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  1. 藤村 甲子園
    2012-01-12 20:35

    NHKの片棒かつぎます。別に「受信料払え」という積もりはありませんが。

    [61]で取り上げた高橋優が、NHK総合の20分ドキュメンタリーで取り上げられます。ご興味がおありの方々はどうぞ。

    (引用、始め)

    http://www.nhk.or.jp/program/20min/
    NHK総合、1月16日(月)【15日深夜】午前0時40分~1時00分
    ドキュメント20min.
    「“今”伝える~シンガーソングライター 高橋優~」

    デビュー2年目にしてCMやドラマに楽曲が次々と採用される、いま期待のシンガー・ソングライターの高橋優。その魅力は、力強くまっすぐな歌詞。ライブでは、若者たちが共に歌い・笑い・涙し、熱狂の嵐に包まれる。なぜ、そんなにも若者の心をひきつけてやまないのか。高橋の歌に励まされている若者の目線から、その魅力に迫る。さらに、歌詞が生み出される現場にも密着し、言葉へのこだわりを探る。

    (引用、終わり)
    (以上)

    タイトル
    NHKの片棒かつぎます。
  2. 藤村 甲子園
    2012-01-01 07:32

    謹賀新年。
    せっかくの正月休みなので、スメタナの交響詩「わが祖国」より第2曲「モルダウ」を聴いた。事のついでにシベリウス「フィンランディア」も聴いた。

    1942年生まれの母はご幼少のみぎり、「キィタは樺太、千島よりぃ、ミィナミ、台湾、膨鼓島ぅ」なる歌(注1)を、いつとはなしに聞き覚えたという。
    また、旧軍時代の絵ハガキ(たとえば帝国海軍練習生がハツラツと訓練に励んでいる様子を描いたものなど)が家の中にゴロゴロしていて、子供のオモチャになっていたという。
    もちろん戦後の話である。

    (注1)この歌の素性はネットでは分からなかった。この領土範囲だと1905~1919年の間の歌のように思える。父母によると、同一メロディの歌を他にも聴いたことがあるので、替え歌の可能性もあるという。

    わが祖国は戦争に負けてアメリカの属国にされた。占領中、政治・軍事・経済に関してはアメリカの手で徹底的に外科手術を施された。だが、文化的同化までは強制されなかったと私は考える。

    もちろん占領期間中は旧内務省=特高警察より厳しい報道統制を敷かれ(注2)、一般大衆の郵便物まで開封・検閲された。だが、あの自爆テロ讃美ドラマ「仮名手本忠臣蔵」が、まだ占領中の1947年に復活上演されているのである(占領軍の中に日本オタクがいたらしい)。

    (注2)旧内務省=特高警察による検閲はヤバイ文字を伏せ字にしただけで、前後の文脈を踏まえれば「××主義」とは「共産主義」のことかと容易に推測できる間の抜けたものだった。
    一方、占領軍の検閲では気に食わない文言を丸ごと削除し、ズタズタになった文章を文意が通るよう書き直してもう一度持って来いと命じる、ご念の入ったものだったという。

    1942年生まれの母の生活環境に戦前文化の残り香がプンプンしていたというのは、それらのものが「そのスジに発覚すれば手が後ろに回りかねないほどヤバイもの」ではなかった証拠とは言えまいか(注3)。

    (注3)旧軍の武装解除(1945)、日本共産党員釈放(1945)、農地解放(1946)、東京裁判(1946~8)、財閥解体(1946)、憲法改正(1946~7)、ドッジライン(1949)、シャウプ勧告(1949)等の政治・軍事・経済イシューは、文化イシューとはまた別の話である。
    そもそも戦前と戦後の文化的断絶を、あまり過大に評価すべきではないと私は考える。すめろぎは退位も廃位も強制されず、人間(ひと)となりたまひて強かに生き延びたではないか。

    我々は英語のアメリカ式発音やコカ・コーラやエルビス・プレスリーを、そしてレジスターや品質管理ノウハウやオペレーションズ・リサーチを、自ら進んで取り入れたのであって、CIAに強制された訳ではない。アメリカの奴隷ではあっても、囚人ではない。アメリカは「男子は全員、弁髪にしなければ首を切るぞ」とまでは言わなかった。

    それでは、アメリカ人に征服された訳でもないのに、なんで私はStandard Jazzを流暢な英語で歌いたいとdesperately願うのか。
    NHK・Eテレの「3か月トピック英会話 歌って発音マスター!~魅惑のスタンダード・ジャズ編~」を毎回イソイソと見て、[p][b]、[f][v]とかいったアメリカ式発音練習に、なんで私はセッセと励むのか。
    http://www.nhk.or.jp/gogaku/english/3month/
    おリコウさん(複数形)は言う、バカモノ(複数形)だけがアメリカ文化に殺到すると。それでもボクはElvis Presleyの流し目と美声を愛さずにはいられないんだよ。

    お隣りさんの韓国人は「有史以来1000回以上も侵略され、すべて撃退してきた」そうだ。韓国の人たちがあんなギトギトした、物事をドライに割り切る事大主義者になってしまったのはそのせいだろうか。韓国ドラマをほんのちょっとでも見れば、納得はできることだが。

    対するにわが祖国はと言うと、緑は今もみずみずしく、乙女はあでやかで、人の心はカモメのように真っ白である(今のところは)。愛するひとは美しく、愛するひとはすこやかである(今のところは)。

    実は我々日本人は、異民族による征服というものを、ただの一度も経験していないのではなかろうか(今までのところは)。
    (本文、終わり)

    [ヘレニズム文化とは]
    紀元前334~323年、アレキサンダー大王の征服によりオリエント全域にギリシャ文化が強制され、その結果生じた東西折衷文化のことである。
    たとえばインド亜大陸北西部では、こいつらに征服されるまで仏教徒は「法輪」というシンボル・マークをおシャカさまに見立てており、偶像崇拝を厳しく禁止していたという。そう思って見ると、ガンダーラの仏像というのはギリシャ人の仮装大会のように思えて来る。ウソだと思ったら、上野の東京国立博物館・本館に行って見給え。

    1066年 イギリス、ノルマン・コンクェスト。
    英語にフランス由来の外来語が残存しているのはこのためだという。

    1453年 オスマン・トルコによる「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」。
    メフメト2世はただちに同地に遷都。

    1492年 スペイン・グラナダ陥落によりレコンキスタ完成。
    同地のイスラム教徒およびユダヤ教徒はキリスト教への改宗を強制され、これを嫌う者は追放された。

    1532年 神聖ローマ皇帝カール5世のフィレンツェ制圧より、フィレンツェ共和国は世襲のフィレンツェ公国となった。
    チェーザレ・ボルジア(1475~1507)、ニコロ・マキアヴェッリ(1469~1527)は遠くなりにけり。

    1618~1766年 三十年戦争、ファルツ継承戦争、ポーランド継承戦争等を通じ、ブルボン朝フランスは神聖ローマ帝国領アルザスを徐々に蚕食していった。

    1871年 普仏戦争によりドイツ帝国が第三共和政フランスからアルザスを獲得。

    1910年 日韓併合。
    その後、何が起きたかはご存じの通り。

    1919年 第一次世界大戦により第三共和政フランスがドイツ・ワイマール共和国からアルザスを獲得。
    アルザスの争奪劇は第二次世界大戦でも繰り返される。

    1932年 満州国建国。
    その後、何が起きたかはご存じの通り。

    1956年 ハンガリー動乱

    1968年 チェコ・プラハの春

    もっこ (東北地方の子守歌)

    寝んねこ 
    寝んねこ 
    寝じゃろえ

    寝んねば
    山から
    もっこ(注4)来らね

    それでも泣けば
    山さ捨ててくる
    寝ろじゃヤエヤエヤエ

    (注4)「もっこ」とはお化けのことだとも、蒙古のことだとも言う。
    なお、この歌には下記のような別バージョンがある。
    http://komoriuta.cside.com/nenneko/nekoview.cgi?mode=V&num=53
    (以 上)

    タイトル
    年頭所感・プラハの春44周年に当たって
  3. 藤村 甲子園
    2011-12-21 06:10

    <映画データ>鶴橋康夫監督、2011年12月公開、東宝

    <私 見> ホラー仕立ての源氏物語であった。
    怖い怖いオバケ女(源氏の愛人の生霊)がバンバン出て来るが、一番怖いのは、実は作者の紫式部だったという話。

    古典文学の近代的再解釈(商業化?)としては、まあイイ線行ってる方だと思う。
    おいしい役(悪役、コワイ役)は、六条御息所を演じた田中麗奈が独り占めしていた。

    平安貴族を演じた女優陣が(役目がら、)皆フリの小さい、表情に乏しい演技に終始していた中、紫式部役の中谷美紀だけは如何にも自意識の強そうな「近代女性」と見える役作りをしていた。

    そもそもこの映画は、以下のような見立てに基づいている。

    「紫式部は、自分が仕える主君である藤原道長への激しい思いを胸に秘めていた。実は『源氏物語』とは、紫式部が胸の中の苦しい思いを、そのまま草紙にぶつけたものなのである。」

    創作がそんな単純なものであれば誰も苦労しないと思うが、まあ俗受けしやすい設定ではある。

    この設定に基づき、道長役の東山紀之、そして紫式部役の中谷美紀も、極力、感情を内に秘めたような演技をしている。この二人が前に出すぎると、話の本筋である光源氏の方が霞んでしまうからだ。
    東山と中谷だけの見せ場はいくつかあるのだが、注意していないとそのまま見過ごしてしまうほど控えめなものであった。

    そして、二人の抑えた演技を見ていると「紫式部・片思い説」というのは案外、事実だったんじゃなかろうかとも思えて来るから、全く大したものである。
    東山紀之は、バカにできない良い役者に育った。

    ***************************************

    『源氏物語』のキーとなっている怨霊信仰について、私の見解を述べる。

    平安貴族の平均寿命は40歳程度だったという説を聞いたことがある。
    つい最近までピンピンしていた人物が、ふとした病で空しくなってしまう。そういうことが頻発する日常だったと思われる。
    「なんであいつは、いきなり逝ってしまったのか。」
    「××の怨霊のせいじゃないのか。」
    そうでも考えなければ合理的に説明できない、やりきれないような気持ちだったのではなかろうか。たかが雷がなっただけでも「怨霊だ怨霊だ」と騒がずにはいられなかったのではなかろうか。

    人知を超えたものには祈るしかない。謙虚であるしかない。
    これは我々現代人だとて、同じことなのではなかろうか。私はこのことを、東日本大震災と、その後も打ち続く余震の中で痛感した。停電にせよ断水にせよ、もう手の打ちようがなかったのである。

    我々が祈ること、謙虚であることを忘れたシッペ返しが、福島第一原発の「想定を超えた」事故だったのではなかろうか。
    もしもそうだとするなら、福島第一原発の件は決して偶然ではない。我々はもう既に、取り返しのつかない道を歩んでしまったのかもしれない。
    (以 上)

    タイトル
    映画「源氏物語 千年の謎」感想
  4. 藤村 甲子園
    2011-12-19 08:29

    <書誌事項> 『置文21』編集同人・編「回想の全共闘運動(副題)今語る学生叛乱の時代」彩流社、2011年、318ページ

    <本書の内容> (版元のサイトより)
    第1章 いかに顧みるか●視点と方法
     1、導入─大学闘争を振り返ることの意義と意味      大石和雄
     2、いま全共闘をどう扱うか?方法の問題         神津陽
     3、学生運動と社会主義の結合としての全共闘運動     大石和雄
    第2章 東京教育大●筑波移転闘争の記録
     1、かつて教育大闘争があった〈16の断章〉       水沢千秋
     2、全学闘と廃校と─東京教育大65~70年私史─     前田浩志
    第3章 慶應大●68年・69年バリスト闘争の記録
     1、六八年・六九年─慶應大学バリスト闘争回想記     三森義道
    第4章 日大●正義の百姓一揆の記録
     1、思想性なき正義の百姓一揆              太郎良譲二
     2、日大全共闘にとっての東大闘争共闘とは何だったのか  太郎良譲二
    第5章 筆者座談会●全共闘運動を検証する
     大石和雄、佐野正晴、太郎良譲二、前田浩志、三森義道

    <私  見> 本書は、中央大学、東京教育大学(現・筑波大学)、慶応大学、日本大学と、各校の「校風」、「風土」または「学生気質」の違いに踏み込んだ点が、従来の類書と比べて異色である。
    学生運動にも各校それぞれのスクール・カラーが反映することは、体験的に知ってはいたが。

    さて、本書によって初めて知った驚天の知見が二つあった。
    今となっては、恐らくごくごく一部の興味しか引かない話だと思うが、ここにご紹介したい。

    1. 東大・安田講堂の攻防戦は「アッツ島の玉砕戦」だったという話

    東大・安田講堂の攻防戦は1969年1月18日から19日にかけて行われた。戦術的には学生側のボロ負けだったが、マスコミには大きく取り上げられて、以降は「学生運動の殉教・受難」のシンボルみたいになった。

    証言者は日大全共闘OBの太郎良譲二氏。以下が証言である。

    (引用、始め)

    (藤村注;安田講堂攻防戦の際、他大学の学生は後方霍乱のため「神田カルチェラタン闘争」を仕掛けた。)

    出発の際、執行部メンバーから「今日の日大全共闘の役割は、御茶ノ水防衛である」と厳命された。中央大学中庭での集会を終えてデモに入ろうとすると外は機動隊が幾重にも取り囲んでいた。一時の投石戦の後、機動隊が靖国通り方向に後退し、御茶ノ水一体(原文ママ)は解放区カルチェラタンと化した。当然、その勢いで安田講堂陥落阻止の支援に向かうと思っていたら、再度「日大全共闘は、防衛に徹しろ」と指示が来た。御茶ノ水交番前でたむろしていると、他のセクト諸君が順天堂病院方向に進撃し、機動隊と対峙している様が遠目に見えた。しばらくして、本郷まで様子を見にいった行動隊の一人が「本郷まで機動隊はいない」と言い、「東大に向かおう」と提案した。しかし、執行部メンバーからまたまた「御茶ノ水橋を渡るな」との指示。(実はこの頃、機動隊は催涙弾を使い果たしていた。日大情報局による無線傍受で情報をつかんでいた)結局、午後七時頃までぶらぶらして学部バリ(藤村注;バリケード封鎖された学部棟のこと)に戻った。

    翌一・一九においても、日大全共闘は「御茶ノ水防衛」とのことで、東大本郷に向かうことはなかった。夕方に「安田講堂陥落」との情報が入り、気が抜けたように学部バリに帰った記憶がある。
    当然、皆から不満の声が漏れ始めた。「なぜ東大に向かわなかったのか」

    (中略)

    「なぜ東大に向かわなかったのか」のなぞは、一○年ほど前から解き明かされてきた。その切っ掛けは、日大情報局担当だった学友から当時の無線傍受記録の一部を耳にしたことにある。前記のように一八日の午後には東大攻防戦で催涙弾を使い果たし、無駄に催涙弾を使うなと指示が出ていた。御茶ノ水一体(原文ママ)が解放区になっているのに機動隊が規制に来ない理由が判明した。

    また、当日の学生側指揮本部は全学連各セクト幹部が仕切っており、特に日大全共闘を東大に行かせまいとした。なぜなら安田講堂は一八日の午前中には陥落させる予定で、各セクトは全国からパクラレ要員を募り籠城させていた。安田講堂は日大全共闘がバリケードを補強強化したお蔭で予想外に陥落が遅れた。機動隊との戦闘になれた日大全共闘が安田講堂の機動隊と直接対峙すれば更に陥落が遅れ、下手をすれば安田講堂のバリ撤去が中止されると考えていたのだ。味方に敵がいたのである。

    何の目的で画策したのか。マスコミで大きく取り上げられることで大衆の関心を引き、七○年安保闘争勝利の布石を打ったと耳にした。この件は、旧ブント幹部や日大全共闘幹部の口から同じ内容を聞いた。知らぬは○○ばかり也。当事者日大全共闘ばかりか、少なからずいた東大全共闘のノンセクト学生が利用されただけだったのか。(前掲書、249~251ページ)

