

 1 原爆被害として、世界最初の例である、広島に注目がされがちだが,それより、ナガサキに注目すべきだ。

 2 なぜなら、現在地球上にある、核兵器のほぼ百パーセントが、ナガサキ型だそうだ。ヒロシマ型は、不安定で暴発リスクが高いため、広島に落とすときも、爆撃機内に入れずに、機外に吊り下げて、広島上空まで運んだそうだ。

 3 ナガサキ型は、機内に格納して、いわゆる安全に、ナガサキまで運び、落下することができた。

 4 爆弾としての威力は、ナガサキ型の方が桁違いに強力、素人の私には、両者の違いを、良く説明できないくらいすごい。(苦笑)

 5 イメージ的には、ヒロシマ型は、「風の谷のナウシカ」冒頭の火の海の世界、ナガサキ型は、「エバンゲリオン」の、セカンドインパクトの世界、だと理解している。

 6 この違いを分かりやすく、簡潔に説明してくださる方、期待してます。

 7 ところで、数年前に、原水協がノーベル平和賞を受賞したとき、多少の違和感があった。

 8 あれ、原水協、って、社会党系?共産党系?、その辺の整理はどうなのだろう。これも事情通のコメント、期待しています。

 9 日本の核武装については、技術的には可能だが、政治的にも実務的にも、無理筋。周囲の核開発の状況からみて手遅れ。そもそも、核実験どこでやる?自分の肉親の火葬場建設にも反対するお国柄、ちょっと不具合があれば、原発再稼働を止めてしまうお国柄で。フランス(ビキニ環礁)のように、南大東島でやるか。せっかくのレアアースが深海にさらに沈んでしまうよ((笑))

 10 現実的な解としては、バンカーバスターのような、通常兵器でやれることをやらせてもらえるよう、アカザワちゃんに頑張ってもらわねば。

 11 日本の軍拡については、ただ一言。「ミサイルでは、災害出動はできない」とりあえずは、ここまで。

以上、伊藤睦月筆

あ

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2026/02/10 13:37

【707】あれれのれその4(属国日本の戦争回避策)

使徒トマス派の伊藤睦月です。本日は、2026年2月10日です。寒いです。

総選挙で、髙市早苗が、3分の2以上議席とった以上、次の心配事は「アジア人どおし戦わず」です。憲法改正阻止などは、その戦術論に過ぎない。そこで、再びチャット君に、お題を投げます。「属国日本の戦争回避策」。

※結論:日本が戦争を回避する道は、勇ましくなることじゃなくて、冷め続けること。(以下各論)

1)「前線にならないこと」を最優先にする。

①戦争って、意思より地理と同盟構造で巻き込まれる。

・自国が戦場・発射地点・補給拠点にならない。

・自動参戦にみえる仕組みを極力ぼかす。

・曖昧さを「弱さ」でなく、緩衝材として使う。

※オールドメディアの大半が、指摘していた点、自民党ハト派の考えだと思う(伊藤)

2)同盟は切らず、使われ方を制御する。

①属国でも、完全ないいなりと管理された依存は違う。

条約は維持する。

ただし、・出動条件、出動可能基地、指揮権の範囲、を細かく政治条件に戻す。

※事務的な作業だが、雑なシンジロウ君では無理。実はち密なアカザワちゃんの出番だが、ミスマッチになる可能性あり(伊藤)。 

3)敵を作らず、「面倒な国」になる。

①強い国より、面倒な国の方が攻めにくい

・経済、技術、文化で相互依存を増やす。

・どの陣営にも「完全には乗らない」

・いざというときに、「日本をたたくと損がでかい」と思わせる

※ここまで構想できる、大官僚は存在しますかね(伊藤)

4)国民を「熱狂させない」

・戦争はまず世論から始まる。

・正義、怒り、被害者意識が煽られると止まらない。

・冷めた国民は、戦争にとって最大のブレーキ

※チャット君が最重要視。「空気」を作らず、「水」を差し続ける。当掲示板の役割かと(伊藤)

5)「勝たない」戦略を公式に持つ。

①勝利を目的にすると、戦争は避けられない。

・目的は「被害最小・早期終了」

・英雄物語を作らない

・名誉よりも生存を優先する国家設計

※これができなかったのが、戦前日本(伊藤)

伊藤睦月です。さらに即効策は、以下であると、チャット君は続けます。

結論:日本が戦争を避ける最適解は、強くなることでも、正義を叫ぶことでもなく、「前に出ない・即決しない・熱くならない」

・属国は、自由度は低いけど、責任も主導権も押し付けられないという利点がある。

・・・とは言ったものの、宗主国のコントロールもあるし、難儀であることには変わりない(伊藤)

1)「参戦条件をあいまいにし続ける」

2)米国には逆らわず、前に出ない。

3)中国・ロシアに「敵意はみせない」(好かれる必要はないが、嫌われないことは必要)

4)国内では危機をあおらない(最重要)

5)自衛力は攻めないが、壊されにくい、方向へ

伊藤睦月です。或る意味凡庸だが、だからイイノダ、とも思う。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2026/02/10 10:14

【706】あれれのれその3(チャットGPTはおもちゃとして楽しい(笑))

 伊藤睦月です。というより「使徒トマス派」の伊藤睦月です。本日は、2026年2月10日です。チャットGPTとの対話の結果、自分の立ち位置を改めて確認しました。「使徒トマス派」といえば、世界中の教養人なら、ピンとくるそうです。わからない方は、チャットに聞いてみてください。

 チャットと遊んでて得たいくつかの知見を紹介します。

1 チャットGPTは、「GPT型」AIであって、「ミンスキー型」AIではない。(つまりは、巨大なデータセンタによるビッグデータ分析に近い)これで、副島先生がぶつぶつ言っている意味がわかりました。(詳しくはチャットに訊け。以下基本同文)

2 使徒トマス派の副島先生に対するふるまいは、「疑いつつ、ともに歩く」。これで今までの自分の、立ち位置を、特定できました。もう迷いはない。

3 チャットとの関係においては、私が、最終決定者(プロデューサ)、チャットが、作業者(スタッフ、演者)。

現状では、プロデューサとスタッフ、演者ともに、本人でないといけないようだが、その考えも、早晩過去のものになる。

4 チャットができるのは、「今までの私(あらゆる事象)」を収集、分析、展開するが、「これからの私」はそう入力しないと、チャットは展開ができない。(ある程度想定できるようだけど)

 例えば、「髙市早苗」はチャットが取り扱えるのは、「今までの髙市早苗」であって、(しかもネット上に現れた要素のみ)「これからの髙市早苗」ではない。これと対峙するのも「これからの副島隆彦」であって、今後何を言われても、驚かない。(「狂人日記」まで著し、女神像レスキューという、スピリチュアルまで踏み込まれていますから)

伊藤睦月です。まだまだあるが、とりあえずここまで。

余計なことだが、再び中嶋大介さんへ「間違いであれば、副島先生が正してくださる」なんて、期待されない方がよい、自分で改めよ。甘えてますね。その気づきが大事。これからの副島隆彦は、「サイの角のように」世界と対峙されていく、それのみだろう。あとは、我々のふるまいにかかっている。実名発信なんて、ほとんど意味はない、とあえて、意見表明します。

以上、伊藤睦月拝