ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2025/01/15 10:51

【601】ブレイク:華僑だけでは、国は作れない。

伊藤睦月です。日本書紀(天皇系図)の解読も自分としては、一区切りついたのので、その他をいくつか。

1 華僑は実権を握っても、政治の表舞台に立つことはあまりない。

1-(1)岡田英弘博士は、日本という国は華僑がつくった、と主張されている。(日本史の誕生ほか)

そして、その成り立ちの様子を、現代のマニラやジャカルタ、クアラルンプールといった東南アジアの華僑社会の観察から論を組み立てられている。

1-(2)私、伊藤は、華僑だけでは、国はできず、(シンガポールのように、マレーシアの国策の影響で、仕方なくできた国もあるが)現地民とのコラボが不可欠と考える。

1-(3)なぜなら、華僑は、ユダヤ商人と同じ、基本は根なし草(デラシネ)、儲かるところ、ビジネスチャンスを求めるからだ。基本性格として「国際性」をもつ。土地への執着心や「愛国心」はない。

2 商売人は基本搾取する。

2-(1)岡田博士の主張のように、まず華僑が日本列島(以下「列島」という)に上陸したのはその通りだと思う。商売には、相手がいる。その相手は、原住民だ。華僑同士の取引もあったかもしれないが、例外的だと思う。

2-(2)岡田博士が、原住民との取引の始まりを描写しているが、私には「実感こもった」ものではなく、野生猿の餌付けのような印象を持った。文明人の華僑にとって、原住民は「サル同然」だ。

2-(3)原住民は、読み書き計算ができない。そんな存在と取引をする、華僑にとっては、「ぼろい相手だ」。朝貢貿易とは逆だ。むしろ朝貢貿易の方が商売抜きの政治ショーであって、通常は、商売人がだます(もちろん、建前は正当な取引だ)。

2-(4)原住民は最初は喜んだろう。例えぼられていても。しかし、直にわかってくる。原住民の中にも、読み書き計算が多少ともできる人間が現れると

通用しなくなる。そうなるとどうなるか。最悪身の危険が迫ってくる。

2-(5)そのとき華僑はどうするか。ハードな対策としては、「後ろ盾」を使う。中国本国とその出先(帯方郡とか)をちらつかせる。必要に応じ、彼あrに「来日」してもらって威圧する。軍隊を派遣してもらうこともあるかもしれない。そ

2-(6)ソフトな対応、としてその原住民の王と友好関係を結ぶ。考えられるのは、搾取の仲間に入れる、ともに暴利をむさぼる。そうなれば、原住民の王が華僑を守ってくれる。原住民の王(以下「酋長」とよぶ)たちは、頭が悪いが、腕っぷしは強いのだ。

2-(7)そういった関係を結ぶのに有効な手段が「婿入り」だ。酋長の娘と結ばれれるということは、その部族の一員となり、味方、場合によっては「家臣」になってくれる。岡田博士は「現地妻」とよんだが、単なる「華僑のセックスの相手」でなく、自身を守るための、政治的行為なのだ。

2-(8)酋長の娘との間に、子ができれば、その子は男子であれば、「正統な王子」、女子であれば、「権威あるシャーマン」になる。そうなると地盤が安定する。

2-(9)私、伊藤は、いわゆる「神武東征」も、倭国を後ろ盾にもつ、先行華僑(ニギハヤヒ)の搾取に不満を持った、奈良盆地の酋長たちが、神武たちを受け入れた経過を伝えている、と考える。

3 酋長たちは政治的には華僑を支配する。

3-(1)華僑は、交通の要衝を押さえて、居留地とする、いわば点の支配だ。質を武器にする。

3-(2)酋長たちは、華僑に物資を提供するための耕作地や鉱山といった「土地」とそれらに携わる人員を支配する、面の支配である。量は、こちらが優位。

3-(3)国を作るためには、質量ともに必要。どちらかといえば、馬鹿でも「数」で圧倒される。

3-(4)酋長たちは、華僑を政治的に優位にしなかった。スポンサーとして、官僚として、技術者としてつかった。(これは、華僑だけでなく、ユダヤ人など、古今東西同じこと。日本でも帰化人出身の豪族は、政治的に優遇されなかった。(平安時代でも5位の国司クラスが最上)

