(482)における会員2054様の指摘にこたえます。
伊藤睦月(2145)です。会員番号2054様、ご指摘ありがとうございました。
以下の通り、回答します。
(1)私、伊藤は「列伝の記載が事実ではない」と主張していないし、守谷健二君も、「事実」である、と断定して いない。2054様の誤読であろう。
(2)守谷君は、列伝の記事をもって、「倭国記事」と見做してはだめですか、と謙虚に問われたので、「見做す」ではなく、反証可能な「推定する」なら、あり、ですよ、と返しただけ。見做すと推定するとの論理的意味、使い分けについては,あまりにも初歩的な事項なので、説明は割愛します。
(3)守谷君は、列伝の白村江の記事を、「倭国記事」とみなす、とされ、同列伝の封禅の儀に倭国王を引き連れた記事をもって、その補強根拠としている。これについては、守谷君が原文もしくは、その訳文を示していないので、賛否は保留している。列伝の類似記事が他の史料にあり、それを吟味できれば、それでよい。(これが反証可能な資料という意味、私、伊藤は、列伝記事は反証不可能な史料、だとは指摘したが、事実でないとは、決めつけてない。こちらの表現も未熟だったかもしれないが、もう少し注意深く読んでいただきたい。)
(4)2054君が、「倭国記事を裏付ける史料」としている小林恵子氏の引用文は、非常に雑な議論なので、裏付け史料としては不適切である。これについては、少し詳しく述べます。
(5)小林氏は、
「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦棲、其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」、
という守谷君も引用している文の日本語訳を、
「(劉仁軌は)白江に入り口に至ったとき、日本軍と出会い、四戦して日本軍の船四百艘を焼き討ちしたので、煙は天を覆い、海水は一面に赤くなって、日本軍は壊滅したのである。
これって、かなり雑な議論だと、わかりますか。
伊藤睦月です。上記の文で、「倭兵」を「日本軍」と訳しているところ。「倭国軍」としていれば、日本歴史学会の基準に達している。
(6)(引用開始)
斉明天皇と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救援の大軍を派遣することに決した。661年、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の地位につかないまま、戦争指導を行った。662年に大軍を渡海させたが、翌663年白村江の戦いにおいて、唐・新羅の連合軍に大敗した。(佐藤進、五味文彦ほか「改訂版詳説日本史研究」(山川出版社)57ページ)
伊藤睦月です。このテキストは高校日本史レベルの本ですが、著者たちは、東京大学の教員たち、つまり学会の主流の人達で、このテキストの見解は、日本歴史学会の通説的見解といってよいと思います。ここで著者たちは「倭国」という語は使いますが、「日本」という語を使用することを慎重に避けています。なぜなら、著者たちは、「日本」という国号は、702年に派遣された遣唐使によって、中国に知らされて、中国の皇帝に承認されたことをもって、「日本」の始まり、と考えているから。(同書65ページ)小林氏が白村江の戦い時に「日本軍」と表記しているのは、学会の通説的見解では誤りで、彼女が学会に属しているなら、何らかのエクスキューズが必要です。でなければ、読者をなめています。
(7)また、われらが副島史学の立場から見ても、この文章はおかしいです。副島史学では、当時の倭の国は、倭国(九州王朝)、日本国(大和王朝)が並立しており、白村江の戦いでは、九州王朝が戦って、敗北した。残った大和 王朝が倭国を合わせて全国王朝となり、やがて国号を「日本」に改めた、とされています。(伊藤要約)
(8)であれば、「倭兵」はやはり、「倭国軍(もしくは九州王朝軍)」と訳さないと、白村江で「日本軍」(=大和王朝軍)が全滅したことになります。小林氏の書き方はその辺が雑です。これは彼女の頭が雑だということになると思います。副島史学では、倭国と大和王朝は別物ですから。(これについては、また稿を改めて論じます)
(9)私がこだわるのは、少なくとも私の所持している、白村江の史料では、「倭人」「倭兵」と表記され、「倭国」と表記された文書を確認できないことです。なぜでしょう。旧唐書では、「東夷倭国」があるのに、新唐書百済の白村江の記事では、なぜ、「倭人」であって「倭国」ではないのか。小林氏の原文引用が正確ならば、中国書の白村江記事で、表記されているのは、「倭兵」である、ということを確認できるだけです。それなら、そのあと戦争捕虜を「倭人」と表記し,倭兵と表記しなかったのでしょう。なぜ旧唐書では、「倭国」と表記し、「倭」と表記しなかったのでしょう。私は議論の勝ち負けでなく、(どんなささいなことでも)真実に近づきたいだけです。
(以上、伊藤睦月筆)
(追記)なお、私は、旧唐書東夷倭国は、白村江の戦いの15年前(648年)の記事で終わっていることから、倭国はその時点で消滅しており、そのため、それ以後は、「倭国」という表記が使用されず、「倭」という、単なる地名表記になってしまった、という説(私だけの超少数説)を持っています。
(以上、伊藤睦月筆)