    (引用、終わり)

    1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島で、帝国陸軍守備隊2,700名が全滅した。
    元々はミッドウェー作戦の陽動のため占領したので、米軍に反攻されたら一溜りもないことは分かっていた。

    そして実に、このアッツ島攻防戦こそが我が「玉砕戦」の第一号であり、このため戦死者たちはマスコミを通じて軍神と称えられ、「必勝報国」(早い話が、戦争に行って死んで来いということ)のシンボルとなった。

    なお、隣接するキスカ島にいた陸海軍守備隊6,000名は、霧に紛れての撤退に成功している。

    安田砦に立て籠もった学生たちは神風特攻隊、またはアラモの砦のつもりだったのだろうか。彼らはその結果に満足したのか。

    2.東大全共闘の実態は、セクトの寄り合い所帯だったという話

    同じく、日大全共闘OB太郎良譲二氏の証言である。

    (引用、始め)

    数年前に山本義隆氏(藤村注;元東大全共闘議長。左翼業界では有名な人)から聞いたことがある。彼は次のようなことを言っていました。

    「東大全共闘は、党派同士が共に闘うもので、対日共ということで体制を固める必要があり、それで誰か中立的なやつを議長にしようということで自分が指名された。東大全共闘というのは全共闘ではないよ。なぜって、自分は学生ではなく、助手という学校側の人間だよ、それが議長だよ」と。

    それで私は、一・一八~一九決戦では各セクトが各施設に陣取っていたことへの疑問が解けたんですよ。(前掲書、281ページ)

    (引用、終わり)

    私が未だバカタレ学生だったころ、「60年代末頃、東大駒場キャンパスには新旧左翼・全セクトの支部が出揃っていた」と聞いて、内心羨ましく思ったものである。選択肢は多いに越したことはない、さすが東大駒場だけのことはあると。

    だが、「ノンセクトが全共闘の主導権を握れず、セクトに牛耳られてしまった」という所に、私は東大生の悲しさを感じる。
    頭が良過ぎる人間というのは、ナニをするにしても理屈や損得勘定が先行してしまうからだ。だから、東大駒場がセクト支部の花盛りになるのである。

    なまじ頭が良いために、なまじ自分の知的能力に自信があるために、「学生運動をするんだったら、まずはセクトの言い分を聞いてみなくっちゃ」と思う。クソ真面目な人間ほどそう思う。そして、それが躓きの石になるのである。時には頭でっかちが禍して、ハムレットみたいにニッチもサッチも行かなくなるのである。

    バカタレはなんにも考えずにバカなことをしでかす。だから、バカほど怖いものはないのである。まさに魯迅の小編「賢人と馬鹿と奴隷」にある通りである。

    ちなみに我が母校は、隣近所の2校とセットで「ホーチミン大学」と呼ばれ、世間の顰蹙を買っていたが、利口にもバカにも徹し切れなかったのが我が母校のダメな所だと、本書を通読して思った。

    それにしても、当事者たちの回想を読んで、60年代の運動シーンは未だ随分と牧歌的だったんだなと思わずにはいられなかった。

    70年代以降の新左翼は、ただの人殺し、またはギャング集団と代わらないではないかと言われたら私には返すべき言葉がない。
    (以 上)

    タイトル
    恐らく、ごくごく一部の興味しか引かないだろう話
  5. 藤村 甲子園
    2011-12-17 00:15

    <高橋優・略歴> たかはし ゆう。歌手。男性。1983年生。秋田県出身。自称「今思ったことを今歌う、リアルタイム・シンガーソングライター」。

    <山本幸治氏による紹介記事>

    (藤村注;富野由悠季や宮崎駿といった「大御所」から見ると、最近のクリエイターたちが小粒に見えてしまうのは致し方ないことだ、と認めた上で、)

    今この時代にとっての真ん中のテーマって何だろうと考えたとき、2つの曲が頭に浮かんだ。「素晴らしき日常」(高橋優)と「3331」(ナノウfeat.初音ミク)だ。

    真正面から描くというよりは自分自身を相対化しているように見えるかもしれない。でも、ダイレクトに時代を歌っていると言えるだろう。

    そして、そういうスタンスが今の真ん中なのだとしたら、大御所たちにも新しい創作意欲を持ってもらえるかもしれない。

    (出典)「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P101、山本幸治「アニメ定量分析」Vol.45、扶桑社

    <事務所宛・ファンレター>

    拝啓 高橋優様
    藤村甲子園と申します。「SPA!」12月13日号、山本幸治氏の連載コラム「アニメ定量分析」で、貴台のお名前を初めて知りました。

    そこで、You Tubeにアップされている音源を、片っ端からチェックしてみました。久しぶりに新鮮さを感じさせる才能に出会ったと思いました。

    小生のこれまでの不明を恥じます。やはり、地上波テレビの歌番組をチェックしているだけでは、本当に新しいものを見逃してしまうんだなあと痛感しました。

    小生は「少年であれ」が一番好きです。歌詞と曲のバランスがよく取れていると思います。貴台の「私小説的メッセージ・ソング」系統では、この曲が一番、完成度が高いと思います。ピアノとチェロのアレンジも良いと思いました。

    「誰もいない台所」、「虹と記念日」、「靴紐」も好きです。これらは、誰が聴いても「いいな」と思えるだろう、素直なラブ・ソングスですね。

    「現実という名の怪物と戦う者たち」、「こどものうた」は、曲のテンポが良いので好きになりました。そうか、こんなアゲアゲの曲も作れる人なんだと思いました。

    貴台は、才能に幅のある作家だと思います。これからの人だと思います。まだまだ伸びて行く余地のある人だと思います。

    ここ10年ほどはリズム全盛、ダンス全盛の時代でしたが、そろそろ音楽好きの聴衆に飽きられて、これからメロディ・メーカーたちの巻き返しが始まるのでしょうか。

    早速、最寄のCDショップにアルバムを注文します。貴台の今後益々のご清栄をお祈りします。 敬具

    <アルバム「リアルタイム・シンガーソングライター」感想>

    藤村です。
    アルバム聴いて思いました。
    これはなんと、性急で生硬な「異議申し立て」系メッセージ・ソングの連発ではないか。まるで40数年前の全共闘のアジ演説みたいだ。
    でも、それこそが高橋優の楽曲の魅力ナンデス。

    高橋は現在27歳。こういった青臭さが許されるギリギリの年齢だと思います。
    もしもの話、48歳の小生が、これと似たようなメッセージ・ソングをこしらえて人前でシャウトしようものなら、良くて「さんまのSUPERからくりTV」の「サラリーマン替え歌選手権」、ヘタすりゃただの「頭のおかしいデブ男」扱いです。

    性急で生硬。これは決して短所ではありません。実にこれこそが青年の特権なのであります。
    ああ、「青年」なんて言葉、久しぶりに使うなあ。

    天は高橋優に、イケてる歌詞とイケてるメロディの「二物」を与えました。
    でも惜しいかな、美声は与えませんでした。ダミ声ナンデス。
    声の良し悪しも、もちろんサウンドの一部です。スーザン・ボイルみたいなタダのオバハンでも「天使の歌声」ひとつで成り上がったのに、実に実に残念なことです。

    ルックスの方は、まあ、スガシカオ程度にはイケてると思うンデスが。

    「負けるな、少年よ。」©高橋優

    (以 上)

    タイトル
    高橋優「少年であれ」ほか
  6. 藤村 甲子園
    2011-12-12 04:30

    <書誌事項> 伊東あきを・作「長篇マンガ くすりポン吉」1949年発行

    <伊東あきを・略歴> 不明。「狼少年ケン」等の作者、伊東章夫と同一人物か否かも不明。

    <情報源> 「SPA!」 Vol.60 No.42 (2011.12.13) P103、岩井道「マンガ極道」其の一四三、扶桑社

    <岩井道・略歴> いわい みち。まんだらけ中野店副店長として多忙な日々を送る。まんだらけのサイト( http://www.mandarake.co.jp )にて、コラム「岩井の本棚」を連載中。独自の視点で注目マンガを紹介する。(上記SPA!による)

    <私 見> 「くすりポン吉」は異色の時代劇マンガ、またはナンセンス・ギャグ・マンガである。
    主人公はヒロポン中毒と思われる少年剣士。そのストーリーたるや、下記の如きである。

    (1)主人公は、襲撃してきた強盗に「クスリ」をかけて無力化する。強盗はこの「まぼろし薬」によって幻覚症状を発し、そのまま昏倒してしまう。

    (2)催眠強盗に遭って眠り込んでいる町の人たちを、主人公は覚醒剤で一人残らず起こしてあげる、

    と言った、「喜劇新思想体系」(1972~4)時代の山上たつひこでもやらなかったような外道マンガなのである。

    念のためにお断りしておくと、「喜劇新思想体系」は青年劇画である。対するに「くすりポン吉」は、どこからどう見ても子供向けのオモチャ漫画である。「あんみつ姫」や「轟先生」と同時期のマンガなのだ。

    本作が刊行された1949年当時、ヒロポンは未だ合法ドラッグだったとは言え、余りにもアブナい内容を余りにもアッケラカンと描いているので、上記・紹介記事を読んで、小生はおかしくて大笑いしてしまった。この作者、気は確かか。

    この時代、児童マンガに注がれる世間の目は殊の外キツかったと聞く。当時のわが国は、教養主義・善導主義の全盛時代だったのである。あの手塚治虫ですら、何度も不買運動の槍玉に挙げられているのである。

    しかるに「くすりポン吉」たるや、「荒唐無稽」、「俗悪」、「子供の教育に良くない」どころの話ではない。ただひたすらアブナいのである。
    しかもその絵柄が決してデンパ系ではなく、杉浦茂ばりのホノボノ系という所が何とも味わい深い。

    本当は「SPA!」誌上の岩井道の図版入り記事をご紹介したいところなのである。是非とも最寄のコンビニでチェックしていただきたい。

    小生が子供だった1970年代初頭は、価値紊乱・秩序破壊を意図したかのようなアナーキーなマンガが大挙して出現した時期であった。山上たつひこ「喜劇新思想体系」を横綱格として、小生は下記のような作品群を直ちに思い出す。

    手塚治虫「やけっぱちのマリア」(1970)
    ちばてつや「餓鬼」(1970)
    谷岡ヤスジ「メッタメタ ガキ道講座」(1970~1)
    赤塚不二夫「レッツラゴン」(1971~4)
    石森章太郎「劇画 家畜人ヤプー」(1971)
    永井豪「オモライくん」(1972)
    ジョージ秋山「ゴミムシくん」(1972~3)

    ところがどっこい「くすりポン吉」を前にすると、上記の傑作群が「学研の学習マンガ」みたいな、クソまじめだけが取り柄の退屈なマンガと思えてくる。

    アナーキストと言うのは、実は意外と謹厳実直なカタブツが多いものである。「最初からオカシナ奴」の破壊力には、到底敵わないのだ。

    「くすりポン吉」は珍本には違いないが、内容が内容だけに復刊は金輪際ないだろう。なお、本書はマンガ専門古書店「まんだらけ」に、現在1万2千円で出品されているとのことである。

    「ならば、このオレが」と、ほんの一瞬だけ魔が差してしまったが、すぐに思い直した。
    こんなものに1万2千円を払う余裕があるなら、それをそっくり共同募金でもした方がはるかに意味があるだろう。
    (以 上)

    タイトル
    突破マンガ「くすりポン吉」
  7. 藤村 甲子園
    2011-12-06 04:03

    <書誌事項> 2011年12月5日、読売新聞「解説」欄、「論点スペシャル・ヨーロッパの行方」
    (インタビュー1)遠藤乾「統合の利、今も大きい」
    (インタビュー2)橋爪大三郎「将来からの逆算、大切」

    <遠藤乾・略歴> えんどう けん。1966年、東京都生まれ。北海道大教授。欧州委員会・専門調査員の経歴を持つ。専門は国際政治学・EU研究。編著に「ヨーロッパ統合史」「複数のヨーロッパ」など。(前記・読売による)

    <私  見> 新聞で遠藤乾氏のEU論を読む。同氏の論により「補完性原理」なる言葉を初めて知った。

    (引用、始め)

    理念から見れば、EUには補完性原理という考えがある。
    「より小さい単位が自らの目的を達成できる場合は、より大きな単位は介入してはならない」とする消極的原理と、「小さな単位が自らの目的を達成できない場合は、大きな単位が介入しなければならない」とする積極的原理からなる。
    もともと軍隊の正規軍と予備軍の関係を指し、のちにキリスト教会の小教区と大教区の関係、市民社会と国家の関係に適用され、今は加盟国とEUの関係に応用されている。

    (引用、終わり)

    小生の理解では「補完性原理」とは、主権国家と欧州流個人主義が折り合って行くための屁理屈と思われる。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」というわけである。

    私の見るところ「補完性原理」には、カエサルそのものを相対的・歴史的とみる姿勢は感じられない。これはゲスの勘繰りだが、「補完性原理」と「大きな政府」論は相性が良いのではなかろうか。

    「補完性原理」の由来をたどると、元々はローマ法王が言い出したことらしい。マルクスやハイエクのような極論に走らなかったところは、さすがアッパレな政治家ぶりではある。

    こうやってカエサルに「補完」されるのにウンザリした人々が、新大陸に渡って一旗あげるとリバータリアンになるのだろうか。「補完性原理」と「リバータリアン」を並べて検索してみたが、めぼしいものはヒットしなかった。先学のご教示を賜りたい。

    ふと小生は、旧ソ連のスパイで御用作家、イリヤ・エレンブルグの一節を思い出した。あるアメリカ人実業家の問わず語りを書き留めたものである。

    (引用、始め)

    ふじむら掲示板[1398]人生意気に感じる話 投稿者:藤村甲子園  投稿日:2002/03/30(Sat) 16:45:20

    (前  略)

    <書誌事項>イリヤ・エレンブルグ「わが回想(副題)人間・歳月・生活」木村浩訳、全三巻、1853p、朝日新聞社、1968~69年(改訂新装版)

    (中  略)

    <「人生意気に感じる話」の前口上>
    エレンブルグは1946年4月から数ヶ月、アメリカ、カナダを公費旅行している。(中  略)旅も終わりに近づき、乗り継ぎのため立ち寄ったニューヨーク州オールバニで、エレンブルグはとても印象的な体験をすることになる。以下に、エレンブルグ「わが回想」から該当部分を引用する。

    <人生意気に感じる話>
    私がオールバニでのこの晩を記憶に留めたのは、そこでバーの客の一人と突然、話し込んでしまったからであった。見たところ、その男は五十歳以下であった。彼の赤銅色の顔は汗で光っていた――その晩は暑かったのだ。彼は二年間ブリュッセルで暮らしたので、フランス語をよく話した。(中  略)

    私は、彼がそのような不安な生活に疲れていないかどうか、たずねてみた。彼は軽蔑するような微笑を浮かべた――「私は、ベルギー人でもなく、フランス人でもなく、ロシア人でもありません。私はほんとうのアメリカ人ですよ。五月に私は五十四歳になりましたが、これは男ざかりの年齢です。私の頭はいろいろなアイデアでぎっしりです。私はまだ上にのぼっていけますよ」それから彼は理窟を並べはじめた――「私は何もロシア人に反感なぞもってはいませんよ。ロシア人はしっかり戦いましたからね。きっと彼らはりっぱなビジネスマンにちがいありません。しかし私は『タイムス』で、お国には個人の創意というものがない、自由競争がない、出世できるのは政治家と建設者だけで、他の者は労働し給料をもらうだけだ、という記事を読みました。これは世にも退屈な話です!もしも大不況(二十年代末の経済恐慌を彼はそうよんでいた)の際、おまえに相当の給料を出すが、それはおまえが州から州へ移らず、職を変えないという条件づきでだ、といわれたとしたら、私は自分で自分の命を絶ったことでしょう。あなたには、この気持ちがおわかりにならないでしょうね?もちろんですよ!私はブリュッセルで、人びとが平穏無事に暮らし、万一に備えて貯蓄し、退化していくさまを見ました。あそこでは、どの青年も精神的インポテントですよ・・・・・」(中  略)

