(522)「それでも学会新説に突っ込みをいれてみる」の続きをやります。(7月4日)

伊藤 投稿日:2024/07/04 10:08

伊藤睦月(2145)です。前回(522)の続きをやります。(520)の中村修也説に突っ込みを入れます。

(1)この中村説、通説に共通している前提は、「倭」=大和王朝ということ。それが、倭=大和王朝プラス九州王朝という副島説と別れるところ。(伊藤説は、副島説を前提とした変形説)そこを認識しないと議論がかみ合わなくなる。

(1-2)通説、中村説によれば、倭軍は、白村江で全滅したのだから、当時の大和王朝には、兵隊はほとんどおらず、だから少数の唐軍にやすやすと軍事占領されたことんになる.(通説ではこの点があいまいで、なんとなくやり過ごした感がある)

(1-3)副島説によれば、白村江で全滅したのは、旧奴国の九州王朝軍であり、大和王朝軍、主力が温存されたとみるべきで、そうなると、戦後九州や西日本各地に設置された防御施設には、大和王朝軍(防人)が駐屯していた、とみるべき。(中村説は逆に、少数の唐軍が進駐してきたとする)

(1-4)伊藤説は、白村江の戦い時点では、倭(九州王朝)は百済の支配下にはいっており、敗戦後その地域だけ、唐軍に占領された、とする。

(1-5)副島説、伊藤説によると、宇治で行われた閲兵は、唐軍との交渉を少しでも有利にしようとする、デモンストレーション、ということになる。通説は沈黙しているが、中村説によれば、唐進駐軍のデモ(数百人ではあまり迫力ないかも)か、太平洋戦争の敗戦後の再軍備(警察予備隊)よろしく、シンヤマト軍のお披露目、ということか。そうなれば、新羅の離反はさしずめ、朝鮮戦争の勃発に相当することになろう。(小休止)

(以上、伊藤睦月筆)