3-(5)その例外が蘇我氏、だから、酋長たちの王(天智、天武)から排除された。

3ー(6)その後、華僑たちは、政治の表に出ることなく、スポンサー、黒幕に徹した。(秦氏が典型)

3-(7)そして、酋長たちにうまく利用されながら、逆に利用して一族の繁栄を実現しようとした。

3-(8)華僑たちの政治力の源泉は、「財」と「宗主国の後ろ盾」だが、「面従腹背」の遣唐使などで、本国との関係を断ち切られ、「宗主国の後ろ盾」をなくし、しかし、「財」だけはある、華僑たちは、政治力のある、酋長たちに利用されることに甘んじるしかなかった。という見方もできると思う。

4 その他

 華僑やユダヤ人などの「根なし草の商業民族」は古今東西に一定数存在するが、面の支配を実現、長期に維持した例は、私の知る限り、ない。

 岡田英弘博士のいわれる、「華僑」が、国づくりに大いに貢献したことは認めるが、それだけではないということを、リマークしたかった。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/14 14:22

【600】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(4)「神武東征」は山門国の「エクソダス」だ。は、その後の「婿入り戦略」の時代だ。

伊藤睦月です。以下、私のファンタジー。

1 古代の日本列島は、華僑の居留地と、原住民の酋長の支配地が混在していた。

2 神武は、倭国の一族が住み着いた日向の居留地出身。一応王族の傍系だが、「一旗揚げよう」と日向を出て、まずは、ビジネスチャンスがありそうな、倭国の王都、邪馬台国に向かった。書記にあるような船団を率いたのではなく、航海の途中でだんだんと増えていったのであろう。

3 日向を北上し、豊予海峡を抜け、華僑の居留地を伝って、宇佐、宇佐から、遠賀川河口(当時の港湾都市。新羅との貿易拠点であった)まできたところで、邪馬台国に向かわず、方向転換。東に向きを変えて、安芸(宮島)、吉備高島宮へとたどり着いた。

4 伊藤睦月です。神武たちが、邪馬台国に入らなかったのは、邪馬台国が、戦乱(第2次倭国大乱)、もしくは、疫病などがあって、入りたくとも入れなかったのだろう。華僑の居留地は、情報拠点の機能もあった。

5 最近は、倭国を本社、山門国を支社にみたてて、神武をニギハヤニに続く、二番目のセールスマンであるとし、岡本で土器を仕入れたという見解もある(金澤『古代史サイエンス2』)。奈良盆地からは、九州の土器はほとんど出土していないことから、採用しない。安芸や吉備に売るための仕入れと考えられなくもない。寄港地で商売をしながら、畿内に向かった可能性はある。ちなみに、当時岡本は砂鉄の産地として有名だった。

6 最初正面から、難波津に入ろうとしたが、受け入れ拒否されたので、紀伊から伊勢に向かい、山してして奈良盆地に入った。堂々たる征服とは、書紀の忖度であって、実際は、在来華僑の搾取を嫌がった、原住民の酋長たちの手引きによるものであろう。背後から攻めて、一応の貿易ルートを確保した。(神武即位)

6 二代目綏靖(すいぜい)から、9代目(開化)までは、めぼしい、事績がないことから、架空の存在としているのが、通説となっている。

7 しかし、この説は、井上光貞『日本の歴史』(中公文庫)に採用され普及した。そのネタ元は津田左右吉の説による。(『古事記及び日本書紀の研究』)

8 安本美典氏は、津田説が、「実績がないから存在しない」と決めつけるだけで、なんら実証していないと指摘し、実在したと主張している。(数理統計学の手法を用いた「パラレル年代推定法により、神武を、306年から313年、綏靖~開化までの在位期間を313年~396年と推定している)

9 また、前出の金澤氏は、先祖崇拝が現代より、よりリアルであった、8世紀において、架空の先祖を作り出すのは、先祖に対する冒とくであり、実在であった、と主張している。(前掲書)

10 私伊藤は、旧辞(エピソード)は、話を盛るが、帝紀(年代記)は嘘つかない。と考えているので、「欠史八代」も実在した、と考える。

11 この時代の大王たちは何をしていたかというと、地域の豪族(酋長)たちの娘をひたすらナンパ、婿入り婚に専念していたと思う。当時は、娘の婿になれば、その豪族が味方、後ろ盾になってくれる。だから、書記には嫁の実家の記事しかないのだ。いわゆる「閨閥」を形成することで、奈良盆地に勢力を伸ばしていったのだ。

