(2)守谷論文は、実証史学の立場からすれば、「不可」である。(2)遣隋使、遣唐使の「不都合な真実」
1)伊藤睦月です。当時の世界覇権国中国と属国群(東アジア世界)において、王権の正当性を認めてもらうためには、
(1)宗主国(歴代中国王朝)に「朝貢」する。(あいさつに出向く)
(2)宗主国から冊封を受ける(官職を授かる、ハンコをもらう(印綬))
(3)中国正史に記載してもらう。(現時点では私、伊藤が初出)
ことがいわば必要条件、武力とか財力、呪術力などは、十分条件
2) 伊藤睦月です。当時の王権(大和王朝)は、すでに冊封を受けた、「倭の五王」の後継政権を称していたこと、国王(スメラミコト)は、国内豪族に姓(かばね)を与えて自らの姓をもたなかたっとされる(つまり、国内的には至高の存在として認知されていたこと)、ことの成否はともかく、天皇家だけが、訪中し、中国皇帝に拝謁が実現していること)から、少なくとも、遣隋使以降王権の正当性はすでに確立していたもの、とみるのが妥当。したがって、守谷の見解は最初から破綻している、と私、伊藤は判断します。
3)では、前回の続き、なぜ、「中国皇帝」の前で「天皇」号が使えなかったか、もうおわかりであろう。その時の702年第7回遣唐使で、粟田真人が拝謁したのは、「則天武后」という人物、「天皇」号を初めて名乗った女帝だ。いくらなんでも、ご本家の前で、「日本天皇の使者」を名乗ることは、さすがにできなかった。下手すれば粟田は、生きて故国の土をふめない。では、なんと名乗ったのか。
4)その前に、粟田真人の第7回遣唐使が、なぜ702年だったのか。守谷はその時点で「日本書紀」の大半が完成していたので、それをもっていったのだと言っているが、実証性(記録)がないので、採用できない。西嶋をはじめとする、実証史学は、もっと実証性のある、見解を出している。
(5)それは、701年に「大宝律令」が完成したからだ。大宝律令の「儀制令」には、いわゆる天皇称号を使える時と場合を定めている。同令によると、いわゆる天皇の称号として、「天子」「天皇」「皇帝」「陛下」「太政天皇」「乗輿」「車駕」の7種があり、中国、新羅、に対する国書には、「天子」「天皇」「皇帝」の3種のなかから、選ぶ」と決まったのだ。これで、遣唐使に持たせる国書が決まった。これが中国側に受理されたら、中国から使用許可がでた、ということにはならなかった。どうなった?
(6)「天子」「天皇」、「皇帝」いづれの称号は国書に書かなかった。これらは、中国の恐ろしさを知らない癖に、国内だけで虚勢を張っている「内弁慶君」がきめたのであろう。こういう無意識に国を危うくする、「馬鹿者」は、いつの時代でもときどき出現する。苦労するのはいつも現場、である。ともかく、「天子」は遣隋使でしくじっている、「天皇」は則天武后に殺されにいくようなもの、ましてや「皇帝」とはもってのほか、と粟田以下、遣唐使スタッフは、考え、知恵を絞った結果、当初国書に記載されていた、「明神御宇日本天皇」を「明神御宇日本主明楽美御徳」と書き換えた。「主明楽美御徳」と「スメラミコト」と読む。そう「天皇号」ができる前の王に対する尊称である「スメラミコト」に漢字の音を当てたのだ。粟田選手、大ファインプレーだ。そしてそれに対する中国側の回答国書には「勅日本国王書」とある。「勅」とは宗主国が属国に対する命令のこと。「国王」は宗主国が属国の王に授ける官位のひとつ。もっともこの名称が記載された文書は、日本側の記録にはないし、中国正史(旧唐書日本)には、謁見した則天武后が機嫌よく粟田を歓待したという記録しか残っていない。
(7)なお、その後、遣唐使に対する中国皇帝の国書は、「勅明神御宇日本主明楽美御徳」と表記されているが、たまに中国側から出てくる、「勅日本国王」という国書は「勅日本国皇(こくおう)」と書き換えられている。
(8)また、中国に対しては、上記のとおりであるが、新羅に対しては、「天皇」号を使用しているから、相も変わらず、隣国を見下した、「ダブルスタンダード」の二枚舌外交をしている。
(9)伊藤睦月です。私は「日本書紀」も少なくとも遣唐使は中国に持ち込まなかったであろうと考えている。なぜなら、「天皇」という称号を使用しているからだ。「年代記」のような歴代天皇の名簿くらいは持参した可能性はある。
(10)「新唐書日本」には、神武、綏靖、安寧、・・・光孝天皇(平安時代)までの名がみえるが、それらはすべて、「その王の姓はアメ氏、自ら言う、・・・」から始まっている。彼らが「天皇」と表記されるのは、次の「宋書」からだ。唐が滅んで、則天武后の呪縛が解けたからであろう。
(11)私伊藤は、第6回遣唐使(670年)から、第7回遣唐使(702年)まで30年の空白の理由を「白村江のほとぼりが冷めるまで見送った」としたが、それに加えて、律令制度が整った時期にあわせて、派遣した、という実証史学の成果にも賛意を表する。したがって、守谷論文は、言い過ぎを承知でいえば、少なくとも現時点では、実証性に乏しい、「個人の妄想」にすぎないと断ずる。(12)伊藤睦月です。これで守谷論文の根幹は崩壊した、と考えるが、次回からはそのほかの不都合な個所を指摘、批判することにする。
以上、伊藤睦月筆