    私はある夜、旅行についての私の思いをメモし、そのメモの中でオールバニで出会った赤銅色のアメリカ人のことに戻った。(中  略)アメリカでは資本主義が、青春ではないにせよ、オールバニであの男がいったごとく『男ざかりの年齢』を送っているのだ。彼は偶然の冒険家ではなく、冒険主義的世界の生んだ人間なのである。彼が重んじているいっさいのものは、彼にとっては終わりかけているのでなく、はじまりかけているのだ。アメリカとは協定しなければならない――革命は、あそこでは近々数十年のうちにはおこらないだろうから。アメリカ人を抑制しなければならない。彼らは概して温和な人間だが、たいそう冒険的な連中だから・・・・」(「わが回想」第三巻、346p~349p)

    (後  略)

    (引用、終わり)

    ところでこの「補完性原理」、元々個人主義の土壌がない日本国では、なんと民営化推進論者の旗印になっているらしい。これには恐れ入った。やれやれとんだサルどもである、もちろん小生も含めてだが。
    (以 上)

    タイトル
    カエサルのものはカエサルに
  8. 藤村 甲子園
    2011-10-30 01:21

    <書誌事項> 猪俣津南雄『踏査報告 窮乏の農村』岩波文庫、1982年、P244。原著は1934年、改造社刊。

    <私  見> Ⅰ.プロローグ

    帯状疱疹で一週間、入院した。ヒマだから、ミコちゃんみたいに本ばかり読んでいた。
    2011年10月8日(土)、猪俣津南雄『窮乏の農村』(岩波文庫)読了。思わぬ拾いものだった。

    私はこれまで、昭和戦前期の日本の農村について、具体的で生き生きとしたイメージを与えてくれる本と出合ったことがなかった。

    農業経済学は大枠の知識は与えてくれたが、そこから農民のナマの声は聞こえて来なかった。
    民俗学はどうか。柳田国男は昔へ昔へと遡ることに興味が行ってしまう人であった。宮本常一が書き残した農村同時代史は、主に戦後以降を記述対象としたものである。
    ならば文学はどうか。漱石・鴎外以来の日本近代文学は、もっぱら都市の風俗ばかりを描こうとしてきた(少数の例外を除いて)。
    たとえば堀辰雄が描いた昭和戦前期の軽井沢は、あれはありのままの農村などではない。別荘地/サナトリウムという都市風俗の後景として登場する「まるでおフランスみたいな田園風景」の代用品にすぎない。
    小林多喜二の農村プロレタリア小説なんて、読まなくたって何が書いてあるのか想像がつくようなシロモノだ。

    猪俣津南雄『窮乏の農村』は、欠点も多いが、誠実で率直なルポルタージュである。
    本書の序に「私の報告は、真実を伝えたい一念で書いた。誇張歪曲は極力避けた」(岩波文庫、P6。以下、引用は岩波文庫から)とある。まさにその通りの本だと思う。

    昭和戦前期の日本の農村について、私は
    「クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい、クラい。」 ああ、いやだ、いやだ、(サゲサゲ)
    といった貧困なイメージしか持っていなかった。
    具体的には、黒澤明のモノクロ映画「七人の侍」、あるいは白土三平の階級闘争マンガ「カムイ伝」みたいな、ドツボな感じ。

    決してそうではなかったのである。確かに昭和戦前期の日本の農村は、貧しいは貧しい。
    でも、生身の人間である。人間が生きていれば、そこに必ず喜怒哀楽がある。来る日も来る日も哀しみや怒りばかりで、喜びや楽しみの全く欠落している人生などというものがあるだろうか。もしあったら、過酷な農業労働に耐えて行ける筈がない。首をくくるか、さもなきゃ夜逃げでもした方がまだマシというものである。
    人間がいるところには必ず喜怒哀楽がある。考えてみれば当り前のことである。

    これまで私が、昭和戦前期の日本の農村のことを暗黒世界のようにイメージしていたのは、単に私の無知のせいだということがよく分かった。

    (続く)

    タイトル
    愛と死を見つめて(1/4)
  9. 藤村 甲子園
    2011-10-30 01:18

    (承前)

    Ⅲ.『窮乏の農村』の見どころ

    とにかくユーモラスなのである。著者は農村の悲惨さを訴えようとしているのだが、何だか笑ってしまうような話が多い。企まざるユーモアというべきか。
    具体的に、二三引用する。

    (引用、始め)

    (藤村注;農家の娘さんたちは近隣の工場で働いて、親の家計を助けていたが、これも恐慌ですっかりダメになってしまった、という話の後で、)

    この女工さんたちがお休みに着て歩く人絹物の派手な模様の一張羅(いっちょうら)がとかく地主たちの眼に止り、お前らのとこの娘にあんな着物を着せておいて年貢米をまけてくれもなかろうと言い立てれば、娘は娘で、こんな着物ぐらい着なければ嫁に貰ってくれ手もないと応酬するという話。―――
    もっとも、こうした「女工哀史」の最新版を書きつつあるのは、信州や上州に限ったことではない。また養蚕農家に限ったことでもない。それはまず全国的なことだと言えるであろう。(P35)

    (藤村注;当時の農民も、農業機械の導入には意欲的だった。零細農家にとって、高額な機械の購入はリスクが大きい事は明白なのに、なぜ誰もがそうしたがるのか。)

    群馬県のある自作農の言ったことが代表的である。彼はこう言った、機械を使えば身体(からだ)が楽だし、仕事も早く切り上げられる、しかし経済的にはかえって余計苦しいし、仕事も粗末になりがちだ。
    だが、身体が楽だ、そして明るいうちに切り上げられる、というそのことは、何といっても現代の農民には大きな魅力であるらしい。経済上のよしあしを詮議(せんぎ)しているいとまもないくらいこの魅力が大きく強いということこそ、あわただしい機械化普及の秘密の一部を語るかと思われる。(中 略)
    石川県のある村で、私は、農民組合の『の』の字も知らぬ一群の農民たちがあげる火のような気焔(きえん)をきいた。熱して来ると彼らは、「身体にらくゥしている町の月給取り」を仇敵(かたき)のようにこきおろした。「あいつらァ、日曜だと吐(こ)いてェ、朝っぱらから炬燵(こたつ)べェへえってェ、蓄音機ィかけてェ・・・・・。」
    それも一応無理はない。科学の進歩、産業技術の発展の現状をもってして、農民たちの身体を楽に出来ないはずはなかったのだ。(P50-51)

    先頃、ある農業経済学者が群馬県へやってきて、大いに産業組合の利益を説いた。農民は産業組合によって資本家にも対抗してゆくことが出来る、第一に組合製糸がそれであるし、さらにまた各種の生産組合を作れば日用品の大部分も資本家から買わなくてすむようになる、というようなことを言って聞かせた。しかしそこに集まっていた若い者は笑って相手にならなかった。われわれにはあいにくと資本がない、腕と頭の力だけでは敵(かな)いっこない、先生も自分で二、三年小作でもやって御覧なさい、じきにわかります、と言ったので農業経済学者も一緒に笑ってしまった。そんな話もきいた。(P130)

    (引用、終わり)

    ここらへんのおおらかさが、猪俣津南雄の持ち味であるように思える。
    表層的と言えば表層的だが、ものの見方がとても素直である。
    少なくとも、「金持ちはキライだ」または「ブルジョア階級は人民大衆の不倶戴天の敵だ」といった類の「正しい階級意識」から出発している人ではないように思われた。

    もちろん猪俣も、「世の中全部が社会主義になれば、何もかもがうまく行く筈だ」と考えてはいるようだ。実際、そういった意味のことを本書でも何度も繰り返している。こういった点においては猪俣もまた、在り来たりのアカの一人に過ぎないとは言える。

    ただ、猪俣の人間観は、アカの理論家としてはちょっと変わっているように思える。
    誰かを「諸悪の根源」、「悪の総元締め」または「戦争の親方」みたいなものに仕立て上げて、「***を打倒しさえすれば何もかもうまく行く」式の、単純きわまる善悪二元論に立っている人ではなさそうなのである。

    (引用、始め)

    (藤村注;当時の地主は、農民からの収奪強化のため、小作人から土地を取り上げることがよくあった。「ガタガタぬかすと、小作地を取り上げるぞ。他に耕作したがっている人間はいくらでもいるんだ」という訳である。という話に続けて、)

    土地取上げの手段方法やからくりをいちいち書き立てていたら際限がない。(中 略)
    青森県にはまた、多収穫の競争で一等賞を貰ったおかげで土地を取上げられたという小作人もいた。一反から前の二倍も三倍も米の取れるようになった土地、その土地から前同様の小作料を取って満足していることは、地主としては堪(た)えがたいことであったろう。(P198-199)

    (引用、終わり)

    この「地主としては堪えがたいことであったろう」という一言が、人間洞察として深いところまで届いていると私には思えた。

    もちろん、この地主のやったことは理不尽きわまりない。農業経営者の取るべきリーダーシップという点から見ても、合理的な選択とは言いかねる。もしもの話、あなたの同僚のトップ営業マンが、突然、ヤキモチ焼きの社長にクビにされでもしたら、あなたはどんな気持ちがしますか?

    だが、人間とはこういった理不尽、こういった不合理を敢えてやってしまう生き物なのである。そうする権力を持っていれば、誰だってそうする。もしも誰からも牽制されなければ、誰だってローマ皇帝ネロみたいになる。実際、「トップ営業マンが真っ先にリストラされてしまいました」程度のことは、巷間、どこの会社にでもある話なのである。私がそういうことをしないのは、私にはそういった権力がないからに過ぎない。

    これが小林多喜二だったら、「この地主は卑劣な奴だ。これが搾取者の本質なのだ」とかナントカ、訳知り顔の倫理判断または価値判断にまで踏み込んでいたろう。

    猪俣津南雄は「地主としては堪えがたいことであったろう」で止めた。ほんの少しの言い回しの違いだが、私はここに猪俣のフトコロの深さを感じる。公平さ、真実に対する忠誠心、または人間性に対する愛と言っても良い。

    そもそも本書は、一体に、階級的憎悪(ルサンチマン、または貧乏人のヒガミ)の含有量が希薄なのである。これは左翼文献にしては珍しいことだ。そういうものは、ひた隠しに隠していても、自ずと現れずにはいないものなのだから。
    猪俣は、ホントはとってもお育ちの良い「おぼっちゃまくん」だったのではなかろうか。

    まあ、こういう気取りや飾り気のないところが、革マルみたいな、お高く留まっていて、切っても血も出ない公式主義者から、猪俣がアホ呼ばわりされるユエンなのだろうが。

    (続く)

    タイトル
    愛と死を見つめて(3/4)
  10. 藤村 甲子園
    2011-10-30 01:16

    (承前)

    Ⅵ.『窮乏の農村』の限界と、その意義

    本書の成り立ちは、おそらくこんなところだろうと思われる。

    「おい、ゴンベエさん、聞いたか。今度、東京から組合の偉い先生がやって来て、オラが村のことをあれこれ調べなさるんだとよ。」

    「そうかいね、留吉さん。だったらひとつ、その先生のところまで出掛けて行って、オラっこのグチでも聞いてもらうべえ。」

    このゴンベエさん、グチとは言え、アカの他人に向かって言うべき言葉を持っている人である。こういう人は少数派である。
    さらに、自分の意見を世の中に向けて発表したい/発表すべきだという問題意識も持っている。そういう人はさらに少数派である。
    さらに、忙しい労働時間を割いて、わざわざ東京から来た珍客を訪ねてみようかという意志の持ち主でもある。そういう人は、さらにさらに少数派である。
    これは昔も今もそうだし、また洋の東西も問わない。もちろん、農民に限った話ではない。

    つまり『窮乏の農村』という本は、当時の日本の農村の、最良もしくは最も意識が尖鋭な部分の意見のみを代表している可能性がある。もの言わぬ農民大衆のホンネは、本書の持つ射程距離の、さらにその先にある可能性がある。

    これはもちろん、猪俣津南雄の洞察力不足のせいではない。彼は彼にできる最善を尽くした。これは聞き書きという方法そのものが持っている、宿命的な欠陥なのだ。

    そもそも、「もの言わぬ」相手のホンネを、どうやって聞き取れば良いというのか。
    察すれば良いだろう、こちらが勝手に想像すれば良いだろうというのは、当の相手から見れば大変無礼な振る舞いであり、ハタから見ればただの思い上がり、または傲慢である。
    「もの言わぬ」相手のホンネを、「おまえのホンネはこうだ」と決めつける権利を持っているのは、ただ裁判所と税務署と公正取引委員会あるのみである。

    では、みのもんたの身の上相談は、あれは無礼ではないのか?傲慢ではないのか?

    あれは傲慢ではない。みのもんたは「お譲さん、アンタねぇ、一体ナニ考えてんの!?」と、叱られたがっている相手を叱っているだけだ。無理矢理なのか、それとも相手と合意の上なのか、また、相手に無礼と取られはしないかは微妙なところだが、そこのところを紙一重の差ですり抜けてみせる、みのの練達の話術はさすがである。

    閑話休題。『窮乏の農村』をもって、「昭和戦前期の日本の農村の全体像はこうだった」と捉えたら、おそらく誤るだろう。だが、「こういう一面も、あるにはあったに違いない」と捉える限りにおいては、政治的立場の如何を問わず、有益な歴史資料と言えるのではなかろうか。

    これだけは言える。本書は、私の歴史意識の空白を埋めてくれた良書である。
    昭和戦前期の日本の農村は、決して暗黒ではなかった。

    もちろん、零細規模経営で、農産品市況が不安定で、地主からの収奪も激しかったため、楽な暮らしではなかったが、農民も、決してやられる一方の哀れな立場ではなかったのだ。いやむしろ、なかなかにシタタカなものではないかと思われた。
    実際、旧ソ連では、都市労働者(月給取り)は共産党の言うことに唯々諾々と従うしかない立場に置かれていたが、農民たちは共産党のことを散々手古摺らせてきたのである。中共は今でもそうだ。

    それでは最後に、昭和戦前期の日本の農村の「最も意識が尖鋭な部分」たちの「声ある声」をご紹介したい。

    (引用、始め)

    (藤村注;昭和恐慌では地主階級も痛手を負った。時流に乗り損ねたものが没落するのは、有産階級であっても変わらないからだ。中小地主はことにそうだ、という話に続けて、)

    新潟県の米作地帯などで、「中小地主の没落は急角度だ」といわれるのは、そこの小作人が他県よりよほど強かったことにも関係する。近年猛烈な争議をして勝った王番田(おうばでん)の小作人たちは、この辺の地主は借金で首ったけでもうわれわれに抵抗する気力などはないと大層気焔(きえん)をあげていた。
    この小作人たちの気焔は全く愉快なものだった。抵抗する気力がないなどと好い気になっているとひどい目に逢うぞ、と笑った者がある。すると彼らも負けてはいない。万事はこの胸にある、といった調子である。そんなら、今後の対地主政策はときくと、突嗟(とっさ)に、「まず生かさず殺さずという所かな」という応酬だ。(P168)

    (引用、終わり)

    (以 上)

    タイトル
    愛と死を見つめて(4/4)
  11. 藤村 甲子園
    2011-10-30 01:20

    (承前)

    Ⅱ.著者の人となり。および本書の時代背景について

    ここから先、この一章は、少々ガマンしてお付き合いください。

    『窮乏の農村』の著者、猪俣津南雄(1889~1942)は戦前に活躍したマルクス経済学者である。裕福な商家の生まれだが、実家は後に破産した。苦学の末、32歳で早稲田大学講師となるが、第一次共産党に入党して検挙された。以降は、講座派とも労農派とも一線を画す一匹狼的な論客として、そこそこ売れたらしい。彼の所説は当時のジャーナリズムから「イノマタイズム」と称されたそうだ。

