柿本人麿とは何者か、11

守谷 健二 投稿日:2025/04/14 10:43

  天武天皇の子供の年齢

天武天皇の子供は、二つの群に分けることが出来る。

一つは、天智天皇の娘との間に生まれた子供たち。

二つは、高市皇子、十市皇女、など天智天皇の娘以外の妃に産ませた子供たちです。

一と二の群の間には顕著な相違があります。一の群の子供たちの最高年齢者は、斉明天皇の筑紫行幸(661年正月八日)の際、船上で生まれた大田皇女です。

「壬申の乱(672年六月)」の時点では、まだ十二歳にすぎません。一の群の子供たちは、皆これより幼いのです。

二の群の十市皇女は、天智天皇の長男・大友皇子(弘文天皇、壬申の乱で滅ぼされた)に嫁ぎ、皇子(葛野王)を産んでいた。少なくとも十代の後半にはなっていたのではないか。

また高市皇子は、「壬申の乱」の首謀者で、父・天武天皇に代わって軍を指揮し勝利に導いています。

天武朝・持統朝(天武の皇后)でも、本当の実権者は、壬申の乱を勝利に導き、軍事を握っていた高市皇子でした。(柿本人麿が高市皇子に奉げた挽歌『万葉集』巻第二199は、そのように歌っている)

その高市皇子の母は、宗形君徳善の娘と『日本書紀』は記す。北九州の宗形である。

「壬申の乱」の指揮ぶりなどを見るに、高市皇子は、既に立派な成人になっていたと考えるしかない。

十市皇女は、高市皇子より年長と『日本書紀』は記すから、この二人は、二十歳を過ぎていたようだ。

一の群の年長者、大来皇女(母・大田皇女)は、筑紫行幸の海路で生まれ、その弟・大津皇子は筑紫で生まれている。

天武天皇が筑紫王朝(倭国)と密接な関係があった事は否定して否定できるものではないのです。

  (続く)