景初四年は偽の年号(【409】への返信:その3)
2054です。前回の続きで、晋書の無視について説明したいと思います。その傍証として「景初四年は存在するのか問題」を提示します。
京都府福知山市にある古墳から出土された三角縁神獣鏡には「景初四年」銘があります。日本史学会では、「景初三年の次は正始元年で、景初四年は存在しない年号だ」とするのが定説のようで、この鏡は「偽の年号」で作ったことになります。そのため、これは魏本国での制作ではないと解釈するようです。
この鏡の製作地についてはおくとして、年号については、小林恵子は、「景初四年は存在する」と晋書をもって、さらっと説明しています。
(『記紀史学への挑戦状』p67~68、現代思潮新社:引用はじめ)
『晉書』を読まない日本史の先生
小林 (魏志倭人伝は)あれはもう隅から隅まで見ているんですね。ですけれども、三国の時代が終わって、265年に晋が建国されますね。その翌年の266年に、東倭、東の倭の国が朝貢したと、「晋書」 に出ているんですね。「冊府元亀』(朝貢一)では265(泰始元)年となっています。邪馬台国から倭の五王にかけての非常に重大な時期なんです、この晋のときはね。
井沢 そうですね、はい。
小林 それを読んでいらっしゃらない。読まずに、東倭の朝貢を否定する。実際に「晋書」(志 天文・中)を見てください。景初四年というのはあるんですよ。景初四年という年は、日本の学説ではないことになっているから、あれは僻地にいる日本人が、倭の人間が考え出した幻の年号と年だと。
井沢 はい。
小林 というようなことをいわれていますけれども、それは「三国志」の「魏書」ばっかり見ているとそうなるんで、景初というのは、魏の年号で、景初三年が239年。240年は正始元年になるんです。だから景初四年はないというのが定説です。ですけれども、景初元年に、三月を四月にして暦を変更しているんです。結局、景初三年は239年の十一月まで、そうすると239年の十二月は景初四年になるわけです。景初四年は中国の史料じゃないから信用できないなんてずっといわれつづけて、今もいわれてますけどね。その重大な時期の『晋書』を日本史の先生が、読まないから、こういうことになるんです。
(引用おわり)
2054です。暦の改定で「1か月だけ」の年があるとのこと。上記書籍には239年とありますが、正しくは238年12月を正月としたというのが正しいように思われます。
魏の明帝は239年1月1日に死去していますが、魏書の明帝紀の注釈にも「数えで34だが、前年の12月を正月とするので、35といえなくもない」と記載されていますから、238年12月を正月とすることで、正月を迎えた数だけ年を取るということで、数えで35といえるからです(小林説でも後年、そのように説を変更しているようです)。ただ、238年でも239年でもどちらにしても景初三年と正始元年の間には「景初四年」があることになります。
上記引用の著作は1998年出版で、30年近く経過した現在、学会村がいまだに「景初四年は存在しない」としているのかどうかは知りません。少なくとも「中国の史書にないから存在しないのだ」と述べているなら、晉書を知らないということになります。それとも「晉書」は正史だけどレベルが低いからダメ、とでも言い出すのかもしれません(学会の全体像を私は知りませんので単なる想像です。もし、ご存じのようでしたら伊藤氏にご教示いただければとも思います)。伊藤氏の方が古代史全般について遥かに知識をお持ちだと思いますので。
伊藤氏の疑問提示【409】については、まだまだ回答が不足していると思いますので、続きは後日投稿したいと思います。疑問を提示していただいた点から出発して、少しでも有意義な考察につなげられればと思っています。伊藤氏に「長い」と言いながら、私も長くなってしまい恐縮です。次回は「YOUは何しに魏にきたの?」(ツボに入ったので、使わせていただきます)について考察します。