    さて昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えつつあったという。

    運動の第一のピークは、大正末年ごろだった。これは中農下層および貧農上層を中心とした「モノ取り主義」的闘争で、一定の成果を勝ち取った途端に運動は沈滞し、村会議員に成り上がった運動指導者の中には、ダラ幹と化した者もいたという。

    昭和5年、昭和恐慌はじまる。当時、日本の主要農産物は米と繭だった。
    繭価(春まゆ)の推移を昭和元年を100とする指数でみると、昭和6年は33.2、昭和7年は27.4に下落した。
    同じく米価指数の推移は、昭和元年を100とすると、昭和6年は49.2、昭和7年は56.3である。
    当時、米穀統制法に基づく政府買い上げ米制度は既にあったが、朝鮮・台湾から入ってくる安価な米を流通規制しないなど、戦後の食糧管理制度に比べればチャチなシロモノであった。
    本格的な食糧管理制度は戦争のおかげで整備された。これもまた、皮肉な話ではある。

    恐慌は万人を苦しめる。だが、ワリを食うのはもっぱら下の方である。
    昭和恐慌のおかげで、地主も中農も貧農上層も借金まみれになった。儲けたのは目端の利く商品ブローカーばかりである。
    だが、貧農下層は借金まみれどころではない。なにしろ食べる米がない(自分で作った米は、前借金のカタに取上げられてしまうのである)。農村には日雇取りの仕事もなくなってしまった。都会に出ても、既に失業者で溢れ返っている。

    かくして昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えた。今度は生活防衛闘争である。また、従来は何かと軽く見られ勝ちだった貧農下層が、運動の中で大きな部分を占めるようになってきた。

    このように、農民運動の質が変化してきた。一方で状況は切迫している。ファシズムや農本主義右翼に吸引される農民も出てきた。「このままではいけない。何とかしなければ」という問題意識が、当時の農民運動の指導者層に共有されていたようである。

    (引用、始め)

    それに、こういう意見の人もあった。貧農の下層が黙って引き込んでいるのは、上層の者が組合支部を切り廻しているからだ、どこの村にも格とか席順とかいうものがあって、村の集まりには下の者は口を利かないしきたりになっている、その慣行が組合支部の集会や活動に際しても現われるのだ、下層の者は有能者でも自己の才能を隠そうとするほどだ、こんな姑息(こそく)な家長制的伝統を打破しなくては組合の本当の活動は出来るものでない、また組合においてはそれを打破することも決して不可能ではない、と。
    右の意見は、自身も貧農の下層に属する人の意見であった。それだけに余計傾聴に価するものがある。(P221-222)

    (引用、終わり)

    昭和9年当時、猪俣津南雄は全国農民組合(全農)の顧問的立場にあった。運動方針転換のための基礎調査として、猪俣は全国2府16県の農村を踏査した。実質的な調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と思われる(注)。その調査報告が本書である。本書の内容は全農の新方針にも影響を与えたとのことだが、時流には抗し切れず、結局、全農は昭和12年に壊滅した。

    (注)調査期間推測の根拠は以下の通り。
    1.昭和9年の「五月初旬に東京を立ち、」(P5)と、猪俣自身が書いている。
    2.本調査の一部は、最初、雑誌『改造』の昭和9年7月号、8月号、および9月号に発表されている。
    3.本書の序には「一九三四年九月」との日付がある。
    1~3より、本書執筆の途上で調査旅行が継続していたとしても、調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と推測した。

    (続く)

    タイトル
    愛と死を見つめて(2/4)
  12. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:58

    震災一日目(3/11)、茨城県つくば市は激しい余震あり。決して気持ちの良いものではない。
    震災二日目(3/12)は、波のようにうねる余震に変わった。船酔いのような気分になる。
    震災三日目以降はもう覚えていない。落ち込んだ気分にも慣れてしまった。

    震災五日目(3/15)にしてようやく悟った。そもそも、余震だ停電だ断水だと、何かある度にいちいち気を張り詰めるから、日が落ちる頃にはドッと疲れが出て憂鬱になるのである。

    もうこうなったら是非には及ばず。鈍感かつ無神経になるに限るとハラを括った。ということで、ヤケ食いのようにずっと口を動かしてばかりいる。雰囲気もクソもない、まるで排泄行為のような食事だ。ちなみに、性欲の方はまだ回復していない。(以 上)

    タイトル
    つくばだより、その1
  13. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:57

    (Q)
    地震直後から船酔いのような症状が抜けません。これは何でしょうか。(茨城県那珂市 27歳男性)

    (A)
    「地震酔い」と言われているものです。今回の地震は揺れた時間が長く、しかも大きな余震も続いているため地震酔いにかかる方も多いかもしれません。

    メカニズムは船酔いや車酔いと同じです。視覚情報と三半規管で感じる平衡感覚にズレが生じると自律神経が興奮し、「酔い」の状態になります。

    「不安感」なども原因です。車酔いする人がバスの中のにおいや、たばこなど苦手なにおいがすると酔いやすくなるのと同じで、「また地震が起こるかも」「親戚、家族は大丈夫だろうか」といった不安感が余震による酔いを増幅させているのでしょう。

    地震酔いが苦しい人は、深呼吸をし、冷たい水や温かいお茶を飲むなど、リラックス出来る工夫をしてみて下さい。(喜多悦子 日本赤十字九州国際看護大学長)

    タイトル
    (参考文献)2011年3月16日付、読売新聞より
  14. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:55

    <書誌事項> (著者)田村康二、(書名)「震度7」を生き抜く、(副題)被災地医師が得た教訓、2005年、祥伝社新書

    <著者略歴> 1935年、新潟県生まれ。新潟大学医学部卒業後、同大医学部助教授、山梨医科大学教授を経て、2001年より新潟県長岡市の立川メディカルセンター常勤顧問を務める。生体リズムを病気の予防、健康に生かす「時間医学」の第一人者。(前掲書より)

    <前掲書P224~231より>

    [生体リズムを生かして復活しよう]

    震災に遭うと、ふだんなんとなく暮らしていた「普通の生活」が、いかに大切かを思い知らされる。では、普通の生活とはなんだろうか? 与えられた自然の中で、心と体の調和がとれている暮らしだと思う。つまり、心身のリズムがうまくとれている生活である。だから、普通の生活に戻るには、このリズムをふたたび取り戻すことにある。

    私も、ようやく落ち着いてきたのは、地震後一カ月も経ったころだったと実感している。余震もやっと減ってきたころだ。
    地震発生時に、ジムのプールで恐怖の体験をした人に聞いた。
    「あのときから、またプールに入りましたか?」
    「今日、一カ月ぶりに入りました。でも、怖くてすぐにあがりましたよ」
    などという悩みを聞く。

    近くの長岡操車場跡地には、たくさんの仮設住宅が造られ、まるで一つの街ができたような気がする。
    多くの被災者が、リュックサックを肩に私のアパートの前を行き来している。あのとき、幸せな生活を突然奪われた方たちには、なんの落ち度があったわけではない。なのに、なぜ「仮設住宅に入れてホッとし、落ち着きを取り戻してきています」という生活に耐えなければならないのだろうか。

    だが、慣れとは怖いもので、人間は一カ月も経てば、新しい生活に順応しはじめる。
    昔から「石の上にも三年」というが、いま思えば、私も風土や仕事がまったく違うこの地での生活に馴染むのに三年かかった。このように、人間の体調、つまり身体のリズムが新しい環境に馴染むには一定の時間が必要なのである。

    人間は、広い宇宙の中の地球という星で暮らしている。だから、まず地球物理学的な力が「秒・分・週・月・年」という時間を決め、身体はそれにしたがって変動している。

    この変動は、リズミカルに変わって「生体リズム」となり、体内にそれを刻む「生体時計」が作られていく。さまざまな時間的周期を持つリズムは、それぞれがいわば小さな波であり、それらが互いに重なり合って大きな波を作り、心身のリズムができあがってくる。このリズムの代表が、約二四時間のリズムである。これを「サーカディアン・リズム(概日リズム)」と呼んでいる。

    (以下、次号)

    タイトル
    (参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(1/4)
  15. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:53

    (承 前)

    サーカディアン・リズムは、遺伝的な要素、つまり、持って生まれた「時計遺伝子」と、生まれてから今日に至る「環境」のあいだの互いのせめぎ合いでできている。

    まず、身体の細胞のすべてにある時計遺伝子は約二五時間周期である。これを体内時計と言う。

    一方、自然環境である対外時計は、太陽の運行で決まってくるが、これは二四時間周期である。これらの内外二つの時計の互いのせめぎ合いで、体には“体の時計”ができてくる。これを「生体時計」(以下、時計とする)と言う。

    二つの時計の互いのせめぎ合いの結果、時計の周期は約二四・五時間ほどになるが、この時計の中枢は、脳のほぼ中央に位置する「視交差上核(しこうさじょうかく)」の時計遺伝子の塊の中にある。

    この塊に対し、眼から入った光の刺激が伝わると、松果体(しょうかたい)という組織に信号が伝えられ、そこからセロトニンという「時計のホルモン」が分泌されて、全身の時計を調節していく。これが「体調」といわれ、リズムを調節している仕組みである。
    「今日は体調が悪い。だんだんと調子が上がってきた。リズムに乗れる」などという言い方を、誰もが日常的にする。つまり、誰もが一定のリズムで自分の体が揺れ動くような気がしている。

    こうした人間身体の経時的な変動には、一定の規則性があることが科学的に解明されてきて、これを研究しているのが時間医学である。この医学の成果は、時間的変動の規則性を見つけることで、日ごろの暮らし方に基づく健康法となり(これを私は、生体リズム健康法と提唱している)、さらには病気の予防や診断、治療に使われている。

    たとえば、大脳の前頭葉は、主な頭脳活動(発語、気分、思考、言語など)をつかさどる。頭脳活動や精神的な活動は、一日のうちで午前十一時ごろが最高になり、夕方になるにつれてこの活動は低下してくるというリズムがある。

    じつは、頭脳活動を数量的に評価するのは難しいのだが、一日のうちで計算能力の速さについての変動を分析すると、このリズムが明らかになる。したがって、朝の時間帯に企画、立案、評価、あるいは家計簿の整理などの頭脳労働をするのが効率的である。

    一方、スポーツに不可欠な運動要素である、走る、蹴るなどの働きは、午後四時ごろにピークになる。そのため、この時間に試合をすればベストの試合ができる。つまり、肉体労働は、午後から夕方にかけて行なうようにするのがベストなのだ。

    宮本武蔵は『五輪書』という剣の極意書で、拍子(リズム)や度を越す(急所を乗り切る)タイミングの重要さを説いている。かの有名な巌流島での決戦には、このリズムを考えたに違いない。人生、何事をするにもリズムに乗り、タイミングを摑むことが大切である。そうして、うまく調子の波に乗れれば、体調も元に戻り、回復も早まってくる。

    (以下、次号)

    タイトル
    (参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(2/4)
  16. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:51

    (承 前)

    [身体のリズムを取り戻すポイント]

    地震では、一挙に急激な生活や環境の変化に出会う。このために体調がすっかり狂ってしまう。だから、変化に慣れるためにリズムを調律し直す必要がある。新しい環境に馴染み、溶け込み、適応し、順応して同化していくのである。どのように慣れていったらいいのかを知ることは、大切な生活の知恵だ。

    新しい環境に慣れていくには、「基になる周期の四~五倍の時間」がかかる。まず、この原則をよく承知してほしい。

    ①一日のリズムを治すには最低四日はかかる。

    病院に入院すると、普通、最初の四~五日間は微熱と軽い頻脈が起こる。その後は正常に戻るが、昔から医師はこれを「病院熱」と呼んできた。理由は、入院する前の生活リズムが入院で一変するからだ。しかし、一日の四~五倍、つまり入院四~五日目になると、ようやく新しい生活リズムに慣れてくる。

    時差ボケも病院熱と同じである。交代勤務や海外旅行のために昼夜が逆転すると、体内に時差が生じる。これを「時差ボケ」と呼ぶ。海外旅行による時差は、日本から東西どちらへでも五時間以上続けて飛ぶと起きてくる現象だ。この結果、普通は寝ている時間に急に起こされ、寝ボケている状態と同じになってしまう。原因は、急に現地時間が異なる場所に移動して夜と昼が逆転してしまい、身体の時計が狂うからである。さらに疲労・ストレスが加わる。
    ただ、このボケ状態も、病院熱と同じように四~五日でおさまる。ともあれ、一日のリズムの乱れを治すには、四~五日かかると思ってほしい。

    ②一週間のリズムの狂いを治すには最低四週間はかかる。

    人には、「労働の一週間リズム」がある。旧約聖書には、「天地万物は完成された。第七の日に神はご自分の仕事を離れて安息された。この日に神は、すべての創造の仕事を離れ安息されたので、第七の日を神は祝福し聖別された。これが天地創造の由来である」と書かれている。

    「神が全能なら、なぜ万物を作るのに六日間もかかったのか? なぜ一秒で作れなかったのか?」と異教徒なら当然の疑問を問うと、ユダヤ・キリストの聖職者の顔色が変わるだろう。しかし、彼らに感謝しなくてはならない。なぜなら、そのおかげで日本でも日曜日を休むという習慣が根づいてきたからだ。

    医学的に、身体には「一週間」というリズムがあることがわかってきた。実験用のネズミも七日目には活動が鈍る。

    要するに、環境の急な変化に対しては、まず、一日の四倍の四日間を使って慣れ、次に七日の四倍、約一カ月で慣れていくことが大切である。一週間のリズムを取り戻すには、四週間の連続した休養が必要となることを知ってほしい。もちろん、一カ月を取り戻すには、四カ月間辛抱しないと日ごろの生活は戻ってこない。

    (以下、次号)

    タイトル
    (参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(3/4)
  17. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:49

    (承 前)

    リズムを取り戻すに必要なのは、まず食事である。ふだん通り、三度の食事を規則正しく摂ることからはじまる。食事内容も大切である。たとえば、枝豆に多く含まれるトリプトファン。これから生まれるアミノ酸は睡眠物質を作る材料になるので、不眠を感じる人は大豆を食べるとよい。

    アメリカから沖縄へ兵士を空輸する際、トリプトファンを摂った兵士は機内でよく寝ていたという報告がある。また、熟眠したければ、ミネラル、ビタミンを多く含むブロッコリーがおすすめである。寝酒に愛用されるワインでは睡眠物質は作れない。

    全身運動をするのも効果的である。じつは、長岡市では日本ではじめて、市民による「長岡市朝起会」を行なった土地である。NHKのラジオ体操より早い。
    一九二二年(大正十一年)から四〇年(昭和十五年)まで、「励めよ励めよ朝起きを、三六〇有余日、雨の降る日も、おめずおくせず、ためらわず・・・・・・」という「長岡朝起きの歌」を歌いながら、全身運動する習慣が続いた。全国に誇れる社会体操の先駆である。

    いま、これに習って早寝早起きし、軽い全身体操をするといい。これは、全身のリズムを整えるのに効果がある。元気を出して、朝の体操をしてみよう。(以 上)

    タイトル
    (参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(4/4)
  18. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:48

    3月11日午後4時頃、私は自家用車で茨城県つくば市の職場から退避した。
    工場には既に毒ガスが充満していた。臨時社員の私は何の役にも立たないばかりか、足手まといになる。年下の課長から、おまえは帰りたければ帰れと言われた。お言葉に甘えて帰ることにしたのだ。

    主要道路は渋滞していると推測し、私は脇道を行くことにした。
    長高野(おさこうや)、篠崎(しのざき)、沼崎(ぬまざき)、酒丸(さけまる)といった名の、昔ながらの農村集落の間の、生活道路や農道をジグザグに辿りながら、私は南下して行った。

    所どころでブロック塀や大谷石の塀が崩落していた。屋根瓦が剥落している家屋もあった。地震で破壊された建築物にどのような共通性・法則性があるのか、私には分からなかった。路上のそちこちで村民たち(その多くは高齢者であった)が立ち話をしていた。車で脇をすり抜けたら、みな一様に、私のことをうさん臭そうな目で見る。