12 そして、奈良盆地の大半の酋長たちと血縁関係を構築して、とりあえず、倭国と貿易利権を争う力を養った。その時代、崇神大王の時代から、対外膨張が始まる。ここで、天皇系図の仕分けが完了した。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/14 13:05

【599】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(3)神功皇后が、仲哀傍系の応神を崇神直系にした。

伊藤睦月です。

1 応神は、仲哀の子ではなく、ヤマトのアマ氏の一族である神功皇后の子である。(父親はおそらく、武内宿禰)いわば仲哀の傍系である。

2 神功は、北九州の倭国及び新羅の後援を受け、応神の正統な王権を主張して、山門国に入ろうとした。

3 仲哀の実子である、忍熊王、香坂王の兄弟が阻止しようとしたが、敗北し、応神が大王位についた。

4 この記事は、「王の帰還」といって、東西の伝説によくあるパターンだが、現実の事件が核にあって、応神大王の正統性を主張したエピソードになったのであろう。

5 応神以前崇神までは、奈良盆地を統一した山門国の対外発展戦争の様相を記したものであろう(詳細は、前出)

6 応神大王が、景行大王ー日本武尊ー仲哀ー神功と継承されている、と書紀は明記する。

7 しかし、宮内庁HPの天皇系図では、神功皇后は抹消されている。これは、明治以降の政府公式見解だが、そのために、応神の在位が当時としては、不自然に長くなっている。(70年間)

小休止、伊藤睦月筆。

 

 

かたせ2号 投稿日:2025/01/13 22:58

【598】余談なんですけど、「共観福音書の「十字架にかかる場面」ってルカだけ「盛って」ませんか?」

余談なんですけど、「共観福音書の「十字架にかかる場面」ってルカだけ「盛って」ませんか?」の件について。

かたせ2号です。

余談なんですけど、

たぶん、これって「盛って」ますね。

ルカの福音書23章による描写が以下の通り。

たぶん、下線部はルカが盛っています。じゃないと、他の福音書の記述との記載の矛盾が解消できない。

https://mana-mh.com/archives/3229

(引用開始)

十字架につけられる

イエスを刑場に連れて行く途中、居合わせたクレネ人シモンに十字架を背負わせ、イエスの後から運ばせました。嘆き悲しむ女性達に「わたしのために泣くな。自分と子どものために泣きなさい。罪のない私が裁かれるのだから、霊的な命が枯れたようなあなたたちはいったいどうなるのだろう」と言われました。されこうべと呼ばれる丘に、二人の強盗の真ん中にイエスの十字架が立てられました。イエスは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか分からないのです。」と言いました。彼らはイエスの服をくじで引いて分けあったり、「他人を救ったように自分を救え」とあざけりました。十字架に架けれた強盗の一人もイエスをあざけりましたが、もう一人は「この人は何も悪いことをしていないのに十字架に架けられている。『イエスよ、あなたが御国においでになる時には私を思い出して下さい』」と言いました。イエスは「今日私はあなたと一緒に楽園にいる」と言われました。

イエスの死

昼の12時に全地は暗くなり3時まで徒づきました。そして神殿の幕が真ん中から裂けました。十字架上でイエスは「父よわたしの霊を御手にゆだねます」と言われ息を引き取られました。これを見ていた百人隊長は「本当にこのひとは正しい人だった」と言い、人々も深い悲しみに沈んで家路につきました。ガリラヤの女性たちはこれを遠くから見ていました。

(引用終わり)

【かまいたち】アイドルを目指す関西キッズがあの&村重に忖度なしで聞きたいこと「これ余談なんですけど…」ナイトinナイト

以上

伊藤 投稿日:2025/01/13 09:30

【597】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(2)応神から継体までは、「疑似易姓革命」の物語だ。

伊藤睦月です。前回からの続き。

1 日本書紀の主題は、継体朝における、正統が、舒明直系(天智・天武)であることを主張したもの。

2 その継体大王は、応神大王の正統であることを主張する必要があった。(応神のすぐあとを継いだ仁徳系統と違い、継体は、5世の孫という、血縁薄い大王であったから)

