日本古代史解明の補助線(2):邪馬台国は東遷していない(1)
伊藤睦月です。
私は、邪馬台国九州説(福岡・佐賀県内のどこか説)を採用しているが、九州説とセットの考えである「東遷説」はとらない。そこで、邪馬台国東遷説について、私見を述べる。
1 邪馬台国東遷説とは何か。(安本美典『卑弥呼の鏡が解く邪馬台国』)
1-(1)邪馬台国九州説において、主に東大系の文献史家(白鳥庫吉以降)によって、根強く支持。
1-(2)卑弥呼のことが、神話化し、伝説化したものが、天照大御神である。
1-(3)天照大神のいた「高天ヶ原」は、北部九州にあった邪馬台国の伝承化された姿
1-(4)西暦300年前後に、邪馬台国の後継勢力が東に移動して、大和朝廷をたてた。
伊藤睦月です。「邪馬台国東遷説」は、1-(1)と1-(4)がよく取り上げられる。
1-(4)の根拠としては、
1-(4)-(a) 北九州の地名と大和の地名は不思議な一致をしている。(白鳥庫吉から下條竜夫氏まで)
1-(4)-(b)数理統計学的年代論の立場からは、卑弥呼と天照大神とは、活躍年代が重なり、神武天皇の活躍年代は、西暦300年代となる。これは、大和朝廷のはじまりは、全ての天皇の実在を認めても、邪馬台国時代よりも後になる。(学会多数説は、第2代綏靖~第9代開化大王までを「欠史八代」とよび、実在しない、としている)
1-(4)-(c)当時の魏皇帝が、卑弥呼に与えたとされる「銅鏡100枚」のうち、2枚が、東国の尾張氏、海部氏の家で発見された。
1-(4)-(d)数理統計学の手法「パラレル年代推定法」によっても、天照大神と卑弥呼の時代が重なりあうことが判明した。
2 邪馬台国東遷説への疑問
2-(1)東遷説は、主に、1-(1)、1-(4)で論じられるが、1-(2)、1-(3)も合わせ考察する必要がある。
2-(2)地名一致は確かに「不思議」であるが、一致しているからと言って、九州から大和へ移動した、証左にはならない。逆に東から西に「西進」した可能性を考えることはできないのか(騎馬民族王朝征服説を採れば、東遷説は、成立しうるが、難民移動・拡散、はあっても、民族単位での組織だった移動はなかったものと考えるので、この説は採らない)
2-(2)-(a) この地名問題は、中国占星術(道教)の教義をも加味した考察が必要。平安遷都の時も、当時の陰陽師により、場所の選定が行われた。
2-(3)数理統計的手法による年代特定は、それ自体は妥当だとしても、「東遷」を証明したことにならない(井沢元彦氏は、同時期に発生した「皆既日食」をきっかけとして、九州→大和への移動(エクソダス)が始まったと推理しているが、それを裏付けるものはない)
伊藤睦月です。この邪馬台国東遷説は、邪馬台国九州説を論証する中で提唱されたものであり、結局は九州説VS畿内説の議論に帰着する。いわゆる歴史サイエンスの手法は魅力的であるが、後述するように、「トリセツをよく読み、用法、用量を、守って使用する必要」がある。
次回からは、私のファンタジーを披露させていただきます。
伊藤睦月拝