    そのうち、私はあることに気がついた。崩れた塀はずいぶん見かけたが、それが通行の支障になるようなことは、ただの一度もなかったのである。
    崩れたブロック、崩れた大谷石は、よく見ると、みな道路脇に行儀良く整列していた。あの大地震で、塀のブロックや大谷石が、こんなサーカスみたいに器用な着地をご披露するものだろうか。

    おそらくは地震発生から数時間以内に、誰かが路上から崩れたブロックや大谷石を取り除けたのだ。一体どの誰が、一体どうやって、これだけの大仕事を鮮やかにやってのけたのだろうか。
    私はつくばの農村の底力を知った。一見、何もない田舎のように見えたが、つくばの農村は、決していわゆる「限界集落」(注)ではなかったのである。この一年半、あちこちブラブラ見て回ったつもりでいたが、私はつくばがどういう土地なのか、全く分かっていなかったのだと思う。(以 上)

    (注)「限界集落」とは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを指す。(ウィキペディアより)

    タイトル
    つくばだより、その2
  19. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:46

    3月11日午後5時半頃、私は車で自宅(茨城県つくば市)最寄のコンビニに向った。
    自分も含めて、道行く車の運転マナーが、総じていつもより荒い。途中で事故車に出会う頻度も高かった。矢張り、みな気が立っていたのだ。

    その日その時刻のコンビニには、まだ弁当やパスタが棚に半分くらい残っていた。それらのいくつかを良く見もせずに掴み取り、私はレジに向う列に並んだ。

    そのまましばらくして気がついた。その店にはレジが二つあった。私が付いた列は既に店内を横断するほど伸びていたが、もう片方のレジには客が一人もいなかった。空いたレジの後ろにはちゃんと店員が居たが、こういう場合のマニュアル・トーク、「二番目のお客様、こちらのレジにどうぞ」を言おうともせず、電信柱のように立ったままだった。
    私も含めて、みな呆然自失していたのである。

    店を出がけに雑誌コーナーに視線を飛ばしたら、若い学生風の男がエロ週刊誌を立ち読みしていた。
    近来稀な剛の者である。

    誰もが平等に被災したものと思っていたが、それでも矢張り、受け止め方・感じ方は人さまざまなのだと知った。(以 上)

    タイトル
    つくばだより、その3
  20. 藤村 甲子園
    2011-03-17 01:44

    震災四日目(3/14)の晩、父(元電気技師。専門は制御屋)に電話し、原発事故の傾向と対策について、その見解を問うた。父いわく、
    「実はさきほど、原発屋だった元同僚とも電話でディスカッションしたのだが、今公開されている限りの情報では、『この患者は死ぬだろう』とも『助かるだろう』とも言いかねる。」
    父は「国産技術の振興」なる会社のスローガンを素朴に信じ、バカ正直に働き、そこそこ出世して終わった男である。それでも退職後は割と好き勝手なことをほざくようになったが、その思いは複雑だろう。「分かりません」が答えとは、父にしてみれば技術者としてギリギリの良心なのかもしれない。

    「3月15日午前10時22分、福島第一原発3号機付近のモニタリングポストで毎時400ミリ・シーベルトの放射線量が測定された」との対外発表あり。

    震災五日目(3/15)の夕刻、計画停電に伴う電車運休で、つくば駅のシャッターは閉ざされていた。
    そのシャッターの前には、運転再開2時間前から長い行列ができていた。みなキャリーバッグをゴロゴロと重たそうに引き摺っている。学生風の集団は体育会の合宿か。それにしては会話が少ない。あのキザなインテリ風オヤジは学会帰りか。それにしては表情が暗く、高揚した所が微塵も感じられない。
    家に帰って、あれは何だったのだろうと女房に問うたら、アンタはそんな目端の利かないことだから、出世競争からオチコボレたのだと嫌味を言われた。

    震災は、今日から新しい段階が始まった。(以 上)

    タイトル
    つくばだより、その4
  21. 岡山アキラ
    2011-03-15 00:01

    岡山アキラ(筆名、会員番号1603)です。

    「重掲」の方でも記事が載っていましたが、日本語の情報でも朝日(以下のURLのリンク先を参照)が、救援活動に来ていた空母を含む米艦隊が放射性物質を避けるため逃げ出した旨の記事が出ていました。

    米軍の「トモダチ作戦」苦戦 原発事故で一時退避も
    http://www.asahi.com/international/update/0314/TKY201103140372.html

    この事実を政治的にみると、「日米同盟の再出発」という話が1月にあった(以下のURLのリンク先を参照)はずだが、再出発の結果がこれということである。米国にとって、日本は命を晒して助けるほどの「トモダチ」ではないということがわかる。

    「日米同盟の再出発」掲げる 菅首相が外交演説
    http://www.asahi.com/politics/update/0120/TKY201101200518.html

    他方、どの程度の放射能雲に遭遇したのか数値が出ていないが、米軍さえ逃げ出さないといけないほどの放射能があったという事実は大変重い。

    原子力というものが危険なものであると改めて認識せざるを得ない。今からでは手遅れかもしれないが、脱原子力ということを真剣に考える必要がある。

    岡山 拝

    タイトル
    福島第一原発の放射能漏れ事故――米空母も逃げ出すほどの事故である
  22. 岡山アキラ
    2011-02-19 16:30

    国家公務員をしている岡山アキラ(会員番号1603、筆名。筆名で記述している理由については[18]の最後の(お断り)をご覧ください。)です。(以下、である調で記述します。)

    1 最近の大きな動き
    この事件を起こした元海上保安庁職員「一色正春」氏(以下、一色氏という。)についてであるが、先日、日本外国特派員協会において記者会見等(以下、記者会見という。)をするとともに著書「何かのために sengoku38の告白」を出版した(以下のURLを参照)。

    元海上保安官、一色正春氏講演その1  Senkaku Japan
    http://www.youtube.com/watch?v=enbk7z8xJlQ&feature=fvwkrel
    元海上保安官、一色正春氏講演その2  Senkaku Japan
    http://www.youtube.com/watch?v=RTvAmJQNyQM&feature=related
    元海上保安官、一色正春氏講演その3  Senkaku Japan
    http://www.youtube.com/watch?v=6XWLmVAC4N4&feature=related
    何かのために sengoku38の告白 [単行本]
    http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-sengoku38%E3%81%AE%E5%91%8A%E7%99%BD-%E4%B8%80%E8%89%B2%E6%AD%A3%E6%98%A5/dp/4023309206

    2 一色氏に対する私の認識・疑問
    一色氏に対する私の考えや疑問は[16]に記載したとおり
    ①「何故、石垣や那覇で取り扱われていた動画が神戸で流出するのか、「義憤に駆られた」ならば何故、非公開の決定直後ではなく、このタイミングで流出させたか」、つまり中国のトップ来日直前というタイミングで流出させたか
    ②「○○○会等の特殊な団体の構成員、あるいは、そのような団体に操られている」のではないか、「(流出を自らの上司等に告白する)数日前にすでにこの件で読売テレビの記者がこの海保職員に取材をしている」のは何故かということである。

    3 記者会見及び著書等からわかったこと
    本事件が発生してからすでに数カ月も経っており、嘘をついたり、触れられたくない話題を避けたりすることはやろう思えば簡単なので、記者会見や一色氏の著書の内容自体よりも何を語っていないかあるいは欺瞞の有無を重視して見た。

    上記2①については、一色氏の著書から関係の日時を抽出すると以下のとおりであり、この時系列を一見する限りでは、流出時期させた時期が偶然、「中国のトップ来日直前というタイミング」に一致してしまった可能性はある。
    「10月18日に一部の国会議員に限定して公開されるという報道を目にしたときには、私は絶望感に襲われた。」(何かのために sengoku38の告白106頁)
    「10月23日にC社東京支局に動画データを郵送」(前掲書118頁、C社とは、http://www.jiji.com/jc/zc?k=201011/2010112500121 によるとCNNである。)
    「11月4日、実行」(前掲書123頁)

    しかし、そもそも、何故、神戸という尖閣諸島とまったく関係ない居場所にいた一色氏が職を賭してまでこのビデオを流出させなくてならないほど「義憤に駆られた」かについて述べられていない。

    記者会見や一色氏の著書では動機について色々述べているが、いずれの動機も、場所からいうと石垣や那覇といった尖閣諸島、そして中国に近い場所にいる海上保安庁関係者、あるいは、主な政治家が常におり、責任が重く、重圧に晒される東京にいる海上保安庁関係者の方がより強く持っていると考える方が自然である。

    よって、一色氏には、石垣、那覇、東京の関係者以上の尖閣ビデオを流出するに決意するほどまでに尖閣諸島への強い思い入れ、あるいは中国への強い嫌悪感があったということになる。

    ではどちらの思いが強いかというと、後者であろうと言える。というのは、すでに次の阿修羅の掲示板に掲載されている記事

    sengoku38の妻は韓国籍で妻の親はアメリカ人という情報。
    http://www.asyura2.com/10/senkyo99/msg/753.html

    及びこの記事のリンク先の記事のとおり、上記2②の私の考えが正しいように思える家庭事情、つまり奥さんが韓国人、奥さんの両親が韓国系米国人という事情があるからである。

    尖閣諸島への思い入れがあるとするのならば、すでに韓国に占領されている竹島については、いったいどういう思いがあるのかという疑問が生じるわけだが、奥さんが韓国人だということを考えると、あまりそのことに触れることができないことは理解できる。さらに言うと、その鬱憤が中国へ向いている、あるいは、その他の明らかにされていない中国嫌いの特別な理由がある、例えば、奥さんも実は一緒に常日頃から中国非難をしている等、ということも考えられる。

    このように一色氏のこの家庭事情は、この事件の重要な点の一つである。よって、彼の家族関係の情報に注目したが、とりあえず、著書において奥さんが韓国人であることを自ら説明している、そして彼が、奥さんや家族を大切にしているということ、もっと突っ込んで言えば、韓国シンパ、奥さんの両親とも仲がよければ、米国シンパとならざるを得ないということがわかった。

    この件については、フリー記者の上杉隆氏も阿修羅の記事等を読んでいるようで、上に掲載した「元海上保安官、一色正春氏講演その2  Senkaku Japan」で家族のことについて聞いている場面が最初の方に映っている。やりとりの内容は、おそらく事前にこの質問が出ると踏んだか、あるいは、検察、警察の取り調べの過程で何度も聞かれていたせいかどうだかわからないが、笑いを誘うように子供とポケットモンスターの話題にうまく話を逸らしていた。

    一方、産経が本会見を文字起こしをした記事(以下のリンク先を参照、このリンク先を含め13頁に渡る)には、このやりとりはまったく文字起こしされておらず、産経はこの話題に触れられてほしくないのだということが分かる。

    http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110214/crm11021412530009-n1.htm

    逆に、一色氏があまり語っていないことは、二つある。一つは上記2②でも述べているとおり、数ある日本のメディアの中で「(流出を自らの上司等に告白する)数日前にすでにこの件で読売テレビの記者がこの海保職員に取材をしている」のは何故かということである。

    「○○○会等の特殊な団体の構成員、あるいは、そのような団体に操られている」かどうかは自ら語るわけがないのでともかくとして、この記者については、前掲書138及び139頁に登場するが、彼との接触経緯、時期等がまったく述べられておらず、これらが一色氏にとって触れられたくないポイントの一つなのであろうことがわかる。

    もう一つは、竹島の件である。阿修羅の記事の各種リンク先の記事によると一色氏は、自らが韓国語を解するほどであり奥さんも韓国人なのであるから尖閣諸島の事情よりも韓国方面、とりわけ竹島の事情の方がよほど詳しいはずなのである。
    動画の方には竹島への言及はなく、著書の方は74頁及び82頁に数行しか書いていない。おまけに竹島ではなく「独島(日本名・竹島)」などと書いている。尖閣諸島を日本名で記述しているのに竹島の方は、韓国名をメインにして竹島という名前を注記で記載しているというのはダブルスタンダードもいいところである。このような記述の仕方から奥さんとその母国である韓国に相当配慮していることがわかる。

    4 結論(一色氏が、特殊な団体の構成員、あるいは、そのような団体に操られていた可能性は依然として残る)

    上記3で述べた通り、一色氏について、

    ①一色氏には尖閣ビデオを外部流出させた動機はあるが、明らかにされた本人の動機のみでは場所的、責任の観点から、石垣、那覇、東京にいる関係者より強いとは言えず、明らかにされていない中国への強い嫌悪感等、他の動機がある可能性が高い
    ②数ある日本のメディアの中で尖閣ビデオ流出前から読売テレビに接触した経緯、時期が不明
    ③一色氏は、韓国人の奥さんを大切にしており、その大切にしているレベルは、一色氏本人は、日本人であり尖閣諸島を神戸にいながら心配するほどの日本の領土保全に関心を持っているほどにもかかわらず、韓国語を解することから尖閣諸島よりも事情をよく知っているはずの竹島のことを「独島(日本名・竹島)」と韓国に配慮した記述をしてしまうほど

    ということが分かった。

    すなわち、上記②のとおり重大な事柄について不明な点がある、また、上記①③のとおり、奇妙と思える点が浮かび上がって来たということから、一色氏は、何かを隠している、あるいは重要な記憶が欠落している可能性も否定できないと言える。よって、特殊な団体の構成員である、あるいは、奥さんや奥さんの両親等を通じてそのような団体に操られていた可能性も依然として残る。

    岡山拝

    タイトル
    尖閣ビデオ流出事件(元海上保安庁職員が、特殊な団体の構成員、あるいは、そのような団体に操られていた可能性は依然として残る)
  23. 岡山アキラ
    2010-12-14 04:06

    国家公務員をしている岡山アキラ(会員番号1603、筆名。筆名で記述している理由については最後の(お断り)をご覧ください。)です。
    尖閣諸島沖漁船衝突事件及び尖閣ビデオ流出事件の方は、最近、大きい進展がないようです。
    そこで、タイトルとおり「現在の政治状況の中国は尖閣諸島をいつでも実効支配可能である」ということを少し書いて、尖閣諸島関係の話をひとまず終わりにしたいと思います。

    それでは以下、タイトルについて、「である」調で述べます。

    [12]以降の私の一連の投稿で、主に日本の右翼の人達(例えば http://www.nipponkaigi.org/activity/archives/1589 のようなサイトに集う人達)が心配していると思われる「尖閣諸島自体について、今後も日本は実効支配し続けることができるか否か」ということについて私は一言も書いていなかった。
    それは、明白だからである。

    つまり、タイトルとおり「現在の政治状況の中国は尖閣諸島をいつでも実効支配可能である」からだ。

    中国国内法からいうと、尖閣諸島は1992年に制定された中国の領海及び接続水域法第2条には以下のとおり中国の陸地領土には尖閣諸島最大の島である魚釣島(中国名「釣魚島」)を含むものとすでに規定されており、同法に基づき、中国人は、魚釣島を中国の領土と見なすことができる。

    中国の領海及び接続水域法第2条
    (前略)
    中華人民共和国の陸地領土には中華人民共和国及びその沿海の島嶼、台湾及び釣魚島を含む付属の各島、澎湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島並びにその他一切の中華人民共和国に属している島嶼を含むものとする。
    (後略)
    (岡山の仮訳)
    (参照URL: http://law.law-star.com/showtxt?
    multiSearch=&dbsType=chl/lar/iel/scs/hnt/eag/cas&dbsText=&isopen=1&keywords=&dbn=chl&fn=chl027s054.txt&file=&upd=1 )

    そして、中国は共産党の一党独裁国家である。

    したがって、すでに中国国内法上自国の領土となっている土地へ、中国共産党・・・その一部の者は、子息、お金等の理由で米国影響下にあるだろう・・・が望めば、その土地が隣国支配下にあろうがどうか関係なしに、その軍あるいは中国共産党がコントロールしている人間を、基本的にはいつでも進ませることができるのであり、実質的にその邪魔をする者は、中国人にはいない。