3 当時の東アジア世界における正統思想、世界標準(ワールドバリューズ)の政治思想は、「易姓革命」論。

3-(1)いわゆる「万世一系」の思想は、東アジア世界では、二流の思想。属国日本の思想

3-(2)日本で、「万世一系」の思想が明確に出てきたのは、14世紀。「神皇正統記」(北畠親房)から。

3-(3)987年、訪中したチョウ然が、北宋皇帝から、褒められたこと(宋書日本伝)がきっかけとなった。

3-(4)「天壌無窮の神勅」(日本書紀720年成立)は、神代編本文でなく、「一書に曰く」として、後世に書き加えられたと考える。

4 応神を継いだ仁徳から、武烈までの、「旧辞」(エピソード)は、史記にそっくり。

4-(1)有徳の仁徳の系統が、雄略、武烈で、失徳の悪行を繰り広げる。そこで、王朝が断絶して、継体が正統の王朝となる。(易姓革命論)

4-(2)武烈の悪行は、史記に記されている、夏の桀王、殷の紂王のエピソード(妊婦の腹を裂いて胎児を取り出す、女性に馬とのセックスをさせて殺すなど、猟奇的な悪行が目立つ)に類似している。

4-(3)雄略も同じく、一生、敵対者を殺しつくしているが、当時から「悪徳」よりも、「強すぎてかえって素敵

」という、マッチョな印象が強かったらしい(万葉集冒頭)

4-(4)雄略のイメージは、「大王は神にしませば」とたたえられた天武のイメージとも重なる。

5 本場の中国と違い、仁徳系も、継体系も、同じ「アマ氏」なので、目立たないが、実質的に「易姓革命」と同じ、と書記編纂者は考えた。(疑似易姓革命論)

6 古田武彦は、倭の五王=河内王朝の五大王は、九州王権の王たちと考えるが、私伊藤は、北九州の倭国王であった倭の五王と、大和国(河内王朝)の五大王は、同時期に別個に存在した、と考える。

7 応神以前は、「創業伝説」「建国神話」で、その構成は、旧約聖書「創世記」のパターンに類似。(同一とまでは、断定しない。当時のオリエント文明の影響下にあった文化共通パターンではなかったのか)

次回は、応神~神武について自説を述べる。

伊藤睦月筆

 

小休止。伊藤睦月筆。

 

 

 

 

 

3 

伊藤 投稿日:2025/01/12 07:22

【596】ブレイク:前項の補足

伊藤睦月です。記述が乱れていて恐縮ですが・・・

(1)底本の「天皇系図」は宮内庁ホームページ

(2)隋書倭国伝に記された倭王は、倭国王のこと。大和国は、度重なる攻撃により、倭国に対する、優位を確保し

   たが、外交権(貿易利権)は完全には奪えなかった。江戸時代の幕府ー琉球国との関係と類似。

以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2025/01/12 07:15

【595】ブレイク:上古~古代の天皇家系図を仕分けしてみる(1)

 伊藤睦月です。これまでの投稿をもとに、天皇家系図を仕分けして、畿内の大和国が取り入れた北九州の倭国王の系図を抽出する。底本は、

(1)天皇系図

(2)日本史年表・地図(児玉幸多編2024年吉川弘文館)

(3)歴史手帳2025(吉川弘文館)

 伊藤睦月です。(2)は高校副読本だが、一般用としては最も詳細。(3)は、歴史愛好家によく利用されている。

1 古代(飛鳥時代)

