鬼道と鬼神について

会員番号2054 投稿日:2026/09/27 12:07

2054です。本日は2026年9月27日です。今回は、「物理学者が解き明かす邪馬台国の謎」の著作にある下條氏の見解をさらに考察してみたいと思います。

今回は、「鬼道と鬼神の違い」についてです。

 

(1)下條氏の見解について

まず下條氏は、「鬼道」と「鬼神」を以下のように二分します。

■鬼道 = 五斗米道の神々のことで、別名は「天神」である

■鬼神 = 土着神による怪しい呪術や占いのこと

つまり鬼道は神ですので「敬うべきもの」、鬼神は怪しい呪術ですから「捨て去るべきもの」で、五斗米道は後者を禁じたとします。老子想爾注という五斗米道の解釈テキストを根拠として「五斗米道では鬼神を信じることを禁じているのだ。だから、鬼道ということばは、まさに、鬼神と区別をつけるためにあることばである」とします(上掲書p59)。

 

(2)私の疑問の出発点について

一般的に鬼道と鬼神を区分する見解は聞きませんし、言葉のニュアンスとしても疑問がありました。

古来から中国大陸では、「鬼」とは本来は「死者の魂」そのものを指し(※1)、「神」とは、「天にあって万物を生成する霊力のこと」をいいます(※2)。つまり、

■鬼=土にかえる死者の魂(属性は陰・地・死者・過去)

■神=天上から万物を生成・運行させる天の霊力(属性は陽・天・生命・未来)です。

 

たとえば、「魂魄」という言葉は、この鬼神の考え方をよく示す言葉です。

魂(こん)も魄(はく)もどちらも「気」のことをいうので似たような意味と見えますが、実は全く違います。精神の向くベクトルが逆方向なのです。

人間が死んだときに「土にかえる霊」が魄(はく)でベクトルは下に向いています。他方、「天上に消化する精神」が魂(こん)でそのベクトルは上に向いています。いわば正反対の2語が接合することで天上から地面までをすべて含んだ世界観を内包した用語になっています。

鬼神という言葉も同じです。世界全般を示す用語に過ぎません。

 

そして、このような語源から考えれば、鬼道も神という言葉にはなりません。「鬼」が土に帰る死者霊を指す以上、「鬼道」とは地に留まる死者(鬼)の霊の「通り道」とか、霊を呼び寄せる「手法」を指すことになります。ここから口寄せや降霊によって吉凶を占う実践的手段(シャーマニズム)という意味に転じたと考えられます。

実は、後述する福永光司氏の説明も、この語源に即した説明になっています。

もともとの語源からして下條氏のいう定義は違うのではないか?

果たして下條氏の二分論は正しいのでしょうか。以下、私が検討した点を示したいと思います。

 

※1 「鬼」の古来からの用法について

鬼とは、人の帰する所を鬼となすと、『説文解字』(後漢の漢字字典)にあり、また、儒教の『礼記・祭義篇』においても「命あるものは必ず死し、死せば必ず土に帰す。これを鬼と謂う」とあります。つまり「死んで土にかえる死者の霊魂のこと」をいいます。

※2 「神」の古来からの用法について

『説文解字』によれば神とは、天神にして万物を生み出し生長させるものと定義されます。

 

(3)福永光司氏の見解の誤読について

下條氏は上掲書において、「鬼道」とは五斗米道のことなのは道教研究者の中で常識であるとのべ、神塚淑子氏や福永光司氏の見解を紹介している。しかし、少なくとも福永氏については下條氏の見解と同じではありません。なぜなら下條氏が引用している文章にも「この三張道教は中国古来の巫術を中心として祈福や治病などを行い」と書いてあります。五斗米道が鬼神を禁じているなら、このような呪術は行わないはずなのに、怪しい呪術や占いを行っている、と福永氏はしっかり言及しています。

 

実は、福永氏は『道教と日本思想』(徳間書店、1985、p75~80)において、「鬼道」という言葉の意味変遷について詳述しており、下條氏の説明とはまったく違うことを述べています。

鬼道という用語が紀元前のいつから使われ、意味がどのように転じたのか、3000文字以上を用いて詳述しています。引用するのは長すぎるので、私が内容を要約します(私の意訳も含みます)。

 

福永氏によると、3段階で意味が変わるとのことです。

(1)第1段階

本来は神をまつる祭壇において鬼神が出入往来するための道路(物理的・神事的な道)という意味でした。つまり、「宗教儀式上の道路」を指していました。紀元前の周〜秦・前漢時代のことです。

(2)第2段階

道路そのものから、鬼神そのものをあやつる行為、つまり、呪術ないし宗教的な信仰儀礼そのものという意味に転じます。これが後漢〜三国時代のことで、まさに卑弥呼の時代の話になります。この時代において、卑弥呼の「鬼道」とは土俗的な呪術・シャーマニズムそのものを指す言葉となります。

(3)第3段階

南北朝時代以降になると、仏教の影響もあり、後世の道教側(五斗米道などの後身)は、外部から「あんなのは、低俗な鬼道(シャーマニズム)だ」と攻撃されるようになります。そのため、道教側でも「いやいや自分たちは崇高な教えであって、土着の巫術呪術である低俗な「鬼道」と一緒にするな」と言い出して、鬼道にネガティブなレッテル貼りがされるようになりました。そして道教側は自分たちは「鬼道」から脱却しようとしていました。