    もっとも、その状態を中国が維持できるかは別問題である。

    日本政府が普通の国の政府のように、例えば、1982年イギリスが自国領のフォークランド諸島に上陸したアルゼンチン軍を、軍で排除したように、中国軍を派遣したならば、自衛隊を出して、尖閣諸島に上陸した彼らを排除してしまうかもしれない。

    民間人を派遣したならば、2004年に尖閣諸島に上陸した香港人等への対応と同様に、日本政府職員が彼らを逮捕、排除してしまうかもしれない。

    そしてそれをやった後の日本を含む他国との関係、とりわけ日本のみならず米国とも戦争状態になってしまうかもしれない・・・・。

    こうした中国の国外的要素があるので、実際は、これらと国内的要素を比較考量して、尖閣諸島の実効支配を試みることが中国共産党(中国国民ではない)に利すると中国共産党が判断したとき、中国はそれを行うことになるだろう。

    実際、以下のウェブサイトに記載されているように1978年に一度試みられている。

    中国の武装海上民兵は過去に尖閣諸島に来ている・その1
    http://blog.zaq.ne.jp/blueocean/article/670/
    中国の武装海上民兵は過去に尖閣諸島に来ている・その2
    http://blog.zaq.ne.jp/blueocean/article/671/
    中国の武装海上民兵は過去に尖閣諸島に来ている・その3
    http://blog.zaq.ne.jp/blueocean/article/672/

    ところで、1978年のころのように数百隻の中国漁船が尖閣諸島にやってきて、領海侵入して操業するというのは、[12]の5.で述べたように、現在では、恒例になっているようである。

    よって、もしこの先、中国が尖閣諸島の実効支配を試みるとしたらその第一段階は、1978年と同様の手法で中国漁船が日本の巡視船を脅しすことから始まるだろう。
    そして、巡視船がまごついている内に、領海侵犯した数十隻の中国漁船から武器を持った「民間人」である中国漁船員が尖閣諸島に上陸するというようになるのではないだろうか。ちなみに韓国が竹島を奪取、不法占拠した際も、以下のウィキペディアの頁に記載されているとおり、韓国の「民間人4人」を含む義勇隊がそれを行っているのである。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E5%8B%87%E5%AE%88%E5%82%99%E9%9A%8A

    (お断り)
    本来は、副島先生のいうとおり実名で文章を発表するべきでしょう。しかし、やはり副島先生が「ぼやき」で述べている事情のとおりで、左遷にはなりたくないので、公務員でいる間は、学問道場には、筆名で投稿させていただきたいと思います(とはいえ、私が本投稿等インターネット上において記述している文章の内容は、すべてネットからの引用等で国家公務員法でいう秘密はないので法律上はまったく問題ないはずです。)。

    実名投稿でなければならないということであれば本投稿を削除して頂いて結構です。

    タイトル
    現在の政治状況の中国は尖閣諸島をいつでも実効支配可能である
  24. 岡山アキラ
    2010-11-16 02:30

    国家公務員をしている岡山アキラ(筆名、会員番号1603)です。

    私が、[12][15]及び[16]に投稿しているいわゆる「尖閣ビデオ流出問題の件であるが、以下の記事のとおり、自民党の谷垣氏が二・二六事件を引き合いに出し映像を流出させた海保職員を批判した。
    (記事は、リンク先を参照。特に引用する必要がなければ、以下、記事のタイトル及びリンク先のみ記す。)

    「二・二六も命令無視」映像流出保安官を自民・谷垣氏が批判
    http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101114/stt1011141824004-n1.htm

    しかし、この事件は、世相や事件の状況等からすると、二・二六事件よりもむしろ以下のとおり元外務省職員の佐藤勝氏が本件の論評で取り上げている五・一五事件に似ており、平成の五・一五事件というべきものだと考える。

    (はりつけはじめ)
    (前略)
    「力の省庁」に属する官僚の下剋上について、われわれは苦い経験をもっている。1932年5月15日、政界と財界の腐敗に義憤を感じた海軍と陸軍の青年将校が決起し、犬養毅首相らを殺害した。「方法はよくないが、動機は正しい」と五・一五事件の犯人たちへの同情論が世論でわき起こり、公判には多くの除名嘆願書が届けられた。本来、死刑もしくは無期禁錮が言い渡されるべき事件であったにもかかわらず、裁判所は世論に流され、被告人に対して温情判決を言い渡し、五・一五事件の首謀者、実行犯は数年で娑婆にでてくることになった。この様子を見た陸軍青年将校がクーデターを起こしても世論に支持されればたいしたことにはならないという見通しで、1936年2月26日に1400名の下士官・兵士を動員しクーデターを起こした。二・二六事件は、昭和天皇の逆鱗に触れ、徹底的に鎮圧された。しかし、二・二六事件後、政治家、財界人、
    論壇人などは軍事官僚の威力に怯えるようになり、日本は破滅への道を歩んでいくことになった。
    (中略)
     マスメディアは、国家の秘密情報を公開した者を徹底的に批判することができない。合法、非合法を問わず、このようなリーク情報なくしてマスメディアが生きていくことはできないからだ。それだから、マスメディア関係者には保安官を擁護しようとする集合的無意識が働く。これが国民の判断を誤らせる。
    (以下略)

    (はりつけおわり)
    (はりつけ元)
    【佐藤優の眼光紙背】尖閣ビデオ流出は官僚によるクーデターだ
    http://news.livedoor.com/article/detail/5140247/

    この佐藤優氏の評論はすぐれており、必読である。

    日本政府が、本件の対応を誤ると、次は、「平成の二・二六事件」が発生するであろう。そして最悪は、「平成の日中戦争」の勃発や日本が「第三次大戦」に巻き込まれるなどということもあり得る。

    これらを回避するためには、本件について、五・一五事件において日本政府がとった対応とは逆の対応を取ることが必要である。

    すなわち、映像を流出させた海保職員が、法に則った範囲内の最高刑を受けることになるよう捜査当局・検察当局は世論にかかわらず努力することである。
    また、海上保安庁は、世論にかかわらず内規上処分し得るもっとも重い処分を同職員に下すべきである。

    また、このような政府を揺るがす事件が発生した時、どさくさまぎれに法令の改悪が行われることがあるが、今回も管・仙石政権は、以下のゲンダイの記事がとりあげてているように機密漏洩の罰則強化を打ち出している。

    いよいよ表に出てきた仙谷長官「超危険思想」
    http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-000130262/1.htm

    機密漏洩の罰則強化自体は、別に悪いことではないが、何を「機密」にするかが問題だ。
    この記事を読むと、管・仙石政権は、例えば、以前あったイージス艦の機密漏洩事件、あるいは最近の警視庁公安部の資料流出事件等の機密漏洩事件の際の本当に機密にすべきものの漏洩の阻止だけなく、尖閣ビデオのような「政府に都合が悪い物も機密に指定」しその漏洩を阻止することを意図しているということがわかる。

    これでは、機密漏洩の罰則強化の名を借りた言論統制強化である。
    まだ、提言程度の段階であるから実質の動きはこれからであろうが、今後、報道の自由や言論の自由を含む概念である憲法第21条で言うところの表現の自由を守る上で、この「機密漏洩の罰則強化」の内容を今後もしっかり注目していく必要があるのは間違いない。

    岡山 拝

    タイトル
    尖閣ビデオ流出事件は平成の五・一五事件である
  25. 岡山アキラ
    2010-11-10 21:52

    国家公務員をしている岡山アキラ(筆名、会員番号1603)です。

    本日の朝に投稿した以下の[15]の2の方の件であるが、以下の記事のとおり、本日現在までに、流出させた海保職員が名乗り出て、事情聴取を受けているところまで事態が進展したようである。

    ニュースの話題で様子急変=船長が声、関与認める―巡視艇内で海保職員
    http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-101110X059.html

    動画投稿の海上保安官は確信犯 テレビ局に「うやむやになってはいけない」
    http://www.j-cast.com/2010/11/10080499.html?p=1

    これらの記事を読む限り、この海保職員は、結局、「義憤に駆られた」ので、私が[15]で投稿した言葉で言い換えると、「個人的動機」で動画を流出させたようである。

    まだ、何故、石垣や那覇で取り扱われていた動画が神戸で流出するのか、あるいは、「義憤に駆られた」ならば何故、非公開の決定直後ではなく、このタイミングで流出させたか等について、謎が残るが、これらが解ければ、下の投稿([15])の2の方の私の予想がはずれたことが濃厚となる。

    濃厚と書いて断定しないのは、この海保職員が、例えば、○○○会等の特殊な団体の構成員、あるいは、そのような団体に操られているという可能性も0ではないからだ。

    というのは、以下のように数日前にすでにこの件で読売テレビの記者がこの海保職員に取材をしているという記事が出ているからである。

    (はりつけはじめ)
    「流出」告白の海保職員に、読売テレビが独自取材
     日本テレビは10日夕のニュース番組で、映像を流出させたと神戸海上保安部に申し出た男性保安官(43)に、系列局の読売テレビ(大阪市)の記者が事前に取材していたと報じた。

     記者が番組で語ったところによると、取材は数日前で、神戸市内で約2時間面会したという。
    (中略)
     一方で、保安官に接触するまでの経緯について、記者は「映像を投稿した人物がいるという情報がある筋からもたらされ、調整を重ねた」と説明した。
    (はりつけ終わり)
    http://www.asahi.com/national/update/1110/OSK201011100083.html?ref=goo

    『記者は「映像を投稿した人物がいるという情報がある筋からもたらされ、調整を重ねた」と説明した。』の部分の「ある筋」とは誰なのか気になるところである。

    つまり、「ある筋」とはなんらかな特殊な団体ではないかということである。そうすると、例えば、警察や検察の取り調べに対して、この海保職員がこのような特殊な団体の構成員等であれば、一部の事柄について嘘を話す可能性があるわけだが、事実とその一部嘘の供述に齟齬がなければ、本人がどのような団体の構成員等かまで特に問題となるはずがなく、このことについて捜査当局がしっかり調べると思えない。

    岡山 拝

    タイトル
    いわゆる尖閣ビデオを流出させたと思われる海保職員が名乗り出たこと
  26. 岡山アキラ
    2010-11-10 05:10

    国家公務員をしている岡山アキラ(筆名、会員番号1603)です。

    二つ下の投稿(「12」)の件、つまり尖閣諸島沖漁船衝突事件に関し、当該事件の状況を撮影したという動画がyou tubeにup loadされ(流出し)、新たな展開を見せてきたことから、引き続きこの件の大マスコミの報道姿勢及びこの時期に動画が流出したこと等についての考察について投稿します。
    筆名で書いている理由は、二つ下の投稿をご覧ください。

    (以後、である調で記述します。)

    1 流出したビデオについての大マスコミの報道姿勢
    二つ下(「12」)で投稿した件、つまり尖閣諸島沖漁船衝突事件の衝突時の模様等を写した動画約44分が11月4日、you tubeに流出したことについて、管・仙石政権は、以下の記事記載のとおり、例によって人のせいにすること、つまり、動画の中身ではなく、誰が流出させたかの方を大問題にした。

    (貼り付けはじめ)
    (前略)
    沖縄県・尖閣諸島海域で起きた衝突シーンの映像を見ると、海上保安庁の巡視船「よなくに」と衝突した中国漁船が、今度は別の巡視船「みずき」にも自ら船首を向けて突っ込んでいく様子が赤裸々に映し出されていた。映像には、巡視船の乗組員が衝突時に「止まれ!」「ぶつかった」などと絶叫する声も収録されており、海保にとって命懸けの警戒行動だったことが手に取るように分かる。

     そんな彼らに応えようと、当時の前原誠司・国土交通相は自ら進んで船長の逮捕を指示。ところが、日中関係が悪化すると、手のひらを返すように船長を釈放した。その首謀者は、前原大臣とその後見人である官邸の主・仙谷由人官房長官だったことは、国会や各メディアで取りざたされた通りだ。

    「この2人の日和見な対応に、捜査に当たった海保サイドはカンカンでした。自らの職務を否定されたわけですからね。海保を取材をしていると、『いつでもビデオを出す用意はあるんだ』と語気荒い海保関係者はゴマンといましたよ」(社会部記者)

     こうした一発触発の空気を官邸もうすうす察知していたのだろう。仙谷氏は5日の記者会見で「公務員が故意に流出させたとすれば、国家公務員法違反になる」と官僚の仕業だと言わんばかりに警告を発した上で、「捜査資料が外に出るのは大変な事態。相当大きなメスを入れる改革があらゆるところで必要だ」と大胆な発言に及んだ。この発言の趣旨を前出の政治部記者が解説する。

    「あのような大胆なビデオ映像の流出劇は、個人の判断ではできないだろうから、海保ぐるみに違いないと読んでいるんです。『相当大きなメスを入れる』とは、海保を解体してでも犯人を突き止めてやる、とすごんでいるわけですよ」
    (後略)
    (貼り付け終わり)
    ( http://news.livedoor.com/article/detail/5122319/ )

    (貼り付けはじめ)
    (前略)
     「何か激励とかあれですか?つまり公開して“よくやった”と言うんですか?それは犯罪行為を
     称揚するということですよね。そういう気分が日本国中、少々あるのかも分かりませんけども、
     私はそのことについては同意いたしません」(仙谷由人官房長官)
    (貼り付け終わり)

    (元記事は、 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4571664.html であるとみられるがすでに削除されており、http://blog.livedoor.jp/newsslash/archives/1547086.html から貼り付け。以後、引用記事は、特に必要としなければ、タイトル及びリンク先URLのみ掲載する。)

    そのせいか大マスコミも当初は、動画の衝突場面ばかりをそのまま流していたところを、時が経つと、動画の中身よりも管・仙石政権の意向をそのまま受けたかのような犯人探しの方を主として報道するようになってきた。

    例えば次の記事を参照。
    警視庁、沖縄県警と合同捜査本部設置
    http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4572125.html
    【尖閣ビデオ流出】警視庁と沖縄県警が合同捜査本部設置 東京地検、投稿者資料を押収
    http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101109/crm1011092155052-n1.htm

    このような話は、いわゆる尖閣諸島沖漁船衝突事件の本質ではなくどうでも良い話である。少なくとも、むしろ何のしがらみのない報道関係者ならば情報の流出は歓迎すべきことのはずだ。大体、情報をもってそうなキャリア公務員等に年がら年中訪問して、彼らからの情報流出を待ち構えている大マスコミの連中がとるべき報道姿勢ではない。そもそも現に問題となっている動画について、youtubeからダウンロードし、その映像を何回も放送しまくって飯のタネにしたのはどこの誰なのか。ダブルスタンダードもいいところである。

    おそらく、今回の大マスコミの報道ぶりの原因は政権に慮っているのか中国に慮っているか、あるいは以下の2で後述するように米国に慮っているか、これら複数の原因が重なっているのであろう。

    まともな報道関係者ならば、政府機関のひとつである海保が以下の記事

    尖閣映像流出:ビデオは石垣海保編集 衆院予算委で認める
    http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101108k0000e010004000c.html

    のとおり、流出した動画を本物と認めたのであるから、

    ①流出した動画を基に海保が例の中国漁船を捕まえたのが妥当だったか及び中国漁船を捕まえたのち、漁船船長を法手続きの最中に釈放してしまった・・・・公式的には検察

    の勝手な判断で釈放したとなっているが・・・が良かったのかどうかを再度検証し、政府を批判するなり擁護するべきである。

    ②また、対中配慮等の外交的配慮は無意味となり、全面公開しない理由がまったく無くなった。よって、流出した44分の動画だけでなく、数時間あるといわれている本件動画の全面公開を改めて政府に要求しなくてはならない。この事件は銛で海保関係者が中国人に殺されたとかの本当か嘘かわからない話も飛び交っており、この話の真偽を明らかにするためにも動画の全面公開が必要である。

    2 この時期に動画が流出したこと 
    動画を誰が流出させたかについては、この事件の本質ではない。しかし、その者の背後にどのような勢力がいるか考察することは有益である。

