甘樫丘について(前半):なぜ蘇我氏だけが渡来人集団を束ねられたのか
2054です。本日は2026年10月12日です。3連休の最終日になります。今回は蘇我氏の邸宅のあった甘樫丘について考察します。本掲示板の9月22日投稿:【713】蘇我氏は鮮卑ではない、の続編となります。
下條氏の蘇我氏に関する見解を、別の角度から批判したいと思います。
下條氏は、「【3233】宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その1」において、甘樫丘と伊勢神宮の位置関係について言及している。
下條氏によれば、蘇我氏が王だったころ、甘樫丘には蘇我氏の邸宅があり、そこには王宮(御所)があった、そして正確にその東に伊勢神宮をつくったとする。そして、伊勢神宮を配したのは倭の伝統にしたがったためであるとする。
しかし、甘樫丘に邸宅があったのは事実だが、王宮とか伊勢神宮と関係するとか、そういう場所ではない。以下、それを証明しようと思います。
甘樫丘は、644年11月に蘇我氏の邸宅を置いたと記述がありますが、その存立期間は滅亡までの7か月です。蘇我氏の拠点は時代とともに変化しています。仮に伊勢神宮によって倭に溶け込むことをアピールするのであれば、適地は蘇我氏の本願の地を含め、いろいろあるはずです。
そもそも蘇我氏とは何者なのか。
蘇我氏について、その出自と時代ごとの拠点の変遷について自説を述べたいと思います。
(1)自説の要約
まず、以下の説明の前提として、私のよって立つ見解をまとめます。そして以下、順に説明します。
■蘇我氏は百済からきた渡来人である。祖先は百済の政治家:木満致(木刕満致)で、彼は倭国では蘇我満智となった。渡来したのは475年で橿原市曽我町に定住して、その地名から「ソガ(蘇我)」と呼称した(あるいは周囲から呼称された)。
■蘇我満智は継体朝への政権交代時に居づらくなり509年に朝鮮半島に退去した。蘇我満智→蘇我韓子(からこ)→蘇我高麗(こま)の世代までは半島(任那)を中心に活動したため、日本書紀などに記録はあるものの、全体として倭国内では影が薄かった。
■蘇我稲目は倭国定着を目指し、倭国内の土着豪族である葛城氏と婚姻関係を結ぶ(葛城氏の女婿)。倭国に定着した後は、渡来人集団をまとめ、全国各地に屯倉を設置した。形式的には、天皇の直轄領であるが、天皇が空位の時代であったため、実質的には蘇我氏の基盤となった。
■蘇我馬子は物部守屋の妹と結婚した。物部守屋を滅ぼした後は、広大な物部氏の所領も手中にして経済的基盤をさらに広げた(※1)。
■蘇我氏の拠点は、木満致の頃は橿原市曽我町でここが「本願の地」である。さらに7か所の邸宅が記録に残っており、甘樫丘に邸宅の記録があるとされているのは、644年11月から蘇我宗家が滅亡する645年6月の7か月だけです。
(2)蘇我氏の出自(蘇我満智)について
蘇我氏の出自については、通説(渡来人ではなく土着の在地豪族である説)と渡来人説(百済からきた渡来人である説)があるが、通説は根拠がなく誤りである。蘇我氏は渡来人である(※1)
両説の対立点は※2で後述する。
一番重要な視点は、「もし蘇我氏が在地豪族なら、どうして百済系や高句麗系の渡来人をまとめて特異的に経済基盤を拡充することができたのか?なぜほかの有力豪族たちは指をくわえて傍観していたのか?」という疑問に、通説は答えられないことだ。
通説は、蘇我氏の拠点と渡来人集団の集落が近かったから(近所だから蘇我氏がパトロンになった)とか言いますが、「近所に住んでいたから」で説明がつくわけがありません。
それは蘇我氏が渡来人であるから(ほかの在地豪族とは違ったから)というのが最も説明がつきます。
(後半に続く)
以下、注釈箇所の補足説明です。
※1 物部氏の所領について
蘇我氏は、物部氏と実は近い関係だった。物部守屋の死後は、物部守屋の妹は莫大な遺産を手に入れ、結果として蘇我宗家の経済基盤が格段に向上している。蘇我入鹿は別名で「鞍作」というが、これは物部氏の河内国鞍作の所領に由来するとも言われている。また、蘇我入鹿の弟は「物部大臣」と称していた。物部の遺産がどれだけ莫大だったかを物語っています。
※2 渡来人説と在地豪族説の対立点について
渡来人説とは、門脇禎二氏が最初に唱えた説で、史実として蘇我氏の祖先とされるのは蘇我満智であるとする。『百済本紀』や『日本書紀』に登場する百済の政治家:木満致(木刕満致)のことで、「百済からの渡来人であるとする説です(門脇禎二『葛城と古代国家』学生社p118~131)。
他方、在地豪族説(通説)は、蘇我氏は渡来人ではなく、土着の在地豪族であるという説だ。その出自は大和国高市郡曽我とする説のほか、大和国葛城郡とする説、河内国石川郡とする説などがあるが、どの説も要するに「倭国内の在地豪族」であることに変わりがないため、以下、在地豪族説とする。
在地豪族説は以下のような点を根拠にするようだ。
(a1)木満致(百済の木刕満致)=蘇我満智を示す直接の史料がない。だから捏造だ
(b1)木満致が倭国で『木』姓を捨て『蘇我』と名乗り、名前の『満致(満智)』だけを残したのは奇異だ
(c1)渡来系であることを隠して臣姓を名乗るのは当時のこととしてあり得ない(隠す必要がないから渡来人ではない)。(b1、c1は水谷千秋『蘇我氏と日本の古代』第二章 蘇我氏の出自・本貫と国際性を参照)。
しかし、在地豪族説(通説)は誤りである
(a2)直接の史料がないと言うが、傍証となる史料として『百済本紀』や『日本書紀』『古語拾遺』などがある。百済本紀と日本書紀は別系統の史料なのに、人物(木満致/蘇我満智)・年代(5世紀後半)・活動内容(大蔵・外交)が一致しており、その実在を否定するのは無理がある。通説がこれを「捏造・架空」と否定するのであれば、通説の側にこそ「なぜその記述が捏造と言えるのか」という客観的な根拠(立証責任)が必要ですが、何も立証できません。
(b2) 木満致が倭国に定着するなら、定着した地名を苗字にして「蘇我」と称する(あるいは周囲の豪族がそのように呼称する)ことは「渡来人の定着プロセス」として極めて自然です。
(c2) 渡来人がいきなり『臣』を名乗るなんてありえない、といいますが、蘇我氏は最高権力者になったのですから、その「結果」で大臣と名乗ることは、由来が渡来人だろうがまったくおかしなことではありません。ましてや蘇我氏が渡来人であることを隠して臣姓を名乗ったという証拠はありません。単なる言いがかりです。
通説は、「実在が確実なのは土着豪族だけ」という前提から、「直接、木=蘇我と書いた紙がないから捏造だ」「分からないから存在しない」と言っているようなものです。しかし、「分からない」と切り捨てておきながら、なぜか「だから土着豪族だ」と結論づけるのは、循環論法に陥っています。