(1)用明大王とその直系

  ①用明大王、聖徳太子(厩戸皇子)、山背王、久米皇子、当麻皇子、殖栗皇子

  ➁タリシヒコ=用明大王、聖徳太子の親子2代。「タリシヒコ」は「ヒミコ」と同じく、中華帝国が倭王につけ

   た呼び名であろう。

  ➂当時、大和国では、神武以来のアマ氏と蘇我氏が倭王位をめぐる政争中であり、蘇我馬子は、アマ氏派の物部

  守屋を滅し、穴穂部皇子、崇峻大王を殺して、倭王位についた。仏教導入争いは口実に過ぎない。穴穂部皇子

  は、敏達のフィアンセ、推古の強姦未遂容疑で殺された。崇峻は露骨に反抗したので、部下の東漢氏(帰化人の

  武闘派)を使って、暗殺した。

④645年の乙巳の変は、海外路線対立(親百済、親新羅派の対立、国粋派対国際派)の面もあるが、有力豪族(蘇

 我氏)を天皇家(ヤマトのアマ氏)が排除しようとした。政局がらみのテロ事件だと考える。

⑤壬申の乱は、天智・天武の「共通の敵」を排除した後の「舒明直系」を決める戦いであった。天武は、有力豪族の

 力を借りて、天智系(大友皇子)を排除した後、かねてから導入を図っていた、律令制を利用して、天皇権力の最

 大化を図った。藤原不比等は、実務派官僚として、持統天皇の意向に従い、律令制導入を推進した。

⑥「日本書紀」を編纂するにあたって、蘇我氏の倭王時代を隠すため、663年の白村江の戦いで滅んだ、倭国のア

マ氏の事績を採用し、蘇我氏の事績を、用明大王以下の記事として書き換えた。そのため、日本書紀は中国(唐)に

提出されず、国内向けの啓蒙普及教材として利用されることになった。(同旨、古田武彦、参考として、守谷健二氏

の投稿(古事記の正体))

⑦聖徳太子は実在した。9~11世紀に成立した、「上宮聖徳法王帝説」という聖徳太子の伝記は、倭国王タシリヒ

コの伝記のこと。(法王は、国王が出家した場合にのみ、使用可能。同旨古田武彦。8世紀末に弓削道鏡が法王に任

じられたとき、この故事が想起され、危機感が高まった。傍証として、山背王の系統を「上宮王家」と呼称。)

⑧学会通説は、北九州の倭国の存在を認めない。そのため、倭国の政局を説明するのに、「聖徳太子非実在説」(大

山誠一)にたどり着かざるを得なかった。それだけでは、蘇我氏の倭王時代を説明できなくなって、蘇我馬子大王説

を主張するに至っている。これらは、倭国と大和国併存説を採用すれば、矛盾なく説明できる。

⑨副島隆彦先生は、古田武彦の「近畿天皇家、九州天皇家」というコンセプトを使用せず、「倭国と山門(大和)

国」のコンセプトを採用して、7世紀の日本政治・外交史の説明に成功している。私、伊藤も副島説を支持する。

以上、伊藤睦月筆

  ④

 

 

 

隋書倭国伝に記された倭王は、倭国王のこと。大和国は、度重なる攻撃に 

   より、優位を確保したが、外交権(貿易利権)は完全には奪えなかった。江戸時代の幕府ー琉球国との関係と

   類似。

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/11 10:51

【594】日本古代史研究小史(3)最後に若干のトレビアを補足する。

伊藤睦月です。以上の私見のまとめ、補足をします。

1 邪馬台国論争は、学問的には、九州説に決まり(ただそれ以上の場所絞り込みは現状では無理)だが、政治化している畿内説(大和説)は、何かメンツがたつような説明を考えてあげないと、引っ込みがつかない。高校歴史教科書などの変化に注目(聖徳太子の前例あり)

2  歴史サイエンスは、海外では「普通」であり、日本史の解明にも、大いに有用。海外文献も読みこなす、理系人材参入していることも期待できる。ただし、科学的方法論の限界もあり、従来タイプの文献分析や、考古分析がおざなりになっているところも見られる。その辺は取り扱い注意。

伊藤睦月です。あと、「たこつぼ」と揶揄される日本学会だが、一応リマークしておくべきことがある。

3 日本史学会では、「日本古代史」は、飛鳥、奈良、平安、の3時代を指す。文献資料が比較的豊富な奈良、平安時代に1980年生まれ以降の若手・中堅研究者の関心が集中する傾向がある。飛鳥とは、継体大王以降であろう。

4 一方、飛鳥以前、縄文、弥生、古墳時代は、原則、「考古」の範囲。もちろん例外はある。一般向けには、縄文以降、平安までを「古代史」としていることが多い。(以上、2024年有富純也編『日本の古代とは何か』光文社新書)

5 飛鳥に人気がないのが、日本史料(海外史料は軽視していることはあいかわらず)としては、古事記(通説)、日本書紀という、当時の権力者に忖度しまくりの史料しかない、ためらしい。(有賀前掲)