    今回、APEC首脳会議直前であり、中国の現在のリーダーである胡錦濤氏が来日直前という時期から考えると、副島先生の弟子のお一人である中田氏の以下のブログに書いてある通り、流出者の背後には米国がいることが濃厚である。大マスコミがこの件に関して、この仮説についてまったく触れず、上述のように「衝突したところばかりの繰り返し」あるいは「犯人は誰?という犯人探しの進展状況」しか報じていない、つまり例えると、木を見て森を見ない式の報道を行っていることも米国の関与が高いことを伺わせるものがある。

    漁船衝突ビデオ流出。ますます悪化する日中関係で漁夫の利を得る米国
    http://amesei.exblog.jp/12205576/

    この説の対抗馬としては、胡錦濤氏の日本訪問を取りやめ、すなわちそれだけでも彼にとってはダメージになるわけであるが、そういったことを喜ぶ中国国内の反胡錦濤勢力の仕業ということも考えられる。但し、インターネットを介して検察のネットワークに痕跡を残さず侵入するテクニックを中国が保有しているのか、あるいは中国に協力して石垣の海上保安庁からデータを盗む者が石垣島にいるのかということを考えるとその可能性は低い。

    その他、背後関係など無い検察職員か海保職員等、この動画を入手できる立場にあった者が個人的な動機で流出させたということも考えられるがその可能性も低い(仙石長官は上述に張り付けた記事のとおり、海保が流出元だと決めつけている節があるが)。
    というのは、この個人的な動機で最も考えられることは、動画が非公開となったことから、怒りに任せて動画を流出させたということであるからだ。

    この説の場合は、非公開が決まった直近の日、即ち、二つ下に投稿にURL等のみ貼り付けた記事のとおり、10月中旬には、流出がないとおかしい。いくらなんでも11月初旬は開きすぎと思われる。
    もっともわざわざ中国のトップが来る直前を狙って流出させようと考えた検察職員か海保職員もいたかもしれないが、そこまでタイミングを計るほど思慮深い者ならばそもそも流出させて発覚したあとのリスクを考慮する頭もあるはずで、そのような者が、個人的動機だけで流出させるとは考えにくい。

    (追記)
    さきほどネットを見直したところ、流出動画の発信元が神戸市内の漫画喫茶であるという趣旨の以下の報道が流れている。ますます那覇地検や那覇・石垣の海上保安庁関係者が流出元とは考えにくくなったわけだ。

    尖閣映像、神戸の漫画喫茶パソコンから投稿
    http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101109-OYT1T00978.htm

    岡山 拝

    タイトル
    尖閣諸島沖漁船衝突事件の動画流出についての考察
  27. 1094
    2010-11-02 20:13

    暁星国際小・中・高等学校 ヨハネ研究の森コース セッション・レポート
    http://www.gis.ed.jp/report/100731_01/subject.html
    http://www.gis.ed.jp/report/100731_02/subject.html

    より以下貼付け

    「歴史とはなにか」 ~岡田英弘先生・宮脇淳子先生によるスペシャルセッション①

    2010年7月31日(土)
    サマースクール3日目の7月31日(土)、岡田先生・宮脇先生によるスペシャル・セッションが開催されました。当日は、これまで岡田先生の歴史観についての検討を重ねてきたヨハネ生たちに岡田先生と宮脇先生が直接お話をしてくださいました。
    このページでは、岡田先生に語っていただいたご自身の歴史について掲載します。

    (岡田先生) 今日は、私の考える歴史について、一番小さな話と、一番大きな話をしたいと思います。小さな方は私の記憶、大きい方は宇宙の起源についてです。

    まず、記憶についての話をしましょう。私は昭和6(1931)年、東京の本郷・本駒込一丁目で生まれたそうです。父の話では安産で、産婆さんが駆けつけたときにはもう頭が出ていたといいます。

    最も古い記憶は、弟の生まれた朝のことです。私は部屋の中をぐるぐると回りながら、電灯によって自分の影が壁に映るのを、ふしぎに思っていました。おそらく1934年、鎌倉でのことでしょう。

    そこから、私の歴史が始まります。私はいま79歳で、最初の記憶から76年が過ぎたことになりますね。生まれた年に満州事変があり、76年間、色々な事がありました。

    私は1943年に、九段の暁星中学校に入学しました。父はフランス語を学ばせたかったようですが、神父さんたちが教えてくれたのは英語でした。1945年の大空襲では、中学も焼けてしまいます。この年の8月、日本は降伏しました。

    学校が焼けてしまったので、私は成蹊高等学校の尋常科に入学し、1947年には成蹊高等学校の、理科乙類に進みました。英語以外の外国語を学ぶのが乙類です。当時、医学の道に進む者はドイツ語を学ぶために理科乙類に入りました。私の父は大学で薬理学を教えており、私は父の後を継ぐつもりでした。

    しかし事件が起こります。成蹊高校の図書館で、漢籍・東洋史の大コレクションに出会ったのです。私は毎日3冊の本を借り、帰りの電車で1冊、夜に1冊、そして行きの電車で1冊、本を読む生活を送り、とうとう全部読んでしまいました。

    やがて大学受験が迫ってきました。大学の医科を受ければ、周りは父のことを知っている人ばかりです。これでは、私が偉くなっても、父のおかげだと言われるでしょう。そこで私は父とは違う道へ進もうと、河野六郎の勧めで東京大学の東洋史学科に入学することにしました。

    最後の旧制大学生として卒業すると、朝鮮戦争のために600万人が半島から引き揚げてきました。就職に関する状況は最悪です。私はどうせならと、東洋史の中で最も人気のない朝鮮史を学び、書いたレポートが先生の目にとまり、学会誌に掲載されることになりました。

    私は、満洲史の研究会で、満州語を習いました。そこでの研究が認められ、26歳のとき最年少で「学士院賞」を受けました。父より先に学士院賞を取ってしまったのです。

    その後、ワシントン大学教授のニコラス・ホッペ先生に弟子入りして渡米し、モンゴルについて学んでいます。この頃、日本では新安保闘争などがありました。私はそれをアメリカで知って「日本人はもうダメだ、アメリカ人になろう」と思ったことがありました。

    また、チベットのダライ・ラマが国外へ脱出し、秘密であったチベット文化が初めて世の中に知られたのも当時です。チベットに関する研究所がカリフォルニア大にでき、私にもチベットの友人ができました。それから、来日してモンゴル語の写本を探していたワルター・ハイシヒ教授の通訳となり、西ドイツに連れていってもらいました。

    当時の中央アジアは中国とソ連に二分され、研究にも自由がありません。ただ、PIACという場では言語学・人類学・歴史学の共通の話題が話され、共産圏の学者も自由を得られました。私もオランダでの第七回会議以降、ほとんど毎年参加しています。こうして世界の各地を回り、文法を覚え辞書を引けるようになった言語は全部で十四カ国語です。

    大きい話の方に移りましょう。物理学の定説では、時間と空間は137億年前、ビッグバンで生まれたことになっています。物理学の進歩は大変なもので、『世界史の誕生』執筆時には200億年前とされていました。ビッグバン以前に時間はなく、そこから時間が発生します。

    太陽系は45億年前に生まれ、地球には生命が発生しました。人類の祖先が生まれてから百万年は経っていませんし、世界史で数えられる人間の歴史は5千年くらいでしかありません。また、日本の歴史は、668年の天智天皇即位に始まります。1942年前のこのとき、天皇・日本という称号が現れました。

    私の記憶にある76年間と、宇宙の137億年を比べれば、私の一生など一瞬です。しかし、歴史を考えるには、私はこの76年を基準にせねばなりません。

    (宮脇先生) 岡田は11年前、脳梗塞による失語症で言葉が出なくなりました。頭の中に何があるかは分かっているけれど、それと名前が結びつかないのです。リハビリで血が流れなくなった部分とは別の場所に言語中枢を作り、今はそちらをゆっくり通すと言葉が出てくるようになりました。

    その後、岡田・宮脇研究室という小さな研究室で、昔、岡田自身が書いたものをインプットし直していきました。私は30年以上弟子をしていますから、外国でも、岡田の知人は私を知っています。私が説明をしたり、手紙を書いたりして、私の英語力も飛躍的に上がりました。

    さて、私が弟子入りをしたとき、岡田と私の差はとても大きいものでした。しかし、私に対等な話し相手になってほしくて、いっぺんに何もかもを教えようとするのです。何時間も教え続けられたりするので、私は夜中に疲労で目を覚ましたりしました。赤ちゃんが刺激が多いときに知恵熱を起こすのと同じですね。

    岡田は、最初に一番レベルの高い話をします。それは下駄をはかせてもらうということで、私は岡田に英訳を作ってもらって国際学会で大成功してしまうのです。ただ、質疑応答ではつまずきます。

    みなさんも、きっとそういう体験をしますから、こんな話をするのです。高いレベルの人間に持ち上げられ、ぶら下げてもらうと、遠くの風景を見通すことができます。「自分もあそこへ行くんだ」と、歩き始める前から見ることができるのです。そうすると、自分の足で歩くとき、とても楽になりますよ。最初に視野が広がることで、悩まず努力ができるのです。これこそ英才教育ですね。若いときに最高級のものに触れるというのは、とてもいい。だから、こちらのヨハネ研究の森は、とてもいい学校だと思います。

    「歴史とはなにか」 ~岡田先生・宮脇先生によるスペシャルセッション~②
    7月31日(土)、岡田先生のご自身の歴史について語っていただいた後、いよいよ「歴史とは何か」と題して、岡田先生・宮脇先生の歴史観について語っていただきました。

    歴史とはなにか

    (宮脇先生) 今日は、歴史とはなにかということと、日本の古代史について、並行してお話ししていきたいと思います。

    今日は、歴史とはなにかということと、日本の古代史について、並行してお話ししていきたいと思います。

    まず、歴史とはなにかということについてお話ししましょう。私たちの「歴史」定義は「人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのこと」というものです。

    私たちは、世界のあちこちで起きる出来事を一人では経験できません。だからそうした出来事を知るために、他の人の書いたものを用います。しかし、なぜ他人の書いたものが信用できるのでしょうか。そもそも、人の書いたものに、100%正しいものは存在しません。最初から存在しているものをただ覚えることは、学問でも何でもないのです。頭から信じてはいけません。

    また、私たちがここで言っているのは狭義の「歴史」です。「地球の歴史」や「個人の歴史」という表現は、比喩として「歴史」という言葉を使っているだけで、ここで定義する「歴史」ではありません。岡田は、まず言葉を定義してから始めます。あやふやな意味のまま言葉を使うなら、それは学問ではないでしょう。

    また、時間と空間に対する認識の仕方も、歴史の重要な要素です。私たちは、空間を行き帰りして、自分の体で測ることができます。でも、眠って目を覚ましたとき、道具なしで「自分は何時間寝た」とは分かりませんよね。

    時間は、感覚で直接認識はできません。
    私たちは「時間の長さ」と言いますが、これは、動く物体を基準として、空間を時間に置き換えているのです。たとえば、地球の自転の周期を一日、公転の周期を一年としています。

    ちなみに今年は紀元2010年ですが、キリストの誕生は紀元前4年だろうと最近は考えられています。つまり紀元0年というのはウソなのですが、後から数字を変えたら大混乱になります。こうした数字は、みんなが使っていることに意味があるので、今のままでいいのです。

    私たちは、世界のグローバリゼーションの基がキリスト教圏なので、紀元を使います。大切なのは、このような物事の始まり、原因を知ることです。由来を知ることが、学問のスタートになります。

    日本古代史について

    (宮脇先生) 日本古代史の話に入りましょう。皆さんは、聖徳太子について学習されたそうですね。1980年代まで使われていた一万円札の聖徳太子像は、最近では「伝」聖徳太子像と呼ばれます。学問的でないと分かったからです。1980年前後に、中国の西安のお墓から、この像とほぼ同じ絵が出てきました。これは過去、同じような絵が中国から日本に入ってきて、これを聖徳太子の顔にしようという話になった、ということです。

    実は太子の像には、初め但し書きがついていました。「これは大陸から渡った僧が夢に見た太子の姿」だとね。あの服装は、唐のファッションですよ。つまり、描かれた当初から怪しいものなのです。

    また、中国側の記録である「隋書」では、「日出づるところの天子…」という国書を送った倭国の王は「男」だと書かれています。一方の日本書紀では、太子が「唐に」使者を送ったと誤って書かれています。日本書紀のために文献を集めて整理したとき、間違えたのでしょう。

    つまり、太子の実在は「よく分からない」のです。しかし、教科書はこれを無視し、隋書と日本書紀の都合のいい部分をくっつけています。

    歴史は武器になる

    日本書紀のような「国史」は、扱いが難しいものです。歴史書は、千年後の人に読ませるためでなく、その当時の人々に読ませるために書かれます。書いた理由があり、そのための結論や筋書きが作られますから、国史の内容は民族や国家によって非常に変わってきますね。複数の国史同士のすり合わせや真実の探求は、やめた方がいいでしょう。

    意図的につくられた歴史は世の中に多くあります。それを見分ける目は、私たち自身が持たなくてはなりません。

    また、歴史は武器にもなります。たとえば、領土の主張などには、歴史は強い力を発揮します。自国が古くからこの地域を領有していた、と言うために、歴史はより古い時代へとさかのぼって書かれていくのです。ドラマでも、古い時代を良く見せる描き方をしますね。

    「日本人は中国・朝鮮半島の人々の子孫」という言い方もされますが、過去の人々と今の我々とは、違います。現代のナショナリズムはわずか200年前に生まれたもので、それ以前は明確な国境など切れません。中国も、もとは黄河の中央部分のみを指す言葉でした。しかし、漢字を使う国は中国だと言い始めて、現在の領有区域を主張するに至ります。ここには、逆転の論理が働いているのです。

    国史の難しさは日本にも当てはまり、本当のことを言ってしまうと、白い目で見られることになるでしょう。

    私たちは、柔軟な思考を持たねばなりません。偉い人が書いたものが歴史、などということは、決してありません。

    歴史は武器にもなる、難しい分野です。ですが、学びがいのある、楽しい分野でもありますよ。

    岡田先生の体調を気にしながらのレクチャーでしたが、予定よりも大幅に延長して行われました。
    そして、その後に展開された質疑応答も、長時間にわたりましたが、岡田先生も乗りに乗り、終わったのは夕方になってからでした。
    では、つづいて質疑応答の模様をご紹介します。

    質疑応答

    坂井田(高2) ものを知るということは、その物語を知ることなのでしょうか。年表ではなく、物語があるのが歴史ですか?