以上です。

少なくとも福永氏は、「鬼道」は五斗米道のことであるとも、五斗米道の神々であるとも、まったく述べていません。

(4) 老子想爾注の成立時期と鬼神を禁じた理由について

老子想爾注の成立時期は争いがあるようですが、卑弥呼の時代(福永氏の第2段階)ではないだろうというのが有力なようです(参照:麦谷邦夫『老子想爾注について』)。

南北朝時代以降であれば、自分たちの教義と、古来からの土着呪術を区分する必要があった時期ですから、低俗な風習は禁じるという文脈において「鬼神(巫術、呪術)を禁じた」と解釈ができます。そして、自分たちの教義は「崇高で正しい教え」として逃げ切ろうとしたのでしょう。その「言い逃れロジック」が老子想爾注に表れています。

そのように考えると、卑弥呼の時代の話でもなくなりますし、老子想爾注を根拠に「鬼道」と「鬼神」を区分するのは区分自体が誤っているだけでなく、時代錯誤にも陥っているように思います。

 

(5) 范曄の後漢書について

陳寿は『三国志』魏志倭人伝で卑弥呼の行為を「事鬼道(鬼道に事え)」と書きましたが、のちにその記述をもとに『後漢書』倭伝を編纂した范曄(はんよう)は、これを「事鬼神道、能以妖惑衆(鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす)」と書き換えました。

「鬼神」が天神地祇や先祖霊全般を指す以上、「鬼神道」とは神霊全般を動かす呪術・神事「全般」を意味します。つまり、当時(5世紀)の歴史家(范曄)自身が、「卑弥呼の行っていた鬼道とは、鬼神を祀って妖術を行う土着の呪術(=鬼神道)のことだ」と表現したものと言えます。

このように古来から5世紀の後漢書までの用法を見ていると、鬼道と鬼神の二分論というのは、五斗米道を特別視する何らかのバイアスのかかった物の見方と感じられてしまいますが、皆様はどう思われますでしょうか。

 

(6)古代の為政者は巫術者の素養がある

小林恵子『江南出身の卑弥呼と高句麗からきた神武』p168~170には、為政者の必要条件が記載されています(※3:引用箇所は長いので最後に記載します)。

その内容を簡略にまとめると、以下のようになります。

(1)古代においては、王自身がシャーマンであり、シャーマンの長であった(最近の中国研究者の見解)。(2)巫術者の役割は、時代によって変遷している。もともとは(その語源からも)死者との交流を行った。死者との交流だけでなく、吉凶を占い、ときには、ひでりや雨乞の時、犠牲として天に捧げられた。

(3)時代が経つと、死者との交流よりも、風雨や天災を支配する呪術が巫者の条件になっていく。戦国時代中期以後、中国民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、風雨を支配する巫術者と考えられていた。

 

下條氏(そして岡田英弘氏)は華僑説を頻繁に持ち出しますが、古代の為政者は商才たくましいだけの華僑では務まりません。シャーマンであれば、損得勘定で動く商売人は、むしろ似つかわしくないと思えるのは私だけでしょうか?

そもそも、現代のビジネスマンのイメージを古代にそのまま投影するのはアプローチとしても正しくないと私は思います。

低俗な呪術と蔑視されてきた巫術ですら、(断片的なものがおおくても)史料や伝承などに痕跡を残しています。仮に華僑が為政者であり、「華僑が倭国を支配した」のが事実なら、なぜその証拠が史料上に何ひとつ存在しないのか。その点をもってしても、私は、華僑説は誤りであると判断しています。

以上です。

 

※3 『江南出身の卑弥呼と高句麗からきた神武』p168~170、貼り付けはじめ

巫術と、卑弥呼が長じていた鬼道とは同じ道教的呪術と考えられているが、鬼道の鬼とは魂が天に昇る前の死者をいう。悪く言うと魑魅魍魎の類にもなりうる状態の死者である。鬼道とはその道に通じた人というのが文字づらからみた解釈になる。紀元一世紀に巫術の中心地である江南の紹興に住んでいた王充(『論衡』論死六二・訂鬼六五)によると、巫女は元弦(楽器の類といわれるが詳細は不明)を叩いて死人の魂を下ろし、死者に話をさせるとある。それだけではなく、吉凶を占い、ときにはひでりや雨乞の時、犠牲として天に捧げられる場合もあった。周の時代には手に茅を持って舞い、託宣をしたという。『記紀』にみえる天岩戸に隠れたアマテラスを誘いだすため、手に小竹葉を持って舞ったアメノウズメの命が巫女のオリジナル版というのは通説である。

これらは主に巫女の場合だが、戦国時代中期以後、中国民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、風雨を支配する巫術者と考えられていた。後年になる程、死者との交流よりも、風雨や天災を支配する呪術が巫者の条件になっていくようである。

我々が現在見ることができる中国の史料はだいたい正史だから、中国歴代王朝が支持した儒教が中国の民衆の基礎哲学と思い込みがちである。しかし、現在では初期の時代から近代に至るまで、道教的観念と渾然一体となった巫術が民衆を心身共に支配していたという説が有力になっている。

最近の中国の研究者は、古代においては、王自身がシャーマンであり、シャーマンの長であったと考えているようだ。しかし、中国の古代はシャーマン=王だったとしても、為政者が儒教を民衆統治の手段にしてからのち、本当の意味で民衆を心身ともに支配した巫術者の行為はおおむね時の権力に対してアンチテーゼとして働くため、裏面史として史料に残される例が極めて少ない。また、正史の編者はすべて官職にある者、あるいはあった者だから、為政者の立場、つまり時の王朝からみた歴史を記述するという限界がある。だから民衆の中から起こった巫術者が指導する反乱は、正史の断片的記述から丹念に拾いだす他はないのである。

(貼り付けおわり)