6 ということは、それ以前の話(邪馬台国が典型)は、日本歴史学会においては、考古学の領域、「有史以前」、「先史時代」、「民俗学」、「人類学」の領域。私に言わせれば、すべからく「ファンタジー」である。このことは、アマチュアとして最低限、認識しておくべきであろう。不本意ながら。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2025/01/11 08:42

【593】日本古代史研究小史(3)津田左右吉(文献学)と梅原末治(考古学)の影響が巨大である。(その2)

伊藤睦月です。今回は、考古学。

(2)梅原末治の「形式学的研究法」が考古学の基本方法論となった。

2-(1)考古学では、梅原末治(1893-1983)が重要。大学出でなく、発掘編場からのたたき上げから、京都大学の先生になった。かなり、癖のある、つきあいにくい性格で、考古学者仲間からの評判は最悪だったらしいが、弟子育成には熱心で全国に弟子がたくさんいて、2000年くらいまで、学会をリードした。

2-(2)彼の方法論は、「形式学的研究法」。かみくだくと、

①徹底した観察・分類(出土物の形式、文様、材質などを細かく分類する)

➁精密な図録作成

➂地層判別法により、年代測定(古い地層から出土したのが古い遺物)

④炭素14年年代測定法などの科学的分析法への不信

といった方法で、例えば土器を観察して、縄文、弥生、庄内、布留、と細かく分類して、出土した地層の古い順から並べる、という方法。シンプルで、わかりやすい。現場の考古学者の励みとなった。

2-(3)その一方で④のような、科学的分析法の導入には消極的、というかよく理解できなかったのでは。

2-(4)炭素14年代測定法とは、炭素14という元素の半減期に注目して年代測定する方法。欧米の考古学では1960年代からポピュラーになった。わが国では梅原の影響が強く、採用しても、観察結果を補充するものとして扱われた。出土物を数理統計学で分析、分類する方法(安本美典など)も同様。

2-(5)このような、「歴史サイエンス」の手法が認知されるきっかけとなったのが、2000年に発覚した旧石器捏造事件。藤村新一、という、現場のたたき上げ考古学者が、旧石器の捏造品を、旧石器時代の地層に仕込んでいたことが発覚して、大問題となった。副島先生の重掲にも取り上げられていた。

2-(6)藤村新一については、彼だけが、次々と旧石器を発見していることから、(そのため、藤村は「ゴッドハンド」と呼ばれた。)藤村に疑問を持つ研究者もいたが、学会の重鎮の一人が藤村を支持、擁護していたために、発覚が遅れた。発覚後は新聞等がセンセーショナルに報じられ、学会は一時パニックになった。

2-(7)なお、藤村の旧石器を「日本文明」のよりどころとしていた、「新しい教科書を作る会」の失速のきっかけとなった。会の有力イデオローグであった、渡部昇一、西尾幹二、田中英道、たちの株が暴落した。

2-(8)伊藤睦月です。この事件以降、ようやく、科学的年代測定法が重用されるようになったが、重用しすぎる弊害がおこった。

2-(9)2013年、宮内庁が管理する、箸墓古墳が、国立歴史民俗博物館(レキハク)が、炭素14年代測定法を使って、出土品の年代測定を実施。卑弥呼に時代と同年代の可能性が高い、と発表。それを朝日新聞がセンセーショナルに報じた。たちまち、考古学学会の「通説」となった。『副島隆彦の歴史再探訪』(2019年)にも出てくる話。

2-(10)この発表は、邪馬台国畿内説の有力根拠とされた。当時の学会内の「空気」としては、「いまのところ、考古学会では、ほぼ近畿説で落ち着いているのが現状であり、『九州説を採る者にまともな考古学者はいない』発言さえ、聞かれるようになった」(片岡宏二『邪馬台国論争の新視点』2019年雄山閣)

2-(11)その後、安本美典氏らが強力な反論を行っているが、新聞各社は取り上げず、「週刊文春」のみが報じたという。2024年現在でも、畿内説、九州説が拮抗している。以前にも述べたように、考古学の見直しや、歴史サイエンスの成果が浸透してくると、なし崩し的に、九州説に落ち着くとは思うが、数十年はかかるだろう。教科書の記述が変わるのが目安。