    岡田先生 歴史は、人間の名前だけではできません。短くとも、名前があれば物語があります。

    宮脇先生 「story」と「history」の語源は同じで、やはり物語による肉付けが必要です。物事には相互関係・因果関係があり、その物語こそが歴史です。

    坂井田 「歴史」と「史実」には違いがあるのでしょうか。

    岡田先生 ありません。同じですね。

    宮脇先生 「史実」という言葉をわざわざ使うということは、対立する考えがあり、それに対して「これが本当」と主張する気持ちが含まれているのでしょう。私たちが「歴史」というときは、「史実」だけでなく、過去を物語るもの全てを含めて考えています。言葉の意味は曖昧なものです。言葉に普遍性を持たせたいなら、意味を定義して使えばよいのです。

    田端(高1) 宮脇先生は、岡田先生のご病気の際、なぜあきらめずに論文を再度読ませるといったことができたのですか。
    また、『三国志』著者の陳寿は蜀の出身ですが、自分と全く関係ない呉書などをなぜ書くことができたのでしょう。

    宮脇先生 自分が学問の世界で行き詰まっていたとき、岡田は本気で学者になるための指導をしてくれました。私は与えられるばかりで返せるものがないと思っていたのですが、脳梗塞で岡田が倒れたとき、「ああ、こういうことだったのか」と思いました。物事は何でも一長一短です。私は、いい方向に物事を考えています。
    呉書については、筆者に材料がそろえば、その場所にいなかったとしても歴史を書くことはできると思います。

    橋場(高1) 私は美術が好きなのですが、岡田先生の歴史観を知ってから、宗教画に権威づけを感じるなど、見る目が変わりました。岡田先生は古文書を史料として歴史を読み取られますが、近代史以降は工芸品からも読み取れないでしょうか。

    宮脇先生 岡田はもともと言葉というものが好きで、美術は分野が違うのです。色や形には固有名詞がありませんよね。岡田は、昔の人が半端に書いたものでも、文字が使われたものには猛烈に興味を抱きます。だからこの点は、好きずきだと言っていいでしょうか。私自身も、言葉の才能が岡田ほどありませんから、研究では岡田と違うものを見ています。

    吉野(高2) 自前の歴史を持っていたのは地中海文明と中国文明だけで、もともと物語りかたが違うと聞いています。もしこれらを一つにして「世界史」を描き出すなら、どのようにすればよいのでしょう。

    岡田先生 一つの世界史を描いている本はまだありません。『世界史の誕生』が、世界史を描く試みの最初です。

    宮脇先生 ヨーロッパは人間と同様に国にも盛衰があると考えます。だから「国の興亡」という表現を好みます。一方で、中国は「正統」の歴史です。天命によって君主が決まりますから、今でも二君並び立たずという考えがあります。
    もし、この二つの歴史を一つにしてしまうと、どちらかの歴史を否定することになります。また、融合してどちらでもないものを作りだすのも、それは妥協でしかなく、歴史の抹殺であると言えます。
    アメリカ独立戦争からは一つの枠組みで世界を描くことができるはずですが、それ以前は各地方ごとの物語しかありません。その過去をばらばらにしたら、年表にしかならないでしょう。ただ、大航海時代・国民国家の時代以降は、一国史の枠組では誤りを犯してしまいます。

    福島(卒業生) 私はいま外国語学部で言葉を学ぶ身なのですが、岡田先生は、何にひかれて言葉を好きになったのでしょうか。

    岡田先生 これは、もって生まれたものだと言えます。どこが好きで言葉に興味を持ったのかは、うまく言葉では表せません。自分の資質だと思います。

    早川(卒業生) 古典中国語に文法がないということですが、文法は言葉を構成する最低限の要素ではないのでしょうか。
    また、漢字は情緒に欠けるということについてもご説明頂けないでしょうか。

    宮脇先生 文法については、主語・述語・目的語の順番が変わっても意味の変化が起きない、ということです。時代によって漢文の担い手は変わりましたが、タイ系とアルタイ系で語順が違っても、漢字を使えば意味が通じました。モンゴル以降、特に現代の中国語には日本語の文法の影響が見られますが、古典の漢文は論語などでも意味が取りにくく、読み方を丸暗記するしかありません。
    また、漢字は目に見えない、抽象的な思考に不向きで、花や木といった具体物を通してしか情緒を表現できません。隋・唐代の漢詩を日本人は好みますが、実は、その頃の人たちはトルコ語など、自分の話し言葉を持っていたのです。日本人も、漢文に日本語をつけて情緒たっぷりに読み下すでしょう。

    河辺(高1) 岡田先生にとって、歴史研究は人生とどのように関わっていますか。

    岡田先生 自分の人生そのものと歴史学者としての人生は、一致しています。

    宮脇先生 岡田は生まれながらの学者です。学者が服を着て歩いているようなもので、他の人格はありませんね。

    中内(高2) よい歴史を描くには豊かな個性が必要とのことですが、どうすれば様々な視点や豊かな個性が得られますか。

    岡田先生 方法はその人次第ですね。

    宮脇先生 ハウツーはありません。ただ、岡田は新しい物事を思考に組み込む際、脳がフル稼働し、全てを組み替えます。新しいデータを脳に入れるだけでなく、昔のデータに組み込んで全てを考え直し、新しい人間になるのです。物事を拒否せず受け入れれば、人間は豊かになります。だから、受け皿は広くしましょう。どんなことも、何を見ても楽しくなります。最初は丸呑みのようでつらくても、ある日、霧が晴れたように面白くなりますよ。突然データ同士が噛み合い、全てが関係していることが分かるのです。

    森島(賛助会員) なぜ、歴史について「狭義」に限っていらっしゃるのですか。 また、ヨハネの歴史を書くときに、どうすれば「一個人」を超えられますか。

    岡田先生 狭義の歴史と定義づけるのは、私が芯から理科系の人間だからです。
    「一個人」であっても、歴史を書こうと思っている段階ですでに「一個人」超えていることに気づきませんか。

    宮脇先生 自分の感じていることをつなげても、ヨハネの歴史にはならないでしょう。「歴史を書こう」と考えた時点で、もう一個人という枠の外に出ているということですね。

    まだまだ質問は絶えませんでしたが、残念ながらこれにて打ち止めにさせていただきました。さすがに岡田先生、宮脇先生の歴史観に関する言葉、一つひとつが重いものでした。
    近いうちにもう一度お招きする予定でいます。おたのしみに。

    http://www.gis.ed.jp/report/100731_01/subject.html
    http://www.gis.ed.jp/report/100731_02/subject.html

    タイトル
    「歴史とはなにか」 ?岡田先生・宮脇先生によるスペシャルセッション
  28. 岡山アキラ(筆名)
    2010-10-11 01:47

    国家公務員をしている岡山アキラ(筆名)です。過去、何回か投稿させていただいています。

    まず、前置きですが、本来は、副島先生のいうとおり実名で文章を発表するべきでしょう。しかし、やはり副島先生が「ぼやき」で述べている事情のとおりで、左遷にはなりたくないので、公務員でいる間は、学問道場には、筆名で投稿させていただきたいと思います(とはいえ、以下に記載の文章の内容はすべてネットからの引用等で国家公務員法でいう秘密はないので法律上はまったく問題ないはずです。)。

    実名投稿でなければならないということであれば削除して頂いて結構です。

    それでは以下、件名について、「である」調で述べます。

    管・仙石政権発足時から、情報公開に消極的な政権だと思ってきたが、9月7日発生したいわゆる尖閣諸島沖漁船衝突事件
    (詳細はウィキペディアの該当ページ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%BC%81%E8%88%B9%E8%A1%9D%E7%AA%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6  を参照)では、中国が事態をエスカレートさせて来たのに泡を食ったせいか、なりふり構わず見え見えの嘘や情報操作を繰り返して事態の収拾を図ったのには恐れ入った。

    フジタの社員も全員帰ってきたので約一か月で事件終結と言ってもよいと思うが、戦後、このような約一か月という短期間において、国民に真実を知らせないこうした「インチキ」発表や手法がこれほど多用されたことがあったであろうか。

    おそらく日本国内の事件だったならば、報道どころかインターネットを一般国民が見ても気がつかないよう処理されていた可能性が高いが、彼らの権力の範疇外の外国への対応についてはそういうわけにはいかなかったようでずいぶんとボロが見えた。

    今後も、彼らにとって何か重大な事件が発生した場合、多分、このような「インチキ」発表等を使って事態の収拾が図られるのであろう。

    そして大マスコミ(読売、毎日、産経、朝日、日経、これらに5社に付随するテレビ局、NHK及び通信社2社)が、例によってこれらをろくに批判せず政権の「大本営発表」ばかりをそのまま報道を繰り返すのにも恐れ入った。

    こうした大マスコミが真実を追及せず大本営発表のみを流すことに終始する体制をどうにか変えないと、我々日本国民は、真実を知ることができず、いずれは戦前の日本のような自由が制限される統制国家あるいはナチスドイツのような独裁国家にまで堕し、日本は再び戦争への道を歩むことになるであろう。

    先日、「中国で民主活動家の劉暁波氏(54)に対するノーベル平和賞授与決定について報じていた8日のNHK海外テレビ放送のニュース番組中、突然画面が真っ黒になり、視聴できなくなった。」という事件( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101008-00000118-jij-int )があったが、我々日本人も笑えない。

    このような大マスコミの体制及び国民に真実を伝えず政権運営を行う管・仙石のような政権を全国民が座視するようであれば、日本にだって将来起こりえる。

    したがって、大マスコミの現在の体制の解体及び現政権には、一刻も早く権力の座から退場願う必要があると強く感じたが、私には、その方策が今のところ全く思いつかず、焦燥感のみを覚える。

    そこで、その焦燥感を軽減するべく、少なくともここのウェブサイトを閲覧される方々が、こうした「インチキ」「大本営発表」発表等に騙されないよう、今回用いられた政権による「インチキ」発表等あるいは大マスコミの報道についての私のコメント及び疑問の提起・・・情報の中身は既報のものかつ私が気がついたものだけであるが・・・を以下に覚書として簡単にまとめて列挙しておきたい。(引用記事は、特に必要としなければ、タイトル及びリンク先URLのみ掲載した。)

    1.中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した模様を撮影したビデオが存在するが公表されないこと。

    以下の記事のとおり、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した模様を撮影したビデオがようやく公開されるかと思ったら、やっぱりやめたという。
    何か中国と取引があるのか。10年前の不審船事件の際、不審船が銃を乱射する等の映像がすぐ公表されたのと今回の対応との整合性がとれていない。なぜ、大マスコミはこのことについてもっと批判しないのか。

    尖閣の漁船衝突映像公開へ 予算委要望受け提出の見通し
    http://www.asahi.com/politics/update/0929/TKY201009290239.html
    衝突ビデオ、全面公開見送り=日中関係改善を優先―政府・民主
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101009-00000116-jij-pol
    漁船衝突ビデオ 公開先延ばし・責任押し付け…政府、国民無視の対中配慮
    http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101008/plc1010082356037-n1.htm

    2.9月24日、那覇地方検察庁が船長を処分保留で釈放と発表し、25日、船長が送還されたが、以下の記事のとおり、那覇地検次席検事及び仙石官房長官とも双方ともそれは政治判断はなく、検察判断によるものだという。

    釈放に政治判断なし、検察が決定…那覇地検会見
    http://www.yomiuri.co.jp/feature/20100924-728653/news/20100924-OYT1T00930.htm
    検察判断で釈放決定、政府は追認…官房長官
    http://www.yomiuri.co.jp/feature/20100924-728653/news/20100924-OYT1T01030.htm

    しかし、そんなわけがないだろう。
    この問題については、以下のサイトで佐藤勝氏や上杉隆氏が述べているのでそれらを参照のこと。
    【佐藤優の眼光紙背】国益を大きく毀損する那覇地方検察庁の判断
    http://news.livedoor.com/article/detail/5030700/
    「政治主導」が聞いて呆れる、菅内閣の尖閣問題に対する無責任姿勢【週刊 上杉隆】
    http://diamond.jp/articles/-/9560?page=4

    3.デモについて報道せず
    10月2日、CNNが渋谷で行われた尖閣諸島問題に関する2600人のデモ行進について報じたが日本の大マスコミが全然報じないという事があった(以下の記事参照)。
    マスコミの尖閣デモスルーの件 2chで大盛り上がり
    http://news.goo.ne.jp/article/r25/life/r25-20101006-00003807.html

    「尖閣渋谷2600人デモ」海外メディアは大々的に報道するも日本のマスコミは華麗にスルー
    http://news.livedoor.com/article/detail/5048647/

    このデモは田母神紙主催だったということなので、CNN等の海外メディアが真っ先に報じた理由は学問道場の読者なら書くまでもないだろう。
    逆に日本大マスコミが全然報じなかった理由も簡単だ。長いものに巻かれろ式に中国に慮ったかあるいは、政権からフジタ社員の釈放が遅れるとか言われ、つまり報じるなとそれとなく圧力がかかったかのどちらかだろう。

    4.尖閣諸島に安保適用される?
    以下の産経の記事のとおり、政権のヨイショ記事が載っている。

    (貼り付けはじめ)
    尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁の船に衝突し、中国人船長を逮捕した問題で、9月23日、訪米した前原誠司外務大臣は、クリントン長官との会合で、長官が、「尖閣諸島には日米安保条約が適用される」と述べたと説明し、それを外交成果だと強調した。
    (はりつけ終わり)

    しかし、これは、以下の記事のとおり米の従来の立場を改めて述べたに過ぎない。
    たとえば以下のこんな記事もある。

    クリントン長官「尖閣諸島に安保適用」は日本の楽観的解釈
    http://www.news-postseven.com/archives/20101005_2643.html

    クリントン発言の真相…尖閣列島が日本の実効支配から外れれば、安保適用外になる余地あり。米中間に「黙契」成立の疑いも
    http://news.qwe.jp/news4plus/1286636019

    5.この事件の周辺事情は?
    大マスコミは、9月7日に巡視船とぶつかった中国漁船がどのようにぶつかったかということとその後の状況は報じている。しかし、ぶつかった際、中国漁船には僚船がいたのか?いたなら何隻なのか?あるいは、いつから、どこからやってきたか?、逆に巡視船は何隻いたのか等の周辺事情を、次から次へと情勢が変化したせいかほとんど報じていない。
    どんな事件でもそうだが、事件そのものだけ調べても「××についての状況は○○でした。」しかわからないものだ。それはそれで嘘ではないが、周辺事情も合わせて知らなければ全体の事実≒真実には近づかない。

    この中国漁船は9月7日に中国の某所から1隻で出発してその日にぶつかったのか?違うであろう。漁船なのだから何日かかけて中国のどこからか尖閣諸島にやってきて、そこでさらに操業していてぶつかったということのはずだ。

    単船でやって来たということも考えにくい。以下、この件について、インターネットで調べてわかったことを述べる。

    次の9月9日付け沖縄タイムスという沖縄のローカル紙によると、8月中旬から1日最大270隻の中国漁船が尖閣諸島にあらわれ、内70隻が領海に侵入し、事件当日は、160隻が周辺にいて30隻が領海に侵入していたという。

    尖閣に中国船1日270隻 石垣市民、不安高まる
    http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-09-09_10016/

    つまりこのぶつかった中国漁船は早ければ8月中旬くらいから僚船約270~160隻と一緒にやってきて尖閣諸島周辺で操業していたというわけである。ただ8月中旬の話を9月9日に付け足しのようにローカル紙のみが報じていることから、毎年中国漁船が数百隻、尖閣諸島にやってくることは恒例である可能性が高い。本当の異常事態ならば8月中旬に報道されているはずだからである。

    一方で巡視船について、次の記事では中国監視船の「漁政201」と「漁政203」の2隻が来てからは、6隻いたということになる。ただし、その前の事件当日いた巡視船の隻数ははっきりしない。

    尖閣“一触即発”船舶入り乱れ!防衛省幹部「不測事態ある…」
    http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100928/plt1009281603002-n1.htm

    岡山 拝

    タイトル
    情報操作を繰り返した管・仙石政権の手法と政権の「大本営発表」ばかり報道する大マスコミ・・・・いわゆる尖閣諸島沖漁船衝突事件より
  29. 終夜
    2010-06-26 06:31

    どちらに投稿しようかと思いましたが、こちらをお借りいたします。

    6月26日、朝6時のNHKニュースによると、
    「オバマ大統領は、菅首相に対し、『お会いできてうれしいです。』」と語ったようです。

    ようするに”Nice to meet you.”と言ったんですね。

    推測

    ①NHKは菅首相を応援している。

    ②菅首相はオバマ大統領から相手にされていない。

    (鳩山前首相は核サミットのときに10分しか時間をもらえなかったと酷評されていました。核軍縮の話し合いの場でしたので、オバマ大統領は特別に時間を割いてくれたんだな、という感想を私は持ったのですけどね。)

    タイトル
    吹いた。6時のNHKニュース
  30. 庄司 誠
    2010-06-03 21:47

     みなさん、こんばんは。庄司誠です。

     当掲示板管理人の庄司誠です。
     といっても、私自身が怠けきっていて滅多にここに投稿しないですから、昔からこの学問道場に丁寧に付き合って下さっている会員の皆様方以外は、私のことなどまるっきり知らないでしょう。

     時間をつくって有益な情報を投稿して下さってる会員様には感謝を申し上げるとともに、私の怠慢についてはお詫びをいたします。

     これからも「副島隆彦の学問道場」および当【ふじむら掲示板】をよろしくお願いいたします。

     庄司 誠

    タイトル
    我らが学問道場のサイトが新しく改装されました!
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