5日本古代史解明の補助線(5)::傍証としての「日本書紀」(2)【584】の続き)

伊藤 投稿日:2025/01/08 13:39

伊藤睦月です。前回の続き

1 内政重視の時代(いわゆる、河内王朝、播磨王朝から継体王朝へ)

1-(1)応神大王の即位後、大和国はしばらく、静かになる。崇神大王以来数代にわたる(たぶん100年くらい)外征により、国力(経済力、軍事力)が枯渇したのだ。

1-(2)度重なる波状攻撃により、「倭国」を一応支配下に置いたが、完全に屈服させられなかった。本来の目的であったはずの、倭国の外交権(中国、朝鮮半島)すなわち、貿易利権(朝貢貿易)を奪えなかった。中国への朝貢は、「倭国」の役割となった。これは、663年白村江の戦いで、倭国が消滅するまで続く。反乱名目で、筑紫国造磐井を殺した時も、奪えなかった。なぜか。

1-(3)私伊藤は、一番の要因は、山門国側に外交(貿易)に関する、ヒューマンリソースが不十分だったから、と考える。

1-(4)岡田英弘説は、日本列島は華僑の居留地がもとになって、国を構成したとする。私、伊藤は「華僑と原住民の王(酋長)の協働」で、国が出来上がったと考える。横道にそれるので、後述する。

1-(5)私伊藤は、倭国と山門国それぞれの「華僑の質」に注目したい。当時の外交、貿易を行うためには、それ相当の知識、教養、財力、人脈が必要だ。倭国には、そういう華僑人材が多数集まっていただろう。ビジネスチャンスがあるところに、有望な人材が集まる。当時日本列島内では、倭国だ。

1-(6)一方、同じ華僑だといっても、列島内陸部に行けば行くほど、「質」が落ちる。諸般の事情で、中国大陸や朝鮮半島にいられなくなった華僑が、「一旗揚げようと」野心をもって、列島奥地へと進んでいく。そういう状況があったと思う。中国語ができれば良いというものではない。

1-(7)私、伊藤はいわゆる「神武東征」なるものも、倭国の辺境である日向で食い詰めた倭国傍流の王族が、「一旗あげに」東に向かった、王族だから、簡単な読み書き計算ぐらいはできただろう。あとは、知恵と度胸があればよい。後で補足する。

2 奈良盆地の「人口爆発」

2-(1)もう一つの問題は増え続ける奈良盆地である。いわゆる4世紀にはいると、東国からの人間の流入が著しくなり、奈良盆地だけでは、流民たちを食わせられなくなった。当時の農業技術では、これ以上、農業生産量が増えなくなった。もっと農地が必要だ。生駒山地を越えて人があふれ出した。彼らを食べさせなければならない。でも戦争で略奪してくるほどの軍事力はない。そこで、新田開発の場所として、選ばれたのが、後に河内平野と呼ばれる、大湿地帯だ。この大規模開発をリードしたのが、「オオササギノミコト」だ。後世、「仁徳」という諡号が贈られた。

小休止:以上、伊藤睦月筆