2-(12)このレキハク(大阪国立民族博物館「ミンパク」とは別。レキハクは千葉県

の発表は、私見だが、旧石器捏造事件の名誉回復や、箸墓古墳のある、奈良県や桜井市の観光振興という政治的意味合いもあるので、建前上なかなかひっこみつかないようだ。地元で実際に発掘調査している、真面目な考古学者たちもうんざりしているらしい。(関川前掲)考古学会それ自体は、「邪馬台国論争」にさほど、重きは置いていないという。(片岡前掲)。騒いでるのは、素人さんだけ、ということか。なし崩し的に落ち着くだろう、という私の観測はここからきている。

小休止、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2025/01/10 15:48

【592】ブレイク:日本古代史研究小史(2)津田左右吉(文献学)と梅原末治(考古学)の影響が巨大である。(その1)

  伊藤睦月です。日本史、特に日本古代史に関して、文献学の津田左右吉(1873-1961)、考古学の梅原末治(1893-1983)の方法論は無視できない。この分野で、2人を知らない人は、モグリ、である。

 2人の考えは、学会通説の形成の基礎となっている。2000年以降、学会重鎮が物故すると、見直し、反動が起きてはいるが、なかなか手ごわい。私の理解の範囲で、雑談する。

(1)津田左右吉の「史料批判(造作論)」

 1-(1)津田左右吉は、戦前から有名な歴史学者である。「古事記及び日本書記の研究」(1919)、いわゆる皇国史観の風潮に抗して、「記紀は、編纂時の権力者の意向に従った神話・伝説であり、史実ではない」と主張。戦前昭和では、弾圧された。戦後は逆に英雄の一人となった。

1-(2)彼のすべては造作(フィクション)という主張は、結構インパクトがあって、現在でも歴史理解の基本となっている。歴代天皇のうち、2代~9代までは実在しない(欠史八代)とか、応神までは、神様で、仁徳から人間になる、とか、記紀の記述を簡単に否定・改変してしまう。「自虐史観」の典型として、右寄りの人たちから、強く批判(非難)されている。

1-(3)しかし、この津田の懐疑主義は、今でも、文献学の重要な考えの方一つとなっている。ただし、この考え方は、18~19世紀に欧州で主流の考え方であり、同時期の日本では、懐徳堂の山片蟠桃の方法論もである。明治に導入されたランケの方法論にも通じる。

1-(4)現在では、記紀のような神話、民俗学や人類学で扱う伝承類は事実でないとしても、そこになんらかの「歴史的真実」が示唆されている、という考えも有力である。造作論(懐疑主義)も思考の出発点としては、必要、と考えられているようだ。

1-(5)津田左右吉の「造作論」との関係は、よくわからんが、東洋史学会では、「世界史の中の日本史を探求する」という考えがあるようだ。岡田英弘博士のような、学会反主流派もこの点については認識を共通にしており、日本史学会、教科書の記述にも影響を与えつつある。それでも、まだ不十分、という批判もあるようだ。

1-(6)また、史料を徹底的に読み込む、という考えもある。古田武彦(1926-2015)が典型だが、文献学者共通の考えでもある。ただし、文献解読の範囲が日本史料に偏っている、との批判もある。

1-(7)文献学の新しい方法論として、歴史サイエンスの一つ、数理統計学の手法があり、そのパイオニアが安本美典氏(1934-)。

 邪馬台国論争で有名だが、1960年代、大学院生時代に、源氏物語宇治十帳の作者が紫式部でないことを、初めて実証的に解明した。(作者特定までにはいたらなかった)

 数理統計学は結局確率論なので、限界はあるが、有力なツールであることは間違いない。欧米では、安本の手法が主流になっていると思う。トッドやハラリが典型。わが国とは事情が違うようだ。

1-(8)歴史サイエンスは、むしろ、考古学において、威力を発揮する。理系出身や英語文献にも明るい人が多いようだ。このような傾向が顕著になったのは、私見だが、2000年以降。冷戦終結という大きな枠組みのなかで、津田、梅原の影響を強く受けた世代が、退場していったことが大きいと思う。歴史学は、これからが、面白くなってくる、と確信している。

次回は、考古学の動向について、雑談します。

伊藤睦月筆