(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)

伊藤 投稿日:2024/06/12 16:46

伊藤睦月(2145)です。最初に訂正。前稿で、旧唐東夷日本には、遣隋使の記事もあって云々、とありましたが、新唐書東夷日本の間違いでした。訂正させていただきます。それにしても、旧唐書東夷倭は、白村江の戦いまでたどり着いていませんので私の指摘に変更はありません。

で、守谷さんの投稿でできるだけコメントします。

守谷(1)「列伝の記事を倭国記事と見做して悪いですか。悪いのでしたらその理由を教えてください。

伊藤意見:悪いです。理由:列伝以外には、いわゆる倭国記事を裏付ける史料がないからです。(例えば、百済や新羅、日本(大和朝廷)側の記事や旧唐書中のほかの個所(例えば高宗紀に白村江の記事があるとか)に列伝の内容を裏付ける記事を現時点では確認できていないから)つまり、列伝の記事は検証不能の記事なので、参考にはなりますが、そのまま「見做す」ことはできない。「推定」とか「推測」であれば、仮説の提示なので、仮説としてはありえます。ついでに、高宗が封禅の儀に率いられた倭王(とおそらくは百済王)は、推測ですが、封禅の儀の生贄としてささげられたと思います(伊藤推測)

守谷(2)宋初(983年)、太宗(チョウネンを謁見した人です:伊藤注)の勅命を受けて作られた「太平御覧」は日本記事を「旧唐書」の認識を踏襲し、日本の代表王朝は倭王朝から日本王朝に代わった、と書いてある」

伊藤意見:それならその部分を正確に引用して掲示してください。「太平御覧」は類書すなわち、「歴史資料集」といったもので、いわゆる歴史書とは違います。当代に存在する手紙とか公文書とか正史とか過去の歴史的史料を集めたものだと承知している。であるなら、旧唐書もそのまま採録されていると推測します。であるなら、日本の代表王朝は倭王朝から、日本王朝に代わった、と書いてあるのでなく、「太平御覧に納められている旧唐書には、そう書かれてある(守谷説)だけであると思われます。そうなら、これは典型的な循環論法であって、説明になっていません。これも原文を正確に引用して掲示していただければ、すむ話です。

守谷(3)宋朝の学者たちも、「旧唐書」の認識を支持していたのである。

伊藤意見:それならば、1060年に新唐書を編纂した、欧陽脩ら宋朝の学者たちは、なぜ、旧唐書を採用しなかったのでしょうか。ちなみに、欧陽脩も後に出てくる司馬光も「唐宋八大家」に数えられる当時の大学者です。しかも両者は王安石の新法に反対して干された、という旧法党の仲間です。認識を支持していたなら、なぜ、旧唐書の内容を反映させなかったのでしょう。守谷さんは、これに対し、明快な見解を示してください。そうしないと議論が前に進みません。

守谷(4)「新唐書」は、成立当初から信頼性の劣る史書とみなされていたのである。

伊藤見解:それならなぜ「新唐書」が正史として採用され、「資治通鑑」が、採用されなかったのか。明快に回答願います。「資治通鑑」は最初「通志」と名付けられた編年体の中国通史です。「春秋」の体裁に習ったものとされています(春秋の筆法)。のちにその内容が政治指南書として有益であることから、(貞観政要や宋名臣言行録、と同じです)神宗皇帝(1048~1085)から「資治通鑑」という名を与えられました。なお、大義名分論の立場から、資治通鑑を批判的に再編集したのが、南宋朱子による「資治通鑑綱目」です。つまり資治通鑑は、歴史書というよりも、政治指南の書として認識されておりました。後年引用資料の正確さが評価されます。しかし当時は正史として認められることはありませんでした。資料の正確さ、信頼性と正史としての正統性の評価は別、ということです。

そして、ここに正史成立について興味深い記述を見つけましたので、ご紹介します。

(引用開始)

(正史の数え方は:伊藤注)・・・明初に「元史」が成立したので、これを合わせて二十一史、清初にさらに「明史」ができたので、あわせて二十二史の名が生じた。・・・(清の)乾隆帝(1711~1799)は、さらに「旧唐書」と「旧五代史」をこれに加えて二十四史とし、宮中の部英殿で印行した。(印刷した:伊藤注)(執筆:宮崎市定)(日本大百科全書(ニッポニカ)電子辞書版)

中国史に関心がある人で「宮崎市定」を知らない人がいたら、その人はモグリです。但し彼の見解や史観には賛否あります。(副島先生の昔の投稿で、宮崎史観のことを「ランケ風の古臭い史観」と書かれていたと記憶しています。)しかし史料の取り扱いは信用できるでしょう。

以前の投稿で、「旧唐書を正史に入れたのは、清代の学者である」と書きましたが、乾隆帝の間違いでした、訂正します。いずれにせよ、旧唐書を編纂した後晋が滅亡した946年から乾隆帝が正史に加えた1700年代まで、700年余り、旧唐書は正史として認められませんでした。あくまでも、「新唐書」が正史、正当な歴史書とされ、乾隆帝が旧唐書を加えても、新唐書の位置づけは不動でした。乾隆帝がなぜ加えたのかは、わかりません。史料的価値はあったのでしょう。それは戦後になって顕著になりました。岩波文庫版では、旧唐書を搭載し、新唐書は宋書があるから不要とまでされました。岩波文庫版が出た1956年は、反動の極だったのでしょう。中国本国では、毛沢東が「百家争鳴」を煽っていたころです。さすがに現在では、新唐書をディするような学者や歴史愛好家はいないようです。たぶん守谷さんを除いては。

(以上伊藤睦月筆)

追伸:あとチョウネンと黄金問題がありますが後日稿を改めます。また守谷さんの投稿についてはさらに深刻な問題点がありますので、これも後日投稿させていただきます。